パウロ・ルター・フォイエルバッハ―柴田隆行死去3年目によせて

石塚正英

 
はじめに
 
   わが畏友の柴田隆行(1949-2021)は、勤務先の東洋大学で講座「社会文化思想史」を担当し、その講義概要(2000年度)に、次の文を記していた。――新約聖書ではイエスが弟子たちに、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは世を生かすためのわたしの肉のことである」と告げている。忠実な弟子である11人の使徒は、磔されたイエスの遺体を引き取り密かに肉体を抜き取って布巻きした空の遺体を墓地に埋葬した。使徒たちはイエスの身体をその言葉通りに食べたのである。父から与えられた霊をイエスから受け継ぐためである。しかし、そのような解釈にもまだ疑問が残る。なぜイエスは復活後も肉体を伴って登場したのか。復活は霊だけでよかったのではないか?―― 柴田が疑問を提示した「肉体」と「霊」について、ここで私なりに解説することをもって、柴田隆行死去3年目をわが脳裡に刻印することにしたい。
 
1. 新約聖書の言葉「肉において生きる」(ガラテヤ人への手紙2:20)について
 
   かつて、43歳のとき、私は『フェティシズムの信仰圏』(世界書院、1993年)を刊行した。『フェティシズムの思想圏』(世界書院、1991年)に続く第2作である。その「序文」に、パウロの肉体に関連して以下の文章を綴った。
 

生前のイエスに一度も接したことがなく、その処刑ののち、はじめてキリストを内的に自覚するに至ったパウロについて考えてみる。“異邦人の使徒”パウロは言う。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました」(コリント二4-6)」、「キリストがわたしの内に生きておられるのです(ガラテヤ2-20)」。パウロは、エルサレムからダマスコに向かう途上で、イエス・キリストの霊が自己の心中で輝くのを感知する。その時以来、「わたしにとって、生きるとはキリストであり(フィリピ1-21)」、彼の心中にはキリストが住まうことになる。心と対立する意味での肉体(サルクスσάρξ)は、その時から霊(プネウマπνεύμα)の住まう“からだ”(ソーマσϖμα)となって、心との合一を果たす。霊肉の合一とも言える。キリストは霊のままで復活するのでなく、例えばパウロという肉をたずさえて、パウロという肉の中に復活する(Christus ersteht auf, nicht als der reine Geist, sondern leibhaftig, z.B. in Paulus’ Leib.)。その時、肉(サルクス)のからだは霊(プネウマ)のからだにかわる(Dann wird der Körper als Leib(σάρξ) der Körper des Geistes(πνεύμα).)。人間は“からだ”をもった存在としてはじめて他者と関係し、かつまたそのような存在としてはじめて自然と関係する。“キリスト(霊)が人間(肉)の中に入る”とパウロが表現するとき、我々は彼が確かにヘブライズムの系譜にあることを認識し、キリスト仮現説に向かうヘレニズムの系譜からは一線を画した地平に立っていることを確認する。パウロのいう“からだ”は、一種の類的な存在である。そこには他者のみならず、自然も含まれ、或いは他者・自然との交わり(κοινωνία)とか依存とかが含まれる(☆01)

 
   この文章は、当時の私が夢中になって追いかけていたフェティシズム研究の一環として綴ったものである。引用文中のドイツ語文は本書のドイツ語訳版Masahide Ishizuka [Übers: T. Shibata]“FETISCHISMUS Begriff und Vorkommen in Japan und anderen Nationen, Hannover 1995.”からの引用(S.16.)である。何がフェティシズムと関連するかというと、肉体だけの肉体と、霊魂(神霊)が入りこんだ状態の肉体、聖なる肉体との差異である。先史の精神から判断するならば、ある氏族の首長が呪術師として儀礼を施すなどして祖霊・神霊を身体内に取り込み維持すると、本人自身が氏族神となる。こうした儀礼習俗はジェームズ・フレイザー『金枝篇―呪術と宗教の研究』第1-2巻「呪術と王の起源」(国書刊行会、2004年)に散見される(☆02)。だが、キリスト教の聖典ではそう多くはない。ためしに、新約聖書(口語訳聖書1955年、World English Bible 2020)から人間身体としての「肉」に関係する箇所を〔ローマ人への手紙〕から拾ってみる。
 

〔ローマ人への手紙7:5〕というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。For when we were in the flesh, the sinful passions which were through the law, worked in our members to bring forth fruit to death.
〔ローマ人への手紙7:18〕わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。For I know that in me, that is, in my flesh, dwells no good thing. For desire is present with me, but I don’t find it doing that which is good.
〔ローマ人への手紙8:8〕また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。Those who are in the flesh can’t please God.
〔ローマ人への手紙8:9〕しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。But you are not in the flesh but in the Spirit, if it is so that the Spirit of God dwells in you. But if any man doesn’t have the Spirit of Christ, he is not his. (☆03)

 
   読んで字のごとく、「肉」はネガティブに表現されている。「欲情」「善なるものが宿っていない」「神を喜ばせることができない」「肉におるのではなく、霊におる」などがそれを端的に示している。岩隈直『増補改訂 新約ギリシヤ語辞典』(山本書店、1982年)の「サルクスσάρξ」をみると、以下の説明が読まれる。「肉」「肉体」「人間」「肉親・同胞」「血統」「身分」「感情・欲望の座」「罪の座」など(☆04)
   けれども、「肉」がポジティブに表現されている箇所も、ないではない。もっとも有名なのは〔最後の晩餐〕である。
 

〔マルコの福音書14:22〕一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取れ、これはわたしのからだである」。14:22 As they were eating, Jesus took bread, and when he had blessed, he broke it, and gave to them, and said, “Take, eat. This is my body.” (☆05)

 
   だが、ここでは〔ガラテヤ人への手紙2:20〕に見いだしてみたい。本稿のキーセンテンスにあたるので、2種の日本語訳と2種の英語訳を引用する(下線・太字による強調は引用者)
 

〔ガラテヤ人への手紙2:20口語訳聖書(1955年)〕生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま 肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
〔ガラテヤ人への手紙2:20新共同訳聖書(1978年)〕生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
〔Galatians 2-20: World English Bible, 2020〕I have been crucified with Christ, and it is no longer I that live, but Christ living in me. That life which I now live in the flesh , I live by faith in the Son of God, who loved me, and gave himself up for me.
〔Galatians 2-20: King James Bible, 1611〕I am crucified with Christ: nevertheless I live; yet not I, but Christ liveth in me: and the life which I now live in the flesh I live by the faith of the Son of God, who loved me, and gave himself for me. (☆06)

 
   重要なのは「肉において生きている」であるから、その箇所だけをギリシア語聖書から引用すると、“ζῶ ἐν σαρκί ἐν πίστει”となる。「肉」は“σαρκί”という単語である。先に引用した岩隈著作の「サルクスσάρξ」には、「マコ」「ルカ」「ヨハ」「Iコリ」「ガラ」「ロマ」「ピリ」「ピレ」などから多くの事例が引かれているが、たいがいはネガティブな響きを漂わせている。また「ガラ」としては2:20でなく6:13「割礼を受けた肉」が記されているだけである。ただ、「罪の座」の箇所に「生来の人はこれに支配され、御霊によってのみその支配を脱しうる。パウロ的概念」とある。ということは、パウロ(使徒行伝)にあって、「肉」は「御霊によってのみ」という条件が付けばネガティブからポジティブに転化されるということでもある。『フェティシズムの信仰圏』に書きこんだ以下の文章は、そのあたりの事情を反映している。“キリスト(霊)が人間(肉)の中に入る”とパウロが表現するとき、我々は彼が確かにヘブライズムの系譜にあることを認識し、キリスト仮現説(キリストの身体の実在性を否定する説)に向かうヘレニズムの系譜からは一線を画した地平に立っていることを確認する」。そのパウロ思想は、やがて宗教改革の時代に至り、ルターにおいて脚光を浴びることになる。
 
2. フォイエルバッハは第二のルターあるいはルターの転倒者
 
   無教会主義者の高橋三郎は、著作『ルターの根本思想とその限界』(山本書店、1960年初版の1989年改訂版)において、ルター思想における神と人との関係を次のようにまとめている。
 

神の前にわれわれが罪人であることは、われわれがそれをみずから認めるか否かに関わりなく、確定的事実である。そしてこのことは、われわれの自認(罪の告白)によって初めて、われわれ自身の中における真理(すなわちわれわれに承認された真理)となる――こう理解すれば信仰とは、神と人との間の相互作用によって生起する一つのできごとであり、その主導権は全く神の側にある、ということが分かる。このように神から出るできごとを、ルターは次のように説明した。「自分の中において真実であり義であり力強くいましたもう唯一の方なる神は、ご自身の外においても、すなわちわれわれの中においても、そうあることを欲したもう。(以下省略―引用者)(☆07)

 
   高橋がここで自説の典拠にしているルターの考えによれば、神の主導を前提として、神の内つまり神自身と外つまり人、およびそれらの間の相互作用を強調している。いわば〔神→人〕信仰圏の枠構造である。
   対して、ルターに多くを学んだフォイエルバッハは、『キリスト教の本質』の中で、人の主導を前提として、人と神との間の相互作用を強調する。いわば〔人→神〕信仰圏の枠構造である。
   「主語と述語との同一性は、人間の文化の発展行程と同一である宗教の発展行程を調べてみると最も明瞭にわかる。人間にたんなる自然人という述語が与えられる限りは、人間の神もまたたんなる自然神である。(中略―引用者)人間が粗野および野生の状態から文化の状態に高まるとともに、すなわち人間にふさわしいものとそうでないものとが区別されるとともに、同時にまた神にふさわしいものとそうでないものとの区別が発生する」(☆08)
   ルターの提起した枠構造とフォイエルバッハの提起したそれとの対比を比喩的に表現すると、第一宗教改革者ルターに対する第二宗教改革者フォイエルバッハとなる。意味内容から表現すると、カトリックを転倒させてプロテスタントをもたらしたルターに対する、キリスト教総体を転倒させて非キリスト教的信仰論を説いたフォイエルバッハとなる。『宗教の本質に関する講演』(1848年12月~49年3月、出版は1851年)以降には、〔人間(我)と人間(汝)〕さらに〔人間(我)と自然(汝)〕を重視する他我相関的唯物論を確立したフォイエルバッハとなる。「フォイエルバッハにおいては、人間と神との   関係はもともと交互的であるもの同士の内的関係であり、したがっていかなる事態が生じようとも神は人間を超越し得ない。ときに人間は神に拝跪するが、ときに神は人間の強請に従う」(☆09)
   以上の学術的議論はすでに拙著『ヘーゲル左派という時代思潮』(社会評論社、2019年)に記してあるのだが、最近、研究者の川本隆の論文「フォイエルバッハのルター論―初期から中期へ、その思想的転回の意味―」(『桜文論叢』第100巻、2019年9月)を読んで、あらためてメモしてみたくなったものである。同論文の中で川本は、拙稿「“人間のなかの神”を考える―大井学匠に何を学んできたか―」(『季報・唯物論研究』38・39合併号、1991年7月)に触れていた(☆10)。それは短文ながら私にとって忘れ得ぬ意義を有する。
   さて、ルターに継ぐ宗教改革者としてのフォイエルバッハに言い及んだのを受けて、最後に、そのものずばりの議論を概述しておこう。
 
むすびに
 
   フォイエルバッハはキリスト教批判者であると同時に自然信仰の擁護者でもあった。そうした対照的な宗教観の根底には、自然信仰における対自然観があった。たとえ断片のものであれ個物であれ、自然それ自体を尊崇の対象とし、かつ、時にはこれと対等に向き合い、ことによったならその対象を打ち叩くことすら辞さない人々を、フォイエルバッハは先史・野生においてのみならず、彼と同時代の他地域にも発見する。彼は、19世紀中葉のヨーロッパで盛んとなった民族学的・人類学的研究に注目することで、メキシコやオリノコ河畔、パタゴニア等の中南米原住民の崇拝する神々を知り、北方のグリーンランドやラップランド先住諸民族に支えられる自然神を知った。ド=ブロスにおくれること百年にして、フォイエルバッハは、自然と神との関係について、以下のように定義することになる。
 

ただし現実においてはまさに逆に、自然は神よりもいっそう先に存在する。すなわち具体的なものは抽象的なものよりもいっそう先に存在し、感性的なものは思惟されたものよりもいっそう先に存在している。もっぱら自然的に事が進む現実においては、模写が原像に続き、形像(Bild)が事象(Sache)に続き、思惟が対象に続く。しかるに、神学の超自然的奇跡的な領域において原像が模写に続き、事象が形像に続く(☆11)

 
   原初的信仰者にとって自然がたんなるDingでなくWesenであるということの意味をわたしなりに敷衍して解釈すれば、原初的生活者が神に選びとる自然物は外的な物(Ding)でなく、内的な、人間の中に入った、人間の中の存在者(Wesen)なのである。ただし、「入る」とは、実体的な謂とはかぎらず、関係性の謂である。そのような意味での自然―Wesen となったDingすなわちSache―を、近代人はまったく忘却しているのである。フォイエルバッハは言う。
 

近代の抽象的な有神論の諸表象を古代世界を測るための尺度にし、そしてさて最も根原的な諸表象、最も直接的な諸表象、最も子どもらしい諸表象を迷信的な誤謬と宣言することは、なんという恣意であることだろう!(☆12)

 
   先史人のseirim信仰は下等な宗教で文明人の唯一神信仰は高等な宗教だという論理は、フォイエルバッハの採らないものである。むしろ反対に、形像崇拝としてのキリスト教は自然を人間以下に貶める“転倒の論理”だとする。「人間は諸事物の自然的秩序を転倒する。人間は最も本来的な意味で世界を頭で立たせる。人間はピラミッドの先端をピラミッドの土台にする(☆13、下線は原文がイタリック)
   本稿の冒頭で、故柴田隆行の講義概要を引用し、「なぜイエスは復活後も肉体を伴って登場したのか。復活は霊だけでよかったのではないか?」に対する私なりの説明を加えるとした。回答は、イエスの亡骸を運び去って食した―柴田はそのように説明している―使徒たちがフェティシズムの思想圏ないしヘブライズムの系譜にいたのに対して、キリスト復活の現場を描く福音書記者たちはキリスト仮現説に向かうヘレニズムの思想圏にいたから、ということである。前者においてはイエスと信徒はカニバリズム的に一致しているが、後者には「違った姿で」仮現として見えたのである(☆14)。そのように記しても、柴田の問いに十分に応えていない気がするものの、追悼の気持ちは最大限表明したと思っている。
 

01 石塚正英『フェティシズムの思想圏』世界書院、1991年、8頁。
02 ジェームズ・フレイザー著、神成利男訳、石塚正英監修『金枝篇―呪術と宗教の研究』第1巻「呪術と王の起源」(上巻)、国書刊行会、2004年。例えば以下の記述が参考となる。「メラネシア先住民の話によると、首長の力の起源は、偉大なる死霊(ティンダロ)と交感し、超自然的力(マナ)を揮うことによって死霊の威力を発揮させることができるという人々の信仰に全面的に依拠しているものである」(第1巻、227-228頁)。なお、彼らの威力をフレイザーは超自然力であるかのように記しているが、ほんとうのところは自然力であると記している、以下の記述のごとくに。「ただ我々が心に留めておかなければならないのは、この思惟段階の人間にとって奇蹟は自然法則の破壊とは考えられていないことである。自然法則の存在を認知していないため、原初的な人間はその破壊を認知することはできない。 原初的な人間にとって奇蹟は単に普通の力の並外れた顕現に過ぎないのである」(同、250頁、下線は引用者)。
03 ローマ人への手紙7:18、8: 8、8: 9。web版『日英対訳聖書』日本語訳1954, 1955共同訳 準拠
英語訳WEB(Wold English Bible)http://seisyodeeigo.web.fc2.com/
04 岩隈直『増補改訂 新約ギリシヤ語辞典』山本書店、1982年、424頁。
05マルコの福音書14:22、web版『日英対訳聖書』
06ガラテヤ人への手紙2:20、web版『日英対訳聖書』
07 ワイマール版『ルター全集』第56巻、1938年「ロマ書講義」229頁)(高橋三郎、262-263頁。
08 Ludwig Feuerbach, Das Wesen des Christentums, Reclam, Stuttgart, 1974, S.63f.
09 石塚正英「汎神論から他我論への展開」、『理想』702号、2019年、53頁。石塚正英『ヘーゲル左派という時代思潮』社会評論社、2019年、138-139頁。
10 川本隆「フォイエルバッハのルター論―初期から中期へ、その思想的転回の意味―」、『桜文論叢』第100巻、2019年。その中で川本は以下のように記している。石塚は「“人間のなかの神”を考える―大井学匠に何を学んできたか―」において、「「ルターからフォイエルバッハへ」の移行はけっして越えられない「懸隔」ではないとして、フォイエルバッハの宗教論から比較宗教学や比較民俗学にいたる現代的可能性を示唆している」(144頁)。
11 L. Feuerbach, Das Wesen der Religion, in L. Feuerbach Gesammelte Werke, Bd. 10, S. 28. 舩山信一訳、「宗教の本質」、『フォイエルバッハ全集』第11巻、32-33頁。
12 L. Feuerbach, Theogonie, in L. Feuerbach Gesammelte Werke, Bd. 7, S. 293. 舩山信一訳「神統記」、『フォイエルバッハ全集』第14巻、1976、173頁。
13 L. Feuerbach, Wesen der Religion, in L. Feuerbach Gesammelte Werke, Bd. 10. S. 55. 舩山信一訳「宗教の本質」、『フォイエルバッハ全集』第11巻、67頁。
14 マルコの福音書16:12には、以下の記述が読まれる。「16:12この後、そのうちのふたりが、いなかの方へ歩いていると、イエスはちがった姿で御自身をあらわされた。After these things he was revealed in another form to two of them, as they walked, on their way into the country.」私は、ここに記されている「ちがった姿」の意味をキリスト仮現説に求める。
 
(いしづかまさひで)
 
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