ウェルベック『服従』を読む  -宗教とナショナリズム(7)-

高橋一行

(6)より続く
 
ウェルベックの『服従』は、フランスでイスラム政党が政権を取るという、近未来小説である(注1)。この小説は、2015年1月7日に発売された。奇しくも、テロのあった日である。この偶然が、この小説を、ひとつの事件にした。この間のことは、浅田彰が、1月17日の日付で、ネット上に書いている(注2)。翻訳は、9月11日に出た。
 
 ときは2022年。
 マリーヌ・ル・ペン率いる極右の国民戦線は、30数パーセントの支持率を持ち、第2位のオランドの社会党は、20数パーセントの支持率である。その中で、イスラム政党が徐々に力を付け始め、ついに20パーセントの閾値を超える。
 さて、2017年の大統領選挙では、極右政権を作ってはいけないということで、第2位の社会党に、他の諸政党が乗って、辛うじて、社会党政権ができたのだが、2022年には、何とイスラム政党が、第2位に躍り出る。すると接戦で負けて、第3位になってしまった社会党は、ル・ペンではなく、このイスラム政党を選ぶのである。
 かつて2002年の大統領選挙で、右派シラクと左派ジョスパンの対決になると思っていたところが、左派が負けて、国民戦線が進出し、左派は、決選投票で、右派と極右のどちらかを選ぶことを余儀なくされ、やむなく、右派政権を支援することになる。そういう歴史を私たちは知っている。フランス大統領選挙は、第1回投票で有効投票総数の過半数の票を獲得できた候補がいない場合、上位2候補による決選投票を行う。通常は、いくつかある政党が、右派と左派と、それぞれ連合して戦うのだが、予期せぬ政党が、上位に残ると、勝負は、第3位以下の候補者の支持者が、どちらを選ぶかで決まって来るのである。そして、第3位以下の候補者の支持者は、政策がまったく支持できない候補者を、消去法で選ばなければならなくなるのである。
また、すでに2015年現在、イスラム教徒は、フランスの人口の8%を超え、彼らの出生率は高いから、それが近い将来、イスラム政党を生むことは十分可能である。さらに、白人の間にも、イスラム教への改宗者が出て来て、イスラム勢力が力を増すことも考えられる。この小説は、これらを背景に、十分あり得る話として展開される。
 
 さて、ウェルベックの露骨な性描写は、他の作品、例えば、彼を一躍有名にした『素粒子』においてもそうなのだが、いささか、読んでいて、辟易する。主人公は、44歳の文学を専攻する大学教授である。
 物語の最初の数十ページは、主人公が、10代の頃から、博士号を取るまでの長い学生時代に、毎年、一年ずつ、付き合う女子学生を変え、さらに、大学教員になったあとでも、次々と女子学生と性的な関係を持つことが、露骨な性描写とともに描かれている。物語は、この性描写と彼が専門とする文学論から成り立ち、如何にも通俗的な小説なら、さもありなんと思わせる展開で、しかし、主人公が、セックスのことしか考えていない間に、フランスでは、着々とイスラム勢力が力を付け、ついには、政権を取るのである。こういうところが、あざといという形容詞が、作者ウェルベックの手法に言えると思う(注3)。
 
 「ぼくの身体は、偏頭痛とか、皮膚病、歯痛、痔など苦痛を与える様々な病気の住みかとなっていて、・・・まだ44歳だというのに、・・・(しかし)ペニスは、僕の意識に苦痛を与えることのなかった唯一の器官だった。地味だが頑丈なこの器官は常に僕に忠実に役立ってくれた — というよりはもしかしたら、ぼくが彼に仕えていたのかもしれない」。このように考える中年男性である。
 
あらすじをもう少し続ける。
イスラム政権は、経済政策に興味はない。関心があるのは、教育である。男女共学を廃し、女性は高等教育を受けずに、結婚し、子どもを産むことが奨励される。これで出生率は上がり、老人は家族が面倒を見るから、福祉の予算は少なくて済み、また、宗教組織が教育を担うから、公立校への支出は著しく減り、大学はサウジアラビアからの援助で成り立つ。先進国が陥っている財政難はこれで一気に解決する。
財政赤字が解決して、これでめでたしという、皮肉で話が済むのか。日本でも、女は家にいて、子どもを生め、また、文科系の大学は要らないということが、政権から聞こえて来る。戦後の教育が、自分のことしか考えないエゴイズムをはびこらせてしまったと、保守主義者は考えている。
問題のひとつは、女性が教育を受けて、社会進出し、男女ともに個人主義が広がるというのは、リベラリズムの成果で、それこそが、資本主義を支えている。確かに、リベラリズムを否定することで、資本主義のマイナス面が解決するのだが、しかしそれは、資本主義そのものを成立させなくしてしまうのではないか。果たして、イスラム政権下のフランスで、資本主義はうまく行くのか。
また、この疑問は、さらに深刻な問題に繋がっている。つまり、では、一体、イスラム国で、資本主義は成立するのかということだ。さらには、女性の人権が制約され、宗教批判の自由がないイスラム圏では、人々は幸せなのかという問題でもある。それは、それらの権利を今まで享受してきたフランス人が、そういう状況で我慢できるのかということである。
 
さて、イスラム化した大学を、彼は追われることになる。それから、すっかり退廃し、無気力になった主人公が描かれるのだが、それは性的な衰えを自覚することでもあり、同時に、ヨーロッパの黄昏をも暗示している。そうして、彼が行ったのは、修道院を訪れることだった。ここで、宗教回帰という、この小説のもうひとつのテーマが確認される。しかし、彼は、無神論からカトリックに回心するのではなかった。結局、パリに戻って、彼は、イスラム教徒になること、つまり、イスラムに服従することを選ぶ。それによって、彼は再び、教授の職を得ることができるし、また、一夫多妻制の下で、若く従順な妻を娶り、衰えた性欲も若さを取り戻すかもしれない。そういうことが暗示される。
 
文庫本の邦訳に、佐藤優が解説を付けている。そこで彼は、あっさりと、イスラム政権の可能性を否定する。
まず、社会党は、決選投票の究極の選択として、極右よりはイスラムを選ぶとなっているが、実際にそういう状況になれば、党としては、自主選択に任せ、多くの支持者は棄権を選択するだろう。それに、第4位の、保守・中道派の国民運動連合は、確実に国民戦線の方を選ぶから、イスラム政権は成立しないだろう。極右政権ができる方が、可能性としては高い。
インテリはそもそも弱い存在で、簡単にイスラムに服従してしまうのだが、そしてそれが、この小説の、モチーフになっていると思われるのだが、大衆はそうではなく、イスラムを選ぶことはあり得ない。またイスラム政権ができたら、直ちに抵抗運動がおこり、内戦が起きるだろう。
ヨーロッパ人のイスラムに対する無理解とそれに起因する恐怖感が、この小説の基調になっている。そしてもうひとつのポイントは、ヨーロッパが壊れかけているということである。つまり、EUが分裂し、そうすると、独仏戦争が起きるという可能性が出て来る。また、キリスト教文明とイスラムのそれとの対立という、進行しつつある危機も解決不可能なまま、重く圧し掛かる。ヨーロッパは自らの力では、この危機を乗り越えられない。もうすでに、解決しようという気力を喪失しているのである。そして、これらの問題を同時に解決するのが、イスラムによるEUの統一だ。これで、平和が維持できる。
人間の自己同一性を保つのに、知識や教養が如何に脆いか。それに対して、イスラムが想定する超越神は強いと佐藤は言う。
 
前章の大澤真幸の「資本主義の<その先>に」もまた、『服従』に触れている。
前回、書いたように、資本主義の外側にいると思われた、イスラム原理主義はやはり、資本主義の内部にいるのである。しかも、イスラム政権は、極右の国民戦線よりも、資本の利害にとっては都合が良い。ナショナリズムよりも、イスラムはヨーロッパの拡大に繋がるから。
本稿前章は、イスラムの遅れが主題だった。イスラムの側のコンプレックスが主題だった。しかし、本当は、欧米の方がコンプレックスを持っているのである。これはジジェクの言っていることとは少し違って、というのも、ジジェクの言う、欧米のコンプレックスとは、イスラムを受け入れられないのに、受け入れなければならないと思っている、リベラルなインテリのコンプレックスだが、ここでは、イスラムは逞しく、何とか、資本主義を取り入れて、やって行くのではないか。欧米よりも、うまく行くのではないか、しかも、圧倒的な人口を背後に抱えて、欧米よりもずっと強くなるのではないかというコンプレックスである。少なくとも、そう、インテリは考えている。それに対して、フランスの大衆は恐らく、もっと逞しく、ナショナリズムに徹する。こちらの方がしかし、資本主義に適合しない。そうなると、今まで本稿で考察して来た理性的ナショナリズムの宗教性と併せて、宗教とナショナリズムの両方の、資本主義との折り合いを考察しなければならない。
しかし、これらは結局、欧米のインテリの悪夢に過ぎず、ヨーロッパは、イスラムに対しては、中途半端な対応をするしかない。つまり、受け入れしつつ、差別し、一方で排他的な運動は盛り上がるということが続き、また、ギリシア問題を抱え、独仏が一層対立する。これはどうなるのか。
 
平田周も書評を書いている(注4)。
このディストピアが、反イスラム、反マイノリティの言説をフランス社会に一層流通させてしまうという批判がすでにある。これは、容易に分かることだが、しかし、本当に、反イスラム、反マイノリティの主張をするために、ウェルベックはこの小説を書いたものか。
平田はしかし、そうではなく、ウェルベックは、それとは別の仕方で、フランス社会の問題を浮かび上がらそうとしているのだと言う。つまり、この小説のテーマは、ヨーロッパのデカダンスと宗教への回帰であり、ヨーロッパに強い愛着や結び付きを持たない主人公の言動を描くことにより、ヨーロッパがイスラムに侵略されるということではなく、ヨーロッパの方が自殺するのだという点が重要なのかもしれない。すでにヨーロッパ社会は解体している。残された道は、イスラムという超越的な審級に服従することだというのが、主人公を通して、作者の言いたかったことなのではないかというのである。
それからもう一点、これも同感なのだが、ウェルベックには、イスラム蔑視ではなく、女性蔑視があるだろうという指摘がある。人間は神に服従し、女は男に服従するという記述は、イスラムを蔑視しているというよりは、作者の女性蔑視をイスラムに投影しているのである。
ウェルベックの他の作品を読むと、彼には、元々、女性蔑視とイスラム蔑視はあるように思える。女性蔑視の方は、ここでは、多く書かない。その露骨な性描写は、私の感性には大いに違和感を抱かせるということだけ言って置く。問題は、イスラム蔑視の方である。蔑視というより、無理解と言うべきではないか。このことは、注3でも取り挙げたが、ウェルベックは、イスラムを出しに使っただけの話なのである。とすれば、これは、平田の言う通りではないか。ウェルベックは単に、ヨーロッパの衰退と、主人公の性欲の衰退を重ねているのである。
 
ほかにも夥しい書評があるのだが、先に引用した浅田彰が、最も早く、かつ最も注目に値するコメントを言っている。
浅田彰は、ライシテを正確に擁護した上で、しかし、その欠点を論じている。このあたりは手堅い。そして明らかに、フランスは右傾化していると断ずる。
では、ウェルベックの小説をどう見ているのか。そのニヒリズムには関心があるが、あざとい手法で、多文化主義を露悪的にひっくり返し、センセーションを引き起こすことには批判的だと言う。
しかし、今回の小説は、センセーションを狙ったものではなく、宗教回帰、ヨーロッパの凋落、ニヒリズムが主題で、とりわけこれは、ニーチェの「最後の人間」の物語だと言っている。しかし結局は、ヨーロッパ人は、「最後の人間」になれず、イスラム原理主義に流れ込む。
 
これらの書評に、すでに論点は尽きていると思われるが、私のまとめを書いておく。まず、如何にもありそうな小説だと、私は書いたが、しかし、イスラム教はライシテを是とするフランスナショナリズムと対極にある。どう考えても、フランスの大衆に受け入れられるはずがない。
しかし、小説は、主人公の心象風景を通じて語られていて、つまりフランスのインテリなら、そう考えるかもしれないと思う。EU内部の問題は日ごとに激しさを増す。一方、イスラム系の難民は日々、ヨーロッパに押し寄せ、テロは多発する。そういった、外部から来る危機にも、EUは瀕している。それが、イスラム政権をフランスが受け入れれば、やがてそれはドイツにも波及し、イスラムを通じて、EUはその対立を克服できるかもしれない。それはまた、外部としてのイスラムとの対立という危機をも解決する。一石二鳥である。こういうことは、インテリが考えることである。
加えて、インテリのイスラム恐怖症は深く根付いていて、そこにインテリの弱さというべき、危機への対応能力のなさが、そしてそのことをインテリ自身自覚していることが、問題を悪化させる。かくして、インテリの心象風景としては、こういうことはあり得るのである。先に、ウェルベックの手法の「あざとさ」と書いたが、これはそういうことだ。作者は十分自覚している。
ところで、前章で扱った、林と大澤に従えば、イスラムと資本主義は相容れない。それは私もそう思う。とすると、今後どうなるのか。ひとつは、イスラム教は案外柔軟で、資本主義に適合するよう、変貌するかもしれない。世俗化したが、禁欲精神を持ち続け、それが資本主義を促進したという、ウェーバーの描いたキリスト教のダイナミズムとは異なった展開があるかもしれない。資本主義が相当に強靭で、イスラムにその教義の変更を促すことがあり得るかということだ。ふたつ目の可能性は、資本主義の方が、相当にしなやかで、イスラムを組み込むよう、変化するということもあり得る。イスラムの台頭によって、近代資本主義は終わり、新しいタイプの資本主義が生まれるということだ。三番目の可能性は、社会が、もはや資本主義ではなくなるというものだ。イスラムと資本主義が相容れず、イスラム教も資本主義も自らを変えることがないのなら、そしてイスラムの影響力が大きくなるのならば、世界は資本主義でなくなる。
以上のどれが、最も可能性が高いのか。しかし残念ながら、私の思い描く未来像は、そのどれでもない。
イスラム教の人口は、間もなく、キリスト教を抜く。これは確実だ。『服従』の描く未来像は極端だが、しかし、世界の中で、イスラム教の影響力は確実に強まり、多くの欧米諸国で、イスラム教徒が激増することは間違いない。小説は、ひとつの分かり易い像を提供している。そして、この小説は、単に、イスラム政権ができ、短期的には、うまく行き、主人公も改宗するというところまでしか描いていないが、長期的に世界がどうなるのか。それは読者が、そこから考えるべきことなのである。
確かに、フランスのナショナリズム、とりわけ大衆の持っているそれを考えれば、絶対にあり得ない筋書きである。あり得ないことを夢想してしまうインテリの弱さから、逆に、強い大衆のナショナリズムが浮かび上がる。この逆説が、この小説の面白さかもしれない。
また、この小説は、悪夢とか、ディストピアと言われる。そういうものに過ぎないのかもしれない。しかし、本当にそうなのか。世界規模で言えば、イスラム教は間もなく、圧倒的な力を持つ。しかし、イスラム諸国で、現在そうであるように、石油しか頼るものがなく、新たな産業が起きなければ、世界経済の中で、彼らは次第に衰退するしかない。また、彼らの多くは移民になるしかなく、欧米諸国でのイスラム系移民、または移民の子孫の割合は、急激に上がる。そして欧米諸国においても、彼らは、底辺に位置付けられる。これで世界が安定する訳がない。小説で描かれた形でとは異なるが、イスラムは大きな影響を与える。それがどのようなものになるのか。
とすれば、私の予想する世界は、明るいものではあり得ない。極度に不安定な社会が来ることになる。そして私たちは、そこからさらに先のことを考えねばならないのである。
前章で議論したように、大澤真幸によれば、これは、資本主義の内部の問題だ。また、ジジェクによれば、その資本主義内部の問題は、宗教ではなく無神教が、またリベラリズムではなく左派が、闘わねばならない問題なのである。それは、西欧においても、イスラム諸国においても、どちらでも、同じである。
私は、本稿で、今まで、宗教とナショナリズムというテーマを考えて来たが、結局はそれらは、資本主義の問題に回収されて行く。そして、そこでは、資本主義の矛盾にどう対処するかという、古典的な左派のテーマが残されているのである。
 しかし、左派は機能し得るのか。どうにもならないのではないか。結局、ウェルベックが示唆し、また多くの読者が感じ取っているのは、イスラム教とキリスト教の対立というようなことではなく、西欧の資本主義が、その内部の弊害のために、自滅して行くという話なのである。
 

1 ウェルベック、M., 『服従』大塚桃訳、河出書房新社、2015。また彼の小説は、いくつも翻訳が出ている。本稿で関わるもので言えば、次の2冊がある。『素粒子』野崎歓訳、筑摩書房、2006。『プラットフォーム』中村桂子訳、河出書房、2015。
2 浅田彰「フランスのテロとウェルベックの『服従』」realkyoto所収、2015
       http://realkyoto.jp/review/soumission_michel-houellebecq/
3 彼を有名にした、『素粒子』には、露骨な性描写が満ち溢れている。また、その次に書いた『プラットフォーム』は、タイに売春リゾートを作る話だが、これもまた、挑発的なウィルベックの露悪趣味が良く出ているものだ。この話は、さらに、このリゾートがイスラム過激派に襲撃されるという落ちが付いている。
4 平田周「未来からの回想が照らし出す現在 -ミシェル・ウェルベック『服従』についての所感-」『現代思想』Vol.43-5, 2015
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
続く
(pubspace-x2889,2016.01.07)