「所有しないで使用する」アガンベンを読む (1) -『他者の所有』補遺 (1) –

高橋一行

G. アガンベン (1942 – ) は、ネグリと並んで人気のあるイタリアの哲学者である。著作は、20冊近くが翻訳されているが、私がここで扱うのは、以下の4部作を構成する5冊の翻訳である。この4部作は未完で、また、原文は出版されているが、翻訳がまだなされていないものもある(注1)。
I 『ホモ・サケル -主権権力と剥き出しの生-』(原文1995=翻訳2003)
II-1 『例外状態』(2003=2007)
II-2 『王国と栄光 -オイコノミアと統治の神学的系譜学のために-』(2009=2010)
III 『アウシュヴィッツの残りのもの -アルシーブと証人-』(1998=2001)
IV 『いと高き貧しさ -修道院規則と生の形式-』(2011=2014)

この最後の作品が、昨年末(2014.10.24)に翻訳され、私は、興味を覚えた。そこでは、所有が、正確に言えば、所有しないということが論じられていたからである。また、そこにおいて、私は初めて、アガンベンを面白いと思った。そのことを以下に書きたいと思う。そのためにはまず、この4部作全体について、触れておく必要がある。

『ホモ・サケル -主権権力と剥き出しの生-』を読むことから始めたい。ここでは、まず、シュミットが使われている。シュミットの『政治神学』(1922=1971)の冒頭には、次の有名な文言がある(注2)。「主権者とは、例外状態に関して、決定する者である」(” Souverän ist, wer über den Ausnahmezustand entscheidet ”)。ドイツ語原文を挙げて置いたのは、überの訳が、上述のものは、未来社で出ている訳なのだが、仲正昌樹は、「例外状況を超えた次元にまで及ぶ」という意味合いが込められていると言っていて、私もそう考えるべきだと思ったからである(注3)。
ここで、例外状態とは、非常事態のことで、危機に対処するために、一時的に法の効力を停止して、治安維持を図る、戒厳令の出される状態のことである。シュミットが生きたワイマール時代は、頻繁に政権交代があり、極左、極右が台頭し、不安定で、ずっと、例外状況であった。また、ナチスの時代をも予見しており、後に、それが例外状態の典型と考えられ、そのためにしばしばナチスを正当化したと誤解される。
また、主権とは、憲法秩序を制定する、憲法制定権力の次元の力を持つもので、法を超えた権力という意味合いで使われている。
そして、この主権者の本質が、例外状態で明らかになるのである。主権者は、法よりも大事なものを守るために、例外状態であることを判断し、決定する。
もうひとり、アガンベンに影響を与えているのは、フーコーである。
自然的な生が、国家権力の機構によって、包含され、政治が生政治に変容する。これは、『知への意思』(注4)の主題である。この概念を、ここでは、より具体的に解明しようとしている。つまり、権力が、人々の身体自身と、様々な生の形式に浸透して行く具体的な様態を分析するのである。
そしてそこでアガンベンが提出するのが、「ホモ・サケル」という概念である。サケル(sacer=sacred)とは、「神聖にして侵しがたい、宗教的な」という意味と、「汚れていて、共同体から排除された」という意味と、ふたつある。古代ローマにおいて、法の適用から外れた、聖なる人間が存在していた。つまり、その生が、法的支配の外にある存在であり、例外的存在である。
アガンベンの主張は、主権者は、ホモ・サケルに対する法外な支配を行使することができる。そのことが、法を規定する。例外が、通常の状態を規定する。それがアガンベンの主張である。
本書は、三部から成り、第一部がシュミット論、第二部がホモ・サケル論、序と第三部とでフーコー論を展開する。つまりここでアガンベンは、意識的に、フーコーの問題意識に、シュミットを接続している。
もう少し厳密にこのあたりを読解しておく。
本書でアガンベンは、意識的に、主権と統治を、同じ意味で使おうとしている。あるいは、その意味を近付けようとしている。しかし一般的には、主権とは、法を制定する権力のことである。それに対して、統治とは、フーコーの用法では、日常的な場面で、権力を行使することである。渋谷望の整理を使えば、主権権力と統治権力は、マクロ―ミクロな領域で、それぞれの役割を分担している。それが、アガンベンの理論では、例外状態において、両者が交差する。シュミット理論を使いつつ、例外状態において、主権者は、法を超えて、人々を支配する。そこにおいては、その主権は、フーコーの概念である生権力として、人々に秩序化を迫る。生権力は、統治に繋がる概念だから、例外状態において、主権は、統治性として捉えられている(注5)。
このように考えると、アガンベンは、際立って、ユニークな視点を出しているということができる。それは私もそう思う。しかし、基本的に、「シュミット+フーコー」の域を出ていない。そして今や、シュミットは、政治思想を専攻する若手の学者の間では、最も人気のある思想家であるし、この手の研究をする人は、100%フーコーの影響を受けていると言って良い。だから、「シュミット+フーコー」の研究ならば、いくらでもほかにあるし、それだけだと、特に私の問題意識に入っては来ない(注6)。
例外状態を考えることで、法の外にある主権が、人々を支配する、その仕方を以って、法が機能するということに力点を置けば、シュミットの観点に引き寄せたアガンベンができ上がるし、例外状態で、政治が生権力になってしまう仕組みを論じれば、フーコーに大分近付いたアガンベンの主張が出て来ることになる。

しかし、『いと高き貧しさ -修道院規則と生の形式-』が出て、やっと、アガンベンの独自性が見られ、そして私は、それを論じてみたいと思うようになったのである。

さて、しかしその前に、『ホモ・サケル』以後の作品を読んで行く。
まず、『王国と栄光 -オイコノミアと統治の神学的系譜学のために-』を見る。
ここでは、アガンベンは、本書の問題意識は、フーコーの統治性の系譜に関する研究の延長上にあると、自ら位置付けている。それはフーコーの射程をはるかに超えて、キリスト教神学が始まった最初の数世紀に向かい、そこでは、権力の起源が、オイコノミア(エコノミー)、つまり、神学的実践論に求められる。そしてそのことは、王国と統治、オイコノミアと神の栄光という二重構造を分析することで、明らかにされる。
先に言ったように、主権と例外状態というシュミットの概念装置を導入することで、例外状態における主権の統治性を問い、フーコーの問題意識を、より古い時代にまで遡って、検討している。とりあえず、そうまとめて置く。
それに対して、以下の二冊は、少しだけ力点が違って来る。
『例外状態』の方から見て行く。
ここでは、例外状態は、「内戦や蜂起やレジスタンス活動」(p.8)のことで、「法の地平では把握されることのできない法的手続き」である。それはナチス以降、「恒久的な緊急状態の自発的な創出」として、「現代社会の支配的なパラダイムとして立ち現われている」(p.10)という、著者の認識が示される。
さらにそれは、2001年以降の、アメリカでテロ活動の疑いを持たれた非米国人の無制限の拘留にも表れている。この分析が、この本の主題となる。そしてそれは、以下に取り挙げる、J. バトラーにおいても分析されている。
4部作の、もうひとつの『アウシュヴィッツの残りのもの -アルシーブと証人-』を見る。
アウシュヴィッツこそ、例外状態である。「収容所は、典型的な極限状況として、何が人間的で、何が人間的でないかを決定することを可能にする」(p.61)。「アウシュヴィッツとはまさしく、例外状態が正規のものと一致していて、極限状態が日常的なもののパラダイムそのものとなっている場所のことである」(p.63)。
ここで、ベンヤミンの主張を思い出すべきであろう。つまり、ナチスを念頭に置きつつ、現代においては、例外状態が、常態になってしまったと、彼は言っている(注7)。内戦や蜂起やレジスタンス、強制収容所、難民と言ったことが、現代は、日常的になっている。
このことは、以下で再び述べて行くことになる。とりあえず、ここでは、しかし、以下のことだけ言って置く。つまり、これらの本は、先の『ホモ・サケル』の問題意識を、より具体化していると言うことはできる。しかしやはり、シュミットの概念装置に、フーコーの問題意識を扱うという点で、『ホモ・サケル』の枠内を、大きくは出ていないと思う。

さて、いよいよ、『いと高き貧しさ -修道院規則と生の形式-』を読む。
4世紀から始まる修道院が舞台である。ここでは、すべての所有物を放棄することが奨励されている。「いと高き貧しさ」=無所有=清貧が奨励されている。イエスは、人々が豊かになるために、貧しさを選んだのである。修道者は、イエスの足跡を辿るべきである。
しかし、生きて行く上で、修道者といえども、最低限の食べ物と衣服などは、使用しなければならない。すると、何も所有をしてはいけないということと、最低限のものは、所有しなければ使用できないという矛盾をどう考えるか。
13世紀のフランシスコ会士は、「事実上の使用」は可能、つまり、人は何も所有しなくても、食物と衣服などは、使用することが可能だと考える。この主張を詳細に検討することが、この本の課題である。
そして、このフランシスコ会士の考えに反対するのが、ヨハネス22世で、彼は、所有しないで使用することはあり得ない。修道院では、生きるための最小限のものを、共同所有すべきであると考える。このふたつの考えが対比される。
さて、修道院に入るにあたって、人は、修道院の規則を守ることを誓う。その規則は、法律と違って、主体が生きるための形式そのものである。規則を守ることが重要なのではなく、規則に従って、生きることが重要である。修道院では、無所有が、規則であり、かつ、生きるために準拠すべきモデルである。
しかも、そこでは、理想に向かって、ともに生きることが問われている。つまり、これは生の共同体という、政治的な問題である。
それは例外状態である。まずは、シュミットに倣って、主権者とは、例外状態で、剥き出しの生に対して決定できる者のことだと言ってみる。そこでは、法を超えている、と言うより、人の生を、法に結び付けて置いて、そこから見捨てるというような関係がある。つまり、法=権利の外にあって、人間としての生活と実践=「生の形式」を実現しようとする試みが修道院にある。
ここで、「生の形式」という考え方がポイントである。人間や動物が、生きているという事実を指すzōēという言葉を使わず、固有の「生の形式」に従って生きるという意味のbiosという言葉を、『ホモ・サケル』でアガンベンは使っていた。ここではさらに、生き生きとした例外状態が描かれている。
存在するために、法権利を放棄し、一切を所有することなく、しかし最低限のものは使用することを求め、「生の形式」を主張する。それはそもそも可能なのか。
実はフランシスコ会の理論では、「生の形式」を求めるところまで、至らなかった。しかし、所有しないで使用するという理論を作ることで、法権利を放棄した生を主張し、事実上、「生の形式」を主張し得ている。そしてそれは、西洋哲学では、決して答えられなかった、使用の意味と、「生の形式」の繋がりを、結び付けたのである。

さて、ここから、私の問題意識に引き付けて、以上のことを解釈してみる。
ヘーゲルの論理では、使用することが、所有の二番目の形態である。つまり、労働と承認という所有の獲得が最初にあり、次いで、所有の否定としての使用があり、第三に、所有の否定の徹底としての所有物の交換・譲渡・売買がある。ヘーゲルは、所有するということは、使用することであると言う。所有すれば、使用できると考えても、また、使用するためには、まず所有しなければならないと考えても良い。
さらには、所有したら、使用しなければならないと考えても良い。ロックが言うように、所有物を無駄にしてはならない。この間のことは、拙著で展開してきたことである。
ヘーゲルはまさしく、法=権利の哲学の最初に所有論を据えたのである。所有の基礎付けの上で、『法哲学』の体系ができ上がっている。しかし、その体系の随所に、その体系を綻ばせるものを用意してはいないだろうか。「所有しないで使用する」という観点は、ヘーゲルにはないが、しかし、アガンベンの言うことを参照して、ヘーゲルの所有論を、もう一度、ていねいに読んで行くことが必要なのではないだろうか。
普通は所有して、その後に、使用=否定すると考えられる。また、所有物の否定をさらに徹底するのが、交換・譲渡・売買である。しかし所有したものは、必ず使用しなければならないし、交換・譲渡・売買しなければならない。所有が重要なのではなく、使用や、交換・譲渡・売買が重要なのである。世界と主体は、所有で繋がっているが、しかし、使用したり、交換・譲渡・売買してしまえば、もはや所有関係はなくなっている。つまり、所有は、所有しなくなって、始めて、所有していることが分かる。所有とは、所有しているということが問われているのではなく、それを否定し、またはその否定を徹底することが問われている。それが無限判断である。世界と主体は、実は繋がっていない。繋がっていないという形でしか繋がっていない。言い換えれば、喪失することが所有なのである。
すでに否定判断の中に無限判断が宿っているということは付け加えておく。すると、所有とは、使用という否定的な言い方でしか、また、交換・譲渡・売買する、つまり放棄するという無限判断的な言い方でしか、できないものなのである。

さて、そこから、所有しないで使用するという考えを、導くことができるのだろうか。ストレートに、それが導かれるとは、私も考えない。しかし、所有とは、所有していないことで、しかし、使用したり、交換・譲渡・売買したりすることで、所有するものなのである。喪失することで、所有するのである。
つまり、「所有しないで使用する」という考え方は、ロック、カント、ヘーゲルに代表される西洋哲学のメインとなるところを根底から崩そうとする試みである。しかし、ヘーゲルの体系の中に、すでに、その綻びの芽がある。
ヘーゲルは確かに、所有の基礎付けの上に、法=権利の体系を作り上げた。しかし、その一番の基礎のところで、その体系は危ういものだ。しかし、そもそも体系とはそういうものである。

さらに以下のことを言わねばならない。所有の喪失が現代の特徴であると私は考えている。つまり、まさしくベンヤミンが言ったように、現代社会は、例外状態にあり、そこでは、人々は、所有を喪失している。しかしその悲惨さを指摘することに重点を置かず、その肯定的側面に目を向けることはできないか。つまり、例外状態ではあるが、そこに、「生の形式」を見つめることができないか。
つまり、修道院の生活は、今や、私たちの日常の生活でもあり得る。格差社会において、何も所有できない人、災害に遭ったり、差別されて、すべてを奪われた人など、また理不尽にその所有物を奪われた人も、例外状態にあると言って良い。ただし、これは生き生きとした「生の形式」とは言い難い。現代の例外状況を、どう、考えるか。
私はまた、前著において、これを、鬱と関連付けて、考察した。鬱の患者は、何も所有していない。少なくとも、本人は、所有の喪失を感じている。しかし、生きて行く上で、最低限の、食物と衣服と家は必要で、それは、所有していなくても、使用する権利がある。さらには、本来、人は所有などしなくても、使用する権利があったのではないか。それが、資本主義制度の下で、所有しなければ何も使用できないと考えられてしまう。

『いと高き貧しさ』の訳者による解説から、すでに1993年に、アガンベンは、「生の形式」という論文を書いていて、そこで、この概念をすでに十分に説明していたということを教わる(注8)。そこで、はっきりと、アガンベンは、「国家という形態をとらない政治、・・・<生の形式>といったようなもの、それを生きる中で生きることそのものが問題となるような生、潜在力を持った生は可能なのだろうか」と問いているのである。
しかし、『ホモ・サケル』から始まる、4部作の中で、なかなか、その問題意識は展開されず、つまり、『いと高き貧しさ』が出るまで、持ち越されたのである。ようやくこの本で、「生の形式」が具体的に描かれている。

この間の事情を、観点を変えて見て行きたい。
J. バトラーとA. アリソンが、precarious, vulnerable, grievableという言葉を使っている(注9)。
まず、2001年以降に出された2冊の本の中で、バトラーは、9.11以降のアメリカにおける、「例外状態」を扱う。そこでは、「失われても哀悼されることのない人々」を巡って、収容所の人々、テロにあった人々、エイズに感染した人々が扱われる。
そこでは、vulnerability(脆弱性、傷つきやすさ=可傷性という訳語が与えられる)や、precarious(あやういこと、不安定なこと)、grievable(悲嘆可能性と訳されている)がキーワードになる。私は常に他者に曝されている。何も所有せず、防御手段も持たない。しかし、他者に曝された身体の傷付きやすさが、他者との繋がりを作っている。
さらに、アリソンは、そのバトラーを参照しつつ、3.11以降の日本を取り挙げる。震災の被害と近年の不安定雇用や貧困の問題を、並行的に論じている。
二人は明らかにフーコーの影響下にあり、そこで、例外状態における、生政治の問題を扱っていると考えることができる。しかしそこに、アガンベンの言う、「生の形式」を読み取ることができるか。つまり、そこから、私たちがどう生きるかいうことまで考察されねばならないのに、そこまでの射程があるのか。そのことは、次回考えたい。もう少し、アガンベンを読んで行こうと思う。


1 『ホモ・サケル -主権権力と剥き出しの生-』(原文1995=翻訳2003、高桑和巳訳、以文社)、『例外状態』(2003=2007、中村勝巳他訳、未来社)、『王国と栄光 -オイコノミアと統治の神学的系譜学のために-』(2009=2010、高桑和巳訳、青土社)、『アウシュヴィッツの残りのもの -アルシーブと証人-』(1998=2001、上村忠雄他訳、月曜社)、『いと高き貧しさ -修道院規則と生の形式-』(2011=2014、上村忠男他訳、みすず書房)
2 Carl Schmitt, Politische Theologie : vier Kapitel zur Lehre von der Souveränität, (Duncker & Humblot,1934,[初出1922]) = 『政治神学』田中浩他訳(未来社、1971)
3 仲正昌樹『カール・シュミット入門講義』(作品社、2013), p.174f.。また、シュミットの解釈については、この本を参照した。
4 Michel Foucault, Historie de la sexualité 1 :La volontéde savoit,(Gallimard, 1976) =『性の歴史I 知への意思』渡辺守章訳(新潮社、1986)
5 渋谷望『魂の労働 -ネオリベラリズムの権力論-』(青土社、2003)、p.211ff.
6 例えば、酒井隆史『自由論 -「現在性の系譜学」- 』(青土社、2001)は、「フーコーと自由の現在」というテーマを設けて、統治論、権力論を展開した後で、例外状態を論じている。
7 Walter Benjamin, “Geschichtsphilosophische Thesen”, in Zur Kritik der Gewalt und andere Aufsaetze,(Suhrkamp,2015),p.84 =「歴史哲学テーゼ」『暴力批判論 ベンヤミン著作集1』(高橋宏平他訳、晶文社、1969), p.118
8 「<生の形式>」『人権の彼方に - 政治哲学ノート- 』(高桑和巳訳、以文社、2002)所収
9 Judith Butler, Precarious Life -The Power of Mourning and Violence-,(Verso, 2004) = 『生のあやうさ -哀悼と暴力の政治学-』(以文社、2007)、Frame of war – When is Life Grievable? –, (Verso, 2009) =『戦争の枠組み -生はいつ嘆き得るものであるのか-』(筑摩書房、2012)、Anne Allison, Precarious Japan, (Duke University Press, 2013)。また、注5と注6で挙げた、渋谷望と酒井隆史も、すでに2000年代の早い内に、この問題に着目している。

(2)へ続く

(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x2033,2015.06.08)