浜田知明の作品

積山 諭

 浜田知明の作品を知ったのは今から10年くらい前だ。NHKか民放で特集をしていた。実に痛烈な印象を受けた。代表作「初年兵哀歌」だけではなく、全作品を見たい衝動に駆られた。しかし記念館のある熊本はあまりに遠い。ところがことし幸いにも住まいに近い町田市立国際版画美術館で「浜田知明 100年のまなざし 戦争を経て、人間をみつめる」(2018年3月10日~4月8日)が開催され約100点の作品群を視ることができた。
 浜田は先の大戦で一兵士として中国戦線に召集され、戦争の現実を体験した。それを版画作品として世に問うた。それが作家の野間 宏の眼にとまる。以後、新たに発表される作品が注目されるようになった。確かにそれらの作品は苛烈で痛烈。見る者を驚愕させる。戦争の現実を知らない私たち多くの日本人にとって先の大戦がいかなるものであったかの一端を痛烈に告発している。現在の世相を介すれば、その作品は酷烈な批判精神として駆動する。その感想を含めて以下に述べさせて頂く。作品を図示できないのが残念だが、関心のある方は是非作品集をご覧頂きたい。
 浜田の代表作ともいえる、1954年に創作された<初年兵哀歌(歩哨)>は先の大戦を経験された方々や戦争を経験していない私たち後の世代をも震撼させる。映画作品でも、そのような事実の映像をみたことある。たしか、俳優の田中邦衛がそれを演じていた。
 <初年兵哀歌(便所の伝説)>は、首を吊った兵士の姿。<(ぐにゃぐにゃした太陽がのぼる)>、の太陽はまるで宇宙船のようだ。浜田の視角に風景はこのように変形し表現される一つの典型のような作品だ。兵士の孤独と願望は頭が割れ、金具で留められ片目は破壊された無慚な姿として再現される。兵士は宿舎から巨大な手と腕が救いを求め伸び出している。それも虚しく絶望は彼らを支配するのだ。
 展示会の告知にも紹介されている<(風景)>(1952年)、は腹の膨れ上がった、恐らく強姦されたあとに殺された妊婦だろう。浜田は、女の黒い屍を冷徹に表現している。それは主催者に、戦場の日常が象徴された作品として選ばれたのだろう。<(山を行く砲兵隊)>、の中央部分近くの車輪は天皇の軍隊の象徴である菊の紋章のようにも見える。
 1953年の<(陣地)>、は地中に掘られた空間が面白い。私は、ベトナム戦争時のベトコンの地下トンネルを想起する。<絞首台>、は殺された男の素肌の死体である。浜田は次のようにコメントしている。「一億総懺悔などといい加減な言葉さえ生まれました。戦争中の軍部とその同調者の横暴を腹に据えかねていた私は、せめて自分の作品で彼らを絞首台に架けたのです」。そのコメントに一連の作品群の痛烈なテーマの一つが凝縮されているではないか。<刑場(A)、(B)>、は浜田の視線の極北と思える。それはアウシュビッツの惨禍にも回路を開き通底している。
 浜田は帰国後、1948年から9年間、川崎市の登戸に住み、1957年、郷里の熊本に戻った。1960年の<女>は、浜田の芸術的独創がピカソを超えているとさえ思える。<噂>(1961年)もイロニーと諧謔に溢れ、浜田の面目躍如。<狂った男>(1962年)は、現代人の我々の姿を浜田の透徹した視線が暴いた作品だ。
 ヨーロッパ旅行をした時に浜田は一枚も写生せず、ルーブル美術館に通い詰めたという。帰国してからの『わたくしのヨーロッパ印象記』の一連の作品は、その経験が反映している。<ロンドン塔>(1969年)などは、浜田作品に新たな境地が開かれたことがわかる。<ドーバー海峡>(1970年)は、ファンタジーさえ醸しだす、浜田の視角、視線を表出している。<ウィーン>(1970年)も浜田ならではの視線だ。音楽の都の異なる姿が活写されている。<晩年>(1972年)は、時間と空間を視角化し、哲学的でさえある。1973年の<長田 弘詩集飾画Ⅱ>は、これまた哲学的で、詩人の作品に啓発された浜田の詩想の産物の思いがする。
 1970年代に浜田はノイローゼになったらしい。それを逆手にとり浜田は作品にする。<アレレ…>(1974年)は、子供も興味を持つだろう作品だ。私の世代には子供の頃に馴染んだ赤塚不二夫の〝レレレのおじさん〟を連想する。<せかせか>(1975年)は、水木しげるの世界とも通底するようだ。<いらいら(B)>(1975年)も。遡って<飛翔>(1958年)は、既に浜田が未来の人間共の世界を先取りしている感がする作品である。浜田は若いころ、ゴヤの晩年の版画に強い影響を受け版画の道を探った、というのも共感する。私も堀田善衛の『ゴヤ』を読み、その作品群を後に見て驚嘆したからだ。
 『曇後晴』<顔>(1976年)はノイローゼ患者の自覚症状を視角化した面白さ。お先真っ暗な病の深さを現象化しているようだ。同じ<心情不安定>も病による平衡感覚の不安定さを絶妙に表出しているではないか。
 <男と女>(1976)も面白い。<月夜>は男女の愛と欲望を浜田流に時間と空間のなかで表出している。<風化する街(A)、(B)>は、浜田の視た都市の本質と人間たちの姿である。<取引>(1979)は、トランプとプーチンのカリカチュアとしても見られる。<ボス>(1980)は、安倍だろう。
 何と浜田は遠藤周作の『沈黙』を作品にしている。これは浜田の版画による感想として面白い。<カタコンベ>(1982)もシュールレアリストとして浜田を評すなら独特の視角だ。<怯える人々>(1985)然り。<H氏像>(1989)は正にシュールな作品だ。浜田をシュールリアリストとするのは陳腐すぎて正しくないだろうが。
 戦前までは、銅版画といえばエッチングが主だったが、アクアチント、メゾチント、エングレーヴィングなど、関野準一郎が多様な技法に挑んだ。それに浜田も強く影響された。<ニコライ堂>(1950)は、エングレーヴィングによる。<郊外の風景>(1948~1950)は、メゾチント。1951年から1957年まで、〝デモクラート美術家協会〟という団体があり、そこに浜田は参加し作品を出品していたらしい。
 展覧会を訪れた日には映画上映もされていて観た。『戦ふ兵隊』(1939年・亀井文夫監督)は初めて観た。戦時中のフィルムとして貴重な映像だ。その前の週には『真空地帯』(1952年・山本薩夫監督)も上映されたらしい。その解説を角尾宣信(つのおよしのぶ)氏が上映後に語った。氏はその作品を反戦映画と説いた。しかし、どう見ても国策映画である。ところが映像の裏に監督の反戦思想を読み取るのが氏の主張である。『真空地帯』であろう、陰歌(替歌)で兵隊の真情が伝えられると氏は説く。原曲は森繁久弥の録音がある。「お国のためとは言いながら、人の嫌がる兵隊に召されていく哀れさよ、可愛いスーちゃんと泣き別れ」。これは私も聴いたことがある。森繁節が何とも面白い。
 角尾氏は、亀井作品の最初の五分間に作品の構造が示されていると言う。そこには〝見る主体としての中国人〟が撮られているからだ、と。なるほど、確かにそうだ。カメラで撮るのは英語でシュート、銃を撃つのもシュート。監督はそれを逆転している、と。そこで監督はエイゼンシュテインの影響がある、と氏は読み解く。それを利用して監督は加害者の「顔」を隠し検閲を逃れたというのが氏の読みだ。しかし結果として、作品は陸軍により〝反戦映画〟と見做され1939年に上映は禁じられた。氏は1908年生まれの亀井は戦前の〝左翼〟、〝マルクス・ボーイ〟と言い、1917年生まれの浜田は、大正デモクラシーも知らない絵描き。亀井がそうなのは、作品にキリスト教のモチーフがロシア正教のシーンに現れていると解釈する。『真空地帯』を介し、内務班の相同性、とも説明する。亀井作品は1938年、9月から10月の武漢作戦の映像。それはカモフラージュの反戦思想、とも。そして浜田作品の運動性を論じた。被害性と運動性が浜田作品の真骨頂だ、と。亀井の加害性の主張は日本軍の殺しのシーンを描かないことにより隠蔽された事実を逆説として作品に織り込んだ、というのだろう。
 しかし、浜田の戦争版画には他者としての呵責がない、と言うのが角尾氏の「初年兵哀歌」はじめ戦後の戦争版画に見られる浜田作品の批評、批判だが、2008年から浜田作品に他者としての眼差しが表出されてくると説く。浜田作品は決して〝反戦〟ではない、「人間の〝崇高性〟を否定するスタンスが浜田作品」という最後の総括も頷ける。〝風刺の美学〟と氏はその後の浜田作品を評する。不気味で滑稽、それが浜田作品、というのも確かにそうだ。
 日清戦争のころは遺体が従軍画家の作品のなかには描かれるが、日中戦争、太平洋戦争では、それがなくなってくる、という指摘も興味深い。それはまた藤田嗣治の作品も挙げて論じなければならない論点だろう。
 講演のあとで<詩人>(1999)のブロンズ像を熟視した。塔の上で詩人が何かを叫び語っている像である。そこには古代ギリシアの詩人の姿も想起される。ホメロスかヘロドトスかもしれない。

(せきやまさとし)

(編集注。浜田知明の個々の作品名は<>で示しましたが、<( )>となっているのは、連作「初年兵哀歌」の作品です。)

(pubspace-5103,2018.05.27)