他者の所有 -ヘーゲルの余白に- (3) 他者が所有する

高橋一行

(2)より続く

 第3節は、新宮一成の『ラカンの精神分析』を主として分析する。その前に、すでに、私たちは、彼の、「所有の病理」という短い論文を取り挙げている。もう一度、それを見る。本稿そのものが、所有の病理に始まり、所有の病理に終わる。
 この「所有の病理」の中で、新宮は、所有においては、主客が入れ替わり、そのところに、所有と存在が交差すると言っている。ここを敷衍する。
前節で、自己が他者を所有するということについて、書いてきた。それは原理的に可能であり、だからこそ、その是非が問われ、倫理的には望ましくないという結論が得られる。つまり、他者は所有できるが、所有すべきでないということになる。しかし、それが可能であるならば、当然、他者が私を所有するということもあり得る。そのことについても、考えるべきだ。これが本節で考えるべきことのひとつである。
 もうひとつは、存在は、所有から始まるのではないかということだ。存在の意味を表す、ドイツ語のes gibtや、フランス語のil y aには、与えるとか、持つという、所有を示す動詞が使われている。つまり、ある主体が存在するためには、別の主体が、それを所有するということが、ここで意味されている。私たちが存在するためには、何かが、私たちを所有する必要があり、私たちが存在するために占める場を、何かが所有しなければならないのである。
 フロイトは、このことを去勢コンプレックスとして、語った。新宮がしばしば論文に書き、内海健が、それをしばしば引用するのだが、幼児は、母親にファルス(男根のことだと言って良い。厳密には、男根を巡る表象のこと)がないことを、それがないのは、自分自身が、そのファルスだからだと思うと言うのである。ここでは、以下のようなことが、幼児の頭の中で進行している。まず、母親は、本来、ファルスを持っているはずだが、今は所有していない。それは去勢されたのである。そして、そのファルスは、自分自身である。そう思う段階があり、つまり、かつて、自分は母親に所有されていたと思う。それから、そのファルスを、自分が持つとか、または持たないという段階に至り、ファルスを持つ者、ないしは持たない者として、主体が確立する。誰かが母を去勢し、それを自分が償わねばならないと幼児が感じるということが、フロイトの意味するところだが、私たちは、ここから、存在と所有の、また、他者の所有と自己の所有の関係を考察することができる。
 
 本稿第2節で、他者は、所有の対象ではなく、つまり私は他者を所有するのではなく、所有の対象物を巡って、他者との関係構築をするのだと書いた。そして、そのことで、つまりそういう他者との関わりの中で、私は主体化を果たすと論じている。ここではしかし、私は他者から所有されるが、そこから私は、所有されるものとして、主体化するということを確認する。
 本稿「他者の所有」は、他者を所有することという意味のほかに、他者が所有するという意味も持たせている。つまり、ふたつの視点が必要である。このことを、第2節と第3節とで書く。
 さらに、次のように言うことができる。主体は、他者を所有したいと思う。その欲望が、人間関係の根源にある。一方、他者は、主体を所有する。これも、これが、人間関係の根源にある。主体は、他者から所有されることで、主体となる。
 つまり、根源的には、主体と客体は、所有関係なのである。しかしそこから脱却して、それぞれが主体化する。そこから脱却することが、社会を構築する出発点である。
 
 新宮は次のようにまとめている。
 先のドイツ語やフランス語の場合も、去勢コンプレックスの場合も、主体は、超越者の所有に属している。esやilは、非人称主語であったり、形式的な主語になったりする。また、主体がファルスを持ったり、持たなかったりするのも、超越者が決めることである。男児は、ファルスを奪われないようにするために、秩序に隷属するし、女児は、ファルスよりも、もっと良いものを求めようとする。しかし、超越的な他者が、主体のあり方を確立するところを、現代では、様々な条件で、逆向きに辿り直され、他者に所有される恐怖を私たちの中に、芽生えさせる。私たちは、今、そのような時代を生きている。
 
 さて、以上の考察の上で、『ラカンを読む』を読む。これは名著だと思う。ここから拾っていく。
 まず、精神科医の著者は、イギリスに留学したいと思っていたが、フランス文学を専攻し、フランスへの留学準備をしていた女子大生の患者と接し、結局、著者がフランスに行くことになり、彼女は専攻を変えてイギリスに行ったという話が紹介されている。これは自我理想の交換として、紹介されていて、このようなことは良くあることだと、私も思う。
 また、著者がパーティーで、マグロの鮨を食べたいと思ったら、食べ損ねてしまったという経験があり、しかし、翌朝、彼女から、夢の中で、マグロの鮨をお腹一杯食べたという報告を受ける。ここで、両者の夢が交差する。他者の欲望が、無意識において、担われている。
 新宮のラカン論では、私と他者は、その欲望が入れ替わる。また、私が実現できなかったことを、他者が夢の中で実現する。しかし、そのようなオカルト的なことは、果たして本当に起きるのだろうか(以上、第1章)。
少なくとも、テレパシーの存在について、フロイトは否定していなかったと、新宮は、別の論文で言う(新宮2007)。ここで、テレパシーというのは、分析家が、自分の考えていることを患者に話したこともないのに、患者にその考えが伝わっている、先のケースのようなことを指している。
 新宮の解釈では、テレパシーというのは、無意識の欲望を互いに認め合うための、概念装置である(同p.120)。人に伝わり、そして人から認められ、実現するのは、無意識の欲望である。テレパシーという形をとることで、私たちは、容易にそれを認めやすくなる。それでテレパシーが人間心理にとって、有益なものとして存続できる。テレパシーというのは、夢を語る人と、それを聞く人との間に、「解釈」という言語的作業があり、その作業が人を行動へと導く。その夢の力こそが、テレパシーである(同p.125f.)。
 さて、その上で、本論に入る。テーマは、私自身がどういうものであるか、私が他者からどう見えるか、また、私が属している全体から、私はどのように見えるのか。そういう問題を立ててみる。
すると、私が他者を見ているその見え方に、その私の像が現れるのではないか。そのように考える。私から見た他者は、私と他者を合わせた、普遍的な全体から見た私の姿に等しいのである。
 新宮が、この本の中で言っているのは、ヘーゲルの自己関係に他ならない。自己関係とは(ヘーゲルを、本稿では出さないと言いつつも)、ヘーゲルの論理学のキーワードで、そこでは、次のように考えられている。つまり、自己内で、自己が二分して、自己と他者になり、その自己と他者の間で葛藤があり、その葛藤を乗り越えて、自己実現を果たす。そのようなことが考えられている。しかし、通俗的な理解では、これは最初から、結論が出ている、いわば出来レースで、目的達成に向かう自己と、それを邪魔する、自己の中の他者と葛藤させて、その他者に打ち勝ち、自己を達成する。しかし、その他者は、そもそも最初から、自己である。自己が自己と出会うと言っても、それは最初から予定されている。一般的には、そう考えられている。
 さすがにヘーゲル本人は、もう少していねいに論証していて、しかし、『精神現象学』では、認識主体と対象が、ともに進展し、実は両者は同一で、さらに、対象は、他の自己意識となって、完全に両者が一致するという展開だし、「論理学」の「存在論」では、あるものが、他のものになり、あるものは、しかし、この他のものの他のものであり、両者は、実は同一だという展開になる。それは今まで、説明して来た通りである。また「概念論」では、普遍が自己分割して、個別になり、その上で、今度は、個別が普遍に至る。つまり、普遍と個別の間には、自己関係が成り立つのである。そうすると、一般的な理解は、間違ってはいなくて、ただ単に、ヘーゲルの複雑な論述を単純化したものに過ぎず、基本は押さえているということになる。
 しかし、ジジェクを見てきた後で、私たちは、そういうヘーゲルのレトリックには、惑わされない。つまり、自己と他者は、どうしたって、別物で、それが同じだと言うのは、いささか乱暴である。主客未分の段階で、元々同じものであったかもしれないが、分裂した以上、それは、別物である。自己関係ということで、言われているのは、他者の中に、自己と同じ、自己関係があるということだけなのである。それを、自己と他者と両者同じだと持って来るのは無理である。
 ジジェクが、無限判断を持ち出すのは、元来、結び付かないものを、強引に結び付けるための、論法である。まったく別物の、自己と他者は、しかし、結び付くのである。その強引さが、ヘーゲルの魅力だということになる。そして、この無限判断的結び付きが、ジジェクによれば、ヘーゲルとラカンに共通するものだ。あるいは、ラカンがヘーゲルから学んだものだ。
 ここで、新宮のラカンを下敷きにした、私から見た他者=普遍から見た私という論理と、ジジェクの言う無限判断とは、従って、同じものである。先に述べたように、新宮の解釈するラカンにおいて、主体と客体は、容易に入れ替わるし、そもそも私の欲望だと思っていたものは、実は他者の欲望である。個別としての私の真の姿は、普遍的な視点から見られねばならないが、しかし、その普遍的な視点から見ているのは、他者にほかならず、その他者を、ラカンは、大文字の他者と言う。大文字の他者の認知を欲望することこそが、人間の欲望の基本である。以上が、第三章の議論である。
 
 第四章では、次のように言われる。ラカンによれば、主体は、他者によって欲望された者として、生まれ直さねばならない。主体は、自ら他者と化すことによって、それを実現する。
 ここで他者は、言語という他者である。私が話しているとき、私は無意識においては、私自身が話をしているのではなく、他者の語らいを身に受けているだけであり、その時話しているのは、他者である。無意識は、大文字の他者の語らいである。他者の語らいは、主体に欲望を伝える。私とは、語らいつつある他者の欲望の対象である。これがラカンによる主体の定義である。主体の成立には、大文字の他者の欲望が根本的に必要である。
 前節では、他者の言語化が問題となったが、ここでは、言語が他者である。これは、前節の、他者を言語化して、他者を所有するということと、ここでの、言語という他者に、私が所有されるということに対応している。
 
 これが第五章では、欲望を介して他者になるということは、ある対象に対して、主体が持っている関係が、主体に対して他者が持っている関係として、象徴化されることであると言い直される。以前書いた比喩で言い直せば、幼女(主体)がケーキ(対象)を食べているとき、彼女は、そうすることが、両親(他者)を満足させることを意識している。そういう意味である。
 有名な、鏡像段階論も、このように理解される。つまり、幼児は、鏡を見ることで、内面的な統一的自己を形成して行くのだが、その際に、自己像と周りの対象との関係を、鏡の中で、捉えて行く。鏡の中の自己の身体の統一像は、社会の中の他者の知覚像と重なる。すると、他者は、鏡の役割を果たすようになり、鏡像の自己は、他者によって、担われる。否応なく、他者性を組み込まれた自己意識の発生論が、ラカンの鏡像段階論である。
 私たちの統一的な自己像は、他者に預けられている。このことは、夢において、明らかである。夢は私が見ているのではない。他者が私の中で夢を見ている。私たちは、夢の中で他者に出会うのではなく、他者になるのである。
おおよそ以上のようにまとめてみる。
 
 自他関係が自己関係だと言うとき、他者は実は自己なのだと持って行くのだが、しかし、同時に、自己は他者なのだという側面もあり、他者からの働き掛けに反応するのは、自己の中の他性である。自己がそもそも他者から作られており、だからこそ、他者との関わりがある。そのように考えて良い。
 つまり、自己と他者の関係は、自己関係、すなわち自己=自己の関係であると同時に、他者=他者という自己関係でもある。同時に、自己が他者を所有し、その所有関係からの脱却が、人間関係の構築の出発点だが、逆に、主体が他者から所有されることが、主体の成立の出発点でもある。
 
参考文献
新宮一成『ラカンの精神分析』講談社、1995
新宮一成「所有の病理」『人間存在論(京都大学大学院人間環境科学紀要)』No.3, 1997
新宮一成「夢見ることから『夢を語ること』へ」『メディアと無意識 「夢語りの場」の探求』新宮一成編、弘文堂、2007
(完)
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x1112,2014.09.18)