演劇時評(5)――「明滅する呼吸」不定深度3200

ハンダラ

 
 不定深度は理科1類の学生 東野 航平君が作・演出を務める演劇ユニット。暫くの間、テーマは “足元が、不安定” だそうだ。(当パンフレットをもとに作成)
 今回の舞台は本郷キャンパス工学部1号館の校舎2階にある講義室である。普段は授業に用いられる空間だから、演劇用に特化された照明などが在る訳ではない。床は木製パネルが敷き詰められたかなり年期の入ったもので、ショーのフロアで言えば、ダンスパネルが貼られたフロアの印象に近い。劇空間として用いられるのは、講義室の奥の壁に面したスペースであり、このスペースの際から、予め事務用の椅子に高低差をつけて見切れを抑えた椅子が2列に並べられている。入り口で、椅子の高さを調節しないでください、と制作スタッフが声を掛けてくる。入場時点から、いい意味での緊張感がある。事務用の椅子なのでくるりと回転させることも座る高さも調整はできるのである。だが、見切れを抑える為に予め隙間なくキチンと並べられた椅子に高低差があり、その必要があること、矢鱈にくるくる回転させたりすると面倒なことになることは、芝居を良く観る者には一目瞭然、入り口での適確な注意もそれを補完して気持ちが良い。
 作・演出の言葉、“足元が不安定”という言い方も適切である。それは若者が新たに飛び込んだ世界への躊躇や恐れ、不安などを正確に表しているからである。僅かなデータから未知の世界を予測・想像し対処する能力の優れた者は、必要な未知への恐れを持っているが故にこそ、更に冷静に観察する目を養い、試行錯誤しつつ、より確度の高いステップに這い上がることができるのである。
 よく演劇は詩に近いと言われる。文学表現の諸様式にあってそのように言われるのであるが、今作は当にその詩である。それも極めて真摯で鋭利な抒情詩と言って良かろう。その根底にあるのが、明晰な知性による自己分析と、自己分析によって得られた観察データを自らの存在に適用してみせる科学的な知見である。その鋭利なメスが己の存在基盤を生きながら切開して見せる時、そこに現れた世界がここに提示されているのである。そのように提示された世界が詩以外の何であり得ると言うのか? 無論、作家はその狭小性について良く理解している。その証拠にこの空間を閉鎖系と表現しているのである。このように透徹した自己認識を持つことは、知の要請する必然であるが、その必然性をベースにすることで、今作は演劇としてのドラマツルギーが成立する磁場を提供しているのである。かつて総ての学門が哲学の一領域であった時代と同様に。
 ところで今作は、光という現代物理学の尺度を用い、それを光の三原色との類似性として存在個々の三つの様態に、時に分け振り、時にトータライズして、過去・現在・未来という時間の概念をも表象している。我々、知的存在に於いて本質的に問題となるのは、時間、空間、存在の三つであってこれらの相互作用によって総てが成立し、関係し合っているのが我らが生きている時空即ち世界である。更に付け加える必要があるのは場であるが、これは、ここでは問わずに置く。何れにせよ先に挙げたことを問題とする以上、上に挙げた問題が、思考の中核を為すのである。知とは、これら諸関係の現時点での最も合理的、必然的、妥当な解を得ることである。その為には実証が必要だが、実証は理論を実験で補うなり観測で補うことが必要である。でなければ事実としての保証が無い。然るに観測にも経験は必要である。観測機器の精度の問題や機器の用法と観測者の知恵レベルによっても精度は違ってくる。経験を積んでいない観測者が観測する限り、誤差がどの程度になるかを予測し、その中軸を見出すには多くの困難を伴う。従ってその足場は常に不安定ならざるを得ず、その不安定の中で時々、殆ど偶然としか感じられないような比率で成立する、瞬時のバランスのみが安定感へのイマージュを作り出してくれるのであり、現在、作家の居る位置がこの経験不足の観察者の位置だからこそ“足元が不安定”なのである。心理的負担の大きいこと、精神的苦悩の深いことは容易に推察できるが、ジャンルが異なってもこの場所を通らずに観測や表現が真のレベルに達することがないのもまた厳然たる事実である。最初にこの辺りから始めることこそ、観測者或いは表現者たる者の第一の資格であると言って構うまい。
 因みに登場人物はA、B、Cの3名。Bのみが女性である。衣装は3人共に黒。男2人は半袖に矢張り黒のコッパン。女が下半身を覆うのはスカートなので、持っている懐中電灯の光に闇の中で白く浮かび上がる肌がなまめかしい美しさを放つ。また、少女がその上で自由に踊る「橋」が、懐中電灯の光によって創られるなど、幻想的であると同時にリアルな劇空間を現出させる演出は見事である。無論、光による様々な造形はこれに留まらない。3原色を利用し青に赤を重ねて紫、紫に緑を重ねてと多様な演出効果を見せてくれる。当然3原色を合わせれば白を作り出す訳だが、この合成の妙などを工学部らしい演出として随所で見せてくれるのも魅力だ。またBがCと共に光で坂を作り、その坂を上り損ねては落ち、再び登ることにチャレンジし続けるAに、シーシュポスの苦難を戯れに仕掛けるのは、Cには相手にされない淡いBの恋心を転嫁する為である。それも当然だろう。執筆時点で、CもBもAの影なのだから。何れにせよ、♀を意味するBは、ライトを暗闇の直中で己の掌に当てる。光が照らしだすのは血の赤である。だが折角の生命の象徴も、思う対象から相手にされない為に空しく映るだけだ。即ち孤立した自己の自己認識不可能性という認識論の不如意である。この流れは後段にも形を変えて受け継がれてゆく。
 作中、ジェンガという聞きなれない単語が出てくるのだが、これは元々スワヒリ語からきているとの説明がウィキに載っていた。54本の直方体を使って塔を組み立て、そこから塔を崩さぬように片手で1本抜き取り、その抜き取った1本を最上段に積み上げて遊ぶという。そのゲーム名がジェンガである。
 ところで、Aはどんなに努力しても誰かが積み上げたジェンガに届かない。あとワンブロックにどうしても到達できずに崩れてしまうのだ。まるで賽の河原の石積みのようではないか? 因みにAは身体障碍者としてB、Cに認識されていることも重要なメタファーである。
 仕方なく彼は旅に出る。が、認識の魔に囚われた彼の旅は無論彷徨であり、彷徨とは死である。何故なら彼の“体はスライスされて1は0になって崩れ落ちてゆく”のであるから。ここでも注意が必要である。メタファーは二重化されて用いられているからである。即ち、身障者が何の道具も用いずに健常者と同等の身体能力を発揮することは不可能であることのメタファーと、其処で夢想し得る可能性とは二者択一であり、その結果は予め必敗が約束されていることを示している。因みに例示されている旅は、通常の空間移動を伴わない。ゲーム世界への「旅」である。然るにこの「旅」は、荒野を行く旅より安全でもなければ、楽でもない。それは、矢張り生きながらの死。而も未だ充分にそのことの苦しさや生に与える悪影響が他の人々に充分理解されていないレベルの生きながらの死、即ち彷徨なのである。生命は0と1に常に解体され、その電気的記号は更に電源のオンオフによって彷徨する主体とは無関係に、彷徨する主体に関与してくるのだ。それはギリシャ悲劇の主人公たちに対する神の摂理、即ち運命にも匹敵するような事態なのだが、現代に於いてはその英雄的な営為を遂行する主体である彷徨主体は既に神々の血を引く英雄でもなければ、伝説になるようなキャラクターでもない。言ってみれば、良くて位の低い道化、さもなければ泡であるに過ぎない。この認識こそが、若く優れた知性に死を熟考させるのだ。
 では死とは何であるのか? 哲学的な問いになってくるが、0101の二進法で考える限り、それは無、乃至は1である。他者から見れば、時空の関係に主体が関わる中での確率の問題であるに過ぎまい。普通に考えれば0が死、1が生ということになるかもしれない。だが、ここに一つ疑問を差し挟むとどうなるか? 即ち誰が先述の0=死、1=生を保証するのか? である。その保証者つまり観測者を欠いた時、人は死ぬのではないか!? そして、この深刻な問いに対して他者は常にわれ関せずの態度を取っているのである。
 一方、今作を書いた作家は、取り敢えず、生きて在る何者かである。つまり、文章が書かれた時点では、ABCという登場人物は作家がAを演じることになっているので実在する以外、未だ実現されていない存在であった。これはどのような意味を持つか? シナリオレベルでは、BCの存在が「現実には必要とされない」ことを意味する以外の解があろうか? 今作が本質的に詩であるのは作家の分身がBCであるということでも立証されよう。牽強付会と取られるかもしれないが、Cが何も持たず、匿名性に固執するのは、以上のような隠された前提があってのことではなかったか? 更に異性たるBにAが具体的に関わることができないのは、BがAの中に在る幻想か男性性の中に蟠踞する女性性である為だと解することさえ可能である。また、Bが閉鎖系に拘っていることもこの見解を補強するものとなろう。
 何れにせよ、今作の特異な明澄性と、何事も無いかのように存在し続ける凡庸な意識に対しての詩的アウフヘーベンの見事さ、皮膚の裏側を鋭い爪で引き裂かれるような傷みを伴うレゾンデートル追及を自分は頗る美しいと感じる。
 作品にはポケモンの発達段階の話も出てくれば、それが単に情報の束に過ぎないのかもしれない、というレベルの話も出てくる。このようなレベルに「コミット」するしかない現代に、若者の抱える乾いたニヒリズムが成立する状況を見るのは評者だけだろうか? 
 そして、この作品が5月祭イベントとして発表されたことの意味は、社会を構成している社会人なり大人たちへの学生サイドからの疑問提起ではなかったか? 
 だが、現実は、この設計図にも侵入する。実際に「仮り」の「存在」たるBCを舞台上で表現するとなれば、上記の設定では無理即ち矛盾が生じるのである。作家は、実はそこまで計算していた。その上で、仮託された仮象世界に於ける自らのアイデンティティーに具象化に伴う制限を課しているのである。そのことで、Aは、自らを主権者の位置から引きずり下ろす。即ち先ずCの存在は、01で表されるデジタルであったに過ぎなかったのだが、そのレベルに自らを同化させ、存在論レベルで、♂より優位たらざるを得ないBを俎上に載せる。その上で、B自身に自らの存在を疑わせるような科白を吐かせるのだ。その科白が、本質的に自由とリインカーネーション、観測者による認識と、存在しているという実感に痛みを通してしか到達し得ないことが意味深長である。
 だが無論、この程度の展開で終わるほど、この作家は凡庸ではない。科学的真理を求めてたゆまぬ追及が続く。その例をいくつか挙げれば、終盤近く現れる4ケタの数字の意味する所にあると考えたい。
 いくつかテキストの数字とその数字が示す年に起こった科学的事件を上げておこう。
 1877:ボルツマンは熱力学第二法則の証明を、確率の概念を導入することによって成功させた (*データは科学史を参照した)
 1919:アーサー・エディントン太陽による重力レンズ作用を確認。一般相対性理論の正しさを示す等々。他にもこのように西暦とも考えられる四ケタの数字はいくつも列挙されているのであるが、大学で理系に進まなかった自分がざっと調べた中では以上の点がそれらしく思えた以外に例を挙げられなかった点はお許し頂きたい。
 ところで自分が憂慮するのは、このように優れた才能が、自らのアイデンティティーの危機を自らの身体的特性から来る劣等感とか、社会的に受ける出身による差別によってではないレベルから蒙っていることである。この状況は、通常指摘されるような差別が意識化されたレベルに比べ遥かに悪い。というのも多くの人々が、己の差別意識の罪を未だ意識していないレベルに対しての明敏な恐怖感覚のみならず、観察したと感じた結果に、その恐怖の源泉が立脚しているからである。
 換言すれば、最終部分で、閉鎖系の外へ出てゆくB、♀という存在そのものの属性が男の中の女性性排除だとするならば、残ったA及びCという♂達は、存在に対する虚体とでも言ったらよい在り様である。これは、埴谷 雄高の「死霊」に登場するこの言葉の概念にも照応する在るものなのではあるまいか?
 
以下、フライヤーより
作・演出:東野 航平
2017年5月20日・21日(五月祭)東京大学本郷キャンパス
 
出演
B:崎濱 祥子
C:末永 光
A:東野 航平
スタッフ
舞台監督:呉 南崎
音響  :中西 麻梨子
衣装  :酒田 菜々子
宣伝美術:戌山音子
制作  :武井 文香 
Web   :中村 匠
協力  :苅部 祐作 佐藤 舞 松井 健輔
 
 
(ハンダラ[ペンネーム])
 
(著者の求めにより「1887:ハインリヒ・ヘルツ光電効果発見 アルバート・マイケルソンとエドワード・モーリー光速度不変の原理を示す」を「1877:ボルツマンは熱力学第二法則の証明を、確率の概念を導入することによって成功させた (*データは科学史を参照した)」に訂正しました。――編集部。2018.08.21)
 
(pubspace-x5240,2018.08.20)