詩妖を止揚できない季節

森忠明

 
    ことしは私の〈ポエティック・ライセンス〉取得四十周年で、自祝している。
   一九六三年、立川市立第二中学校2年生のとき、二人の国語科教諭、高橋トシ先生と御子柴尚孝先生に、生まれて初めて詩才を認められたのである。
   「あなたの詩は『徒然草』にでてくるボウジャクブジンの坊さんが破れかぶれで書いたみたいで面白いわ」
   と、トシ先生はおっしゃった。美丈夫の尚孝先生からは何の評言も無かったが、私のクラス担任で、ひそかに現代詩というやつをこしらえていたドカちゃん(英語科・土方憲司先生)に、私をマークするよう言ってくれた。
   後日、トシ先生に電話して、ボウジャクブジンの坊さんがでてくる第六十段をレクチャーしてもらい、その僧都は〈世を輕く思ひたる曲者〉だったことを知ったが、十四歳だった私には世を重く思いこそすれ、今のように軽くなどとても思えないのだった。
   小学五、六年生を登校拒否、というより既成社会拒否、二年近くのブランクをそのままに中学へ進んだ私は、当然授業についてゆけず、まさしく〈透明な存在〉。積もる多愁多恨や、宿怨を晴らすがごとき短文を、屋上などにエスケープしてノートにきざみつけていた。それらは保存して手元にある。
   おととし、天の配剤か、関東医療少年院で少年A(当時十八歳)と対面した午後、彼が神戸新聞社へ送ったという犯行声明文も、彼が級友にワープロ清書させたという「懲役13年」も、少年M(私)の呪誦や詩妖と同根のものだと考えずにはいられなかった。
   私と酒鬼薔薇聖斗との違いは、 “作品” を受容してくれる教師や “愛あるライセンス” を贈与してくれる大人と出会えたか出会えなかったか、だろう。彼の立体作品を美術科教諭はひたすら気味悪がり、忌避したのだそうである。彼の悲運というか、師運の無さ、業に打たれきったような存在に、心底同情するほかない。
   「この自己分析にすぐれ、誠実である人間の言うことを、我々は信じなければならない」(作田啓一氏『酒鬼薔薇君の欲動』)ぐらいの洞察と慈悲があればなあ、とつくづく思う。
 
   高校へ進んでも私の詩的幸偶はつづき、そこには九州帝大出の浪漫派詩人石井道郎先生(倫社担当)がおられて、私が主宰の校内詩誌にいつもカンパしてくださった。
   今、これを、高校近くを流れる秋川の岸辺で書いているが、かつて、”東京のチベット”と呼ばれたこの場所で作った詩を、寺山修司が選者をしていた「高三コース」(学研)の文芸欄に投稿したのである。
   すると、特選また特選。〈森忠明くんの詩は強烈だ。(略)とてもハイティーンの人が書いたとは思えないほど技巧的で、しかもハイティーンならではのエネルギーにあふれている。森くん。いままでの作品をまとめて、一冊の詩集にでもしてみたらどうですか?〉なんていう過賞に狂喜したことも懐かしい。大学一年の夏、〈遊びにきませんか〉という葉書がきた。有頂天になって顔をだすと、
   「チュウメイさん、詩をどんどん書きなさい。あたしが思潮社に売り込んであげるから。恐いくらいにスゴイ詩集を出そう」
   渋谷アマンド前の演劇実験室天井棧敷事務所。藤原紀香以上に知的でセクシーな寺山夫人(九條今日子氏)が、マジでそうおっしゃった。デスクの椅子で何か嬉しそうに微笑していた寺山修司の姿が、三十五年たっても鮮明だ。
   「いいんですよ。もっとうまくなってから自力で出しますから」
   こっちもマジの思いだったのだから、ハイティーンの私の無欲ぶりというか馬鹿さ加減が可憐すぎる。
   もっとうまくなると信じて五十過ぎまで詩作をつづけてきた。全然うまくならない。諦めて去年の二月、借金して上梓したのが『森忠明ハイティーン詩集』(寺山修司選・書肆楽々)である。
   〈寺山修司の大恩人(と私は考えている)北川幸比古氏が、詩集の出版社を始められた、という噂を耳にした。北川氏は我が師寺山修司の最初期の本を出し、全然売れなかったために、たいへんな損害を蒙った。なのに断截も破棄もせず、長く保管されたような方だ。そういう人に出版してもらえれば幸せだが、師弟二代にわたって迷惑をかけることになるかもしれない――〉
   後記をしたためながら、オレも北川氏も長生きしててよかったな、としみじみし、書肆楽々のもう一人の同人である小西正保氏が、極寒の日、西早稲田の印刷屋さんで拙詩集のために細かい指示をだしておられたことも勿体ないことだった。
 
   一昔前、「飛ぶ教室」(楡出版)誌上で、石井直人氏が〈わたしにとって、詩が、いわば「主語以前」の混沌の感触をとどめているかどうかが大切だ〉と書かれ、古田足日氏の〈すぐれた児童詩にあるものは詩情などというものではなく、それは神話的未分化の世界を示している〉という見解を紹介しておられたが、恣意、牽強を承知で図々しく言わせてもらえるなら、我が若書き詩集は〈混沌の感触〉も〈神話的未分化〉も含有している?のだった。
   『歎異鈔』に、〈わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ〉という一行があるけれど、『森忠明ハイティーン詩集』は実際はオートマチック詩集とか非詩集とか名づけたいほどに、わがはからひにて詩ったものではない。
   少年という〈地獄の季節〉の、否応もない性欲動や破壊衝動の、アン・コントロールを想起すれば、更年期を過ぎた今なお怖気立つ。いみじくも少年Aは、その自己表出、価値概念の根源に〈魔物がいる〉と述べたというが中二時代の私だって霊鬼のソソノカシ、または神がかり的語漏症としかたとえようのない闇風あんぷうに吹きまくられていたのである。そこでは、かのE・M・シオランの箴言も単なる嫌がらせの毒舌にすぎない。
   〈神秘的(ミステール)――他人の目を欺くために、自分の方がかれらより深みがあると思わせるために使うことば〉(及川馥氏訳) 
   寺山修司が選び、彼のルーブリックをいただいた十代の詩二十四篇のすべては、正直、一字の推敲もせず、 “東京のチベット” 高校門前にあったポストへ投げ込んだものだった。つまり、クリエーションといった高尚な感じではなく、Ejaculation!
   〈たてつづけに群作を送ってくるがそのどれもがまさしく詩なのだ。「四月」には青春というもののむなしい実在感がある。男性的でしかも繊細である。「昼」という詩にみられる新しい文体のこころみ、「犬」にみられる時間への惜別。来月の作品もたのしみに待ちたい。寺山修司〉
   かつて寺山と同様、天才少年歌人と称えられた春日井健氏が記者の質問に、
   「若いということは茂った木、悩みも多く、つらすぎる。事件を起こした少年の心の底を推し量ると、自分の若いころと通じたものがあると思う。老いるとさっぱりした木になる。若い人は暗い。年を取ると明るくなる」(「東京新聞」’03・1/18夕刊)と答えておられ、さすがだ、と思う一方、年を取っても明るくなれずにいる自分を嘆いたのだった。
   かねて、少年詩を、最も〈白いエクリチュール〉(ロラン・バルト)と〈無関心、メタ・イロニー〉(マルセル・デュシャン)の場と考え、幼少の頃から通俗と権威にふやけてゆかざるをえない人間を、さりげなくしかし確実に覚醒させる、最高度にラジカルな文学形態と定義してきた私は、それが真に〈明るくなる〉ためのエクササイズだと信じてきた。しかし、自作によって実現未だしである以上、斯界の詩伯たちに期待するこころ切なのだ。
   出版してまもなく、秋田市の若い女性から短い感想文が届いた。未知の人である。白い便箋には私より上等の「詩」があった。為に何だか恥ずかしかった。
   〈数年来、世界を見回しても色がなし、このまま静かに終わるのではないかと、終わっても構わないと思っていましたが、ひさかたぶりによい本と出会うことができました。
   当直のある仕事に就きました。九時半の巡回が終わったら宿直室の姿見に布をかけて、もっとゆっくり拝読いたします。斉藤麗子〉
 
(もりただあき)
 
   初出(『日本児童文学』二〇〇三年八月・小峰書店)
 
(pubspace-x6982,2019.08.28)