高橋一行
「政治篇」、「経済篇」、「哲学篇」と続けて来て、今回は最後に補足として「社会学篇」を書く。
大澤真幸は社会学者のルーマンと先に取り挙げた思弁的実在論者のメイヤスーを比較する(大澤)。大澤はまず1998年のルーマン没後、社会学に大きな出来事や革新が見られないのは、資本主義の展開と連動して生じている社会現象だと言う。資本主義は私たちの想像を超えて、柔軟性と包括性を持ち、今や誰にとっても資本主義の終わりを思い描くのは難しい。つまり私たちは資本主義を全体として対象化し得ない。そこから距離を取ることができない。社会学理論の貧困はこの困難を反映している。
ルーマンの到達点は、ラディカル構成主義にある(注1)。これは、現実(実在)は観察に相関してのみ、つまり観察に構成されて出現するというものである。これは認識論の領域に属する構成の作用が存在論上の対象が成立する条件を与えているということになる。
ここで観察とは、空間に区別を設定する操作の一般である。意識のシステムもコミュニケーションの社会システムも観察するシステムであり、身体システムもまた、それ固有の観察の操作がある限り、システムとみなすことができる。これがラディカル構成主義と言われるのは、システムに固有の観察の操作を通じてのみ実在が捉えられるからである。ルーマンはそれをオート・ポイエーシス理論を応用して定式化した。以上、ここでは大澤によって、ルーマン理論の要点が的確にまとめられている。
さてそうすると、これはメイヤスーの言う相関主義の最も徹底したヴァージョンであるということになる。そしてメイヤスーは、この相関主義を乗り越えねばならないとしている。それも内在的にである。その試みは成功しているのだろうか。
メイヤスーの理論によれば、認識できるのは、相関の範囲内に限られるから、その外にある物自体の必然性を問うことはできず、そのあり方は偶有的である。つまり他にもあり得るというあり方をしている。あるいは偶有的であると言うことさえできないあり方をしている。この認識の偶有性から絶対的なものへの通路を開きたいとメイヤスーは考える。ここでメイヤスーは、この無知の可能性を実在の現実性に重ね合わせて、偶有性こそが相関性から独立した絶対的実在であると言う。つまり私たちが神の存在について考えることができるのは、神が存在しているからだという論法である。これは前章で私が、存在と思考は一致しているはずだという確信がメイヤスーにはあるとしたのと同じことである。メイヤスーはヒュームを拡大解釈して、このようなやり方で考察を進めたのである。
しかしこの論法は成功しているだろうか。これは西洋で中世来使われてきた神の存在証明を、偶有性の存在証明に当てはめただけの話ではないかと大澤は疑問を投げ掛ける。
ここで大澤は次のように話を展開する。私たちが世界が偶有的であると確信しているのは、他者の絶対的な実在を知っているからだと言うのである。他者とは別様に現れる場所のことである。他者こそは、思考と世界の相関主義的な循環から独立した、絶対的な実在である。他者はまさしく実在している。
この偶有性ということがキーワードになる。ルーマン理論においては、これが二重の偶有性と言われる。コミュニケーションの状況には、まず私の選択において偶有性がある。私には様々な選択肢があるが、どれを選ぶかは偶然だ。また他者の選択に関しても偶有性がある。他者が何を選ぶかもまた偶然だ。両者合わせて、これで二重の偶有性になる。このことがコミュニケーションの中で成立している。偶有性とは本源的に、この自己と他者の二重性である。この理論こそが、メイヤスーの少々いい加減な思弁的実在論を克服する。さらにはこのことを確認することによって、社会学のラディカル構成主義が、内在的にその相関主義を超えられる。社会システム論を超える契機は社会システム論そのものの中にある。そのことを思弁的実在論が教えてくれる。そしてまた逆に、社会学が思弁的実在論の基礎を与える。以上が大澤の言うところである。
この短い論文は以上の通りなのだが、私はさらにこの論を補ってみたいと思う。
まずここで大澤がメイヤスーを使って論じたことは、ブラシエと加速主義を参照しつつ論じた方がもっと鮮明になるはずである。人間が出現する以前の、つまり祖先以前を問うメイヤスーよりも、人間が絶滅したあとの世界を問うブラシエの方が、問題の深刻さが伝わる。また私たちが資本主義を超えられないというもどかしさが、加速主義を支えている。ブラシエと加速主義の主張は相即的で、良く資本主義の問題、つまりそれを克服するのが困難なことを説明する。
次に物自体が他者であるというのは、カントの物自体は他者であるという、柄谷行人の理論を思い起こさせる(注2)。学の普遍性を確保するために、私たちが勝手に内面化できない、他者性としての他者を導入するのである。私はそれに対して、熊野純彦の言う、物自体は「私」であるという理論の方が良くカント理論を説明していると考える(注3)。「私」はカント理論の中でどこにも存在しないが、しかし「私」は確実に存在する。物自体が感性を触発し、そしてそれは認識できないが、確実に存在し、世界の中で根本的な役割を担うものであるのなら、「私」は物自体なのである。ここから言えるのは、自己も他者もどちらも物自体であっても良く、とすれば、自己と他者との両方が物自体であると考えて良く、するとおおよそ大澤の言うところは正しいと思う。
第三に、構成主義のことを書いておく必要がある。以下に他の研究者によるルーマン論を挙げ、さらに一般的な構成主義についての議論も挙げて補強する。
H-G, メラーは先の大澤と同じく、ルーマン理論の核心はラディカルな構成主義にあるとする(メラー)。そしてその主張の興味深いところは、それはまさしく実在論だということにある。
メラーによれば、ルーマン以前にも構成主義はあり、彼は独自性を強調するために自らの理論をラディカル構成主義と言ったけれども、それ自体に独自性はない。ただ彼は、ある構成が構成するものが現実である、つまり現実とはある構成が構成できるものであるという現実主義を説くことで、それはあまりにラディカルであって、そのためにそれは実在論になってしまうとメラーは言う。実在論と構成主義は相補的であり、互いに相手を内に含んでいる。ルーマンの構成主義がラディカルなのは、その理論が自己超克をするからで、そのために構成主義は自己を超えて実在論になり、ここで両者は一致する(注4)。
概念の整理をしておこう。構成主義とは、一般的に言えば、ある事象は社会的に構成されたものであるという考え方である。この事象というのは、何かしらの歴史的事実であったり、権力であったり、自然法則であったりする。またその対概念として、物事は意識の有無に関わらず実在するという実在論や、その物事には何かしらの自然的な本質があるという本質主義がある。この構成主義と、実在論または本質主義は一般的には対立しているとみなされている。
例えばジェンダーを考えると、女性的なものは自然や本能によって規定されていると考える人たちに対して、そう考えてしまうと、性差別が固定されてしまう、女性的なものが如何に歴史的に構成されて来たのかを問わなければ、差別はなくならないと考える人たちがいる。その際に、しかし女性的なものは完全に自然によって決定されているのだと考える人はいないだろうし、逆にまったく自然性を持たず、すべて言語によってのみ、恣意的に構成されているのだと考える人も少ないだろう。後者はジェンダー論者がややもすれば陥ってしまうようなものと見做されるかもしれないが、むしろジェンダー論者を非難する際に、彼らはそう考えているのだとされてしまうという代物であろう。
従って、構成主義はひとつのアプローチに過ぎないと千田有紀は、その構成主義について簡潔に整理をした論文の中で言う(千田p.15, 及びp.35)。私は戦略だと言うべきだと思う。社会に根深くある偏見や固まった信念を揺さぶり、それが歴史的に規定されており、かつそこに利害関係が隠されていることを暴くものであると言うべきである。
私たちが言語を使い、社会の中に存在していて、そこで物事を考えるのであれば、構成主義は当たり前の事実を言っているに過ぎない。それが言うべき第一のことである。それは社会制度は自然性に一義的に縛られている訳ではないという当たり前のことを言っているに過ぎない。
社会は構築されたものだから変えることができる。制度を自明で固定されたものと考えてはならない。このように考えるのは当然のことだ。しかし自然もまた偶然に基づいて進化して来たものであり、そして今後変わって行くだろう。その点において、社会と変わりはない。つまり自然もまた変え得る。つまり、構成主義と実在論を対にして考え、実在論だとすべてが自然に一義的に制約されてしまうとするのも間違いである。先に言ったように、自然が最初に実在しているのではなく、構築されたものが実在するのである。
本稿で何度も述べて来たとおり、哲学的にはカント以降、誰もが構成主義であり、あとはカントが考えたように、その構成された世界の向こうに物自体を設定し、その上で晩年のカントのように、何とかしてその物自体に迫ろうとするか、ヘーゲルのように、物自体すら構成されたもの、ないしは構成物の滓であって、しかしそれは特別なものであって、現象世界に大きな影響を与え得るものなのであると考えるか、そのあたりであろう。
現象の運動が物自体を創り出す。物自体とはそういうものだ。物自体は現象を超えたものだが、しかしそれこそ現象が作り出すのである。そしてそれこそが実在である。
同様に資本主義の中の運動の中に、資本主義を超える観点が出て来る。そこを強調して、資本主義を超えることができる。それは資本主義を超えたものだが、しかし資本主義の運動が作り出すものである。すでに述べて来たことを、構成主義の概念があらためて整理してくれるだろう。
最後に言葉の整理をしておく。先の千田有紀を参考にする(千田p.9ff.)。
構成主義と構築主義について、おおよそ哲学の分野では構成主義が定着しており、それに対して社会学から構築主義という訳語が充てられるようになった。具体的には、行為者個人の側から社会にアプローチする、ミクロ的な考察なら構成主義、社会的知識がどのようなダイナミズムで生成して行くかというマクロ的な発想なら構築主義という言葉が選ばれるという説を紹介している。本稿で私は構成主義という言葉を使い、しかし構築主義の方を使う論者も多く、その引用をする場合には、そのまま使う。
さらにルーマンについては次のように言うことができる。
著名な社会学者は皆何かしら、ルーマンに関わっていると思われるのだが、北田暁大も、佐藤俊樹、馬場靖雄、長岡克行、それにクリピキを引用しつつ、ルーマン論を展開する(北田 第8章)。
まず彼もまたルーマン理論のポイントはラディカル構成主義にあるとする。またその際に、行為の事後成立説に照準を当てる。後者は、一般的なもの、根底にあるものは、事後的な観察によってはじめて見出される、つまり遡行的に構成され、発見されるという考え方を指す。二重の偶有性の状況に生じる、コミュニケーションのいかなる齟齬や矛盾も、行為者の価値観や合意によって決まるのではなく、現実にコミュニケーションの行われる、つまりシステムが作動する限りで生じて来ると考える。
言い換えれば、コミュニケーションは他者によって、事後的に成立するのであって、他者が言及し得ない状況でコミュニケーションの意義を考えることは無意味であるとするのである。
他者による接続が行為を構成するという考え方は、「暗闇の中の跳躍」と表現されるだろう。コミュニケーションが通用するのは、あくまで現実的に行われている限りである。このポストモダン的他者論を、先の大澤のルーマン解釈に接続させることができるだろう。
注1 構成主義 / 構築主義については、どちらもconstructionismの訳語であり、その使われ方については後述するが、ここではどちらも同じものであるということだけ言っておきたい。
注2 「病の精神哲学4」で扱った。
注3 「病の精神哲学2」で扱った。
注4 メラーのこの本は極めて論争的で、とりわけ興味深いのは、ルーマン理論をヘーゲルのそれと似ている、ないしは「ルーマンの試みを、ヘーゲル哲学のヘーゲル的止揚だと考えている」(メラー p.12)としているところである。これはおよそルーマン研究者によって受け入れられないだろうけれども、ヘーゲリアンの私は、実はかねてから感じていたことである。また先の大澤真幸のように、思弁的実在論をルーマンと比較して論じることで、この3者の類似性は明らかだと思う。
参考文献
柄谷行人『トランスクリティーク カントとマルクス』岩波書店2004
北田暁大『社会制作の方法』勁草書房2018
熊野純彦「ふたつのDialektikをめぐって カントの弁証論とヘーゲルの弁証法」『哲学史IV』熊野純彦他編、講談社2012
メラー、H-G『ラディカル・ルーマン』吉澤夏子訳、新曜社2018
大澤真幸「根源的構成主義から思弁的実在論へ – そしてまた戻る -」『現代思想』2018.1
千田有紀「構築主義の系譜学」上野千鶴子編『構築主義とは何か』勁草書房2001
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x7271,2019.10.05)