高橋一行
プラトンとアリストテレス間に、老いを巡って意見の対立がある。そのことを岡本裕一朗が紹介している。今回はその話から始める。
岡本は、プラトンが国の支配者は老人であるべきだと考えていたのに対し、アリストテレスは、老人を政治から遠ざけるべきだと主張したと言う(注1)。このことを理解するために、最初に政治学の復習をしよう。
まずプラトンは君主制を望ましいと考えている。彼の哲学的主張は、イデア論である。簡単に言えば、それは完全な真実の世界のことであり、しかもそれは実在するのである。そのイデアを体現する人が君主になれば、良い政治ができるとプラトンは考えたのである。その主著『国家』には、如何に立派な君主を育てるかということが書かれている(注2)。将来の君主候補者には、若いときから数学や音楽、体育などあらゆる学科を学ばせ、そののちには実務も積ませて、そうして老人になって完璧な政治家になることが期待されている。一方アリストテレスは、最善の君主は容易に最悪の独裁者になり易いとプラトンを批判し、物事は何事も中庸かつ現実的であることが望ましく、政治も君主制のほか、貴族制や民主制の混合形態が良いと考えていたのである。
こういうことを押さえた上で、岡本の言うところを追っていこう。岡本の理解するプラトンの考えでは、老人は性欲から解放されて、精神的な楽しみが増え、徳のある生活を送ることができるのである。老人は常に若者の手本となるべきとされている。そういう老人ならば、良き支配者になり得るだろうというのである。
それに対してアリストテレスは、その著書『弁論術』の中で、老人を、卑屈で、臆病で、自己中心的で、損得勘定で動き、すぐ愚痴をこぼすと非難する(注3)。老人は様々な能力が減少しているので、政治から遠ざけるべきだと言うのである。
そこで岡本は、「皆さんはどちらの考えに納得されますか? 」と問い掛けて、この節を終えている。しかしその答えは明らかで、今の日本で、つまり老害がこれだけ非難されている現状で、プラトンに賛成する人はいないだろう。しかしではアリストテレスのように、老人を排除して、それで今の日本が抱える問題が解決するのかということもまた、問われねばならない。
私はここで、昨年度まで大学の学部ゼミで良く議論したテーマを思い出す。それは「シルバー民主主義」である(注4)。二十歳を過ぎたばかりの大学3年生、4年生にとって、日本の政治は老人によって毒されていると感じられるようなのだ。
つまり、高齢者が優遇されていると若者は不満を持っている。ひとつの問題は老人が政治の世界を支配し、そのことによって、年金などの社会保障の点で、老人が厚遇されていると若者は感じている。
ただここでも同じ注意が必要で、まず優遇されているのは一部の老人である。「上級国民」などと言われて、若者の怨嗟の的になっているが、老人の多くは年金が極めて不十分な額しかもらえないのである。中にはまったくもらえない人もいるのである。それを一括りにして、老人の優遇という表現でまとめてしまうことはできない。老人間の格差が隠れてしまう。
それから老人の票を得るために、老人に都合の良い政策を政治家が掲げるというものがある。それは確かにそうだが、しかしではどういう政策なら若者に望ましいものになるか。その際に、選挙改革がいつも議論される。例えば年齢に反比例して票の重みを付けようという案もある。若者の一票に老人の3倍の重みを付けるというような案だ。しかしそれで良い政治ができるようになるのか。尋常でない速度で少子高齢化が進んでいるということが根本にあり、小手先で政策をいじくっても、どうにもならないのではないか。
つまり根本に経済の問題があり、社会を老人が支配していると言うとき、そこでイメージされるのは必ずしも政治の話ではない。多くの会社がまだ終身雇用でかつ年功序列制を維持していて、新しいことに挑戦する気力も能力もない中高年が会社を支配している。そういうことに若者が強い不満を持っていて、社会全体が活性化せず、イノヴェーションも起こりにくいというところに問題があると、これは少なくとも若者の側から見れば、そうなるのである。
しかしこれにしても、若者が就職する際に終身雇用が保証されている職場を選ぶ傾向にあり、一方で若い時から給与の高い会社に行ったり、起業する人もいて、そして現実的には不安定な仕事にしか就けないという若者が大勢いる。要は社会全体の格差が大きな問題ではないか。それを世代間対立に話を持って行っているだけのことなのではないか。
私はここで、どうしたら良いかという具体的な解決案を示すことはできない。しかし確実に言えることは、今の社会が住みにくいのは若者にとってだけではなく、老人にとっても同じである。そして若者に都合の良い社会は老人にとってもそうであるはずだということである。
こういう問題を考えるのに、実は先のプラトンとアリストテレスは、大きなヒントを与えている。
まずプラトンが君主制を主張するのは、そこにおいて支配者と被支配者の格差を固定することが目的ではない。注意すべきは、支配者は財産を持ってはいけないと考えられていることである。支配者は常に共同体全体を見渡していろいろと配慮しなければならず、自らは物質的な財産を一切持たない。そういう支配者を想定して、そのもとで真理に基づく政治が行われるのである。プラトンは確かに階級社会を考えているのではあるが、しかしそこでは最も貧しいものでも、きちんと社会の中で分け前に預かれる仕組みが目指されているのである。
アリストテレスはまず、そのプラトンの君主制を一旦は肯定する。しかし現実的に君主制は、貴族と民衆の反発を招く。その解決策は、貴族を権力に参加させることである。しかし少数の貴族による寡頭制はやはり民衆の反乱を招き、そして今度は民主制が要求される。しかし民主制のもとで、民衆は日々の労働に忙しく、権力を行使することができない。すると国政は最もその能力を持つ人に任されることになる。
ここでふたりの説が対立している訳ではないことに注意すべきである。つまり老人支配か老人排除か、または理想主義か現実主義かという話ではなく、君主制から民主制へ、または君主制から混合形態へと移行する、つまり理想を掲げても、それを現実に合わせていくと考えるべきなのである。アリストテレスの、一見老人排除に思える表現も、プラトンの行き過ぎた老人賛美を諫めるものに過ぎない。
私はさらに、J. ランシエールを参照しつつ、もう一度プラトンとアリストテレスを読み直すことが必要だと思う(注5)。彼はこのプラトンとアリストテレスから政治学が始まったと考えているからである。
ランシエールはまず、プラトンの政治を、原理(アルケー)に基づくアルシ・ポリティークと呼ぶ。そこでは民主制ではなく、理念に基づく共和政が対置されている。そこでは法が共同体とそのメンバーを完全に支配している。先に述べたように、そういう社会を想定して、そこで格差の是正がなされることを期待している。
プラトンはこのように、哲学的に政治の問題を解決しようとしたのだが、残念ながらそこで現実的に民衆の問題は解決されていないとランシエールは考える。そこで平等を理念として掲げた上で、それを現実的に実現しようとするアリストテレスが評価される。アリストテレスの、この理念を現実化する具体策は、民衆は誰でも競争をすれば、平等に支配者の地位に就くことができるような制度を創ることである。今の言葉で言えば、民衆は誰もが平等に政治に参加する権利を持っているということになる。これをランシエールはパラ・ポリティークと呼ぶ。民衆を権力の当事者としてずらしたということで、副次的かつ並行的な(パラ)政治学という意味である(注6)。
尚ここで付記すれば、このプラトンの考え方は、現代においてまったく時代錯誤のものになってしまったという訳ではない。ランシエールは、フランスの原理主義的な共和主義者は、このプラトンのアルシ・ポリティークを受け継いでいるとしている。彼らは多数決原理ではなく、理念に基づく政治を志向しているからである。そしてその理念は評価した上で、そこからアリストテレスの考えるような民主主義への移行が望ましいとランシエールは考える。
この平等概念が、前々回に取り挙げられたC. マラブーによって称賛される(注7)。マラブーはこのアナキズムを主題とする本を、まずはアリストテレスから始め、レヴィナスやフーコーやデリダなどを論じて、最後の第9章でランシエールを取り挙げている。そこでマラブーはランシエールを持ち上げる。第9章の初めに「ランシエールはアナーキーについての偉大な思想家である」と書く。「ランシエールはアナキズムという考え方が持つ力を明確にしたただひとりの現代の哲学者である」とも書く。
それはランシエールのどの考え方を指しているのか。先に上げたプラトンのアルシ・ポリティークから、アリストテレスのパラ・ポリティークの移行に、そのアナーキーの理念が最も良く表れているとマラブーは考える。前者は、国民を階層化し、そこに秩序を創設し、現存の秩序を理想的な秩序に置き換える。後者は、理念を提示するのではなく、根源的な平等性を前提にした上で、それを実現すべく、和解不可能なものを和解させようとする。現実的に統治に関わるのが困難な民衆にしか、統治の正当性はないと考える。
マラブーが特にランシエールの主張の中で重視するのは、くじ引きによる代表制である。これは代議員や行政の長を、選挙ではなく、共同体の成員の中からくじ引きで、つまり無差別に選ぶという制度である。くじ引きは、統治したがる政治家を排除し、利益誘導型の政策を排除し、選挙に結び付く感情の高まりを排除するという理由で、ランシエールが主張するものだ。本来ならアリストテレスが、自らの主張をもっと突き詰めていれば、ここに至ったであろうとマラブーは言う。くじ引きだけが、ただひとつ可能な正統性なのである。
マラブーはしかし、前回書いたように、アナーキーを、否定的な言い方でしか語り得ないものとする。その支配 / 被支配の構造を超えた理念は、未来においてしか現れないとマラブーは言う。それは未来によってのみ、呼び覚まされるある種の記憶であるとも言う。
しかしこのくじ引き民主主義ならば、もうすでに一部は実現されているし、議論はたくさんあって、これならば、マラブーが言うほど実現が困難ではないように私は思う。ここで吉田徹のくじ引き民主主義論を挙げておく(注8)。この本には、くじ引き民主主義の歴史の話もあり、また現在行われている様々な試みについても詳しく展開されている。
もちろんくじ引き政治が行われることで、問題が一挙に解決する訳ではない。しかしくじ引きで代表者を選んで、そこでどう社会を構築すべきかということが議論されるというやり方でしか、解決案は出てこないのではないか。実現不可能な極論で人々に幻想を抱かせ、対立を煽るというタイプの政治が、今後ますます増えそうな時勢にあって、根本的な議論をするしか、次の時代の方向は見えてこないという、正論を打ち出したい。先に書いたように、若者が生き易い社会こそが、老人にとっても快適な社会であろうし、老人が生き生きとする社会こそが、若者にとっても恩恵が一番ある社会のはずである。若者も老人も等しい確率で選ばれるくじ引き民主主義以上に、平等で成員のやる気を引き出す制度はあり得ないだろう。
なお、一言以下のことを付け加えておく。ランシエールは、アルシ・ポリティークからパラ・ポリティークの議論をした上で、さらにマルクスに代表されるメタ・ポリティークに話を広げる。しかしマラブーはそこを完全に無視する。つまりマラブーは第3のポリティークであるマルクス主義にまったく言及しない。彼女の考えでは、マルクス主義はアナーキーから遠く離れているものだから、言及に値しないのかもしれない。そしてランシエールをマルクス主義者ではないとしている。しかしこれはどうか。S. ジジェクはランシエールとマルクス主義の関係について長い考察をしている(注9)。このことについてはいずれ取り扱う。
注
1 岡本裕一朗『「老い」の正解 世界の哲学者が悩んできた』ビジネス社、2023 第3章第1節
2 プラトン『国家』上下、藤澤令夫訳、岩波書店、1979
3 アリストテレス『弁論術』戸塚七郎訳、岩波書店、1992
4 八代尚宏『シルバー民主主義 高齢者優遇をどう克服するか』中公新書、2016
5 J. ランシエール『不和あるいは了解なき了解』松葉祥一他訳、インスクリプト、2005
6 アリストテレス『政治学』政治学(上)(下) 三浦洋訳、光文社、2023
7 C. マラブー『泥棒! アナキズムと哲学』伊藤潤一郎他訳、青土社、2027
8 吉田徹『くじ引き民主主義 政治にイノヴェーションを起こす』光文社新書、2021
9 S. ジジェク『厄介なる主体 政治的存在論の空虚な中心』I、鈴木俊弘他訳、青土社、2005
(たかはしかずゆき 哲学者)