立川ワールドをめしあがれ  -森忠明『タチカワ誰故草』を読む-

高橋一行

                            
  
 森忠明にとって、エッセイは作者と等身大の人物を主人公にする童話であり、童話は作者と思しき少年を主人公にするエッセイである。どちらも立川という宇宙の中心地を舞台に、主人公と登場人物とのやり取りが記述される。
 『タチカワ誰故草』に収められたエッセイ「2DKのかくれんぼ」において、主人公は立川のホテルに行き、そこでトイレを借りようとしたところ、髪の毛の中に花潜(ハナムグリ)が飛び込んで来る。その時の感想を次のように書く。「こんな虫でも俺が ”花のある男” だと分かるんだな。立川だけにモグッて三十年も立川と自分のことだけを書いて来た俺はさしずめタチカワムグリか・・・」。
 同じエッセイでは、「子どもの無限の想像力は、2DKやタチカワの狭さから宇宙へ溶融して果てしなく遊ぶのだ・・・」と書く。これが森忠明ワールドだ。
 同書の別のエッセイ「てめぇごしらえ考」では、JR立川駅のトイレを借りた後、駅員に、入場料130円を請求される。それに対して、「勝手に制度規則こしらえて、つまんねえてめぇごしらえするんじゃねえっ」と怒鳴り付ける。この「てめぇごしらえ」という言葉は立川の方言で、「自分ばかりよく見せる」という意味なのだそうである。著者は駅員の態度の裏に、「国家レベルの権力亡者」の「無知で非情なてめぇごしらえ路線がある」と断ずる。
 エッセイ集には自嘲とプライド、含羞と韜晦が入り混じる。「私がこれまで描いて来たのは、自分と身内とタチカワのことばかりで、自己満足作家と貶されても仕方ない」。「肩書は「呼吸者」」。「弟子は美人しかとらない」。「立川二中に入ったころ、おばあちゃんはのたもうた。「お前のような男なら、黙ってたって女はほっとかない。養ってくれるよ」。・・・大石真先生は「奥さんに食べさせてもらえるなんて、文士の理想。森さんは前世で格別良いことをしたんだなぁ」」。以上は「絶頂でやめたがる」から。
 さて森忠明はなぜ童話を書くのか。童話を書くためには、「ホンモノの仙人にならないと、ホンモノの神性や魔性を保真している幼児のお歯に合わず、・・・そもそも文学の最高峰にある幼年童話は、おいそれ者が軽装で登れるジャンルではない」。これは「こんなか細い私だけれど」から。この覚悟がないと童話は書けない。
 実際に、童話『へびいちごをめしあがれ』は、著者が立川市立第二小学校の二年生、施設の女の子を一時期自宅で預かったときの話で、主人公のその子を愛しむ気持ちとその子に対する意地悪な面との両方を巧みに描く。少年の優しさと残酷さが良く出ている。ここ立川には人生のすべてがある。
 『グリーン・アイズ』は、著者が同小学校四年生の一年間を描く。母親が病気になり、主人公はおばの家に預けられる。主人公は学校で嫌なことがあり、学校をさぼって、立川名画座に行く。その映画館の天井に取り付けてあった扇風機が突如落下して、大怪我を負う。エッセイ「シネマシティの純真観客」には、これは「立川の映画館が主人公みたいな童話」という解説があり、「映画館は私の最高学府であった」とある。この童話は、最後に母親の退院があり、続いて面倒を見てくれたおばの死が描かれる。少年の日の屈折は大人になった森忠明と完全に重なる。
 『ホーン岬まで』は13歳の主人公の、仲の良かった友だちとのやり取りを描く。主人公をかわいがってくれた美術教師は、アメリカに絵の修行に出掛けることになる。その教師とのお別れパーティに友だちと招かれ、出掛けて行く。その間の経緯が、その友だちとの思い出となる。女教師が出国した夏、彼は房総の海で溺れてしまう。
 パレスホテル立川の二階にある『ロイヤル・オーク』には、『ホーン岬まで』という名のカクテルがあるそうだ。一杯900円。「2DKのかくれんぼ」にそう書いてある。エッセイの中年男性は、中学時代の思い出に浸りながら、そのカクテルを飲む。彼はいつまで経っても少年のように純真である。一方、童話の中の少年は大人顔負け、相当にませていて、自意識過剰である。屈折して、のちの森忠明そのものだ。
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x4938,2018.03.28)