資本主義は越えられないのか – 加速主義について(政治篇)-

高橋一行

   
   「資本主義の終わりを想像するよりも世界の終わりを想像する方がたやすい」(ジェイムソンp.13)という文言は、加速主義について語られるときに誰もが使うものである。そして実際、この文言ほど加速主義の感覚を良く表しているものはないと思う。つまり加速主義とは、資本主義以外の選択肢を私たちが持たず、積極的に評価するか、諦めを以って認めるか、足掻いてみるかという違いはあれ、これがいつまでも続くであろうし、そしてそこから永久に抜け出すことのできないという思いに囚われている状況の中で生まれたものである。私はこのあとで具体的に論者の主張を取り挙げるが、ここではとりあえず、そう言っておく。
   もう少し正確に言えば次のようになる。社会主義諸国が崩壊した時点で、まず古い左翼はそのことに幻滅したかもしれない。しかし問題はそこからで、その後資本主義が世界を覆い、近年さらにそのことがリベラル・デモクラシーの質を落としているという現状がある。また一方でリベラル・デモクラシーを拒否して、資本主義を進める国がある。するとそういう政治の劣化は世界的な傾向で、それこそが資本主義が必然的にもたらしたものなのかということになる。そのことが、この資本主義から脱却できないという思いとともに、私たちに絶望感を与えるのである。
   さてそこまで述べた上で私の感じていることを書いて行く。まずは中国をどう見るのかということである。
   私は1990年代の後半から大学で政治学を講じている。その当時、例えば私はフランシス・フクヤマが言うように、リベラル・デモクラシーが世界を支配するだろうと思っていた(注1)。中国も現時点でまだ民主化していないが、近い内に経済が伸びて行けば、確実に民主化すると思っていたのである。それが2000年代に入って中国経済は進展したが、どうも一向に民主化する気配がない。これは一体どうしたものかと思う。それで例えば、エマニュエル・トッドがイスラム諸国を念頭にして、それらの国々も、原理主義的な反動はあっても、長期的には女性の識字率も上がって、いずれ民主化するだろうと言っていることを思い出す(トッド2003)。中国もそうだろうと私は思ったのである。
   しかし2010年を過ぎ、より正確に言えば、ほんのこの数年くらいの間、中国はむしろ民主化しないから資本主義を発達させたのではないかということに気付く。かつては発達途上国だったのに、いつの間にかIT分野では世界の最先端にいる。それは民主主義の前提になるリベラルな感覚、つまり表現の自由の保証だとか、少数者への配慮だとか、人権の尊重だとか、司法の独立だとかといった、政治的な感覚が欠如していること、いや意識的にそういったことを排除していることが、西欧の技術を容易に習得して、それを国民の生活の中に浸透させるのに役立っている。エリートが余計な心配をせずに経済と技術の発展に専念し、国民も生活が良くなるのなら、あとは構わないということで、国民のプライバシーは易々と管理され、至るところに監視カメラが設置されて、完璧な監視社会が出来上がる。民主主義が制度的に成立している社会なら、国民にひとつひとつ説明し、納得させなければならないところ、そういう手間が省かれて、簡単に技術が生活の中に導入されるのである。それが分野によっては世界一と言って良いくらいの資本主義国になり得た理由である。
   アメリカはそのことに気付いたのではないか。それまでアメリカが信奉して来たリベラル・デモクラシーはもはや資本主義を進める上で桎梏となる。そこから脱しないと中国に負けてしまう。
   アメリカについては次のことが言えるだろう。2016年11月、大統領選挙の前日まで、私はトランプが勝つとは思っていない。それは私の判断というより、私が信頼するアメリカの友人知人が皆そう思っていたからに他ならない。それが選挙の開票が始まって、テレビで、トランプ優位と出ると、私は驚愕した。確かテレビに向かって、えっと大きな声を上げたのを覚えている。ところがそれから3日も経つと、トランプ大統領の誕生は必然的なものに思えて来て、私はこのことを実は前から予測していたのだと思う。世界中でポピュリズムの興隆は必然なのである。トランプは勝つべくして勝ったのであり、実は私はそのことをひそかに予測していたのであると思う。
   例えば2008年に書かれた本の中で、トッドは、サルコジを批判して、一貫した思考の欠如、知的な凡庸さ、攻撃性、金銭的価値の称揚、家族的価値の不安定さが見られると指摘したが(トッド2009 p.34f.)、それはトランプこそ、すべて体現しているものである。つまりポピュリズムというのは、政治家個人の問題ではなく、それを生み出す社会の問題で、アメリカ社会がリベラルな感性を拒否しているのである。リベラル・デモクラシーが、皆で議論をし、少数者への配慮をし、何が正義かを公共の場において示さねばならないのだとすると、皆、そんなことにうんざりしている。
   それは資本主義がそうさせているのか、逆にリベラルな感覚を失うことで、資本主義を延命させているのか。いずれにせよ、これは必然的な流れであった。
   かつては資本主義を発達させるためには、優秀なプロレタリアートを育てねばならず、福祉国家を作って、プロレタリアートに配慮をする必要があったのだが、AI(人工知能)が進んでそれほど労働力は必要でなくなる。そういう時代に資本主義は、国民を育てる必要性を感じなくなり、利潤追求のために勝手に暴走し始めている。そして国民はとうに見捨てられているのに、他に選択肢がないものだから、資本主義にしがみついて、自らの職を守るのに必死で、社会全体に思いを寄せる余裕はない。
   これが資本主義の行き着く果てであり、そして私たちはそこから逃れられないのである。
   私は大学で、ロールズの正義論を取り挙げ、アーレントやハーバーマスを出して、公共性だの熟議民主主義だのの重要性を説いているが、学生の反応を見ても、また私自身も、そういう話が段々と馬鹿々々しくなっている。
   もうひとつは、資本主義は必然的に情報化社会になり、雇用が失われ、格差は大きくなるのだが、そのことがこの数年のAIの進展と、その認識の広がりために、より明確になったということがあると思う。シンギュラリティは2045年くらいだとされ(注2)、それは今私が教えている学生、つまり20歳ちょっとの人たちがまさに働き盛りの頃のことであって、それは深刻な問題である。資本主義は生き延びるが、自分は生き延びられないかもしれないと多くの若い人が感じている。
   つまり雇用はなくなり、社会保障は受けられず、結婚もできないないかもしれないし、孤独と貧乏の内に老後の生活を送らねばならないという感覚である。それは社会主義という代替案を失ったと残念がる古い左翼の持つ郷愁の念ではなく、資本主義経済がすべてを覆い尽して、政治が機能しない、つまり政治によって助けてもらえない、自分の力で何とかしなくてはならないが、しかし確率的にそういうことができるのは一部の人であって、自分がそうなるかどうかは分からないというという感覚である。
 
   そういうときに、加速主義を私は知った。それはまさしく私自身の感じて来たことに他ならないと思ったのである。
   この加速主義は、資本主義の傾向と過程を加速させること、その能力を疲弊・消尽させることで、それを超える地平を見出すこと、資本主義を内在的に超えること、以上を共通認識として、実際には幾人かの人々がそれぞれ少しずつ異なったニュアンスを以って主張する思想である。その源流のひとり、ニック・ランドが1990年代から周囲の支持を得て始めた運動は、新反動主義、または加速主義右派と呼ばれる。彼は、上海に居住しながら(この街はグローバル資本メトロポリスと呼ばれる)、資本主義の彼方は予期できないとするのである。
   彼の著作『暗黒啓蒙』では、デモクラシーは、馬鹿な人間を好み、より多くの馬鹿を製造すると断言され(ランドp.41)、政治的公正さなど、リベラル・デモクラシーの持つ倫理が奉られている「大聖堂」を破壊することが宣言される(p.43f.)。それは西欧においては、政治が経済や技術を制約しているので、脱政治を行い、資本主義の生産性を上げて行こうという主張なのである。つまり欧米は、自由・平等・民主主義・PC等を後生大事に抱えて来た。これらこそが「大聖堂」に奉納されているのである。さらに私はそれらに、言論の自由と人権の尊重を付け加えたら良いと思う。こういったものが資本主義の発展を減速させているとし、技術革新と生産性向上のためには脱政治が必要だとランドは訴える。そしてその感覚は、従来の価値観に反発する反動的ポピュリズムの広がりによって裏打ちされている。つまりトランプこそまさにこの脱政治を実践していると見るべきである。
   一方で、中国は欧米の科学技術を抵抗なく受け入れ、さらに生産性を上げるためには、進歩主義的な政治を犠牲にして当然だという感覚がそこにはある。中国こそがまさしく加速主義社会に突入している。ハイテク資本主義を最も高度に進めている国と言っても良い。
   ランドによって、資本主義はその非人間的、暴力的な破壊性ゆえに称賛される。加速主義は資本のダーク・ミラーとも呼ばれる。
   それに対して、ニック・スルニチェクとアレックス・ウィリアムズが『加速派政治宣言』(2013)を出して、左派を名乗る。ランドは資本主義の力動性を的確にとらえて、それを称賛するが、しかしそこではいずれ人間は足手まといな存在として捨てられてしまうのではないかと彼らは問う。資本主義は真の加速の行為主体ではない。しかしそれにただ単に文句を言うだけでは、左翼の役割はない。必要なのは、この資本主義の加速主義的傾向を最大限受け入れることだと彼らは言うのである(スルニチェク&ウィリアムズ)。
   加速主義右派は、最終的には資本主義が終わって、技術文明がシンギュラリティに回収されると考えている。左派はそれに対して資本主義を超えた社会の出現を夢見る。そこに至るためにこそ、資本主義を加速させねばならないとするのである。しかし両者に終末論的な発想やニヒリズム的感覚は共有されていると思う。
   もうひとり論者を挙げておこう。マーク・フィッシャーが『資本主義リアリズム』(2009、訳は2018)を出し、資本主義と別の選択肢を考えることはできない、世界は新自由主義的な見方によって統治されているという感覚を打ち出し、それが支持を集めた。この無力感が、21世紀のこの20年の特徴である。それが加速主義が注目される背景にある。フィッシャーは、イギリスの大学で講師を務めながら、ブログを発信し続けたが、2017年に48歳の若さで自死する。
   「再帰的無能感」という言葉をフィッシャーは使う。世界に蔓延する新自由主義的な見方に対して戦っても無駄だという感覚である。そしてその感覚は左翼が体現しているのである。左翼は既存の政治に対して抗議はするが、新たな秩序を形成しようとはしない。そんなことは最初からあきらめているのである(フィッシャー、水嶋一憲)。
   それは同時に私の中にまだ残っている左派リベラリズム的な感覚から脱却せよということを私に強要する。進歩を信じ、主体性を重視し、健全な啓蒙主義を唱えるその感性こそ、資本主義の中で育まれて来たものなのである。しかし今やそういったものが、資本主義の発展にとってマイナスでしかないのなら、資本主義をとことん突き進めるためには、それらを捨てるべきなのである。
   しかし果たして本当に、そういった感覚から脱却すべきなのか。加速主義者はそう主張する。資本主義を加速させて、そこに乗っかれというのである。しかしもしかしたら、今まで資本主義が育てて来たその感覚こそが、資本主義を克服する観点を示唆してくれるのではないか。加速した資本主義はもはや人を育てない。だとすれば、資本主義をこれ以上加速させてはいけないのではないか。
   結論として次のように書く。私自身ニヒリズムに陥っている。しかし一方で、資本主義の暴走を止めねばならないと思う。その際に、「資本主義の終わりを想像するよりも世界の終わりを想像する方がたやすい」という文言は、文字通り受け止めねばならないと思う。つまりそれは、資本主義の終わりを想像することが困難だという意味で言うのではなく、世界は容易に破滅するかもしれず、その根本要因は資本主義の暴走にあり、それを危惧し、具体的にその対策を取れということなのである。そのことが私の言いたいことのひとつである。あちらこちらで書いて来たけれども、ヒトは生物の中で最も脆弱な種であり、環境破壊その他で、容易に絶滅し得るのである。
   第二に、これは第2章の課題だが、資本主義の次に来る社会を私たちは構想できるはずだと思う。私自身がここ数年展開して来た知的共産主義の考えと、ポール・メイソンの著作を頼りに展開したい。そのポスト資本主義は資本主義に内在しており、もうすでにその兆候を示しているのである。
   第三に、思弁的実在論と加速主義は親和性がある。すでにランドが近代の啓蒙思想を完成させた人物をカントだとし、そのカント主義を乗り越えようという問題意識を持っている。資本主義の内在的な運動に着目するのは、それこそがカント主義を乗り越える秘策だからである。
   思弁的実在論という形而上学的な議論が、その実践的な試みとしての加速主義を伴っている。つまり哲学は相関主義から抜け出せないが、しかし何とかして内在的に抜け出そうと試みがなされている。メイヤスーは祖先以前に遡り、ブラシエは人間の絶滅後をイメージする。このことと資本主義を突き抜けて内在的にそれを突破しようという試みと相即的である。だから加速主義を批判するためには同時に思弁的実在論をも批判しなければならない。 
   さらに付け加えれば、ジジェクはこの新実在論者と近いとされていて、実際彼はヘーゲルを解読して物自体を内在的に批判し、また資本主義が世界を滅亡させることを止めるという行為こそ、共産主義だとしている。すでに書いて来たこれらのことをあらためて検討するのが、第3章の課題である。
   第四に鬱の問題がある(注3)。フィッシャーは自ら鬱に苦しんでいた。彼は次のように言う。「双極性障害は、資本主義の内部に固有の精神病である」。「好況と不況を絶えず繰り返す資本主義そのものは、どこまでも根源的に双極的である」。「資本主義は人々の感情を餌にしながら、それらの感情を再生産する」(フィッシャーp.93)。
   この限りでこの言明は正しい。しかしそれは何も具体的なことを言っていないのではないか。
   私の経験と感覚で言えば、鬱になり易いタイプの人とそうでない人がいる。それは個人的なものだ。しかし今の社会は、鬱になり易い人に対しては極めて高い確率で鬱を発症させ、鬱になりにくい人に対してまで、低い確率ではあれ、同じく鬱を発症させる。とすると、それはやはり資本主義の問題である。その際しばしば誤解されるように、資本主義が人を経済競争に巻き込むからということが主たる要因ではないだろう。資本主義は情報化社会となり、情報化社会では人間関係が第一義的に重要になるから、そこでの躓きが人を落ち込ませるのである。必ずしも経済競争に負けたからというのではなく、むしろ勝ち残っていると多くの場合判断されるような人が、ちょっとしたこと(だと他人からは思われること)で容易に鬱になるのである。それは個人の感情の問題なのだが、しかしそれを社会が増幅させる。感情のエネルギーが本人の制御できる範囲を超えて社会の中で備給され、人はそれに支配されるのである。
   また次に言えるのは、鬱を発症すると、今の社会ではそれは大事(おおごと)となる。それは人間関係に差し障りを生じさせ、そして資本主義は極度にこの人間関係に重きを置くのである。
   この問題は考えるべきだろう。資本主義社会では何でも経済に還元してしまい、そのことは容易に人を鬱にするのは事実だが、しかし今述べたように、経済競争に負けたからとか、現実の問題として経済に不安がある人が鬱になり易い訳ではない。実際には十分資産があるのに、つまり十分恵まれた生活をしているのに、自分はお金がないと主観的に強く喪失感を訴える場合もある。だから客観的に人を経済的に貧しくすることが直接的に人を鬱にする訳ではない。しかしそうは言っても、鬱になった人の多くが喪失感を訴えることから考えて、資本主義社会の持つ何でも経済に還元する傾向と鬱とに、何かしらの関連はあると見るべきだろう。
   私はこのことを、所有の比重が増しているのに、所有の実感が伴わなくなっているからだと言った。所有することで容易に満足が得られない社会になったからと言っても良い。20世紀の半ばまでなら、車やテレビを所有できたら、それは大きな喜びだったはずである。しかし消費化社会になって、それらのものは容易に手に入る。入手したところで、そこで得られる喜びはごくわずかなものだ。
   そういう社会になると、そこでは情報の所有、または人間関係の所有に比重が置かれ、そしてその所有は実は永遠に満たされず、つまり本来所有すべきものではないのに、所有の対象物にされてしまうからで、そして鬱になり易い人というのは、無意識に所有意識が強く、所有できないというもどかしさは普段は抑えられていても、何かきっかけがあれば噴き出して来て、鬱を発症する。
   問題は、このことと加速主義との関係である。資本主義を超えられないという感覚と鬱は関係するのか。所有に捉われて生きるしかないという感覚が鬱を増やすのだろうか。その閉塞感が問題なのだろうか。
   私の考えでは、資本主義社会が情報化社会になった時点で、鬱は増える。人間関係がますます比重を占める時代になっている社会だからだ。必ずしも貧困に苦しむとか、劣悪な職の環境だとかでなくても鬱は発症する。所有で満足が得られない社会で、所有したいという感覚が強い人や、それが強くなくとも、所有すべきだという圧力のもとにある人は容易に鬱になる。
   問題は次のことである。鬱を大事(おおごと)にしないということが必要である。今の社会では鬱になると、容易に職を失い、また復職するのが絶望的に困難なのである。それは資本主義が加速すると、ますますそうなると思われる。問題はそこにある。鬱になること自体は仕方のないことで、あとは周りが温かく見守るしかない。しかし資本主義は鬱を切り捨てる。本当は、切り捨てられるべきは資本主義の方ではないのか。
 
注1 フクヤマが言うのは、単に社会主義を標榜する国がなくなって、資本主義国が勝利したという話ではない。1990年代、先進資本主義諸国ではリベラル・デモクラシーが根付いていて、これは個人の権利を平等に認めて行こうという考え方であって、そうすると、自分が他人よりも優れているという気概がなくなってしまい、そういう社会を以って歴史は終わるとフクヤマは考えた。その時点で私は、そう簡単にアメリカ流のリベラル・デモクラシーで世界が統一されるとは思えなかったが、しかし反動の振幅を持ちつつもゆっくりと資本主義とリベラル・デモクラシーが進行するだろうと考えたのである。当時私には、今のようにリベラル・デモクラシーを拒否することによって資本主義を加速させる国と、すでに根付いていた政治的感覚を捨てて、資本主義を延命しようとする国が現れるとは予想していなかった。
 
注2 汎用AIが出来れば、今度は自ら新しいAIを設計するAIができることになり、自己組織的にAIは高性能化するはずである。そういうことが可能になった時点をシンギュラリティとするのか、そういうコンピューターが廉価で入手できるようになった時点を指すのかという定義の問題があり、またいつその特異点が来るのかという議論があり、そもそもそんな特異点はやって来ないという説もあり、様々な言説が飛び交っている。ここでは、少なくともAIが発達すれば、一部のAIを使いこなせる人たちだけが益々富み、他の多くの人たちは雇用が失われて貧窮化するだろうということだけは確実だと言っておく。
 
注3 拙著の8-1「鬱と所有論」で扱った。
 
参考文献
フィッシャー, M., 『資本主義リアリズム』河南瑠莉他訳、堀之内出版2018
フクヤマ, F., 『歴史の終わり』渡辺昇一訳、三笠書房1992
ジェイムソン, F., 「アメリカのユートピア」『アメリカのユートピア - 二重権力と国民皆兵性 -』田尻芳樹他訳、書肆心水2018
木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義 - 世界を覆う<ダーク>な思想 -』星海社2019
ランド, N., 「暗黒啓蒙(抄)」五井健太郎訳、『現代思想』2019-6
水嶋一憲「転形期の未来 - 新反動主義かアシッド共産主義か -」『現代思想』2019-6
スルニチェク, N., &ウィリアムズ, A., 「加速派政治宣言」水嶋一憲他訳、『現代思想』2018-1
高橋一行『他者の所有』御茶の水書房2014
トッド, E., 『帝国以後 アメリカ・システムの崩壊』石崎晴己訳、藤原書店2003
—–    『デモクラシー以後 – 協調的「保護主義」の提唱 -』石崎晴己訳、藤原書店2009
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
8月29日、標題を「加速主義について(政治篇)」から「資本主義は越えられないのか – 加速主義について(政治篇)- 」に変更しました。(著者)
 
(pubspace-x6971,2019.08.24)