「所有しないということ」アガンベンを読む (2) -『他者の所有』補遺 (2) –

高橋一行

(1)より続く
 
まず、もう一度、例外状態を列挙することから始めたい。不安定なワイマール期を念頭にして、また、すぐその後に訪れるナチス時代を予期した、シュミットの概念装置を使い、アガンベンは、それを、古代ローマのホモ・サケルに適用し、さらには、内戦や蜂起やレジスタンス、アウシュヴィッツの強制収容所や現代の難民にまで、それを広げる。さらに、その、法を超えた状態を、現代においては、常態だと考えたのである。その際に、主権の概念を展開するのか、それとも、生権力の分析に力点があるのかということの間で、振幅がある。それがアガンベン理論のまとめであった。
そこに、「所有しないで使用する」という、『いと高き貧しさ』の問題意識が提示される。13世紀の修道院における、徹底した所有の拒絶は、これもまた例外状態である。しかし、それは、それまでのものとは異なるのではないか。
つまり、シュミット的でもなく、フーコー的でもなく、「生の形式」が具体的に描かれていて、それこそアガンベンらしさが出ているように思われる。そう考えることができないか。そこまでが「アガンベン論(1)」で述べて来たことである。
さて、問題は、この最後のものだけが、肯定的に捉えられているということだ。私は、それをどう考えるかという問題提起をしておいたのである。
言い換えてみる。『ホモ・サケル』、及び『アウシュヴィッツ』の例外状態は、シュミット的であったり、フーコー的であったりしたが、『いと高き貧しさ』の例外状態は、それとどこが異なるのか。それは、「生の形式」の具体化であるということだが、それが肯定的な意味合いをもたらされているから、評価すべきなのか。
ここで、ジジェクを参照する。彼に拠れば、アガンベンの論じる、ホモ・サケルや強制収容所などの例外状態における人々は、完全に人間性を剥奪されているのだが、しかし、「人道的な生政治の特権的対象」となっていると、フーコーを念頭にして、皮肉を言う(注1)。それは、「権力構造の実効的解体を決して伴うことのない、不安定化・解体を担う、終わりなき過程」にしてしまっている。言い換えれば、「ラディカルな政治の最終目的は、マージナルな空間を創造することで、社会的に排除された人々に、公的な権限を与えることで、その限界と置き換える」ことなである(注2)。
しかし重要なのは、こうした「排除された」人々とは、実は私たちすべてのことなのであるとジジェクは言う。それはそこに規律権力や生権力が潜んでいるというような代物ではなく、まさに私たちすべてが置かれている状態であり、私たちそのものである。
さらにジジェクを使って行く。『終焉の時代に生きる』が参考になる。そこでは、「生の形式」ではなく、「死の形式」が論じられている。つまり、例外状態において、そこでは、解釈のできない、突然の暴力に襲われた、アイデンティティの死を超えて生きる屍となった主体のあり方が問われている(注3)。超法規的な状態ということは、法を超えた暴力が、人を支配している状態のことである。そこでは、通常の意味での人格は破壊されている。そして新しい「生の形式」が誕生するのであるが、しかし、それは、「死の形式」と言うべきなのではないか(注4)。
これが、アガンベンの「生の形式」である。つまり、ジジェクはそれを、「死の形式」だと言う。それに私は同意する。するとここで、アガンベンをジジェクに引き付けて解釈することができる。
私の言葉で言えば、所有しないということは、喪失を生きるということであり、それは「生ける屍」である。それは、死につつ、生きている。アガンベンの意図を超えて、これはこういう意味を持っている(注5)。
アガンベンは、『ホモ・サケル』において、ゾーエーとビオスという言葉を使い、生にこだわっている。しかし、これは死の問題なのである。だから、アガンベンの意図とは異なって、所有しないで使用するということを考えたい。
つまり、アガンベンは、私が「アガンベン論(1)」で書いたように、『ホモ・サケル』ですでに、「生の形式」を意識していた。しかし、それが具体的になっていない。『いと高き貧しさ』でそれが具体的に描かれる。そうすると、それが実は、「死の形式」だということが分かるのである。「生の形式」を具体的に描くことで、実際には、「死の形式」を描くことができ、それを私は、肯定的と表現した。つまり、それこそが、「生の形式」なのである。そこのところで、シュミット的、フーコー的であったアガンベンに、アガンベンらしさが見えて来る。さらにここで、ジジェクを経由することで、一層、そうなるのではないか。
問題は、ジジェクのフーコー批判になって来る。すると結論は、フーコーの言う意味においてではなく、アガンベンの主張を、ジジェクを使って救い出すことにある。13世紀の修道院の規則に、その後の西洋哲学史では消えてしまった主張が見られたのである。所有しなくても、実は、使用できるのではないか。それは、今や、喪失の時代を迎えて、あらためて考えるべきものなのではないか。
以下、ジジェクの、積極的な、「死の形式」について、もう少し例を挙げて、考えて行きたい。彼が、しばしば挙げる4つの喪失体験を書く(注6)。
ジジェクは、何度も、次のような喪失体験について、ジジェクの言葉を使えば、「敵対性」について、言及する。それは次のようなものだ。
1) 例えば、環境破壊による、自然からの恩恵や繋がりの喪失
2) 知的所有権の過剰な保護のための、自由な知的財産へのアクセスの困難など
3) とりわけ遺伝子工学による、人間性の変化が現実味を帯びていること
4) 様々な形態の社会的排除
とりわけ、この4番目のものが一番重要である。社会的に排除され、社会との繋がりを喪失した人々の持つ普遍性をどう捉えるか。
ジジェクは、この4つの喪失体験を、次のように言いかえる。つまり、1)は、外的自然のコモンズ、2)は、文化のコモンズ、3)は、内的自然のコモンズと言い換えられる。これらは共通して、まず、そもそもコモンズなのに、私的に横領されており、そのために、それは、人の財産を奪い、プロレタリアート化させる。そういうものとして、捉えられている。そしてこのどれもと異なるのが、4)であり、つまりそれは、コモンズの横領の問題ではなく、しかしそれこそが、重要であり、かつ、ジジェクは、これを正義の問題と呼んでいる。
『終焉の時代を生きる』に拠れば、1)は、マルクスのプロレタリアートの概念に対応すると言う。つまり、労働対象は、自然であり、人は、その生産物から疎外されるからだ。それからまた、テロや自然災害の被害を受けた人々も、そこに含まれる。そして、2)は、私たちが生きている、仮想的現実に対応し、そこでは、文化=第二の自然の中で、言語やメディアによって、自然との直接的な対応を喪失している。また、3)は、脳の損傷などによって蒙った心的外傷後の主体の問題である(注7)。
いずれも、喪失体験であるとまとめて良い。ジジェクの論は、マルクスを受け、しかし、マルクスの時代よりもはるかに深刻なものとなっている喪失体験を扱っている。
しかし、ここで注意しておく必要があるが、これは、最も貧しいものが、最も貧しいからという、それだけのことを根拠にして、革命の担い手になれるということを意味していない。こういう、しばしば、ヘーゲルの主と奴の論理を、通俗的かつあまりに俗悪的に戯画化して、逆転の論理を抽出し、恵まれない境遇の人が、恵まれないがゆえに、新たな支配勢力になれるという論があるが、それとは異なる。
要するに、主体化の問題である。死の形式を経て、喪失の体験を経て、人は主体化する。そしてそのようにして生成した主体が、そのままの、そのあり方が肯定されて、変革の主体となる。
それは、疎外された、または所有を喪失した労働者を教育して、資本主義社会に適合させようというのではない。そうではなく、逆に、社会の方を、このように喪失した人々に合わせなければならない。

さて、そこまで論じて来て、しかし、本題はこれからだ。なぜ、現代は、喪失の時代なのか。なぜ、人々は所有で満足しないのか。以下が本題だ。ジジェクとは別の道を辿って、論じて行きたい。それはやはり、所有の問題で、まさに、アガンベンが、「所有しないで使用する」と言ったことなのである。
以下は従って、私の喪失論である。
まず、私たちは、情報化社会に住んでいる。そこでは、人々が情報を所有するようになり、モノの所有への比重が薄まる。これは、情報化社会の宿命だ。なぜならば、情報化社会とは、モノがあふれ、つまり、人々が実際に欲しているよりも、多くのモノであふれていて(これが消費化社会)、しかし、それを無理やり売り付けるために、情報を流して、人々に買わせる社会のことである。だから、モノの価値が減り、それに無理矢理、情報の付加価値を付けて売り付ける社会だから、人によって、その付加価値の重みの受け止め方が異なり、昔であれば、カラーテレビを持っているというだけで、近所の人から尊敬されたけれども、今は、そういうことがなく、その価値を共有する少数の人の間でしか、その所有物のお蔭で尊敬されるということがなくなる。例えば、今、若い人の間で、車は必ずしも、評価が高い訳ではなく、金を稼いで、車を買いたいと思う若者は激減している。以上が、情報化社会の特徴である。
このあたりの話をするのに、具体例はいくらでもあり、私が子どもの頃の憧れとして、炊飯器、洗濯機、冷蔵庫とあり、自動車とテレビがそれに続く。モノが人を幸せにした時代の話である。しかし今や、私たちは、それらをすでに持っていて、しかしそれはありがたいものではなく、それを所有することで満足する、そういう時代に住んでいない。
端的に言って、それは所有の価値がなくなる、または、所有の意義がなくなる社会のことである。
次に、情報化社会では、雇用が減るから、非正規雇用が増え、失業者も増える。これは、必ずしも、政府が、新自由主義的な政策をしているからということばかりが理由ではない。情報化社会の必然性と捉えるべきだ。これはこういうことである。国民の80%以上の人が第一次産業に従事している社会で、失業は極めて少ない。農家では、早朝から夜中まで、休むことなく、仕事があった。また、中卒者を、大量に工場が採用していた時代でも、誰もが仕事が保証されていた。彼らは「金の卵」と呼ばれていたのである。しかし、そういう時代を経て、国民の80%が、第三次産業に従事するようになると、雇用はなくなる。専門的な知識のある人、営業のできる人を除いて、仕事はない。第一次産業と第二次産業の従事者は、ごく少数で良く、あとは海外で賄うことができる。すると、第三次産業が中心となって社会で、うまく生き残れる少数者だけが仕事にあり付ける。また、ワークシェアが叫ばれているが、しかし、仕事のできる人と仕事のできない人との間で、ワークシェアをするのは、困難である。そうすると、どうしても、仕事にあり付けず、必要なものが買えないという人が増える。文字通り、所有を喪失している人々がたくさんいる。
バトラーやアリエスが書いているように、そういう時代の傾向を、9.11と3.11が拍車を掛けた。
鬱については、すぐに書くことができる。内海健を参照して、私は、これは所有の喪失に起因する障害であるとした(注8)。内海の提示する例では、実際に、所有物を喪失したと感じて、悩む例がたくさんある。財産をすべてなくしたと思ったり、また、普通に収入も貯金もあるのに、将来の不安を強く感じたりするという例がある。
また、人間関係を失うことがある。死別、離別もあり、また、人から悪口を言われるというくらいのことで、しかし、それが、その人にとっては深刻だという場合もある。そしてそういう体験を、鬱親和的だというタイプの人がすると、容易に鬱になる。そういう人は、普段は、人間関係がうまく、社交的だと思われているが、無意識の内に、つまり本人の意識に反して、人間関係を所有物化しており、それが、一部でも失われると、鬱を発症する。つまり、それは喪失の病として、生じるのである。
雇用が安定せず、所有が保証されていないから、人間関係も不安定になる。一方で、所有に価値が認められず、所有しているだけでは、満足ができない社会において、人間関係が極めて重要なものになるのに、その人間関係は、モノとの所有関係よりもはるかに不安定なのである。加えて、人間関係の不安定が、所有の喪失だと感じられて、容易に障害をもたらすタイプの人たちがいる。これは時代の病である。
仕事がなく、所有物がなく、人間関係もないという人がいる。結構多いと言うべきだ。そういう社会において、しかし、実際には、仕事もあり、所有物もあり、人間関係もあるのに、それが意味を持たないと感じている人は、それ以上に多い。そして、そういう状況を背景にして、一切を喪失してしまったと悩む人たちが出て来る。そしてこれは、ごく一部の人の病理だと思われているが、しかし、この20年くらいの内に、急激に増え、今や、ごく一部の人のものだとは言えず、誰もがそうなる可能性のある病として、鬱がある。
すでに、例外状態は、常態となって久しいが、さらに、実際に所有していない人たち、また所有していないと感じる人たちで、今の社会は満ち溢れていて、それこそが、例外状態である。私たちの誰もがそういう状態にいると考えるべきである。
その喪失の状態を、ジジェクに倣って、まずは、「死の形式」と呼び、次いで、しかし、それこそが、私たちの「生の形式」なのだと考えたときに、アガンベンを活かすことができると思う。
そして私は、これらの人々、つまり、私たちそのものなのだが、彼らを、つまり私たちを、このまま肯定したいと思う。変えねばならないのは、社会の方である。私たちが、如何に、悲惨な状況にいるのか、また、如何に、権力に蝕まれて生かされているのかということを指摘するのではなく、これを現代の主体として確認し、変革の主体としたい。


1 Welcome to the Desert of the Real: Five Essays on September 11 and Related Dates (Verso, 2002),p.115 = 『「テロルと戦争」』(長原豊訳、青土社、2003), p.129
2 同、p.127 = p.140
3 Living in the End Times (Verso, 2010), p.291ff. = 『終焉の時代に生きる』(山本耕一訳、国文社、2012), p.403ff. また、これはマラブーの論じるものでもある。このことは、『他者の所有』で論じたが、さらに、「『他者の所有』補遺」の後の回で書くことになる。
4 同、p.296 = p.409
5 別の観点で言えば、つまりジジェクやアガンベン自身の説明とは異なるが、以下のように言うこともできる。中世の修道院は、イエスの後を追い、清き貧しさを求めるだけでなく、古代の殉教を尊び、しかし、中世になると、殉教はあり得ず、それが現実的に不可能なものになったら、その精神だけを真似て、疑似的な殉教をするところとなったのである。その意味で、彼らは、生きる屍なのである。その禁欲の精神が、後にルターとカルヴァンを経て、日常化され、ウェーバーの論じるものとなっている(『プロテスタンティズムの精神と資本主義の倫理』)。だから、彼らは、修道院で、すでに死んでいるのである。生きる屍である。その彼らの生き方が、「生の形式」である。
6 First as Tragedy, Then as Farce (Verso, 2009), p.91 = 『ポストモダンの共産主義』(栗原百代訳、筑摩書房2010), p.154, 他。
7 このことは、先の、注3と同じ個所で論じられている。しかし、ここでは、文化的、社会的コモンズの横領の問題と、社会的排除の問題を、同じものとして論じている。
8 拙著『他者の所有』第8章、内海健『うつ病の心理 -失われた悲しみの場に-』(誠信書房、2008)

(3)へ続く

(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x2048,2015.06.20)