一字の師――『パプーリとフェデリコ』

森忠明

 
   神戸で十一歳の可愛い男の子が惨い殺され方をした時、我が娘に「変な人間に注意しろ」と言おうとしたら、「パパ、夜の散歩は犯人と思われるからやめなさい」と先手を打たれた。妻には「オヤジ狩りにも気をつけよう」と忠告された。その話を幼なじみ(タクシー運転手)に披露すると、
   「森ちゃん、正直に言わせてもらうけど、おたくほど怪しげで不審者っぽく見えるのは滅多にいないよ」
   仕事柄、世の中を広く深く知っている彼がそう断定するのだから、今後は気をつけたい。私は会津の桐下駄愛用者で、いつもカラコロ歩いているのだが、それだけでうさん臭そうにみられることが多い。某信用金庫の画廊では女性の番人に注意され、先月は下北沢の本多劇場でも注意され、鞄の中までチェックされた。なんと不自由な国だろう。伝統ある履物がこうまで憎まれるとは。
   幸か不幸か、私には大罪を犯すだけのエネルギーが無い。なのに昔から疑われやすいのである。三億円強奪事件では「モンタージュ写真によく似ている」と怪聞を流されたし、一九六八年十月、ガードマンらが連続射殺された時は、二人の刑事が私のアリバイを調べにきた。
   今朝も小一の娘は「変な人についてかないでね」とママに言われて登校した。

   私が小学生だった頃は高度経済成長の前期で、親たちは欲望追求に余念がなく、子どもの安全に今ほど神経を使わなかったと思う。当時だって、えたいが知れない大人がずいぶんいたけれど、そういう人物と仲良くしても叱られなかった。
   「空の雲でも虫のクモでも毎日最低三時間は見続けないと観察とは言えないぜ」と教えてくれたのは、多摩川の岸辺にテントを張って暮らしていたおじさんだ。投網や釣りも指南してもらった。諏訪神社の森に行けばたいてい会うことができたおじさんはメカに詳しく、軍艦の種類やゼロ戦の構造などを図解付きで説明。あの日の胸のときめきは忘れない。
   現在、拙宅近くの公園には、いわゆるホームレスの老人が“定住”している。漫画「忍たま乱太郎」に出てくる学園長にそっくりなので、娘と私は彼を学園長と呼ぶ。話を交わすと、その呼び名を裏切らない知識人であることが分かった。「競輪場ヘゾロゾロ進む諸君と○○(宗教団体本部)へ進む御婦人方の顔が似ているのは何故か」とか「野犬は三匹になると急に狂暴になるが、それは人間も同じ」とか、機能社会からの自己追放者?ならではの論をぽつりぽつりと語る。
   いにしえの、ゆかしい人々は、たった一字でも教えてくれた者を〈一字の師〉と称して敬ったそうだ。私は四十年前に出会ったおじさんたちと学園長のような存在を、正規の学校教師とは別の、アナザー・マスター(もう一人の正師)と思っている。

   『パプーリとフェデリコ・1~3』(ガブリエル・バンサン・作、今江祥智、中井珠子・訳、ブックローン出版、本体各巻一三五〇円、九六年六月刊)は、森で暮らす老人と少年の、肉親以上に濃密な魂の交流を、極上の筆精で描いた絵本。作者はベルギーの人。三部作だが時代も場所も特定されず、始めも終わりもないような構成なので、何度も循環してその象徴的な物語を鑑賞できる。
   現実の合理の世界からはじき出され、自閉症になっていた少年フェデリコが、一見非合理で非生産的な老人と出会い、自然と共に生きるうちに段々心をひらいてゆく。そして、「おっちゃんといると、いろんなこと、おぼえたくなるんだ」と言うまでになる。パプーリ老人も少年から多くの喜びを得る。読後に連想したのは「カヴァフィス詩集」(中井久夫訳)の一節〈世間と接触しすぎるな/動きすぎるな、話しすぎるな/人生を広げすぎるな(略)/そういうものは品質を下げる〉。
 
(もりただあき)
 
森忠明『ねながれ記』園田英樹・編(I 子どもと本の情景)より転載。
 
(pubspace-x12526,2024.12.31)