「交通縮減の思想――路面電車ルネサンスとしての宇都宮市電に関する政治思想」

(1)、(2)、(3)
 

田村伊知朗

 
0、世界総体ではなく、都市構造という表象
 1980~90年代において交通政策が、都市全体の公共性という存在形式において考察され始めた。ここで問題にしている全体知は、近代という時代総体に関する知ではない。世界の総体的把握とそれに基づく世界変革が、ほぼ無効になった。
 後期近代において、世界の存立構造そのものを問題にする知は崩壊してゆく。世界の総体的な領有は、いかなる形式であれ、疑義から逃れることはできない。古典的なドイツ観念論哲学はヘーゲルによって完成されるが、この哲学における世界概念は、19世紀後半においてすでに問題が多いものになる。学問における専門化と分業が進展したからである。世界そのものを問題にする知は、学問的世界から追放される。
 学問的営為に従事するかぎり、その主体は世界の存立構造そのものを問題にするのではない。世界領有にとって有効な知は、市民社会の諸システムの実践に有効な知にとって代わられる。世界観的知は、ドイツ観念論哲学の完成者、ヘーゲルとマルクス、エンゲルスも含めたヘーゲル左派でもって終了している。
 もちろん、伝統的哲学以後においても、それに代わる学問、たとえばコント、デュルケームによって代表される初期社会学、あるいはいわゆるマルクス経済学もまた、哲学とは異なる形式によって世界を領有しようとした。その試みはすべて、水泡に帰した。いかなる形式の学問であれ、伝統的哲学にとって代わろうとする試みは、少なくとも現在にいたるまで成功したとは言い難い。人間的理性は、どのような形式の学問的色彩を帯びようとも、世界総体を把握することはできない。
 さらに、世界、あるいは歴史的世界において理性、あるいは秩序性があるという前提も疑義から逃れられない。把握された世界における理性性に基づいて、自然発生的に世界を統御できるということは、あまりに楽観主義的見解に他ならない。理性性も秩序性も歴史的生成のうちにあり、絶対的なものではないからである。哲学、あるいは哲学とは異なる形式の学問が人間的理性による批判という手続きを用いて世界を解釈し、その変革を企図することは、不可能になる。このような思想的前提が崩壊していることは、少なくとも後期近代において思想史的領域においても、現実政治的領域においてもほぼ社会的に承認されている。
 1960~70年代における世界の総体的変革への指向が、その社会的承認力を後期近代においてほぼ喪失した。それに代わって公共圏において承認された知が、都市構造全体に関する知である。歴史的世界と共時的世界総体ではなく、都市という限定された空間に関する知である。前者を認識するためには、哲学的な体系化を必要としていた。前者に関するどのような知であれ、その真正性を討究する手段を有していない。
 
1、具体的な都市研究
 新幹線宇都宮駅周辺の宇都宮市中心街は、宇都宮市東部と芳賀町にある工業団地と15㎞ほど離れている。この区間を路面電車で結ぶため、宇都宮市電が建設されようとしている。この予定線の終点周辺には、本田技研、キャノン等の大規模工場、テクノポリス等が林立している。また、沿線には、作新学院大学、青陵高校等の文教施設、サッカーJ2の公式スタジアムである栃木県グリーンスタジアム、宇都宮清原球場、体育館等のスポーツ施設も数多い。また、この沿線では小中学校のクラスの増設が相次いでいる。若年労働力人口も、この地域に多く居住している。
 中心街から工業団地を結節している片側二車線の道路は、朝夕にはかなり渋滞していた。また、サッカー公式戦開催日等のイベントが開催される日には、その渋滞が加速された。宇都宮市電の建設が、このような事情で構想された。そして、その工事施行が、2018年3月に国土交通省によって認可された。その構想から数えて約半世紀を必要としていた。これまでの交通政策担当者の唯一の政策は、道路を拡幅するか、あるいは迂回路として高速道路を新設することでしかなかった。宇都宮市、栃木県そして国土交通省はこの常識を覆す政策を採用した。
 もちろん、宇都宮市の路面電車ルネサンスは、富山市の路面電車ルネサンスを前提にしている。(4) しかし、後者は既存の富山港線という赤字ローカル線を路面電車に転用した。また、北陸新幹線において新設される富山駅整備という国策とも関連していた。
 対照的に、宇都宮市の路面電車新設という事業は、既存の鉄道施設を前提にせず、既存道路の片側一車線を廃棄して、軌道を敷設しようとする。この意味で、宇都宮市の路面電車ルネサンスは、富山市のそれを凌駕している。まさに、本邦の路面電車ルネサンスの精華というべきであり、ドイツの路面電車ルネサンスに匹敵する構想であろう。
 本報告の目的は、本邦における路面電車ルネサンスの意義をドイツの政治思想に基づいて跡づけることにある。
 
2、部分知に基づく道路の拡充と都市構造の破壊――私的利益と公共的利益の同一性という仮象(1950~60年代)
 1950~60年代の都市交通政策担当者は、自らの専門領域に関する部分知に基づき都市と都市交通の未来像を構想してきた。客観的に考察すれば、この時代の交通政策担当者は、一元化された部分知に基づき、動力化された個人交通の拡大しか考慮しなかった。動力化された個人交通が、都市交通一般と同義として考えられていた。部分知に基づく政策が、都市全体に関する全体知に基づく都市全体の利益と矛盾なく両立すると考えられていた。その妥当性が問われることなく、全体知への無邪気な信頼が、交通政策担当者の意識構造を規定していた。
 個人交通という私的利益は、交通全体あるいは公共性全体の利益と同一であると認識されていた。単純化すれば、私的利益と公共的利益は同一と考えられていた。あるいは、公共性を考慮しないことと同義であった。
 この部分知と、彼らの職業的権限の拡大という部分的利益に基づき、道路の幅と延長距離が拡大された。これが交通政策担当者の唯一の政策にすぎなかった。道路交通のために使用される面積が、都市において拡大した。自家用車を使用するための空間が、都市内部とりわけ都市中心街において拡大された。他の交通媒体たとえば路面電車と比較することによって、この現象を考察してみよう。交通量が同一である場合、路面電車が必要とする平面は、自家用車が必要とする平面の数パーセントにすぎない。この考察結果に駐車場の面積を加えるならば、都市中心街における自動車関連の面積占有率は、膨大になろう。都市中心街が、道路と駐車場によって浸食された。
 動力化された個人交通に適した街という表象が、交通政策担当者の意識構造において支配的になった。この表象において、空間つまり都市構造全体に対するその影響、交通使用総体に対する批判的考察は、あたかも存在しないかのようであった。交通浪費的な生活様式と経済様式の原理的促進、立地計画における統御の強度の弱さが、現代的な交通使用構造と動力化された個人交通を指向している。動力化された個人交通の意義に基づき、部分的な専門知が都市全体を貫徹していた。このような部分知に基づき、都市とその郊外領域における道路空間が増大された。このような観点から都市中心街から路面電車の軌道が撤去された。
 
3、全体知としての都市構造を指向する政策――私的利益と区別された公共性あるいは公共的利益(1980~90年代)
 このような政策と異なる思想が、西欧とりわけドイツの1980~90年代において生じた。交通政策者の意識を規定している暗黙知の存在形式が、批判的手続きに基づいて再検証された。その媒介項が、上位概念としての都市空間の全体構造である。もちろん、全体という表象は、本稿で規定された都市空間とは異なる概念によっても再構成できる。都市という水準を超えた州という地域、その州を統合する国家、グローバル化された世界という表象によっても再構成可能であろう。
 本講義は、その曖昧性と非厳密性を内包している。しかし、上位概念としての都市という表象が、錯誤しているのではないであろう。都市は、社会的構造過程がその複雑的、矛盾的そして直観的現実性を持つ空間でありうる。全体知としての都市という表象を設定しうるであろう。
 世界ではなく、都市という表象を媒介にすることによって、この空間の全体性に対する人間的理性による把握と統御が、社会的に可能とみなされていた。この形式の知に対する承認形式は、今世紀になっても継続している。都市という空間は、社会の複雑性の結節点として、都市は意識化されやすい。都市という限定された空間において、世界総体が凝縮している。多数の人間が共同生活を営む都市空間は、限定されていることによって国家よりも市民の日常意識にとって可視化可能であろう。公共性一般を観照する空間は、国家ではなく、都市においてより具体性を帯びるであろう。都市構造全体に関する問題が、世界と歴史的世界に関する問題に代わって市民的公共性において意識化された。
 ここで前世紀中葉のように私的利益が公共的利益と同一である、という素朴な認識は、もはや消滅している。両者の分離を前提にしつつ、後者をどのように現実化するかという課題が全面に出てきた。
 
4、都市構造と歩行
 人間的自然に適応した交通という観点から、都市構造を考察してみよう。歩行が、最も自然環境に負担の少ない交通手段である。歩行を都市内交通の基盤と考えることによって、動力化された個人交通を増大させるインフラが減少する。歩行を都市交通政策の基礎に据えることによって、交通量総体が減少する。この人間の原初的交通手段は、前近代から継続している。歩行という人間の原初的行為に適した都市構造が、交通縮減のために不可避的に要求されている。
 都市機能の本質である凝集、高密度、多様性そして調和的混合性を確保するために、歩行という人間の原初的能力が都市機能をより改善する。近代都市においても歩行の意義は、看過されるべきではないであろう。都市構造が、歩行等の原初的な交通手段に適合しなければならない。
 都市構造がエコロジー基準に適合することは、化石燃料に依存する交通システムからそれに依存しない交通システムと同一的水準にある。都市構造の変容が、ポスト・化石燃料交通システムへの移行を可能にする。
 歩行者交通のための環境を整備することは、公共交通の充実と同義である。歩行のための装置が整備されることによって、公共交通の装置も整備される。地域内の公共的人員交通と歩行者交通は、相補的である。地域内の公共的人員交通の輸送能力を向上させるためには、歩行者交通を充実しなければならなかった。現在では、歩行という交通手段は1㎞前後の距離を前提にしている。それ以上の距離を移動することは、公共交通を利用しなければならない。両者のための交通環境を整備することによって、動力化された個人交通を縮減できる。
 交通縮減という概念が、後期近代において出現してきた。環境問題が、都市政策における上位要因になった。交通が、都市における環境破壊の最大の源泉の一つである。このような認識が、市民の日常意識を規定するようになった。徒歩、自転車等の動力化されていない交通手段と、この交通手段を媒介にする高品質の地域内の公共的人員交通が、交通政策においても求められている。バスではなく、路面電車がこの課題をより遂行できる。バスは、動力化された個人交通に対抗できない。
 個人交通の増大によって、都市機能とりわけ都市中心街おける都市機能が限界を超えつつあった。この事態に対応した交通政策と都市政策が、喫緊の課題として社会的に承認されている。この思想を実現するためには、都市構造の本質的変革が求められている。
 いかに困難であれ、全体知として都市構造全体が交通政策担当者の意識構造へと埋め込まれなければならないであろう。空間構造に関する全体知を指向することは、都市住民の交通意識と交通態度を水路づけることにつながるであろう。
 
5、宇都宮市路面電車ルネサンスと都市構造
 これまで、ドイツの前世紀の議論を中心にして、都市構造に関する全体知を指向する必然性に関して論述してきた。宇都宮市電の建設もこのコンテキストにおいてより理解できるであろう。ただし、宇都宮市の路面電車ルネサンスはその構想からほぼ半世紀が経過しているが、工事施工の認可以後も未だに民主党(現 民進党、国民民主党、立憲民主党等?)、共産党、社会民主党等を中心にした反対運動も残存している。動力化された個人交通だけを指向し、公共性あるいは公共的利益を指向しない。本邦における左翼的な反対運動の本質あるいは限界が、本事業に対する政治思想において露呈しているのかもしれない。
 伝統的な市民運動が指向する反対運動の本質は、現状維持にある。ここで問題にした公共交通の本質というコンテキストに基づけば、バスに一元化しようとしている。しかし、バスは動力化された個人交通に対抗できない。いずれ、バスだけに一元化された公共交通は、衰退する可能性が高い。もちろん、ここで路面電車に一元化すべきであると主張しているのではない。バスに一元化するのではなく、多元的な公共性そして公共交通を主張しているにすぎない。バスのトランジットセンターが、路面電車の主要電停において設置している。幹線としての路面電車、支線としてのバスという棲み分けを主張しているにすぎない。
 また、公共性あるいは公共的利益の本質は、ここでは公共交通の存在形式あるいはその存在それ自体と関連づけている。もちろん、別の観点から考察すれば、その存在形式に関する具体的表象も異なっているのかもしれない。
 

(1)本記事は、『田村伊知朗 政治学研究室』(http://izl.moe-nifty.com/tamura/2018/08/post-d68b.html)においてすでに、掲載されている。
(2) 本稿は、政治学概論の講義原稿(政治学原論12 公共性の存在形式――世界総体から都市へ――都市研究としての宇都宮市の公共交通政策)に基づいている。この2018年度政治学概論・第12回講義(2018年6月25日)は、市民公開講座として学生だけではなく、都市住民にも公開された。なお、政治学原論の講義原稿は、全30回の通年講義用に作成されている。
(3) この公開講義の概要は、『函館新聞』(2018年6月26日、第14面)、『北海道新聞・夕刊(函館版)』(2018年7月5日、第11面)等においてすでに紹介されている。
(4) 富山市の路面電車ルネサンスに関する報告は、昨年度にすでに公表している。田村伊知朗「富山市、宇都宮市の路面電車ルネサンスと国土交通省都市・地域整備局――路面電車の建設をめぐる中央官庁と地方自治体の関係に関する政治学的考察」(未公表論文)および昨年度の講演「富山市の路面電車ルネサンス――富山市のLRT導入背景」『函館新聞』(2017年6月23日)、第15面参照等。
 
(たむらいちろう 近代思想史専攻)
 
(pubspace-x5252,2018.08.21)