歴史知の視座でカント思想を読解する(一)

石塚正英

  
はじめに
  
   カントについて、私は例えば以下の論文を公開してある――「カントのPersonとSacheとフェティシズム」(拙著『歴史知の百学連環』社会評論社、2022年)。術語のフェティシズムは、いまでは所謂SM(サディズム・マゾヒズム)と混同して用いられる性の倒錯現象ないしそれを説明する学説・理論を指している。しかし、そもそもフェティシズムとは、この語を創始することでその概念を確定した啓蒙期フランスの比較宗教論者シャルル・ド=ブロス(1709-77)によれば、性の倒錯というよりも、人と神との地位の転倒現象ないしそれを説明する学説・理論のことである。宗教の領域におけるフェティシズムの特徴は、ときに人が神の位置に立つことである。フェティシュ=神とは人が造ったものだから、当然といえよう。現代人の見地から言うと、フェティシストは唯物論者である。なぜなら、フェティシズムの思想圏では、人を造るような神は存在せず、逆に神を造る人が存在するのであるから(拙著『フェティシズム―通奏低音』社会評論社、2014年参照)。
   ところで、私はフォイエルバッハ研究の一環としてイマヌエル・カントに注目してきた。その限りでの認識だが、カントのターミノロジーでは、他者の人格をさして「他我(der Andere)」と称する。その術語で表現される対象として、動物などの非理性的な存在、自然存在は埒外である。そのようなカント思想を参考にすると、私が理解するド=ブロス的フェティシズムやフォイエルバッハ的自然信仰論では、理性を持たない存在、たとえば動物は、神に選定されることで物件(Sache)から人格(Person)、人格的崇拝対象(Fetisch)に転じる。その発想はカントには暴論以外の何ものでもない。さらにこのFetischは、崇拝に値しなくなり投げ捨てられると再転倒し、物件となる。フェティシズムはその交互運動によって特徴づけられる。カント的な構え、すなわち理性なき物件(Sache)は永久にそのまま、理性を備えた人格(Person)は永久にそのまま、という固定化は人間中心主義の典型となる。
   まえもっての解説として、もう一つ「歴史知」に言及しておく。例えば、ローマ人とゲルマン人によってヨーロッパ各地を追われたケルト人の一部はフランスのブルターニュ地方に残存している。またケルト人の一部はアイルランドに移動して、そこに定住した。さらに彼らの一部はスコットランド地方やウェールズ地方にも定住して、今日に至っている。彼らは中世に至ってキリスト教を受容しはするが、それはあくまでもケルト風にである。先史から受け継いだ自然信仰の中にキリスト教を包み込むやり方(ケルト十字塔など)である。泉や森や風、それに穀物や大地の神々に支えられるキリストという流儀であった。中世キリスト教とそれを基盤とし洗練へ向かう文化を文明知と名付けるならば、ケルト文化は時代を経つつもけっして原初的な精神と日常生活から離れずにいるもので、それを私は歴史知と呼んでいる。固有の中に普遍的なものを体現し、文明の基盤に原初性を見出す多様史観、それが歴史知を構成する。
 
カント『純粋理性批判』を読む
 
☆テキスト―篠田英雄訳『純粋理性批判』(上・中・下、2004-2005年、岩波文庫)。もっと読みやすい翻訳書がある、との指摘は届いているが、各地の図書館に備わっている確率の高いものを選んだ。頁数、例えば[中85]は中分冊85頁を示す。
ドイツ語版(web版) Immanuel Kant, Kritik der reinen Vernunft, Leipzig Verlag von Felix Meiner, 1919.
https://archive.org/details/kritikderreinenv19kant/page/n5/mode/2up
原書には、1919年第11版と1787年第2版の頁数が併記されている。[S20]は1919年版の20頁を示し、[B123]は1787年版の123頁を示す。なお[B]とは第2版を示す。〔引用◯〕は原書からの引用、〔注記◯〕は私の注記である。
☆読書にさきだっての了解。この読書では、カント哲学の正しい読み方を訓練するわけではない。カントという人物とその思想の全貌を捉えることを狙ってもいない。【価値転倒の社会哲学】という石塚の研究遍歴からみて参考となるようなカント読解を試みるだけである。とりわけ、わが【歴史知】研究に資するカントを探究することが目的である。
☆カントの術語に対する私なりの理解。
感性(Sinnlichkeit):空間と時間に規定される外部情報(Information)を採取する能力。
悟性(Verstand):感性によって得られた情報を結合して判断し、知識(Wissen)や知性(Intelligenz)のレベルで概念化する能力。
理性(Vernunft):完全性(完全なもの)を構想し、知恵(Weisheit)として普遍化する能力。
経験概念:経験・感性が獲得する主観的イメージで、後天的(ア・ポステリオリa posteriori)。
純粋概念:理性・悟性が備える客観的イメージで、先験的(ア・プリオリa priori)。
対象:イメージとして存在するが、物自体(Ding an sich)は認識をこえ超越的、不可知。
 
〔引用①〕
数学は、人間理性の歴史が遡り得る最も古い時代から、ギリシア人という驚異すべき民族のなかで、一個の学としての確実な道を歩んできた。上28頁、S.24., Vorrede zur zweiten Auflage., X.
〔注記①〕
   たとえば、三角関数の加法定理は古代ギリシアの天文学者クラウディオス・プトレマイオス(Claudius Ptolemaeus, 83頃-168頃、英語名で「トレミー(Ptolemy)」)が「発見」したと言われているが、数学の定理や公式は、森羅万象のどこかに埋まっていたわけではないから、彼が数学(技術)を駆使して「発明」したのだろう。それに対して、量子力学の要である「量子」は極小のナノ世界に潜む物質なのだから、「発見」に思える。しかし、これとて数学的存在であるから、「発明」にも思える。素粒子の一つ、光の粒子である光子(photon)は、アインシュタインによって光量子(light quantum)と命名されもしたが、それは質料を持たない。紛れもなく数学(技術)によって発明された存在である。それよりなにより、発明の技術的道具である数学は、発見されたのでなく発明された人工的存在であり、それによって産出される世界もまた発明品だ。それから、ミレトス学派の創始者タレースはギリシア系イオニア人であって、狭義のギリシア人ではない。現代から回顧するならば、アラビア系諸民族がギリシア系文化の一つとして数学を発展させたことがいっそう重要といえる。
〔引用②〕
つまり我々が認識し得るのは、物自体としての対象(Gegenstande als Dinge an sich selbst)ではなくて、感性的直観の対象(Object der sinnlichen Anschauung)としての物――換言すれば、現象としての物だけである。上40頁、S.34, Vorrede zur zweiten Auflage., XXVI
〔注記②〕
   先史人や野生人の思考・思想は、動物や奇岩など、物それ自体が端緒(Anfang)にして実体(Substanz)なので、「物自体」と「対象としての物」との区別はありえない。彼らにすれば文明人・理性人カントの考えは転倒した発想、フィクションにあたる。カントが言う物自体は認識できないが存在する。その存在圏域は超自然であり、私が定義する〔メタフィジカル・バース〕にあたる。
〔引用③〕
例えば人間の心(Seele)について、一方では人間の意志は自由であると言いながら、他方ではこの意志は同時に自然必然性に支配されている、即ち自由でない、と言うことはできない。そういうことをしたら明らかに矛盾に陥らざるを得ないだろう、つまり私はこの両つの命題に含まれている「心」を、まったく同一の意味に――即ち物一般(物自体)と(als Ding überhaupt (als Sache an sich selbst))解したのであり、また予め批判を経ていないと、これ以外に解しようがなかったからである。上41頁、S.35, Vorrede zur zweiten Auflage., XXVII.
〔注記③〕
   カントの用語「物自体」の言語は、通常は“Ding an sich”なのだが、ここでは“Sache an sich selbst”となっている。その違いをどうすれば確認できるか。ちなみに“Sache an sich selbst”の11行前では“Dingen an sich selbst”と「物」が複数形になっている。それより何より、物一般(Ding überhaupt)と物自体が等しく並んでいる。カント哲学に詳しくない私には、そんなものか、と読み過ごしておきたい。
〔引用④〕
即ち――我々の経験的認識ですら、我々が感覚的印象によって受け取るところのもの(was wir durch Eindrücke empfangen)〔直観において与えられたもの〕に、我々自身の認識能力〔悟性〕が(感覚的印象は単に誘因をなすにすぎない)自分自身のうちから取り出したところのもの〔悟性概念〕が付け加わってできた合成物(ein Zusammengesetztes)だということである。上57頁、S47. B1.
〔注記④〕
    “ein Zusammengesetztes”は、合成物という訳語でも構わないが、2要素は融解しているのでなく別個に組み合わされている点に留意するべきだ。そのうえで、私は「感覚的印象によって受け取るところのもの」が「自分自身のうちから取り出したところのもの」を下支えし豊富化していると考える。カントに逆らって、私は感覚を認識の上に置き、前者が後者の誘引をなすと考えている。
〔引用⑤〕
認識がどんな仕方で、またどんな手段によって対象に関係するにもせよ、認識が直接に対象と関係するための方法、また一切の思惟が手段として求めるところの方法は直観(Anschauung)である。しかし直観は、対象が我々に与えられる限りにおいてのみ生じるものである。ところで対象が我々に与えられるということは、少なくとも我々人間にとっては、対象が或る仕方で心意識(Gemüt)を触発(affizieren)することによってのみ可能である。我々が対象から触発される仕方によって表象を受け取る能力(Rezeptivität受容性)を感性(Sinnlichkeit)という。それだから対象は、感性を介して我々に与えられる。また感性のみが我々に直観を給するのである。ところが対象は悟性(Verstand)によって考えられる。そして悟性から概念(Begriff)が生じるのである。上86頁、S75. B33.
〔注記⑤〕
   〔環境の凝固結晶としての身体〕という私の論文で披露したベクトル反転の議論に有益な記述だ。カントによると、対象(環境)は「感性」を介して我々(人間)に与えられる。つまり、人間は環境に対して受動的な対応をしている。環境が人間に凝固結晶して人間が形成される。以下に引用する。「これまで、身体(身体観)の変化を考察する場合、身体は環境(社会・自然)に向かって、内部から外部へ拡張していくように理解してきた。「道具・機械も身体の一部」という発想がそれである。いうなれば「内発的身体」である。しかし、本研究では考察のベクトルを反転させ、環境から身体論を構築する。身体の変容は、身体が環境への拡張によって生じるのではなく、環境が人間身体に吸収され凝固・結晶することによって生じるのである。そのような人間身体を、本稿では「外発的身体」とも表現することにしたい」。石塚正英「環境の凝固結晶としての人間身体」、同『身体知と感性知―アンサンブル』社会評論社、2014年、所収。
〔引用⑥〕
或る対象を一つの概念のもとに包摂する場合には、その対象はいつでも概念と同種なものでなければならない、――換言すれば、その概念のもとに包摂せられる対象において表象せられるところのものを、自分のうちに含んでいなければならない。対象が概念のもとに包摂されているという言い方は、まさにこのことを意味するからである。それだから例えば、皿という経験的概念は、円という純粋な幾何学的概念と同種である。円という概念において考えられるところの「円さ」は、皿という経験的概念において直観せられるからである。上214頁、S182. B176.
〔注記⑥〕
   円(幾何学的概念)を用いて皿(経験的概念)の丸さと同種であることを理解させるというこの説明文は、私の以下の文章と類似している。
   「例えば、円を考えてみよう。小学校で算数の時間に教わるまんまるの円である。これは、現実世界にはけっして存在しないものである。完璧な円や球といった図形や造形は理論的に想定されたものでしかない。小学校の先生たちは、黒板やノートにコンパスで描いてみせて、生徒たちにそれを円だと言いきかせているだけである。一種のバーチャル・リアリティである。いやそれどころか、そもそも直線や曲線、それに点も、けっして描くことができない。それらは面積をもたないからである。しかし、これを存在し描けることにしなければ算数・数学は成立しない。
   その際、理論上のバーチャルな円についての認知・認識を科学知・理論知と仮定し、現実世界に存在する〔まるいもの〕――太陽や満月、瞳など――についての認知・認識を生活知・経験知、総じて歴史知と仮定してみよう。そのような設定においては、生活知・経験知の中から科学知・理論知が成立していることがわかる。経験的観察を基準にして観念的再構成がなされるのである。
   ところが、後者がいったん確立すると、それは前者を規定する基準になり、こうして現実と理論の間にバーチャルな関係が生まれる。これは転倒した関係である。その転倒現象を一度もとに戻して現象世界を交互的に見極めようというのが、歴史知の立場である。「知」に「歴史」という形容語を冠した理由は、以上の転倒現象がとりわけ近代と前近代との間で歴史的なスパンをもって顕著になってきたからである」。石塚正英『歴史知と多様化史観―関係論的』社会評論社、2014年、18-19頁。
〔引用⑦〕
実在性は、純粋悟性概念において感覚一般に対応するところのものである。それだからそのものの概念自体が(時間における)存在を示している。また否定は、概念に対応する物の(時間における)非存在を表わすところのものである。すると実在と否定との対立は、同一の時間が充実しているのと空虚であるのとの相違ということになる。時間は直観の形式であり、従ってまた現象としての対象の形式にほかならないから、かかる対象において感覚に対応するものは、物自体(Sachheit事物性、即ち実在性)としての一切の対象という先験的質料である。ところでおよそ感覚は度或は量〔quantitas〕を有し、感覚はこれによって同一の時間を、――換言すれば、或る対象に関する同一の表象を含むところの内容を、無(無は零であり、零は否定である)にいたって消滅するまで、或いは多く或は少なく様々な度合いで充たすことができる。それだからここには、実在と否定との関係と連関、或いはむしろ実在から否定への移り行きがある、そしてこの移行は、実在するいかなるものをも一つの量として表すのである。「何か或るもの」が時間を充たしている限り、そのものの量としての実在性の図式は、時間における実在の一様な連続的産出にほかならない。要するに我々は時間において、或る度をもつ感覚からこの感覚が消滅するところまでいわば下降し、或いはまた否定即ち零から、この感覚がなんらか量をもつところまで次第に上昇するわけである。
   実体の図式は、時間における実在的なものの常住不変性である、――換言すれば、経験的な時間規定一般の基体としての実在的なものの表象である、それだから他の一切のものは変化しても、この基体は常住的である。(時間そのものは消滅しない、「変遷するもの」の現実的存在が、時間において消滅するのである。従ってそれ自体変遷しない常住的な時間に、現象において対応するところのものは、現実的存在において「変遷しないもの」、即ち実体である。現象の継起や同時的存在はかかる実体に即してのみ、時間に関して規定されるのである。)上219-220頁、S186-187. B182-183.
〔注記⑦〕
   実体は永遠に不変で存在し続ける、とか、「何か或るもの」が時間を充たしている限り、という発想に立つカントは文明人である。彼の時間感覚は合理的である。歴史知的視座から見ると、非文明の野生社会や非文明の先史社会において、時間は「何か或るもの」の経過をもって刻まれる。端的に表現すると、儀礼行為の轍に時間ができる。カントは〔先史の精神〕を知らないか無視しているかである。先史においては、①神が人をつくるのでなく人が神をつくる。②暦の中に祭事があるのでなく、祭事のあとに暦が出来ていく。③先史人は儀礼を通じて或る対象に成り切るが、文明人は或る対象を演じ模倣する。
   このテーマについて、私は大学講座で講じ文章化してきた。その一例(中央大学文学部、2019年9月24日第2限開講)を以下に引用する。「儀礼を施して、初めてカレンダーが動いていく、行事の後に暦ができていくということです。でも現代は、寝ていても自動的に次々と月日が過ぎてしまう。いまの天気予報で昔をしのばせていていいな、と思うのは春一番です。立春から春分までの間に吹いた嵐のことを言うのです。その時期を過ぎたらどれだけ吹こうがもう春一番は来ない。ところで、春一番にも儀礼があったとして、昔ならば儀礼を施さないと春一番は来ない。現代の私たちは、気象台の認定基準に即して来たか来なかったかを判断するのですが、昔ならば儀礼を執り行うことで風の神を受け入れたんです。風が強ければそれなりに、弱ければそれなりに。この方が人間的でいいのではないかな」(「〔講義〕先史の精神、あるいはプラトンの相対化」、『NPO法人頸城野郷土資料室学術研究部研究紀要』Forum53 2019年、13頁)。
〔引用⑧〕
ア・プリオリな原則が原則という名をもつのは、これらの原則が他の判断の根拠を含んでいるという理由からばかりでなく、またかかる原則自身が最も高いかつ最も一般的な認識に基づいているからでもある。上224頁、S190. B188.
〔注記⑧〕
   カントのいう「ア・プリオリ」は、「生まれる前の(先天的)」という時間軸に関わる用法でなく、「経験していない」というパラダイムに関わる用法と思われる。それを私の術語で表現すると、以下のようである。ア・プリオリは理性知・科学知に即している。それに対して、ア・ポステリオリは感性知・経験知に即している。双方の往復運動・相関関係を圏域とする知平に歴史知は成立する。例えば「プラシーボ(偽薬)効果」は歴史知的な観点からは真面目なテーマとなる。
〔引用⑨〕
それだから経験は、その形式のア・プリオリな原理を――換言すれば、現象を綜合的に統一する一般的規則を、根底としているのである。そしてこの規則の客観的実在性は、必然的条件として常に経験において、それどころか経験を可能にするということにおいてすら、示され得るのである。上231頁、S196. B196.
〔注記⑨〕
   カントのいう「ア・プリオリ」は、未経験を指すと思うのだが、ここでは予知能力か設計図を指すように感じられる。こうなるともはや汎神論であろうと理神論であろうと、神の掌――あるいは釈迦の掌――にしか見いだし得ない。人間はまるで、釈迦の掌で動き回る孫悟空のごとくである。
〔引用⑩〕
すべて現象は時間において存在する。同時的存在も継起も、基体(Substrat実体的基礎)としての時間(内的直観の不変な形式としての)においてのみ、表象せられるのである。上257頁、S219. B224.
〔注記⑩〕
   先ほど私は、カントのいう「ア・プリオリ」は、「生まれる前の(先天的)」という時間軸に関わる用法でなく、「経験していない」というパラダイムに関わる用法、とした。しかし、「現象」を論じるこの箇所では、時間が決定的な要素になっている。
〔引用⑪〕
従って理性的心理学の場所論、即ちこの学の根本思想は、次のように排列される。そしてこの心理学が含む限りの諸他いっさいのものは、すべてこれから導来せられねばならない。
1心は実体である(Die Seele ist Substanz.)。〔関係〕
2心はその性質上単純である。〔性質〕
3心は相異なる時間に存在してもかかる種々な時間に関して常に「数的に同一」である、換言すれば(数多でなくて)単一である。〔分量〕
4心は空間における可能的対象〔物体〕と相互的に関係している。〔様態〕
 純粋〔理性的〕心理学における概念はすべて上記の要素の合成によってのみ生じ、そのほかにはいかなる原理をも認めない。中60-61頁、S351, B402-403.
〔注記⑪〕
   カントは「心(Seele)は実体(Substanz)」だとする。彼のいう「実体」は現象世界の背後に存在するものの、現象世界(外的実体)と断絶してはいない。個々人にとって自身の心(内的実体)は、対人関係を含めた「可能的対象と相互的に関係」して捉える「経験概念」として、まずは感性(Sinnlichkeit)としての心=自己として、ア・ポステリオリに認識可能である。さらに、心は物という現象世界すなわち「可能対象と相互的に関係している」のだから、その限りで個々人は感覚=現象を手がかりに悟性(Verstand)で認識できることになる。ただしア・プリオリには不可能であろう。「われ思う」内的実体だけで実体を語るデカルトのように、「そもそも心とは」といった本質論あるいは「純粋概念」として「心」をア・プリオリに認識することはできないはずである。なお、カントの言う「先験的」は時間的な先験でなく論理的な先験である。
〔引用⑫〕
第一に、世界は始まりをもたないと想定してみよう、そうすると世界は諸君の悟性概念にとっては過大である、世界の始まりは継続的背進(Regressus)の果てに成立するものであるのに、この場合には経過した永遠全体を遡り切ることができないからである。次に世界は始まりをもつと仮定してみよう、そうすると世界は必然的な経験的背進という諸君の悟性概念にとっては過小である。この場合に、始まりは常にそれよりも前にある時間を前提するから、このような始まりはまだ無条件的ではない、そこで諸君は悟性の経験的使用の法則に従って、更に高次の時間的条件を尋ねざるを得ない、それだから世界は、かかる法則にとっては明らかに過小である。中164-165頁、S435, B514-515.
〔注記⑫〕
   生半可なカント解釈だが、自分なりの感想を記す。カントのアンチノミー論は表層的に二律背反となっているだけで、深層では背反していない。世界の始まり(Anfang)がなければ世界は始まっていないはずだが、世界は現に存在して経過している。ゆえに端緒はある、となるだけなのだ。世界に始まりがあると想定しても、「始まりは常にそれよりも前にある時間を前提する」から始まりはない、とするのは言葉遊びにすぎない。「始まり」以前にはなにも存在しないことを定言命法のように定義したのだから。“Anfang”は数字のゼロと同様、自身に内的な意味はないが、他者(時空)を形成するという外的な意味を有している。その意味は、般若心経の「空」とも共通する。また、私の主張する〔価値転倒の社会哲学〕でみると、物事においては物と事は区別されつつも不可分離的にして交互的、価値転倒的なかかわりを有する。例えば、人の生命=人生は誕生とともに始まる。けれども、本人は始まりを永遠に知らず、結果追認として知る。自身に内的な意味を有して誕生する者はいないが、「始まり」としての誕生とともに時空の只中で他者(もう一人の自身“alter-ego”)を形成するという外的な意味を有している。この「もう一人の自身」を時間差で遡って行けば自己は誕生以前に連結し、「始まり」はない、ともいえる。
〔引用⑬〕
しかし現象において実体と名づけられるところのものについては、これとまったく事情を異にする。現象における実体は、純粋悟性概念によって考えられるような物自体ではない。つまりかかる実体は絶対的主体ではなくて、感性における常住的形像(beharrliches Bild der Sinnlichkeit)であり、従ってそれは直観にほかならない、そしてこの直観においては、無条件者なるものはまったく見出され得ないのである。中200頁、S464. B553-554.
〔注記⑬〕
   カントの実体概念は①理念界(物自体)と②現象界(常住的形像)の双方にまたがっている。そういった関係を整理するため、私は①〔メタフィジカル・バース〕と②〔フィジカル・バース〕の間に〔メソフィジカル・バース〕を置いている。ニュートン力学の成り立つ圏域を〔フィジカル・バース〕とし、プラトンのイデアやカントの身の自体が存在する圏域を〔メタフィジカル・バース〕とし、その中間において両圏域の諸要素の混合、交差する圏域を〔メソフィジカル・バース〕としている。詳しくは以下の拙稿を参照。「自然と超自然の緩衝域を考える―メソバース(時空中間域)の想定」、拙著『原初性漂うハビトゥスの水脈』社会評論社、2024年、第2章。
〔引用⑭〕
このことをもっとはっきり説明してみよう。我々は原理としてのこれらの理念に従って、第一に(心理学において)我々の心のあらゆる現象、作用および感受した印象などを内的経験の手引きに従って結合するのであるが、その場合に心はあたかも単純な実体であるかのように見なされる、つまり心は人格的同一性を具え、(少なくとも此世の生においては)常住不変に実在する実体であり、これに対して実体〔心〕の状態は不断に変易するものと見なされるのである。なおこの場合に身体の状態は、外的条件としてのみ実体の状態に属するのである。中331頁、S569. B700.
〔注記⑭〕
   実体(Substanz)は不断に変易するが心(Gemüth)は粘り強く(beharrlich)実在する、と言いたいのだろうが、すっきりしない。カントの実体概念は理念界(物自体)と現象界(常住的形像)の双方にまたがっているので、ややこしい。だが、私の問題関心である〔メソフィジカル・バース〕にとっては願ってもない概念である。この〔存在圏の3類型〕を思いつくに至った発端は、1968年に遡る。Win-P談義である。詳しくは以下の拙稿を参照。「量子世界は半自然世界である」、石塚正英『量子力学の陰日向―文明を支える原初性』社会評論社、2025年、第1章。
〔引用⑮〕
ところで我々は、この理念の先験的対象を一瞥しただけでも、かかる対象の現実性を、実在性、実体、原因性等の概念によってそれ自体前提し得ないことが判る。これらの概念は、感覚界とは全然異なる何か或るもの〔物自体〕にはまったく適用せられ得ないからである。それだから理性の想定する第一原因としての最高存在者は、感覚界の体系的統一のために相対的に考えられたものにすぎない、即ち理念における何か或るものにほかならないのであって、我々はこのものがそれ自体なんであるかをまったく知らないのである。中337-338頁、S574. B707.
〔注記⑮〕
   長年カントに興味を覚えないできた理由がこれだ。私は、「感覚界とは全然異なる何か或るもの」に関心がないからだ。権謀術数にたけつつ喜怒哀楽の激しい人間たちの感覚世界と、それを包み込む自然界との交互関係に関心があるからだ。物自体は認識不可能といった発想は不自然である。それでは科学が成立しない。まてよ、科学の成立しない世界があってなぜおかしいのだ? 自然界に不自然界が隣り合わせに存在していて、何がおかしいのだろう? 科学至上主義のほうがおかしいのではないだろうか?
〔引用⑯〕
理性的存在者(ens rationis ratiocinatae)は、もとより単なる理念にすぎない、それだから何か或る現実的なものとしてそれ自体絶対的に想定されるものではなくて、感覚界における物の一切の結合を、あたかもこれらの物がそれぞれこの理性的存在者にその根拠をもつかのように見なすために、蓋然的にかかる結合の根底におかれるにすぎない。中339頁 S575. B709.
〔注記⑯〕
   歴史知の視座で理念としての円と、現実としての丸いもの(コインや満月、瞳など)との関係を説明する構えと同一に思える。つまり、ここでの「理性的存在者」「体系的統一の基礎」が「円」にあたり、「経験的悟性認識」が「丸いもの」にあたる。理念と認識のフェティシズムである。交互的な転倒であって、一方が間違っているわけではない。
〔引用⑰〕
かかる理念(理性的存在者“ens rationis ratiocinatae”―引用者)の第一の対象は、「私(Ich)」そのものであり、それは思惟する自然(心)と見なされた「私」にほかならない。ところで思惟する存在者自体として実在すると考えられる物の有する諸種の特性がどのようなものであるかを知ろうとすれば、私はこれを経験に尋ねざるを得ない。しかし私はかかる対象にいかなるカテゴリーをも適用することができない。カテゴリーの図式は、感性的直観においてしか与えられないからである。私はカテゴリーをもって、内感の一切の現象の体系的統一(eine systematischen Einheit aller Erscheinungen des inneren Sinnes)に達することはできない。つまり(現実に存在する「心」という)経験概念は、それほど遠くまで達し得るものではないから、理性はその代わりにあらゆる思惟の経験的統一という概念を導入し、かかる統一を無条件的、根原的なものと考えることによって、この概念から単純な実体という理性概念を作り出すのである。そしてこの単純な実体はそれ自体変転しないで(即ち人格的同一性を有して)、自分の外にある一切の現実的なものと相互関係を形成する、――約言すれば、この実体は単純な自存的叡智者という理念である。中339-340頁、S575-576. B709.
〔注記⑰〕
   「内感(der inner Sinn)」という術語が出ている。カントのいわゆる超越論哲学においける概念説明として、円谷裕二「内感のパラドックス―自己認識 の問題と超越論的哲学」によれば、「超越論的哲学における内感現象とは,このような 超越論的な問題圏域においてその説明手段として要求されたものなのである」(『信州大学教養部紀要』第28号、1994年、5頁)。カントにおいて内感には外感が対置されているが、私としては内外の間に交差する関係性の起点を外部に見ている。それから、「思惟する自然」と「思惟する存在(者)」の二通りが記されている。ここに記されている「自然」、「存在」は人間のことと思われる。「経験概念“Erfahrungsbegriff”」とされる「現実に存在する心」”was die Seele wirklich ist”という表現からは、心が身体に内在していると解釈できる。フォイエルバッハの〔他我論alter-ego〕が見え隠れする。「他我」とはラテン語で〔alter ego(もう一人の私)〕となる。このalter egoに対応するギリシア語にheteros autos(もう一人の自身)がある。これはアリストテレス『ニコマコス倫理学』に読まれる。アリストテレスでは「自身(self)」だった箇所はラテン語では「自己(ego)」に代っている。それはそれで重要な問題を含んでいるが、フォイエルバッハは、この語の概念を、アリストテレスに発するギリシア的、隣人愛的なコンテキストから、人間と非人間の交互を特徴とする非ヨーロッパ的なコンテキストに置き換えた。[他我]には自然も神も含まれたのである。石塚正英『フォイエルバッハの社会哲学―他我論を基軸に』社会評論社、2014年、参照。
〔引用⑱〕
物体的自然に関しては、およそ理念は不可能である。我々はこの自然においては感性的直観だけを手引きとするからである。この点で物体的自然は、心理学的な根本概念(「私」)を要求するところの思惟する自然とは趣を異にする、この根本概念は思惟の或る形式、即ち思惟の統一をア・プリオリに含んでいるからである。中342頁、S712-713. B712.
〔注記⑱〕
   カントには、フォイエルバッハのように自然を〔他我“alter-ego”〕と捉える思想が欠けている。ここに見える「物体的自然“die körperliche Natur”」には人間身体だけでなく動物も含まれるだろう。
〔引用⑲〕
この〔自然における〕体系的統一の原理〔理念〕を誤解するところから生じる第二の誤謬は、顚倒した理性(perversa ratio, υστερον προτερον rationis)と呼ばれるものである。体系的統一の理念はまったく統整的原理であり、物の結合においてこの統一を普遍的法則に従って尋ねるために役立つにすぎない。またかかる体系的統一が経験の進路において幾分でも見出されたら、我々はこの理念にかんがみて、理性使用の完成にそれだけ近づいたと考えてよい。しかし我々が、実際にかかる完成の域に到達し得るものでないことは言うまでもない。ところが我々は事柄を顚倒して、合目的統一を実体化し、その原理を現実的に存在するものとして最初から根底におき、また最高叡智者という概念はそれ自体決して究明せられ得ないものであるところから、この概念を擬人的〔神人同形論的〕に規定し、さて自然に目的を無理やりに押しつけるのであるが、しかしこれらの目的は当然、自然研究の進路において尋ねられねばならないものなのである。そこで目的論〔Teleologie〕は、もともと自然における統一を普遍的法則に従って補うというだけの用をなすにすぎないのに却ってこの自然統一を失却するという結果を招くばかりでなく、理性の本来の目的、即ち目的論を用いて自然統一を普遍的法則に従って補充したのちに、かかる仮想的な第一原因の現実的存在を自然に基づいて証明しようとする目的をも逸することになるのである。実際、もし我々が自然における最高の合目的性をア・プリオリに――と言うのは、かかる最高の合目的性を自然の本質に属するものとして前提し得ないとしたら、我々は何を頼りにしてこの合目的性を尋ねようとするのだろうか、また合目的性の階段を昇って絶対に必然的な、従ってまたア・プリオリに認識し得るような創造者の最高完全性にどうして近づこうとするのだろうか。中348-349. S583. B720-721.
〔注記⑲〕
   「最高叡智者」とか「理性使用の完成」とかは実現不可能な理念であるならば、「理性の転倒」「転倒した理性」という事態は生じないはずだ。転倒しないのが理性の理性たる所以だ。理性から非理性の何ものかへと転倒したはずである。歴史知的な説明をするならば、この種の転倒はごく自然な、必然の成行である。「擬人化」はその成行の現象としてあるが、それは実は「擬神化」だったりする。最高存在をまさか人間化するわけがない。神化するのである。カントは別の個所でこう記している。「比較的精緻な擬人観に(これがないと我々は、最高存在者なるものをまったく思いみることができない)従って” nach einem subtileren Anthropomorphismus (ohne welchen sich gar nichts von ihr denken lassen würde)”」(中354, B728.)「擬人化」(最高存在だから「擬神化」のはずだが)は必要不可欠なのである。カントは語るに落ちた、という印象を受ける。
〔引用⑳〕
自然状態においては、争いを終結させるものは勝利である。そして勝利は双方の当事者の誇りとするところであるが、しかしこれに続く平和は、仲裁に介入する当局によって制定せられた不安定な平和でしかない。これに反して合法的状態において係争を解決するものは判決(die Sentenz)である、この場合に判決は、紛争そのものの根源を塞ぐから、これによって永久の平和がもたらされることは必定である。下51、S628, B779-780. 
〔注記⑳〕
   カントの永久平和論である。2010-2020年代は、アメリカ大統領トランプの言動によって世界平和は極端に脅かされた。大統領選から一夜明けた2016年11月10日、トランプの大統領選勝利を「番狂わせ」「予想外」とする報道が目立った。しかし、接戦を展開してきたことは事実なのだから、狂った意味を個人の資質などに矮小化してはならない。あえて言えば、社会情勢が、時代思潮が、トランプをのし上げたのだ。道徳的に善とか悪とか、法的に正義とか不正義とか、民族的に歓迎するとか非難するとかを云々するよりも、歴史の大きなうねりを感じている。誤っているのは機構としての国連とか国際法とかでなく違法なトランプと彼を支持する世論である。
〔引用㉑〕
ところで感性的衝動によってのみ、換言すれば感性的にのみ規定せられる意志は、単なる動物的意志である。これに対して感性的衝動にかかわりなく、理性の指示する動因によってのみ規定せられる意志は自由意志と呼ばれる。そしてかかる自由意志に結びつく一切のものは、それが理由であると帰結であるとを問わず、すべて実践的と言われる。そしてかかる実践的自由は、経験によってのみ証示せられる。我々の意志は、心を刺戟するもの――換言すれば、我々の感官を直接に触発するところのものだけによって規定せられるのではない。我々は、究極において我々に有益であるかそれとも有害であるかという見通しに関する表象をもつことによって、我々の感性的欲求能力に対する直接の印象を克服し得る能力を具えているのである。下95、S664, B830.
〔注記㉑〕
   カントに従うと、人間であれば悟性を具えている。したがって、人間にあっては感性的にのみ規定せられる意志はあり得ないと言える。悟性と感性の交互的運動の過程で意志は生まれるのである。また、衝動とは自然の動きでなく不自然な動きを指すと考える私の構えでは、野生動物には衝動は見られない。野生動物は、必ずや自然のままに、あるいは本能のままに動いている。人間と生活を共にする家畜やペットについては、その限りで限定された感性を具えていて不思議はない。
〔引用㉒〕
外感の対象は、物質(生命のない不加入的な延長)という単なる概念によって与えられるし、また内的感覚の対象は、思惟する存在者(「私は思惟する」という内的な経験的表象において与えられるような)という概念によって与えられる。しかしいずれにせよこれらの対象に関する形而上学においては、かかる対象に関し、概念によって何ごとかを判断するために、これらの概念の内容になんらかの経験を付加するような経験的原理をいっさい用いてはならないのである。下136、S697, B875-876.
〔注記㉒〕
   思惟する私は「生命のない不加入的な延長」としての身体、「物の自然」を有し、かつ「内的経験」「経験的表象」を「心”Seele”」に有する。その際、カントにおいては「心」が「最高の理性“eine höchste Vernunft”」と結ばれる。けれども、フォイエルバッハの場合は心でなく身体が「自然神“Sache”」と結ばれる。フォイエルバッハの場合、心と身体の間に軽重の差異はない。むしろ、身体こそが自然(神)とダイレクトに結ばれている。
 
 
 
(いしづかまさひで)
 
(pubspace-x14749,2026.03.03)