森忠明
「負けるわけはない。勝つまでやめないんだからな。勝つか、死ぬか、どっちかだ。忘れたのか、俺たちゃそういう生き方をしてきたぜ」(阿佐田哲也「なつかしのギャンブラー」)
こういうセリフを吐ける男や、こういう小説を書ける作家に憧れるのは、私が命とカネを惜しむ小心者のせいだろう。
“なつかしのギャンブラー”が私にも一人いる。そのMという男は、小学校からの友人だが、現在行方不明。もしかすると死んでいるかもしれない。
Mは「名探偵コナン」みたいに頭でっかち、目がぱっちりの色白少年で、実に不思議な生徒だった。授業中にフラリと入室しようが無断で早退しようが、われら四年三組担任のY先生は決して注意しないのである。まさしく”透明な存在”。勉強はからきしできないのに将棋はメチャ強かった。休み時間や放課後に、記念切手やビー玉を賭けて必勝。私は全敗。いろんな物を取られた。交わると為にならない友人を損友というが、痛烈な敗北感を教えてくれたり、この随筆のネタを与えてくれたMは益友というべきだろう。
ある日めずらしく私が優勢で(持ち駒は銀と香だし…飛車は敵陣深く成りこんで敵玉を遠くからにらみつけている。ふふふ、きょうこそは勝つ!)などと思っていたら、Mは申しわけなさそうに「王手」と言う。(ちょ、ちょっと待てよ)、焦って盤面を見る。たしかにこっちの負けだ。サンマリノ共和国だったかの美しい切手を取られたくやしさは忘れられない。
道徳の時間に、二、三人の女生徒がMのギャンブラーぶりを糾弾した時も、Y先生は薄笑いでノーコメント。「なんでMだけは怒られないんだろ、どんな悪いことしてもさ」と母に訊くと、「Mくんのお父さんが○○組の親分だからじゃないの。恐いんだよ」
Y先生に幻滅した。
それから十年後の成人式に、Mはバリッとした三つ揃いで顔を出したが、なんとなく不吉な福助といった感じで、誰とも話さず、ロビーで煙草をふかしていた。「あいつ、本物の博打うちになったらしいぞ」と私にささやく者がいた。
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一九九二年十一月。四十四歳になったMが突然拙宅に来た。母は「あらー、Mくーん久しぶりー」と迎えた。しかし「元気そうね」とは言えなかった。暴力団を抜けようとしていた彼は、再三リンチを受けてボロボロ。ひどいやつれ方だったのである。「十七、八歳のチンピラどもがオレの命を狙ってるんで、これから逃げる」のだとか。「無事を祈るしかできなくてゴメン」と私が言うと「それだけで充分」。お茶を飲み干して去った。一週間ほどたって、どこかの児童図書館から電話をよこしたMは「ここなら殺し屋も来ないだろ。森の本、はじめて読んだけど、心が和んだぜ。もっと早く読みたかったな」と言った。
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『ギャンブルのすきなおばあちゃん』(ダイヤル・カー・カルサ・作、ごとうかずこ・訳、徳間書店、本体一四〇〇円、九七年三月刊)は、孫娘が語るユニークでたくましいアンナという名の祖母の一生。
一九〇〇年頃、アンナがまだ幼い時、彼女は両親と共にロシアからアメリカへ渡ってきた。ニューヨークの下町で暮らすようになり、そこで結婚。夫の仕事がうまくゆかず火の車。「おばあちゃんは、自分も少しお金をかせこうと思い、ポーカーをならったのでした。ポーカーは、目はしがきいて、手先のきようなおばあちゃんにピッタリでした。つめでカードにしるしをつけたり、そで口にエースをかくしたりするのです」。こういう軽妙な文章と素朴派風の明るい画面が、至福というものを思いださせてくれる。コサック兵や大恐慌にもめげずに生きてきた祖母の、度胸のよさと知恵の深さに敬意を表したくなる絵本。
(もりただあき)
森忠明『ねながれ記』園田英樹・編(I 子どもと本の情景)より転載。
(pubspace-x13079,2025.04.30)