石塚正英
(一)より続く
第二節 『実践理性批判』を読む
☆テキスト:カント、波多野精一・宮本和吉・篠田英雄訳『実践理性批判』(岩波文庫、2005年)
ドイツ語web版:Immanuel Kant , Kritik der Plaktischen Vernunft, Leipzig Verlag von Felix Meiner, 1922.
〔引用◯〕はカントからの引用、〔注記◯〕は私の注記。
〔引用①〕
注二(Anmerkung II):幸福であるということは、理性的ではあるが、しかし有限な存在者であれば、必然的にもつところの要求であり、従ってまた幸福がこのような理性的存在者の欲求能力の規定根拠にあるのは避けがたいことである。60頁、S31.
〔注記①〕
幸福は①抽象概念でありつつも②具体的なイメージでもある。①倫理の絡む社会的環境では前者が意識され、②自己欲求が絡む個人的領域では後者が意識される。カントの幸福論は個人主義的な「幸福」を否定している。ところで、“Glücklichkeit”にも“happiness”にも、運不運や偶然・突然という意味が含まれている。そうした意味合いは比較がものを言う個人的なケースに多く妥当する。先験的でなく後天的な印象が強い。カントに逆らって区分するならば、①は悟性と理性のかかわる純粋概念の場に成立し、②は感性と悟性のかかわる経験概念の場に、それぞれ成立する。世間では、①の場に立つ人を理想とし、②の場に立つ人を目標とする。
〔引用②〕
だが経験といえども、道徳的法則と自由という両概念のかかる順位を実証しているのである。何びとかが彼の情欲について、「もし私の愛する対象(der beliebte Gegenstand)とこれを手に入れる機会とが現われでもしたら、そのとき私は自分の情欲を制止し兼ねるであろう」と揚言しているとする。しかし彼がこのような機会に出会った当の家の前に絞首台が立てられていて、彼が情欲を遂げ次第、すぐさまこの台の上にくくりつけられるとしたら、それでも彼は自分の情欲を抑制しないだろうか。これに対して彼がなんと答えるかを推知するには、長考を要しないであろう。しかしこんどは彼にこう問うてみよう、――もし彼の臣事する君主が、偽りの口実のもとに殺害しようとする一人の誠忠の士(ein ehrlicher Mann)を罪に陥れるために彼に偽証を要求し、もし彼がこの要求を容れなければ直ちに死刑に処すると威嚇した場合に、彼は自分の生命に対する愛着の念がいかに強くあろうとも、よくこの愛に打ち克つことができるか、と。彼が実際にこのことを為すか否かは、彼とても恐らく確信することをあえてし得ないだろう、しかしこのことが彼に可能であるということは、躊躇なく認めるに違いない。すなわち彼は、或ることを為すべきであると意識するが故に、そのことを為し得ると判断するのである。そして道徳的法則がなかったならば、ついに知らず仕舞であったところの自由をみずからのうちに認識するのである。71-72頁、S39.
〔注記②〕
カントが①「自由」と②「道徳的法則」を対比するための事例に挙げている①「情欲(wollüstige Neigung)」と②「誠忠(ein ehrlicher Mann)」の対比をみると、①は具体的概念で②は抽象的概念に思える。ただし、カントが念頭に置いている選択肢①情欲(避けることもできる自由の選択)、②誠忠(避けることのできない道徳の法則)は、現今では反対の事例――かけがえなき情欲に生命を感じ、見返りなき忠誠を断ち切るケース――が増えている。
〔引用③〕
それだから道徳的法則は、超感性的自然(eine übersinnliche Natur)と純粋悟性界(eine reine Verstandeswelt)とにおける根本法則である。そしてかかる純粋悟性界の写し〔感性的自然(eine sinnliche Natur)〕は、感性界において同時に実在することになるが、しかしそれだからといって感性界の法則〔自然法則〕を損なうものではない。我々は、かかる悟性界を理性においてのみ認識される 原型的自然(natura archetypa)と名づけ、また感性界を模型的自然(natura ectypa)と名づけてよいと思う、模型的自然は、意志の規定根拠としての原型的自然という理念から生じた可能的結果を含むからである。97-98頁、S56-57.
〔注記③〕
歴史知的アングルでは、カントは価値転倒の哲学者である。①〔感性的自然〕と②〔超感性的自然〕〔純粋悟性界〕、①〔原型的自然“natura archetypa”〕と②〔模型的自然“natura ectypa”〕、これらは①が原因・根本で②が結果・模写であるが、カントは反対に考えている。
〔引用④〕
悟性は(理論的認識において)対象に関係するが、しかしこの関係以外にも、欲求能力に関係する。そこで欲求能力は意志と呼ばれるし、また純粋悟性(このような場合には、理性と称せられる)は、法則の単なる表象によって実践的である限りにおいて、純粋意志と呼ばれる。121頁、S72.
〔注記④〕
カントは、ときに悟性を理性と同等に扱う。カント哲学のターミノロジーとしては〔悟性―純粋悟性―理性〕に整合性はあるのだろうが、私には、そこが悩ましい。「純粋」に引っかかる。「純粋直観 (reine Anschauungen)」などという言い回しもある。私にすれば、純粋でない理性や直観を想定することはできない。「ピンときたら百十番」というような過去の経験から生まれる直感と違って、謂れなき瞬時の発見や出来事である直観に純粋という形容詞をつけるならば、それは屋上屋を架すというか、トートロジーに陥るのではないだろうか。
私は、フォイエルバッハ思想をわが造語で「他我相関的唯物論(Alterego-korrelativer Materialismus)」と称しているが、その立ち位置からすると、人間の観念に純粋はありえない。これまでフォイエルバッハ思想の代名詞となってきた「人間学的唯物論」は、ヘーゲルからの影響関係から導かれていた。私にすれば、その代名詞はもはや一面的すぎて使えない。人類を一つに括れば、諸生物間にあって人間理性は客観的でない。ほかの生物からみれば、理性は人類の主観にすぎない。人間と自然との共生(環境倫理)を原則とする21世紀の生活者ならば、人間学(Anthropologie)で済ますのでなく、人間と自然との共生関係すなわち〔我―汝〕〔他我〕に通用する他我相関学を構築して人間理性の欠を補う必要がある。アフリカ・アメリカという非キリスト教的・非文明的世界から受けた影響を加味して思想的に成熟した後期フォイエルバッハは、すでに19世紀半ばに、その課題討究に着手していたのである。石塚正英『フォイエルバッハの社会哲学―他我論の基軸に』社会評論社、2020年、参照。
〔引用⑤〕
〈 nisi sub ratione boni, nihil aversamur nisi sub ratione mali.(我々は善の見地のもとでなければ何ものをも求めぬ、また悪の見地のもとでなければ何ものをも斥けぬ)〉という昔から学校で慣用されている成句は、時に正しい意味で使用されもしたが、また時には哲学にとって甚だしく不利に使用されもした。それは〈bonum(善)〉および〈malum(悪)〉という語の意味が、二義的(Zweideutigkeit)〔曖昧〕だからである。これには、ここに用いられている言語〔ラテン語〕が明確な意味を十分に表現していないことに責めがあり、そのために上記の両語はそれぞれ二通りの意味(doppelten Sinnes)を言い現わすことになる。そこで実践的法則は、曖昧に表現(auf Schrauben stellen)されざるを得なくなり、哲学はこれらの語を使用するに当っては、同一の語によって異なる概念が表現されていることをよく承知しながら、けっきょく相異なる概念に対してそれぞれ別の語を見つけることができないままに、やむなくこれらの概念のあいだにこちたい(細かな、仰々しい:石塚)区別を設けはしたものの、しかしあとになってからもかかる区別に関して諸人の同意を得ることができないのである。それというのも概念の相異を、最初から適切な語によって直截に表示することができなかったためである。129頁、S77.
〔注記⑤〕
カントは語句に複数の意味が備わっていることを「二義的」「曖昧」と感じている。とんでもない思違いだ。言葉は現実を反映している。ある言葉が二義的であれば、それに対応する現実も二義的なのであり、区別する方が誤っている。善は悪に支えられつつ、交互性をもちつつ善なのである。歴史知の視座からは、そう言える。
〔引用⑥〕
幸いにしてドイツ語は、かかる〔概念上の〕差異を看過せしめないような用語をもっている。ラテン語学者が、〈bonum〉という一語で片付けているところのものに対して、ドイツ語は、互に甚だしく相異なる二個の概念をもち、従ってまたそれに相応する二個の相異なる語をもっている。すなわち――〔ラテン語の〕〈bonum〉 に対しては善(das Gute〔道徳的善〕)と幸い(das Wohl〔幸福。健康、繁栄などのように、身心にとって良好な状態〕)、また〈 malum 〉に対しては 悪(das Böse〔道徳的悪〕)と禍い(das Übel〔物理的禍悪〕)、あるいは 不幸(das Weh〔心身の苦痛〕)という二語がそれぞれ対応するのである。それだから我々は、一つの行為についてその行為の「善と悪」、或いは我々にとっての「幸と不幸(禍い)」という二通りのまったく相異なる判定を考慮に入れることができるわけである。130頁、S78.
〔注記⑥〕
古語に戻れば、反対の語意を併せ持つ、両義的な術語があることを、まさか、カントが知らないわけはない。ギリシア語の「悪魔“Δαίμονας”」は、本来は「霊魂」という意味であり、それには善霊も悪霊も含まれていた。ラテン語の「私“ego”」は良くも悪くも文字通りの意味をもった。幸福を求める自己は、それだけをとって利己主義者とは断じえない。中世キリスト教会で「私」を主張することは好ましくなく憚れただろう。近代(人)は自我の主張からエゴを両義的に使い分けだした。
ところで、カントの〔三批判〕にかかわる両義的な術語に“ästhetisch”がある。手元にある独和辞典(SAGARA GROSSES DEUTSCH-JAPANISCHES WÖRTERBUCH)によれば、この語は「美的な、審美的な」という意味をもつ。また、名詞形“Ästhetik”には「美学」とともに「感性(覚)論」が記されている。こちらの語意は両義的である。相互にまったく正反対を意味するとまでは言い切れないが、類似の関係にはない。カントは、この語を両義的に解釈せず、ドイツ語の従来からの語彙通りに「感性的」という意味を持たせていた。ただし、“das ästhetisch Urteil”というように「判断“Urteil”」の形容詞となる場合に「感性的」の派生として「美的」という概念を含めた。カントにすれば、「美的」は「感性的」の派生であって、両義的な組み合わせではない。だが、カント以後の人々にとって、その語は両義性をもつこととなった。カント自身にその気があったわけでないにせよ、結果的に見れば、彼は“ästhetisch”に両義性をもたせた張本人だったのである。詳しくは以下の文献を参照。金田千明『カント美学の根本概念』中央公論美術出版、2005年、とくに161頁。
〔引用⑦〕
我々が善(das Gut)と名づくべきものは、およそ理性を具えている限りの人間の判断において、欲求能力の対象でなければならない、また悪(das Böse)はおよそ衆目の見るところ常に嫌悪の対象でなければならない。すると善・悪を判定するには、感官のほかなお理性を必要とすることになる。誠実と嘘との対立についても、また正義と暴力との対立その他についても、事情はこれとまったく同じである。ところが我々は、誰もが間接的な善、あるいはまた時には直接的な善と称して憚らないようなものを、禍いと呼ぶような場合があり得る。外科手術を受けねばならない患者が、その手術を禍いと感じるのは当然であるが、しかし理性によって判断すれば、彼ばかりでなく、ほかのすべての人もこれを善と称して憚らないのである。132頁、S79.
〔注記⑦〕
現代の科学技術社会では、原発技術に典型をみる〔システムとしての悪〕(デピュイ)が市民に利益を提供している。衆目の見るところ、それは善にも見える。ジャン=ピエール・デュピュイ、永倉千夏子訳『チェルノブイリ・ある科学哲学者の怒り―悪意なき悪とカタストロフィー』明石書店、2012年、40頁に以下の記述がある。「我々は今日、巨大な悪は悪意が完全に不在であるところから引き起こされるということを知っている。巨大な責任は、完全な悪意の不在と対になることもあり得るということも。我々の生活領域に断絶をもうけるような巨大災害は、人間の悪意や愚行の所産というわけではなく、むしろ短見からくるものだ。」「この悪は、道徳的悪でもなければ自然的悪でもない――この第三のタイプの悪を、私はシステム的悪と呼んでいる」。
〔引用⑧〕
私は、自然における秩序と合目的性とを眼前に見ているのであるから、その 現実性を確かめるために思弁を用いる必要はない、ただかかる秩序と合目的性とを 説明するために、その原因として神を前提する(eine Gottheit als deren Ursache vorauszusetzen)必要があるだけである。282頁、S181.
〔注記⑧〕
カントは理性宗教の立場にあったが、それがここによく表明されている。自然(自然存在)は神を必要としていないが、自然を説明する人間には神(神存在)が必要だということである。
〔引用⑨〕
ここに二つの物がある、それは――我々がその物を思念すること長くかつしばしばなるにつれて、常にいや増す新たな感嘆と畏敬の念とをもって我々の心を余すところなく充足する、すなわち私の上なる星をちりばめた空と私のうちなる道徳的法則(der bestirnte Himmel über mir und das moralische Gesetz in mir)である。私は、この二物を暗黒のなかに閉ざされたものとして、あるいは超越的なもののうちに隠されたものとして、私の視界のそとに求め、もしくはただ単に推測することを要しない。私は、現にこれを目のあたりに見、この二物のいずれをも私の実在の意識にそのままじかに連結することができるのである。317頁、S205.
〔注記⑨〕
カントの墓碑銘「我が上なる星空と、我が内なる道徳律」(人間は感性と理性の二つの宇宙をもっている)これにあやかったわが予定墓碑銘「わが上なる星空と、わが内なるalter-ego」(人間は感性と他我の二つの圏域をもっている)。ところで、類推に過ぎないが、カントにとっての「星」や「空」は、親鸞にとっての「光(アミータ、阿弥陀)」にあたる。私にすれば、カントの星も親鸞の光も〔メソフィジカル・バース〕に存在している。第一節の〔注記②〕を参照。
第三節 『判断力批判』を読む
☆テキスト:カント、篠田英雄訳『判断力批判』(2004年、岩波文庫)
ドイツ語web版:Immanuel Kant , Kritik der Urteilskraft, Leipzig Verlag von Felix Meiner, 1922.
〔引用◯〕はカントからの引用、〔注記◯〕は私の読書メモ
〔引用①〕
自然概念(Naturbegriff)の領域は感性的なもの(Sinnlich)であり、また自由概念(Freiheitsbegriff)の領域は超感性的なもの(Übersinnlich)である。ところでたとえこの両領域の間に測り知れぬほど広大な深淵が厳然と横たわっていて、自然概念の領域から自由概念の領域への(それだから理性の理論的使用によるところの)移り行きがまったく不可能であるにせよ、・・・自由概念は、その法則によって課せられた目的を感覚界において実現するように定められているのである。従ってまた自然は、その形式の合目的性が自由の法則に従って自然において実現さるべき目的の可能と少なくとも一致調和する、というふうに考えられ得ねばならない。してみると自然の根底に存する(der Natur zum Grunde liegt)超感性的なものと、自由概念が実践的なものとして含んでいるところのものとの統一の根拠が必ずや存しなければならない。上29-30頁、S11-12.
〔注記①〕
「自然概念」「感性的世界」と「自由概念」「超感性的世界」についてのカントの捉え方は、まるっきりの転倒だ。事象としての「自然」は観念としての「自由」に先行し、事象としての「感性」は概念としての「超感性」に先行する。フォイエルバッハならそのように訂正する。
〔引用②〕
判断力一般は、特殊を普遍のもとに含まれているものとして考える能力(das Vermögen, das Besondere als enthalten unter dem Allgemeinen zu denken.)である。もし普遍(規則、原理、法則)が与えられていれば、判断力は特殊をこの普遍のもとに包摂する、そしてこの場合の判断力は(先験的判断力として、一定の条件――換言すれば、それに従ってのみ普遍のもとに包摂され得るところの条件を、ア・プリオリに挙示する場合でも)、規定的判断力である。上36頁、S15.
〔注記②〕
これまた転倒の技なり。カントは経験論と合理論を綜合した哲学者として有名だが、私には全然そう思えない。合理論で経験論を圧倒している。
〔引用③〕
判断力批判が、美学的判断力の批判と目的論的判断力の批判とに区分せられるのは、このような意味合いによるのである。要するに美学的判断力とは、形式的合目的性(主観的合目的性とも呼ばれる)を快・不快の感情によって判定する能力のことである。また目的論的判断力とは、自然の実在的(客観的)合目的性を悟性および理性によって判定する能力のことである。上60頁、S31.
〔注記③〕
“ästhetisch”は“Urteilskraft” “Urteil”の形容詞の場合だけ「美学的」と訳され、それ以外は「感性的」と訳される。その根拠は翻訳にあるのでなく、原語の両義性にある。しかし、「快・不快の感情によって判定する能力」に関係するのであれば、「感性的」とした方が、カント研究の門外漢の私は納得がいく。なお、哲学研究者で畏友の石川伊織によると、バウムガルテンから始まる「感性の学」すなわち美学は、やがて19世紀に入ると、「ロマン派の芸術家・思想家の手によって、「芸術の哲学」へと変質し始める」。「1800年を境に、美学が芸術論ないしは芸術の哲学に変化したことは明らかだろう。そのきっかけとなったのが、1801年に始まるシュレーゲルのベルリンでの講演であったこともはっきりしているだろう。要するに、ロマン派の文学運動が19 世紀への転換点において、芸術の哲学を生み出したということである」(石川伊織「「美学」概念はいかにして形成されたか?」、『頸城野郷土資料室学術研究部研究紀要』2021年6巻5号、19頁、32頁)。
〔引用④〕
悟性は、みずから自然にア・プリオリな法則を与え得ることによって、自然が現象としてのみ我々に認識せられるものであることを証明する、従ってまたそれと同時に、現象としての自然の根底に存する超感性的基体を指示するが、しかしかかる基体がどのようなものであるかということに関してはまったく未規定のままにしておく。65頁、S34.
〔注記④〕
「自然の根底に存する超感性的基体」にあたる原文は“ein übersinnliches Substrat derselben”だが、そこに「根底に存する」とは記述されていない。日本語翻訳者の意訳として「根底に存する」を補ったようである。この立場は、超感性の根底に感性が存すると考えるフォイエルバッハの立場とは真逆である。
〔引用⑤〕
何か或るものが美であるか否かを判別する場合には(Um zu unterscheiden, ob etwas schön sei oder nicht)、その物を認識するために表象を悟性によって客観に関係させることをしないで、構想力(恐らく悟性と結びついている)によって表象を主観と主観に於ける快・不快の感情とに関係させるのである。それだから趣味判断は認識判断ではない、従ってまた論理的判断ではなくて美学的判断である。なおここで美学的判断というのは、判断の規定根拠が主観的なものでしかあり得ないということである。およそ表象相互の関係は、それどころか感覚相互の関係すら、客観的であり得る(この場合に関係というのは、経験的表象における実在的なものを意味する)、しかし表象と快・不快の感情との関係だけは客観的であり得ない。実際、快・不快の感情に対する関係は、客観における何か或ものを指示するものではない、かかる関係においては主観が、表象によって触発されるままに自分自身を感じるにすぎないのである。上70-71頁、S39-40.
〔注記⑤〕
ようやく私にとって耳障りのいい術語「美学的判断」が登場した。「美学的“ästhetisch,”」は「感性的」とも訳す。カントは「美学的判断」は「主観的“subjektiv”」だするが、私であれば「身体的“physisch”“körperlich”」とするところだ。この問題を論じるために、私は「感性文化と美の文化―バウムガルテン・カント・ヘーゲル」と題する論文を執筆した。拙著『歴史知のオントロギー―文明を支える原初性』社会評論社、2021年、第11章、参照。
〔引用⑥〕
香辛料やその他これに類するものを加えて味を利かせた料理を食べると、最初はなんの考えもなく快適だと言うが、しかしそれと同時に本当は善くないということを認めているのである。こういう料理は、なるほど直接には感官を喜ばせるが、しかし間接的には――換言すれば、あとあとのことを慮る理性によって考えてみると、快いとは言えないからである。健康というものの価値を考えてみる場合にも、やはりこのような区別にすぐ気づくのである。上79頁、S44-45.
〔注記⑥〕
ある食べ物が健康にいいかどうかの見極め、それは人間理性よりも動物本能の方が鋭い。動物は、たとえ猛獣であっても胃袋が満たされれば狩りを止める。変わった味や匂いには決して騙されない。ときに動物を駆除しようと人間が仕込んだ猛毒を食べてしまうが、原因は人間理性にある。「あとあとのことを慮る理性」は後のために食べ物を蓄えようとする。文明には蓄積を通じて結果的な無駄(食品ロス)が生じるが、自然界、自然人にそうした無駄はない。それから、人間にとって、香辛料を含めた食材は、一種の文化である。人間にって、食は栄養摂取(生存一般の要件)を超えて身心摂取(個的実存の要件)である。また、文化は風土や歴史によって培われるが、食はまさにそれである。振舞いとしての食(文化で食べる)と、人間形成としての食(文化を食べる)、この二つである。
〔引用⑦〕
それだから快適、美および善の三者は、表象と快・不快の感情とのそれぞれ相異なる関係を標示する。そこで我々はこの快・不快の感情に関して、対象或は対象を表象する仕方を区別するわけである。従って我々が、この三者における快意を標示するところの表現もまた一様でない。即ち或人に感覚的満足を与えるところのものは快適と呼ばれる。また彼にとって単に快いものは美と呼ばれる。更にまた彼によって尊重され、是認されるところのもの、換言すれば彼によってその客観的価値が承認せられるところの物は善と呼ばれるのである。ところで快適は、理性をもたない動物にも妥当する(Annehmlichkeit gilt auch für vernunftlose Tiere)。また美は、人間だけに妥当する、即ち動物的であってしかも同時に理性的であるような存在者であるところの人間――換言すれば、純然たる理性的存在者(例えば精霊)としてではなく、理性的存在者であると同時に動物的存在者でもあるような人間だけに妥当する。しかし善は、およそ理性的存在者一般に例外なく妥当するのである。82頁、S47.
〔注記⑦〕
「快適“Angenehme”」,「美“Schöne”」,「善“Gute”」のうち動物には「快適」だけが妥当するとのことだが、動物に「快適」が妥当するとは思えない。日本語を母語とする者の戯言かもしれないが、「快適」という語は社会生活上・文化生活上で使用されるものである。「快適」をラテン語で“iucundum”と書き「快適、愛好、人気」などの意味をもつが、ドイツ語の“Angenehme”もまた同様と思う。それに対して生態環境に生きる動物は、人類と同じ文化に生きてはいない。ここではむしろ、「快・不快“Lust und Unlust”」の表現なら人間と動物の双方に妥当する気がする。ただし、相互に異なる生態に暮らす人間と動物とでは、快・不快を感じる対象は違っておかしくない。
〔引用⑧〕
社会においてこそ、単に人間であるということだけでなしに、自分流儀にもせよ洗練された人間になろうとする念が生じるのである(そしてこれが文明の始まりである)。上238頁、S148.
〔注記⑧〕
「文明の始まり“der Anfang der Zivilisierung”」でなく「文化の始まり“der Anfang der Kulturalisierung”」だと思う。文明以前の先史社会も人類社会の一つである。
〔引用⑨〕
野の花、禽鳥、昆虫などの美しい形態をひとり静かに(自分の所見を他に伝えようとする意図をもたずに)観照して、これを嘆美し愛好する人、またたとえそのために多少の損失を蒙るにせよ、ましてそれからなんら利益の生じる見込みがないにせよ、かかる美しい形態が、自然のなかで失われるのを痛惜する人は、自然の美に対して直接に、しかも知性的な関心をもつ人でなければならない。上241頁、S150-151.
〔注記⑨〕
「自然の美」というが明らかに「文化の美」を愉しんでいるのだ。「野の花、禽鳥、昆虫など」を美しいと感じない民族文化はたくさんある。文中の語句「自然の美に対する知性的な関心“intellektuelles Interesse an der Schönheit der Natur.”」は正しい表現である。
〔引用⑩〕
自然の合目的性の実在論もまた自然的実在論であるか、さもなければ超自然的実在論であるか、二つのうちのいずれかである。そのうち第一の〔自然的〕実在論は、自然における目的の根底に、意図に従ってはたらく能力の類似物即ち物質の生命(物質そのものにおける生命のこともあり、また物質に活力を与える内的原理即ち世界精神による生命のこともある)を置くものであって、物活論と呼ばれる。また第二の〔超自然的〕実在論は、目的を宇宙の本原的根拠、即ち意図をもって産出する(根原的生命を有する)知性的存在者から導来するものであり、有神論と呼ばれる。下67頁、S256.
〔注記⑩〕
「物活論“Hylozoism”」とアニミズムの関係はどうなるか?“Hylozoism”はギリシア語の質料を意味するヒュレー“ὕλη”と生命を意味するゾエー“ζωή”の合成語。ミレトス自然哲学者の間で説かれた、すべての物質は生命や魂や心を有するとみなす説。18世紀になってタイラーが体系化した理論のアニミズムは、唱えられた時系列でみればハイロズイズムの一つとなる。カントはこれを批判した。
〔引用⑪〕
しかし生命を有する物質(この概念は矛盾を含んでいる、生命のない〔inertia無活動である〕ということが、物質の本質的性格だからである)の可能は、とうてい考えられ得るものでない。生命を与えられた物質の可能や、またいわば一個の動物と見なされた自然全体の可能という概念は、物質が経験において小自然〔個々の有機的存在者〕の有機的組織として我々に開示される限りにおいてのみ、(大自然〔自然全体〕の合目的性という仮説を立てるために)不十分ながら使用されるにすぎないのであって、かかるものの可能がア・プリオリに洞察され得る筈はない。下71-72頁、S258-259.
〔注記⑪〕
「物活論“Hylozoism”」とアニミズム、ともにカントには肯定できないが、それらを信じたり活用したりする人々は確かに存在してきた。そのことは否定できない。私の立脚する歴史知は、その事実を重視している。現にこれを信じる人々はそれを軸に歴史と文化を構築してきた。迷信や非合理を信じない人でも、それらが歴史や文化をつくって来たし、それは決して間違った歴史や文化ではないこと、それは認めねばならない。カントと私とで、物活論に注目する観点や意味づけが相違している。カントは物活論の可能性(その否定)を論じるのに対し、私は確かに存在してきた物活論の軌跡を論じるのだから。それから、カントの理性哲学には「ア・プリオリ」がキー概念だが、私の歴史知では「ア・ポステリオリ」がキー概念だ。まるきり正反対だ。
〔引用⑫〕
我々が現象としての自然の根底に置かねばならないところの超感性的なものにほかならない。下103頁、S279.
〔注記⑫〕
カントが言う「超感性的なもの」はフォイエルバッハの言う〔形像(Bild)〕すなわち「模写」に当たり、カントが言う「自然」はフォイエルバッハの言う〔事象(Sache)〕すなわち「根原」にあたる。フォイエルバッハから見るとカントは転倒している。フォイエルバッハは力説する。「もっぱら自然的に事が進む現実においては、模写が原像に続き、形像が事象に続く。しかるに、神学の超自然的奇跡的な領域においては原像が模写に続き、事象が形像に続く。」(*LFGW,Bd.10, S.28. 石塚正英『フォイエルバッハの社会哲学―他我論を基軸に』社会評論社、2020年、254頁。)
*Ludwig Feuerbach, Gesammelte Werke, hg. v. W. Schuffenhauer, Akademie-Verkag, Berlin, 1969.
〔引用⑬〕
人間は悟性と、従ってまた任意に自分の目的を設ける能力とを具えた地上唯一の存在者としては自然の歴とした主人であるし、また我々が自然を目的論的体系と見なす限り、人間の本文にかんがみて自然の最終の目的でもある、とはいえそれはやはり条件付きの目的にすぎないのである。それだから人間は、自然と自分自身との間に或る種の目的関係――換言すれば、自然にかかわりなくそれ自身だけで事足り、従ってまた究極目的たり得るような関係を設定するすべを知り、またそうする意志をもちはするものの、しかしかかる究極目的は自然において求められてはならないものなのである。下134頁、S299-300.
〔注記⑬〕
カントは言う、人間は「自然の主人“Herr der Natur”」であると。そうではないだろう。フォイエルバッハ思想のキーワードに「他我」がある。ラテン語で〔alter ego(もう一人の私)〕となる。このalter egoに対応するギリシア語にheteros autos(もう一人の自身)がある。これはアリストテレス『ニコマコス倫理学』に読まれる。アリストテレスでは「自身」だった箇所はラテン語では「自己」に代っている。それはそれで重要な問題を含んでいるが、フォイエルバッハは、この語の概念を、アリストテレスに発するギリシア的、隣人愛的なコンテキストから、人間と非人間の交互を特徴とする非ヨーロッパ的なコンテキストに置き換えた。[他我]には自然も神も含まれたのである。「私にすれば、カントの星も親鸞の光も〔メソフィジカル・バース〕に存在している」とした第二節の〔注記〕を参照。
〔引用⑭〕
ところで道徳的存在としての人間(従ってまた世界におけるすべての理性的存在者)については、人間はなんのために(quem in finem)実在するのか、という問いかけは無用である。人間の現実存在は、それ自身のうちに最高の目的を含んでいる、そして彼は自分の力の及ぶ限り全自然をこの最高目的に従わせることができる、或いは少なくともかかる目的に反して、彼自身を自然の影響に従わせることは断じて許されないのである。もし世界における物が、いずれもその実在に関して依存的存在者であるところから、目的に従ってはたらくような最高の原因を必要とするならば、人間こそ創造の究極目的である(so ist der Mensch der Schöpfung Endzweck)。下142頁、S305.
〔注記⑭〕
人間が最高目的を含み、全自然をそれに従わせる。人間こそ創造の究極目的だ。この発想は人間主義の極みである。18世紀ならいざ知らず、21世紀の現在、カントをそのままにしてはおけない。18世紀の人間主義(humanism)は21世紀の人間中心主義(anthropocentrism)をあわせもっている。いつのまにか正反対の概念にすり替わったかのようである。前者は〔人間性〕とか〔博愛〕とかにも言い換えられ、ポジティヴに理解され、後者は〔人間至上〕とか〔唯我独尊〕とかにも言い換えられ、ネガティヴに理解されがちである。けれども、生きとし生ける者の中で、他者を配慮すべきとの自覚を有するのは人間のみだ、という位置づけから成り立つ最新の人間中心主義もある。今回の引用文を読む限り、残念ながら、カントを最新の類型に入れることはできない。
〔引用⑮〕
古代の人達が彼等の神々を、或は諸神のそれぞれの能力に関し或はその意図や意向に関して種々さまざまに思いみはしたものの、しかし一切の神を――主神すらも例外でなく、――人間同様に制限されていると考えたからといって(noch immer auf menschliche Weise eingeschränkt dachten)、なにもそんなにひどく彼等を非難するには当たらない。彼等とても、自然における物の仕組みや経過を考察すれば、確かに機械的なもの以上の何か或るものを物の原因として想定し、また世界の機械仕掛けの背後に、或る種の最高原因、即ち彼等には人間以上のものとしか考えられないような原因を推定するに十分な根拠を見出した筈だからである。しかし彼等はまた世界において善と悪、合目的なものと反目的なものとが、少くとも我々の洞察にとっては著しく錯綜していることを知った、そしてその根底には賢明でかつ仁慈な目的が隠されているということを推定はしたものの、しかしかかる目的を証明できなかった。それだから彼等はかかる目的をほしいままに想定することによって、至高な完全性を具備する創造者という任意な理念を立てることを敢てしなかったのである。そこで最高世界原因に関する彼等の判断も、彼等が理性の単なる理論的使用の格律に従って飽くまで整合的なし方に従う限り、これ以上に出ることができなかったわけである。下148-149頁、S308-309.
〔注記⑮〕
18世紀、カントの時代は、進化主義の思潮がうねり出すにはまだ少し早すぎたものの、宗教・文化の発展に単系垂直だけでなく多様並列の諸類型があることを理解するに足る資料が海外からもたらされていた。例えば、ヨーロッパと交易のあったアフリカ西岸で、「古代の人達」と類似した神々を信仰する民族があまた存在していることは、18世紀当時の諸学界ですでに流布されていた。それで、このような習俗儀礼は当然にも、ディドロとダランベールを編者とし、ヴォルテール、モンテスキュー、ケネー、ルソーらを執筆陣に加えて1751年に第1巻が刊行された、かの『百科全書』に収められもした。ルソーはそれらを利用した。なるほどカントゆかりの地ケーニスベルクは東西文化の交差する地域ではあった。その地で『純粋理性批判』など〔三批判〕が構想され、認識論における〔コペルニクス的転回〕が遂行されていった。しかしカントには良くも悪くも西洋人主義が深く染みついていた。非ヨーロッパ諸民族の文物制度をヨーロッパ的な価値観で論じていくのだった。「至高な完全性を具備する創造者という任意な理念を立てる」という考えは、多くの非ヨーロッパ諸民族の観念には浮かぶはずもなかった。発展の類型が違うのである。カントはそこが認識不足だったと、私は思う。
〔引用⑯〕
すると問題はけっきょくこういうことになる、即ち――いったい我々は、目的に従ってはたらく最高原因に究極目的を帰する根拠、しかも理性にとって(それが思弁的理性であると実践的理性であるとを問わず)十分な根拠をもつのかどうか、ということである。もし我々がかかる根拠をもつとすれば、我々の理性の主観的性質にかんがみ、またたとえ我が人間以外の存在者の理性を思いみようとも、この究極目的こそ取りも直さず道徳的法則に従う人間よりほかの何ものでもあり得ないことは、我々にとってア・プリオリに確実と見なされ得るわけである。それに反して自然の目的を自然的秩序においてア・プリオリに認識することは、我々にとってまったく不可能である、まして自然がかかる目的なくしては実在し得ないというようなことは、とうてい洞察され得るものでない。159-160頁、S316.
〔注記⑯〕
啓蒙の世紀にカントが期待した「道徳的法則に従う人間」は、その後の諸世紀に至り、期待外れとなった。とくに科学(核技術)と戦争(核戦争)の20世紀に至り、それは顕著となった。彼の期待が遅かれ早かれ裏切られる、その根拠は、彼の着想の中に存在した。それは、「自然の目的」という思想である。古代人は神々を擬人化したが、カントは、一度自然を擬人化して「自然の目的」を措定し、次いで「自然がかかる目的なくしては実在し得ないというようなことは、とうてい洞察され得るものでない」として、その擬人化を否定する。歴史知の発想では、自然は擬人化されず、自然のままで人間と交流する。カントが言う「道徳的法則」は、人間と自然の交流には必要条件とならない。アリストテレスに発する「隣人」概念は、近代になってもヨーロッパ中心主義できた。その了解を打破しようと、20世紀の人類学は大転回を開始した。曰く、人間は他の生物(非人間)と同一の存在だ。そのような人間と自然とのインターフェイス、相互関係に意味があるのだ。いわゆる〔人類学の存在論的転回〕である。(参考:石塚正英「人(one-self)と自然(another-self)のbe動詞連合」『NPO法人頸城野郷土資料室学術研究部研究紀要』、Vol.5/No.3、2020年)
〔引用⑰〕
要するに上述した一切のことをもって私がここに言おうとする主旨は、まったく次の二事にほかならない。第一は――なるほど恐怖はまず諸神(精霊)を産みはしたが、しかし道徳的原理によって初めて神の概念を産出し得たのは実に理性であった(当時の人達は自然の目的論について、一般に知るところが極めて少なかったということもあり、またその場合に現象間に生じた矛盾を十分に実証された原理によって調停することが困難なために、非常に懐疑的であったとはいえ)、ということである。また第二には――人間の存在の目的を内的、道徳的に規定することが、自然認識に欠けていたところのものを補った、ということである。そしてこのような目的規定が、一切の物の存在の究極目的に対して(かかる究極目的に関しては、倫理的原理以外のいかなる原理も理性に満足を与えるものではない)、神としての最高原因――換言すれば、みずから具えているところの諸般の特性によって全自然をその唯一の意図(この意図に対しては、自然はその単なる道具にすぎない)に従わせる能力を有するような原因を思いみるように指示したのである。162-163頁、S317-318.
〔注記⑰〕
カント思想の特徴を示す極めつけの段落が見つかった。ここでカントが示す「神」とは、ユダヤ・キリスト教の神だろう。それが人間疎外をもたらす第一原因であることを、わがフォイエルバッハは論証した。その議論で彼が用いたのは、カントが「単なる道具にすぎない」とした「自然」および「自然諸神」である。カントのいう「神」は、中世に政治権力と結託した超越神でなく、啓蒙の時代に流行した「理神」だろう。しかし、それらの諸神の差異は、キリスト教批判においては五十歩百歩である。カントは「恐怖はまず諸神(精霊)を産みはした」という。次いで「道徳的原理によって初めて神の概念を産出し得たのは実に理性であった」という。そこでカントは、「精霊」よりも「神」の方が人間理性に適う存在として高く評価している。また、人類社会が先史から文明へと移行する過渡期において、その変化は進歩そして経過した、とカントは思っていただろう。「道徳原理」を基準にする彼にはしごく当然の読み込みである。その読み込みはしかし、過去の歴史、過去の社会に端を発し、キリスト教社会と類型を異にして今日まで存続してきた、もう一つの社会、独自の文化――精霊文化――を否定する根拠にはならない。それはちょうど、理性的近代人が呪術的野生人の文化を否定したとして、後者の文化とその歴史が確かに前者とともに人類史を紡いできた事実を否定できないのと同様である。なお、カントがここで指摘している「精霊“Dämonen”」のは旧約聖書のレビ記などに登場する。へブライ語「セイリム」である。それがギリシア語に訳されて「ダイモン“δαίμων, Dämonen”」となり、それがラテン語に訳されて「デーモン“daemonibus”」となった。その変遷過程で精霊は悪霊に読み替えられたのである。エジプトの「セイリム」は端的に動物(有毛のもの“lanata animalia”)を意味していただけである。以下の文献を参照、石塚正英「ヘブライ語版旧約聖書におけるセイリムとヘベル」、同『価値転倒の社会哲学―ド=ブロスを基点に』社会評論社、2020年、121-144頁。
第四節 『プロレゴメナ』を読む
☆テキスト―篠田英雄訳『プロレゴメナ』2005年、岩波文庫
ドイツ語web版:Immanuel Kant, Prolegomena zu einer jeden künftigen Metaphysik, die als Wissenschaft wird auftreten können. Hg. v. Karl Schulz, Raclam, Leipzig,Nachdruck von RIGA, 1783.
〔引用◯〕はカントからの引用、〔注記◯〕は私の読書メモ
〔引用①〕
それだから、私の直観が対象の現実性に先立ち、ア・プリオリな認識として発生するのは、次のようなただ一つの仕方でしか可能でないということになる。それは――私は現実的な印象を通じて対象から触発されるが、しかし私の直観は私の主観においてかかる現実的印象に先立つところの感性的形式しか含んでいない、ということである。そうすれば感官の対象は感性のかかる形式に一致する場合にだけ直観せられ得るということを、私はア・プリオリに知ることができるからである。(中略)/それだから我々は、感性的直観の形式(die Form der Sinnlichen Anschauung)によってのみ物をア・プリオリに認識できるのである。しかしまた我々は、この直観形式によって対象〔物〕をそれ自体あるがままに認識するのではなくて、これらの対象が我々(我々の感官)に現われ得るままに認識するにすぎない。69-70頁、S60.
〔注記①〕
人間が対象に向うのでなく、対象が人間に現われる、という捉え方はうなずける。私の説である〔環境の凝固結晶としての身体〕に相応しい表現だ。これまで、身体(身体観)の変化を考察する場合、身体は環境(社会・自然)に向かって、内部から外部へ拡張していくように理解してきた。「道具・機械も身体の一部」という発想がそれである。いうなれば「内発的身体」である。しかし、私は考察のベクトルを反転させ、環境から身体論を構築してきた。身体の変容は、身体が環境への拡張によって生じるのではなく、環境が人間身体に吸収され凝固・結晶することによって生じるのである。そのような人間身体を、本稿では「外発的身体」とも表現することにしている。
〔引用②〕
ところで経験が私に教えるのは、何が現実的に存在するのか、またそれはどのような仕方で存在しているのかということであって、そのものが必然的にそうであり、それ以外のものであってはならないということではない。それだから経験は、決して物自体の本性を教えることはできないのである。92頁, S73.
〔注記②〕
「現象は感官にもとづくが、しかし判断は悟性にもとづく」(84頁、S.69.)のだから、「現実的に存在する」物に(ア・ポステリオリに)触ってみても(感官レベル)、「物自体の本性」を(ア・プリオリに)知ったこと(悟性レベル)にはならない。難しい! また、個人のレベルに留まる「知覚判断“Wahrnehmungsurteil”」と個人にとどまらず客観性を帯びた「経験判断“Erfahrungsurteil”」を区別してみても(101-102頁. S79.)、所詮は感官レベルにすぎないとなる。
〔引用③〕
実際、感官の対象を――当然のことながら――単なる現象と見なすならば、我々はこのことによって同時に、現象の根底に物自体の存することを認めることになる。しかしその場合にも、この物自体がどのような性質をもつものであるかを知るのではなくて、物自体の現われであるところの現象を知るだけである。換言すれば、我々に知られていないこの何か或るもの(von diesem unbekannten Etwas)が、我々の感官を触発する仕方を知るだけである。それだから悟性は、現象を認めることによって同時に物自体の現実的存在(das Dasein von Dingen an sich selbst)をも承認することになる。134頁, S.96. .
〔注記③〕
「物自体の現実的存在」と書かれても、それは「我々に知られていないこの何か或るもの」なのだから、いっこうにピンとこない。そのわけは、便宜上で私が区分した〔メソフィジカル・バース〕を考察のツールに加えるとスッキリしてくる。すなわち、〔メタフィジカル・バース〕に存在する物自体が〔メソフィジカル・バース〕において現実的存在となっているのである。
〔引用④〕
それだから私の言っている(厳密に言えば、――批判的)観念論は、まったく独特の(von ganz eigentümlicher Art)理論であり、普通に謳われている観念論を瓦解させる(umstürzt)たぐいのものである。私のこの観念論によって、一切のア・プリオリな認識は、従ってまた幾何学の認識すら、初めて客観的実在性を得るのである。262頁、S166.
〔注記④〕
カントは自分の哲学は、ある箇所では「物」を認めているので観念論でないと言い、またここでは独特ではあるが観念論だ、と言っている。その曖昧な表現も、〔メソフィジカル・バース〕を、考慮することで問題解決に向かうのではないだろうか。
むすびに
ヘーゲル哲学から開始してヘーゲル左派、フォイエルバッハ、ローレンツ・フォン・シュタインへと19世紀ドイツ思想を探究した柴田隆行は、勤務先の東洋大学で「【二〇一九年度哲学堂祭記念講演録】カントと現象の救済」と題する記念講演を行ったが、その中で次のように語った(『井上円了センター年報』通算31号、2023年、44頁)。
感性的存在者であることは、いわば煩悩に日々苛まれる〈この身〉であります。その私がいかにして道徳主体でありうるのか。批判主体ないし道徳主体としての理性的存在者ではなく、悪への自由すら有す人間としての私という根本問題、これを考えなければならない。これが十九世紀以降の、そして私たちの実際の〈身〉のあり方ではないかというふうに、カントから解釈することが出来ると思います。
この言い分は何かカントらしくない。むしろ親鸞の仏教思想にふさわしい。親鸞は弟子の唯円がまとめた『歎異抄』の中で、わが身の「煩悩」を避けがたい「宿業」としている。その状態を一気に解決する方途として「南無阿弥陀仏」と唱えるわけである。それに対して柴田は、自著『連帯するエゴイズム―いまなおフォイエルバッハ』(こぶし書房、2020年、148-149頁)において、フォイエルバッハの「共苦(Mitleid)」に言及し、「いわゆる『同情』ではなく、『共苦』すなわち自分自身が苦悩する存在であるがゆえに他者の苦悩を自らのうちで感受すること」を力説している。本稿でカントの主著群に関する読書ノートを綴った背景には、私自身も柴田の言う共苦をカントから導き出せるのではないか、との思いがある。柴田はわが畏友である。2021年11月に不慮の事故で亡くなった。私は彼の学問とその歩みを尊敬しており、彼が遺していった諸問題を引き受けていく所存である。

(いしづかまさひで)
(pubspace-x14830,2026.03.11)
