高橋一行
このシリーズもそろそろ終盤である。今回は、今まで私が拘ってきたテーマについて、あらためて考え直したいと思い、書き始めた。少しだけ新たに気付いたことがあり、それを加えたが、大半のことはすでに書いてきたことを繰り返している。
まず、所有の概念を規定する3つの判断を考える。
1 所有は譲渡である。
2 所有は窃盗である。
3 所有はコモンズである。
第一のものはヘーゲル『法哲学』の所有観を表している。所有物を人に譲渡できるのは、その物を真に所有しているからであり、またそこから社会的諸関係が生じる。社会の原理は所有であり、実際『法哲学』は所有から始まる。
第二のものは、アナーキスト・プルードンの有名な文言である。それは『所有とは何か』の主題である。
そして第三のものは、ジジェクがネグリ&ハートから示唆を得て、展開するものである(ジジェク 2010a)。
さらに付言すべきは、それらはどれも無限判断であるということである。しかし無限判断は、『精神現象学』と「論理学」(ここで「論理学」は『大論理学』と『小論理学』の総称)で異なった意味で用いられていて、上の判断でも、それぞれその使われ方が問われるべきである。
さて「所有は譲渡である」という、第一の命題が無限判断であるということはヘーゲル自らが言っている。この意味は何か。そのことが解読されねばならない。
ヘーゲルは『法哲学』53節で、所有については3つの規定があると言い、それぞれ論理学で展開した判断表に対応させる。すなわち以下のようになる。
肯定判断 所有は占有取得である。
否定判断 所有は使用である。
無限判断 所有は譲渡である。
まず意志が物件を占有取得することで所有が始まり、しかしその所有は使用すればなくなってしまう。そしてその物件を他者に譲渡するという規定が3番目に来る。
この最後の規定が最も重要なものである。ヘーゲルは「放棄すること、譲渡することがひとつの真の所有である」(65節補遺)とも言う。譲渡が所有であるという、パラドクシカルな表現こそ、ヘーゲルの魅力である。
私は『所有論』(2010)を書いたときに、このヘーゲルの所有論の持つパラドックスに惹かれて、というのも、所有とは所有しないことだというヘーゲルの表現を面白いと思って、ヘーゲルを中心に、ロック、カント、マルクスの所有論をまとめたのである。ただその時はまだこれが無限判断であるということに特に注意を払わなかったし、この無限判断をとりわけ重視して、自らの思想を展開しているジジェクについても、まだあまりよく知らなかったのである。
つまり私は、そもそもジジェクを知る前に所有論に取り掛かり、その研究の中で無限判断論に行き着き、そこからジジェクと関心を共有することを知ったのである。
そしてそのあとに出した『知的所有論』(2013)では、ここから本稿のテーマである、ジジェクも無限判断も、またネグリ&ハートも出てくる。
ここで「論理学」と『精神現象学』の無限判断が異なった意味を持っており、このあと詳述するが、ここでごく簡単に言っておけば、前者はふたつのものが決定的に異なっているという判断で、後者は、この正反対の、一見まったく別のものが、結び付くという意味である。
この『法哲学』の言い方では、所有していたものを譲渡してしまえば、その物件は手元を離れて、つまり意志と物件との間に何ら肯定的な関係がなくなるという事態を指す。つまりこれは「論理学」の無限判断が意味されている。ヘーゲル自身、そのつもりで、所有と判断が対応すると言ったのである。
ところがここでさらに意味されているのは、他人にその物件を譲渡できるということは、その物件を完全に私が所有しているということの証であって、物件を譲渡することで、その物件を完全に所有することができるのである。
すると物件と意志は完全に別のものとなり、これが「論理学」の無限判断なのだが、しかしそのことによって、譲渡は所有であるという、もうひとつの判断が生じ、ここで譲渡と所有という正反対のものが結び付くのである。これが『精神現象学』の無限判断である。
その後私は、『他者の所有』(2014)、『所有しないということ』(2017)、『カントとヘーゲルは思弁的実在論にどう答えるか』(2021)と書いてきた。それらを踏まえて、今回、再度ヘーゲルの所有論の意義、それを無限判断であると言ったときのヘーゲルの真意、そして無限判断の意義と、それを活用するジジェクについて、あらためてまとめてみたい。
これらについては、すでに何度も書いているのだが、ヘーゲルを読み直すと、少し今までとは異なった面が見えてくる。
『精神現象学』から読む。そこに無限判断が出てくる。まず「観察する理性」で、「精神はひとつの物である」と言い、また「精神はひとつの骨のようなものである」と言い、さらに「自己は物である」と言う。これらの主語と述語はそれぞれ自立した表象として与えられていて、互いに没交渉的である。そういう判断が展開されている。
ここでヘーゲルの念頭にあるのは、当時流行した骨相学である。それに拠れば、精神はここで骨という死せる対象として現れる。と言うのも、骨は生けるもの自身においてある限りの死せるものだからだとヘーゲルは言う。かくしてこの関係は、ただ単に「馬鹿げた表象に堕落する」ということになる(『精神現象学』(上) p.349)。
石川求を参照すれば、これは「この骨相学的言説の、無媒介的無内容を暴露するために」ヘーゲルが用いた論理に過ぎない。つまり「生は死である」と骨相学は妄語するのだが、ここにはいかなる論理もなく、生はただ単に生であるしかないということであり、とすれば、生は死であると言おうが、死でないと言おうが等価である(石川 p.118)。
ただ本当にヘーゲルは、この無限判断を単に無内容な、馬鹿げたものとして提出したのだろうか。あらためて思うのは、このあと『精神現象学』では、この無限判断は何回も繰り返し出てくるのである。まず、先の骨相学の話のすぐあとでは、無限判断の別の例として、これはジジェクがしばしば取り挙げるものなのだが、「生けるものにおいて、その最高の器官である生殖の器官と放尿の器官とを結合」すると言う。これを「高きものと低きものとの結合」と言い換えてもいる(同 p.350)。
さらに『精神現象学』の最終章「絶対知」に至ってもこの判断は繰り返され、もう一度「自我の存在はひとつの物である」という判断があり、それが今度は換位されて「物は自我である」となり、最後に「自我は自我である」という判断が出てくるのである(『精神現象学』(下) p.1140-1144)。
要するに問題は、この無内容の判断をなぜヘーゲルが重視したのかということなのである。ここでヘーゲルにとって根本的なことなのだが、主語と述語という項はそもそも自立などしていなくて、相互に関係し、相互に媒介されて成立するものである。ヘーゲルにとっては、すべては関係の中にある。それを互いに自立していると考え、互いに別交渉的であると考えるのは間違いである。無限判断は、この間違いを露わにするものなのである。
つまり主語と述語が互いに独立したものであると考えると、無限判断は恐ろしく無内容な、馬鹿馬鹿しいものになってしまうのだが、実は主語と述語は相互に関係し合うものである。「自己は物である」という判断は、概念としての自己は物を包括し、述語はまた主語を規定する。自己と他者は、互いにその区別を自らの内に持つ。自己は他者によって、内的に規定されている。つまり「自己は物である」ということになる。
こういうことが分かると、この無限判断をカントが使う時の意味と、それがヘーゲルの使い方とどう異なるのかということもうまく説明できるようになるはずである。というのも、無限判断とはそもそもカントが重視した判断であるからだ。すると、なぜカントが無限判断を重視し、それがカント哲学の中でどう位置付けられ。またそれをヘーゲルがどう自己の哲学に引き付けたのかということが、ここから考えられねばならない。
この無限判断とは元々、古代ギリシアからある考え方である。これをカントは『純粋理性批判』において、次の様に使った。
肯定判断「魂は可死的である」
否定判断「魂は可死的でない」
無限判断「魂は非可死的である」
この無限判断にカントの思想が凝縮されている。と言うのも、カントはいつもふたつの世界を峻別するからである。Sは非Pであると言ったときに意味されているのは、SとPとがまったく異なったものであるということである。石川は、分かり易い無限判断の例として、「月は非スッポンである」という例を出すが、ここでは月とスッポンがまったく異なるものとして提示されている。そして単に月はスッポンではないと言うのではなく、月は非スッポンであると言うことによって、月はまったくスッポンと異なるものであり、つまり月とスッポンは別世界のものであるということが確認できる。スッポンにとって、非スッポンはそもそも不可知の次元のものである。そして月が非スッポンだということは、月はスッポンの外にある領域のものだということで、非スッポンはスッポンの領域を制限し、限界付けるのである。因みに、この制限とか限界という言葉使いはカント自身のものである(石川 p.137)。
このことはカント哲学の根本にある、物自体と現象の峻別ということに繋がる。物自体と現象はまったく別の世界である。しかしその両者を無限判断で結び付けると、両者はまったく異なるものであるということが強調され、かつ両者は互いにその限界を共有するのである。カントにおいて、物自体は限界概念として現象に関係する。
それに対して、これはジジェクの思想の根本にある、ないしは、ジジェクのヘーゲル読解の根本に位置する考え方だが、ジジェクと、ジジェクの理解するヘーゲルにおいては、物自体は現象の世界の中に、現象の滓として存在するのである。つまりヘーゲルにおいては、ふたつの世界は相互に関係し、反転し合う。
「すなわち物はそれ自体としては何ものでもないものであって、物が意義を持つのは、ただ関連においてのみのことであり、ただ自我を介して、またただ物の自我への関係を介してのみのことである」(『精神現象学』(下)p.1141)。ヘーゲルはこのように言う。こうして無限判断は極めてヘーゲル的な意味合いを持つ用語となる。
そして実際、まったく異なるふたつの世界を結び付けようとする、この判断をヘーゲルは頻繁に使う。例えば王は白痴でも良い、つまり最も崇高な国家の頂点に立つ人物が、その頂点に値しなくても構わないなどとも言う(『法哲学』281節補遺)。体系期ヘーゲルは、無限判断を結構使っているのである。
つまり馬鹿げているとか、不合理だと言いつつ、ヘーゲルは無限判断を愛用する。そこにヘーゲルの発想がある。
判断とは、主語が自らを分割して述語を定立する。つまり無限判断において、主語は述語という自分自身に出会う。これがヘーゲルにおいては、真無限とされるものである。
ヘーゲルにとって、すべては自己関係である。すべては相関関係にある。すべのものに同一性が潜在している。
ここまで来ると、ヘーゲルが『精神現象学』と「論理学」とで、それぞれ無限判断を使い、その使い方が異なるように見えるが、その違いを説明するのは容易である。
まずすでに述べたように、ふたつの世界を分かつカントに対して、ふたつの世界を結び付けるヘーゲルの哲学は、すでに『精神現象学』で完成されている。それが「論理学」でどうなるか。『小論理学』を見る。次のような表が得られる。ここは私がかつて『知的所有論』で詳しく論じている。
肯定判断「このバラは赤い」
否定判断「このバラは赤くない」
無限判断 肯定的無限判断 「精神は精神である」
否定的無限判断 「精神は象でないものである」
一見すると、この否定的無限判断は、カント『純粋理性批判』のそれを受けているようである。つまりここで精神と象は切り離されている。しかし重要なのは、「論理学」においては、この判断論から推理論に進むということである。
つまり「月はスッポンである」という無限判断は、『精神現象学』においては、直ちに、つまり無媒介に成り立つのだが、「論理学」においては、まずは「月はスッポンでないものである」という形を取り、次いで、推理論に入って、「月はしかじかの理由でスッポンである」という形を取る。無媒介の結合ではなく、理由を伴って結合される。
しかし体系期ヘーゲルの推理論においても、しかじかの理由は付けられているが、月とスッポンが無理やり結び付けられているという事態は変わらない。ヘーゲルは歳を取って、体系を創ろうという意欲がますます強くなるのだが、しかしそれでも若い頃に持っていた、無理やりふたつのものを結び付けるという発想は残っている。
この、無理やりふたつのものを結び付けるというのが、ジジェクの強調する無限判断論なのだが、しかしそもそもヘーゲルが、実はジジェクの発想を持っていたのではないかということが、今回のテーマである。具体的には、体系期のヘーゲルも、若い頃に思い付いた、この無限判断を重視していたのである。
ここで今までの話をまとめておく。所有は譲渡であるというのは、『精神現象学』的な無限判断で、つまり正反対のものが結び付けられるということだと言っても良いのだが、しかしヘーゲルがここで言いたかったのは、まずは形式的に「論理学」の無限判断に対応して、譲渡においては、モノと人とは結び付かないということである。自分のモノが人のモノになってしまうということで、モノと人とは切り離される。精神は象ではないものである。精神と象は別のものなのである。それが譲渡なのだが、しかしそこからさらに、そのことが所有だと言われる。所有というのは、モノと人とが結び付くことだから、結び付かないということと、しかしだから結び付くのだということとが、同時に成り立っている。かつまた、モノと人とは結び付かないという譲渡において、実は所有は成立している。つまり所有と譲渡という、正反対の事態は同じことを意味している。ここで無限判断の二義性、つまりふたつのものが切り離されているという「論理学」の意味と、正反対のふたつのものが結び付くという『精神現象学』の意味と、その両面が出ている。それはヘーゲルにとっては同じことである。かくして譲渡において、真に所有が成り立つのである。
ここでもう一度石川求を参照する。無限判断、例えば「生は死である」は、骨相学的言説においては、生が無内容で、それならば死んでいるのと変わらないだろうというのが、そもそものヘーゲルの言いたいことである。無限判断とは、そういう批判を込めての言い方なのである(石川 p.118)。
とするとジジェクがジジェクの思いを込めて、というより私はジジェクのヘーゲル読解の根本はここにあると思っているので、その意味で、ジジェク思想の根本は、ヘーゲルが相手の主張が無内容であると言いたい時に使った批判のレトリックを、さも重要であるかのように使っているということになる。
しかしこれはジジェクがヘーゲルを使う時のいつものやり方なのである。そのことをあらためて指摘したい。つまりヘーゲルがどこまで本気で使ったのか、良く分からない用語が、しかし案外ヘーゲル哲学の核心にある。そういうものをジジェクは見付けてくるのである。
言い換えれば、ヘーゲルは当初、この無限判断論をそれほど重要なものだとは考えていなかったということだ。しかしそれでいて、正反対のものが結び付くというのは、ヘーゲル哲学の根本である。そのため、結局この発想をヘーゲルは生涯持ち続けることになる。
ここで、否定の否定を通じて真無限に達するとヘーゲルが考えていたことを想起すべきである。
否定の否定は、いわゆる正反合図式においては、最後の段階は最初の段階を高次の次元で肯定するものである(注1)。しかし私は、それは同時に否定の徹底でもあるという言い方をしてきた。
またこの否定の否定は、真無限に達するために必要な方法である。ここでは最初の否定のあと、そこで否定されるものが自己自身であることが分かって、その否定行為は自己否定であり、その自己関係が真の無限に至らしめるのである。
また無限判断は悪無限であり、しかし強引に自己関係を成り立たせて、真無限に至らせるものであるという言い方を私はして来た。
しかし石川求に拠れば、無限判断には悪無限判断と真無限判断があるということになる(石川 p.120)。そういう言い方をした方がより正確かもしれない。しかしその石川も、ヘーゲルが前者から後者への道を明確に説明していないと言っている。そのことを私は、ヘーゲルにおいては、しばしば悪無限は気付いたら、真無限になってしまうという言い方で説明し、ジジェクなら、見方を変えれば(パララックス)、そうなっていると言うだろう(ジジェク 2010b)。同じことが悪無限判断と真無限判断についても言えるだろう。
さて、本稿冒頭の最初の判断である「所有は譲渡である」というのが、所有の判断としては根本である。実は、ジジェクは無限判断を重視しておきながら、このヘーゲルの判断に言及することがない。それはなぜなのか。前々から私には、ジジェクが所有について語っていないという不満があった。
その理由は実は簡単なことで、ジジェクは私的所有を認めていないからである。そして、私が冒頭で挙げた二番目の判断、すなわちプルードンの「所有は窃盗である」という判断には言及する。これも無限判断である。これは、2014年に発刊された著書Absolute Recoilで取り挙げられている。ここからジジェクの発想を考えていくことができる。
ここでジジェクは、プルードンの「所有は窃盗である」は否定の否定であると言う(Žižek 2014 p.269)。窃盗はまず、その物の所有者の所有を否定するものである。そしてその窃盗して得たものを、実は自分の所有物だということで、ここで窃盗に過ぎないものを、それを否定して、所有だと言い張っているということになる。そしてプルードンの主張は、本来私的所有できない物を無理やり自分のものにするのが所有であり、それは従って窃盗を所有と言っていることになるという話である。これが否定の否定だとジジェクは言っている。
ジジェクはここで短い説明しかしていないが、私が補足すると次の様になる。まずヘーゲルが述べている所有の判断、つまり占有取得、使用、譲渡という3段階ではなく、所有を否定して窃盗をし、その窃盗した物を、これは窃盗したのではなく、自分の所有物だと言い張るという順番が考えられている。これが否定の否定になっている。しかし窃盗犯本人がそう言い張っても、それはやはり所有にはならず、窃盗に他ならないのではないかというのがプルードンの言い分である。
ここで述語が譲渡から窃盗に代わる。窃盗もまた譲渡のひとつかもしれないが、しかし譲渡で築かれる社会的関係が、窃盗では破壊される。そう考えるのが一般的だろうが、しかし所有はそもそも窃盗なのだから、その所有を否定し、その上で築かれるアナーキーな社会を構想することも可能である。そういうことがここで意味されている。従って、プルードンに拠れば、窃盗が所有の真理なのである。
「所有は窃盗である」という判断は、否定の否定だが、それは肯定ではない。窃盗は所有を正当化しない。まったくその逆である。つまり否定の徹底と言うべきものである。しかしそれが所有の本質なのである。
ここで前回取り挙げた柄谷行人の主張を思い出そう(柄谷)。
柄谷は私的所有と、その私的所有を正当化する国家の止揚を主張する。それはプルードン型の所有観に基づくものであると言って良い。そしてそこから、アソシエーションやくじ引き民主主義が主張された。
しかし私がここで問題にしたいのは、ジジェクは柄谷を批判して、しかし自らの積極的な未来像は打ち出さないということである。私が思うに、ジジェクにアナーキズム的な発想があり、その点で柄谷に似ているのかもしれない。ただ柄谷にどこまで惹かれて、どこは受け入れられないのか。そこは判然としない。そして柄谷批判ばかりが目立つ。このことは、このあともう一度触れることになる。
ここから三番目の所有の判断に進もう。ジジェクは、ネグリ&ハートにヒントを得て、次の様に言う。
肯定判断「資本主義は私的所有を支持する」
否定判断「社会主義は国有を支持する」
無限判断「共産主義はコモンズを支持する」
ここで共産主義では所有は超克されているとジジェクは言う(ジジェク2010a p.161)。最初の段階で肯定される私的所有は、次の段階で否定され、再び新たな次元で復活する。これはジジェクの『ポストモダンの共産主義』(原文は2009)にあるものである。
このコモンズは、最初の所有の判断の三番目、すなわち譲渡を情報化社会の所有論に適合させたものだと私は考えている。すなわち、先に挙げた次の判断を、知的所有において読み替えたのである。
肯定判断 所有は占有取得である。
否定判断 所有は使用である。
無限判断 所有は譲渡である。
ここで、知識、情報の取得も、個々人が脳という身体を使って、自分の物にするので、最初の占有取得は、物の所有と知的所有とで変わらない。問題は二番目のもので、物は使ってしまえばなくなるが、情報は使ってもなくならない。さらに三番目の判断で、物は人に譲渡すればなくなるが、ここでも情報はなくならない。つまり自分の所有している情報を他者にぶつけて、そこで他者と共有ができるのである。ここで譲渡はコモンズとなる。
このことについて、私が良く挙げる例は、例えば50年前、パソコンは100万円であった。今、その時の物よりももっと性能が上がったパソコンを私たちは10万円で買うことができる。するとここで安くなった90万円は、コモンズだと考えることができる。私は10万円払って、自分の私的所有を確保する。しかし同時に、コモンズを90万円分受け取るのである。ここで私的所有は正当化され、かつコモンズの恩恵にも与ることができる。
この考えを敷衍する。すると万人が等しく情報を共有する、知的共産主義社会が訪れても良いのだが、実際にはそうならない。つまり情報は偏るのである。ジジェクがしばしば言うように、偏りは搾取よりもたちが悪いのである。ジジェクはここで、ビル・ゲーツを例に出し、彼は何百万人という知的労働者から得られる超過利潤をくすねてきたのである(同 p.240)。最近では、ジジェクはイーロン・マスクを例に挙げる(Žižek 2020)。彼らは、自分の工場で働く肉体労働者の労働力を搾取して金持ちになったのではない。知的財産の偏りを利用して大富豪になったのである。
先に書いたように、ヘーゲルは『法哲学』で、譲渡から様々な社会的関係を考察したが、今度は譲渡がコモンズになり、ここで集団所有の様々な形態が考察されるべきであろうし、それが情報化社会で展開されている様を追うべきであろう。それはデジタル資本主義と言われ、多くの考察がすでになされている。それに対してジジェクは、「ネグリの考えるコミュニズムが、不気味な程「ポストモダン」のデジタル資本主義に似てくるのも無理はない」と言う(同 p.99)。そしてネグリがやろうとしているのは、労働者を教育して、この情報化社会に適合するようにすることなのではないかという批判をする(同 p.174)。もちろんジジェクの言いたいのは、労働者を社会に適合させるのではなく、社会を変革して労働者に住みやすいものにすべきだということになる。
ではどのようなイメージを持って、社会を変革するのか。そこのところで、ジジェクの主張はいつもはっきりしない。
ジジェクは、資本主義の持つ、人類を破壊しかねない敵対性について語る。それを撤廃すべきというのが、ジジェクの主張になる。
具体的には、環境破壊の脅威、知的所有権の偏り、遺伝子工学などの科学技術の問題を挙げ、これらはまさにコモンズの問題であると指摘し、それが今や、横領されているとする。その上で、最後に4つ目の視点として、増幅された格差によって排斥されている人々の存在を挙げ、彼らを革命の拠点にすべきであると言う。
これら4つの問題点は資本主義社会がもたらしたもので、放置すれば、それが人類の危機になるとされ、如何にして人類の滅亡を防ぐかということが課題になる。
このような指摘ができるのは、まさに私たちが資本主義社会の行き着く先である情報化社会に入ったからであり、そしてその論理をヘーゲルの所有論で表すことができるからである。
ここで私は今、情報化社会の所有論を展開するには、ヘーゲルが必要だと言っている。つまり所有論は、ロック、マルクス、ヘーゲルの順に進展する。
簡単に言えば、ロックは農業をイメージし、マルクスは工場の労働を分析した。ロックは、私的所有を正当化し、しかしその際に、所有には一定の留保が必要だとされた。つまり勝手に私的所有物を無制限に膨らませて良いとした訳ではない(ロック)。またマルクスは、搾取されている工場労働者の悲惨さを克明に描いた(マルクス)。
さてその前提で、ヘーゲルの読解は、情報化社会の解明に役立つと思う。そこではコモンズが成り立ち、私的所有は肯定されるが、同時に否定される。ジジェク風に言えば、マルクスは20世紀を予測したが、ヘーゲルは21世紀を解明する論理を持っているのである。
しかしそれに対して、ネグリはそのコモンズに着眼し、情報化社会を分析したが、しかしその論理は平板で、情報化社会の性質を十全に捉えていない。
それで労働者から奪われたコモンズを取り戻せという、マルクスの搾取理論が展開されている。しかしそこはジジェクが適切に表現しているように、問題は搾取ではないのである。
ジジェクはまたマルクスについても、無限判断論で迫り、その搾取理論を超えようとする。私は『知的所有論』の3-3で展開したのだが、価値形態論は無限判断で表せる。マルクスの表現を使えば、20エレのリンネルは一着の上着である。さらに労働力=貨幣という等式も無限判断であるというジジェクの主張が参照される。問題は、この等価交換から搾取が生まれるということである。等価交換という合理がそもそも不合理を持っている。無限判断論の応用として、このような結論を導くことができる。するとここでも、資本家階級から搾取されたものを奪い返せという話ではなくなる。
そこでジジェクは、これは資本の論理がもたらしたもので、それを克服するのは、資本主義を排するしかないということになる。それで資本主義批判をするのである。
一方ネグリは、『帝国』の最終章で、突如として、以下のようなユートピア的な提案をしている。ひとつは、すべての人がグローバルな市民権を持って、自由に世界中に移動ができる。つまり移民はどこででも受け入れられる。第二に、市民権収入と呼ぶべき、万人の収入が保証されること、そして第三は再領有の権利で、誰もが情報、コミュニケーション、情動に自由にアクセスができ、人びとが自主統御と自律的な自主生産の権利を持つというものである。
こういうユートピアに対して、ジジェクがしばしば批判する論点は次のふたつである。
ひとつは、代表制から直接民主制に移行するには、強大な権力が要るということ。それはアソシエーションであったり、マルチチュードであったり、評議会であっても、人びとの自発的な組織は却って、それを維持するために、権威主義的な指導者を必要とするという指摘である。
もうひとつは、そういう社会では羨望と敵意が蔓延することである。格差が社会的に是正されると、自分の不遇は社会が悪いからではなく、自らのせいであることが明瞭になり、そこではルサンチマンの際限のない爆発があるだろうとジジェクは言っている(ジジェク2018)。平等が達成されたユートピアは、ディストピアでもある(注2)。
つまり繰り返すが、ジジェクは自らの積極的な未来像は出さず、そういう未来像が持つ欠点を指摘する。
私はこの二点に対しては、確かに完全に直接民主制が実現されたり、完全な平等社会が到来したら、そうなるだろうと思う。しかし世界の多くの国で、選挙を通じて権威主義的な指導者を次々と生み出している現在、市民の直接的な政治参加によって、閉塞感を打破したり、情報化社会の進展のために、余りに大きく成り過ぎた格差を少しでも是正するために、様々な策を講じることは必要である。
皮肉を言うジジェクよりも、具体策を挙げるネグリの方が説得力はある。但しそこにあまりにも強いユートピア性を私は感じるので、そこはジジェクの皮肉で抑える必要がある。
同じことが柄谷に対しても言えるだろう。ジジェクのネグリ批判は、ジジェクの柄谷批判と同じ構図をしている。どちらも労働者を教育することを考えていると言っても良い。しかしそれはジジェクの批判するところなのである。
ジジェクは柄谷とネグリ(&ハート)とふたりの思想家を批判するが、しかしジジェク自身の考えは具体的でない。そしてその際に、柄谷、ネグリの具体的な未来像を、本当にジジェクはすべて否定するのか。それともユートピア的な要素を取り除けば、その未来像はジジェクも支持し得るのか。
柄谷のアナーキズム型アソシエーションは、やはりジジェクの思い描く理想ではないだろう。ではネグリの世界市民型ネットワークはどうか。これもジジェクの理想ではない。ジジェクの提出する4つの敵対性の論点は、あくまでも資本主義批判として指摘されるものである。
その際に、コモンズ論がジジェクの革命論の背景にあるはずだ。そうでないと、一体どうやったら、移民や排斥された人々に依拠して、社会が成り立つのか。すでにこの世の中には、コモンズが成り立つ程に十分な生産高があるということが前提になっている。
つまりコモンズ論があって初めて、社会から排斥された人々を拠点に、革命理論を考えるということが理解できる。ただ単に、最も恵まれない人々だから、革命の主体になるのだとすると、まるでヘーゲルの奴隷と主人の弁証法を戯画化したような話になってしまう。
コモンズは最も貧しい人々でも当然持っているべきものであって、それを何らかの方策で、人びとに還元されるような制度になれば、情報化社会の恩恵はすべての人に遍く行き渡るということなのである。それは福祉として、彼らの生活が保障されるべきだということとは別の話である。
そういう社会ではもちろん、稼ぎたい人はたくさん稼げば良い。私的所有は保証されている。それでいて、コモンズは偏りが是正されて、誰もがその豊かさを享受できる。理論的にはその程度のものなのだ。
未来社会において、地上の楽園が訪れるのではない。人を妬み、虚勢を張り、人を蹴落とすといったことはなくならない。ユートピアは成立し得ないし、また必要でもない。人類の崩壊を防ぐことができる程度に、是正がなされれば良い。ジジェクは恐らくそう考えている。
注
1 正反合という言葉をヘーゲルは一度も使ったことがないが、それはしかしヘーゲル哲学を説明する、良くできた用語である。
2 さらに、私はそのユートピアでは、鬱が蔓延するだろうということをも付け加えたい。私は鬱は所有の病であると私は言い続けている。20世紀において、車はひとつのステイタスシンボルであった。また昭和の時代にテレビを持つことも、それで十分所有欲が満たされたのである。しかし今、スマホを持っていても、それだけで何か人に見栄を張れる訳ではない。そういう社会に鬱は広まる。それは所有で満足が得られない社会における病理だと考えたのである(高橋2014 8章)。
参考文献(アルファベット順)
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——— 『ヘーゲル論理の学』I,II,III山口祐弘訳、作品社、2012、2013
——— 「法の哲学」『ヘーゲル世界の名著』中央公論社、1978
——— 『小論理学(上)(下)』松村一人訳、岩波書店, 1951, 1952
——— 『自然哲学(上)(下)』加藤尚武訳、岩波書店, 1998, 1999
——— 『精神哲学(上)(下)』船山信一訳、岩波書店, 1965
石川求『カントと無限判断の世界』法政大学出版、2018
カント、I., 『純粋理性批判(上)(中)(下)』篠田英雄訳、岩波文庫、1961
柄谷行人『定本 柄谷行人集3 トランスクリティーク カントとマルクス』岩波書店、2004
ロック, J., 『統治二論』加藤節訳、岩波書店、2007
マルクス, K., 『資本論(一)(二)(三)』向坂逸郎訳、岩波書店、1969
ネグリ、A .& ハート、M., 『帝国 グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』水嶋一憲他訳、以文社、2003
プルードン、P-J., 『所有とは何か』伊多波宗周訳、講談社、2024
高橋一行『所有論』御茶の水書房、2010
—- 『知的所有論』御茶の水書房、2013
—- 『他者の所有』御茶の水書房、2014
—- 『所有しないということ』御茶の水書房、2017
—- 『カントとヘーゲルは思弁的実在論にどう答えるか』ミネルヴァ書房、2021
ジジェク、S., 『ポストモダンの共産主義』栗原百代訳、筑摩書房、2010a
—– 『パララックス・ヴュー』(2006)、山本耕一訳、作品社、2010b
—–「想像力の種子」『アメリカのユートピア』田尻芳樹他訳、書肆心水、2018
Žižek, S., Absolute Recoil, Verso, 2014
—- Hegel in a Wired Brain, Bloomsbury, 2020
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x14606,2026.03.12)
