他者の所有 -ヘーゲルの余白に- (2) 他者を所有する

高橋一行

(1)より続く

 精神科医の津田均は、鬱親和者についての、その短いエッセイの中で、デリダのレヴィナス批判に言及している。つまり鬱親和者の理解に、このデリダの難解な論文を読解することが、役立つのではないかということである。それは、興味深いコメントである。先の章で、私は、鬱親和者の特徴として、所有の喪失と、他者の暴力に脆弱であることを挙げた。ここでの指摘は、この後者に関わることである。とりあえず、津田の鬱論は後回しにして、先に、デリダの読解をしておく。
 彼のレヴィナス批判は、錯綜して、重複も多く、分かりにくいが、大きく次の二点にまとめられよう。
ひとつは、レヴィナスが、フッサールとハイデッガーを批判して、彼らは、他者を取り扱う際に、他者を自らの哲学の中に取り込んで、そこでは他者が圧殺されているとしたのだが、デリダは、フッサールやハイデッガーを擁護し、彼らの側から、レヴィナスに対して、再批判を試みる。簡単に言えば、レヴィナスの論理でも、結局は、フッサールやハイデッガーと同じだろうと言うのである。他者の存在を問う限り、存在への問いに巻き込まれてしまう。他者の絶対性も、存在の論理の中にしか、現れない。
 もう少し敷衍すれば、フッサールの超越論的現象学の場合、意識対象を現象学的還元に掛け、志向的分析をするが、他者が他者として立ち上がるのもまた、この志向的分析の枠組の中でしかない。同じく、ハイデッガーの「存在の思考」にとっても、他者が他者として存在することが了解されるのは、存在者として、存在論的に分析される、その機構においてである。
デリダは、フッサールやハイデッガーの分析は、普遍的なもので、それ以外に、レヴィナスが主張するような、倫理性を要求する他者が他者として、まず真っ先に、私たちの眼前に、現れる訳ではないと言う。レヴィナスの絶対的な他性もまた、フッサールの現象学や、ハイデッガーの存在論を前提とするしかない。
 もうひとつの論点は、より重要なものだ。レヴィナスは、他者の倫理性、根源的な絶対性を主張するが、他者が他者として現前するとき、そこに暴力が伴う。倫理に他者の現前が必要ならば、倫理は、必ず暴力とともに始まる。そのことに、レヴィナスは、無自覚なのではないかと、デリダは言うのである。
 レヴィナスにとって、他者を同化することこそが、暴力であり、それはレヴィナスが強く戒めるものである。しかし、他者の現前を問うこと、つまり、他者を概念化し、言語化すること自体が、すでに暴力である。ここでは、レヴィナスは、倫理を問うのに、哲学を必要としている。しかし、哲学の根底には、ロゴスがあり、そのロゴスそのものが暴力であるというのが、デリダの批判の骨子である。
 
 この批判がなされたのは、1964年である。その3年前に、レヴィナスは、主著『全体性と無限』を出している。一般的には、レヴィナスは、このデリダの批判を受け止めて、1974年に、第二の主著、『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』を出したとされている。
しかし、私はここで、レヴィナスの思想が、どのように発展したのかを問うことはしない。デリダの言い分が正しいかどうか、また、レヴィナスの側からは、さらに再批判があり得るかもしれず、そのことについては、佐藤義之が展開していて、それらについては、このあとで扱う。先に扱いたいのは、そもそも、他者を問うことは可能なのかということである。
 
 さて、津田の言い分は、以下の通りである。
 社会参入の仕方には、二通りのタイプがある。鬱親和者のそれは、社会がミリュー(外界という意味で取っておく)として自己を包み込み、おのずと自らに調和を与えてくれることが期待されている。もうひとつのタイプは、非鬱親和者のそれであり、社会の中にある要素は、プラスとマイナスの価値を持ち、同一化の中で、用心深く、自己との関係の中に入って来る。
 ここでデリダのレヴィナス批判が出て来る。レヴィナスは、他者について考察した思想家であるが、そして十分に、他者性について、意識しているが、しかし、デリダが言うように、レヴィナスは、自我内の根源的な他者性について、その自覚が不十分なのではないか。「同」の形成に、他者性は忍び込んでいるはずだが、そのことへの顧慮が足りないのではないか。そして、この不十分さは、鬱親和者の持つ性質と似ていないか。
 すると、先の対立は、こんな風にも言い換えることができる。鬱親和者は、他者が現れる際に、自我中心性を準備し、労働と家政を享受し、「同」を作り上げるが、その過程に、他者性による否定の介入を語らない。しかし、非鬱親和者は、「同」の形成に当たって、すでに他者性の抵抗が十全に組み込まれている。
 もちろん、レヴィナスが、鬱親和者であったということではない。伝記を見ると、むしろ全然異なるタイプの性格であるし、その主張するところも、例えば、村上靖彦は、統合失調症に見られる、迫害妄想、関係妄想のようなものとして、主体が定義されていると指摘している(村上p.32f.)。
 私が言いたいのは、単に、他者を巡って、または他者への向き合い方の点で、レヴィナスの論理展開と、鬱親和者の持つ人間関係構築の際の論理構造とが、似ているという問題である。
 
 しかし、話は単に、アナロジーに留まらない。つまり、問題は、両者が単に似ているということに留まらないし、これは、一精神科医の思い付きに終わらない。
 他者に十分配慮している、つまり、他者性が十分にあると思われるのに、根本的なところで、他者性がないと言われる、そのメカニズムに注意を向けねばならない。つまり、鬱親和者も、レヴィナスの哲学も、ともに救わないとならない。
 ていねいに見て行くと、デリダと津田では、暴力のベクトルが逆向きである。デリダの言い分では、レヴィナスは、他者を同化してはいけないと言いつつ、自分でも、他者を同化している。ロゴスで他者を語る限り、他者を暴力的に同化することになる。倫理には暴力が伴う。そのことに、レヴィナスは、無自覚だ。他者を暴力的に概念化することなしに、他者を倫理の対象とすることはできない。そう言っている。一方、津田は、鬱親和者は、自我の根源的な他者性について、無自覚ではないか。つまり、他者の暴力に鈍い。他者は、強引に入り込んでいる。そのことに無理解なのだ。調和的に、他者性を受け止めることが出来ると思っている。しかしそれは他者ではない。自分に都合の良い他者でしかなく、暴力的な他者が出て来ると、脆い。
 しかし私は、さらに次のように考えれば、やはり、両者は同じことを言っているように思える。つまり、鬱親和者の場合も、まずは、他者を暴力的に所有しているのである。自分の中に取り込んでいる。そのために、根源的な他者、暴力的な他者にぶつかると脆い。そう考えると、デリダの捉えているレヴィナスと重なる。また、ここで考えられているレヴィナスも、他者を暴力的に言語化しているだけでなく、ジジェクがいみじくも言っているが、他者とは本当は怪物なのに、レヴィナスにはそれが分かっておらず、倫理的に責任を引き受ける対象にしてしまっているということになる(ジジェクp.81)。
 このように整理して、まず、しかし、鬱親和者を救い出したいと私は思う。彼らが、他者の暴力性に気付いていないというのは、確かなことかもしれない。鬱親和者が、他者からの攻撃に弱いのは、事実だろう。誰とでも、愛想良く付き合っているのに、ふと、予想外の仕打ちを受けると、それは、批判されたり、無視されたり、陰口を叩かれたり、反発されたりすることなのだが、そういうことに、実に脆い。根源的に他者は、暴力的であるという自覚はないのだと思う。また、他者が、いきなり死んでしまったり、引っ越ししてしまったり、縁が切れてしまったりということにも、弱いのは、これも、暴力的な離別に耐えられないということである。離別は、いつでも、不意に、かつ、暴力的に訪れるものである。
 鬱親和者は、津田の言い方で言えば、元々底部に、享受の豊かさを保持し、その上部には、社会生活上の、秩序性を維持し、そのことでバランスをとっている。しかしそのバランスは危うい。両者は矛盾することを、本人が意識している。
 ここで、私は、治療について語っているのではない。それは私の仕事ではない。
 先に書いたが(第1節)、鬱を発症して、閉じ籠もりの状態において見られる、何ほどかの自己があり、それは尊重すべきだと、まずは言いたいのである。もうひとつとは、鬱は、ときとともに、治って行くもので、周期性があり、また容易に発症するとは言え、しかし、元気になった時の、鬱親和者の果たしている人間関係構築の努力には、評価すべきものがあるはずだ。
 またそれは、社会復帰の問題でもあり、鬱親和者の持つ、社会生活上での、その豊かさを、社会が活用しないのは、もったいない。また活用することが、鬱親和者に対しても、安心感を与えることになる。
 さらに、先の節で言ったように、現在、私たちは、鬱親和者の置かれた状況と類似した状況の中にいる以上、非鬱親和者にとっても、このことは、他人ごとではない。
 ここで、以下のような結論を出すことができる。鬱親和者にとって、非鬱親和者とは別の他者がいると考えるべきである。つまり他者の水準を考えるべきである。様々な他者がいて、それらをどの水準で受け止めるか。そこに優劣を設けず、多様な他者がいて、多様な受け止め方があるのだとだけ、言って置く。そういうものとして、他者を語って良い。
 
 さて、レヴィナスの方に考察を進める。
 デリダのレヴィナス批判に対して、レヴィナスの側から、デリダを批判するのは、佐藤義之である。ここでは、佐藤に依拠しつつ、レヴィナスの倫理学を問う。それは、「ヘーゲルを読む」のレヴィナス論とは、異なった観点から、レヴィナスを評価するものとなるだろう。
 先ほどのデリダの批判の第一点目は、レヴィナスは、フッサールやハイデッガーを批判し、彼らの方法論では、他者を「同」のもとに吸収してしまっているとするが、デリダに言わせれば、それは、レヴィナスだって同じだというものであった。また二点目は、レヴィナスは、本人の意図とは別に、結果として、他者を暴力的に扱っているというものであった。後者においては、デリダ自身の問題意識から、レヴィナスに対して、批判がなされている。つまり、それは、 他者を対象化し、言語化する際に、必然的に付きまとう問題である。
 それに対して、佐藤は、デリダは、レヴィナスを誤読していると言う。佐藤の捉えるレヴィナスの思想の根本は、「学問は、倫理を優先する」ということである。レヴィナスは、十分に、フッサールとハイデッガーを意識している。同じ轍は踏まない。彼らの方法論では、他者は「同」に吸収される。それはなぜか。彼らは、自らの理論が前提としているはずの倫理を忘却し、それを二次的なものとしているからだ。哲学が先で、倫理が後に位置付けられているからである。そして倫理中立的な哲学を第一に考えるために、絶対的な他者性が、同化されてしまうのである。
 レヴィナスの場合、それに対して、絶対他は、同化を拒む。それが可能なのは、倫理が哲学よりも、根源的なものとして、先にあるからである。倫理の前提性があれば、デリダの批判は、撥ね返すことが出来る。
具体的に言う。すでに、レヴィナスの思想については、「ヘーゲルを読む」第4章の中で、ヘーゲルと比較しつつ、その素描はしてある。そこから、この議論に必要な限り、再掲する。
レヴィナスの場合、まず、他者が、同化を拒否するものとして、現れる。それが顔であった。他者は絶対的に他者であって、私の内にある他者の観念を踏み越えて、他者は現前する。それこそが顔である。
これを佐藤は、絶対他と表現していた。そしてこの他者は、私の内に、無限に大きな責任を突き付けて来る。そのようなものとしてある。
 さて、そのような他者は、倫理的なものであり、その倫理こそが、学問に先立つ根源的なものであるとすれば、まずは、フッサールやハイデッガーのように、他者が同化されることはない。佐藤は明確に、レヴィナス議論の核心は、「学問は倫理を前提する」という主張に掛かっているとしている(佐藤2000 p.69)。
 ではどうやって、他を語るのか。レヴィナスによれば、他者は語れないし、認識もできない。デリダの、レヴィナスに対する第二の批判は、しかし、そうだとすると、レヴィナスの他者は、「思考しえないもの、顕示不可能なもの、言語を絶つもの」となり、レヴィナスは、「不可思考的-顕示不可能的-無言語的なものの方に向かって」いることになる(デリダp.221)。
 佐藤も、この事態について、レヴィナスが、自らどこまで言語の限界を歩んでいるのか、対象化し得ない他者を語れるのか等、十分自覚的でなかったのではないかとしている。
 しかし、佐藤は、ここから興味深い結論を導く。つまり、レヴィナスは、この後、デリダの批判を受け止めて、第二の主著において、顔として現れる他者の、絶対的な受動性、不合理性を推し進めて行く。しかし、そのために、顔の倫理性を十分維持できなくなってしまうのではないかというのである。つまり、あまりにも、顔の概念を先鋭化させてしまうと、倫理の道が閉ざされてしまうというのである。あるいは、このようにも言われる。「他の絶対的他性を確保し、その相関者である主体の絶対的受動性を示そうとする試みの核心部分が、成功を収めてはいない」(佐藤2000 p.220)。
 佐藤2000の後半部、第7章から10章までの議論は、『存在の彼方へ』の詳細な分析に充てられ、以上のような結論が導かれる。
 さて、私が、佐藤をここで援用するのは、佐藤が、その上で、つまり、第二の主著の先鋭化を押さえた上で、もう一度、第一の主著に戻り、レヴィナスの議論の持つ他者性の豊かさを取り戻そうとするからである。つまり、他者を同化することなく、そこから倫理を構築したいと言うのである。佐藤は、そこで、ケア倫理学と対比させつつ、あらためて、レヴィナスの倫理をまとめて行く。それが、佐藤2000の第11章の課題である1
 ひとつの観点は、その受容性である。人は、普遍的な観点からではなく、目の前の他者への、愛情と顧慮とによって、行動する。また、その際に、見返りは求められないことが多い。少なくとも、見返りは、行為のための必要条件ではない。まずは、他者を受容することが必要だ。
 先に、レヴィナスの場合、他者は対象化してはいけない者であった。対象化しないことが、他者の他者性の尊重する手段である。
 もうひとつは、他者を同化せず、その意味では、主体は、受動的なのだが、他者の顔の要求に対して、どういう態度をとるか、それを決める程度の、最低限の能動性は必要である。そこに、能動性を持つ主体性の、他者への関わり方が回復される。
 そもそも、正義、社会構築は、レヴィナス自身が目指しているものである。しかしレヴィナスの絶対他の考え方を、第二の主著に見られるように、徹底すると、デリダの批判は免れても、積極的に、倫理に役立つものではなくなる。主体の能動性が説明できないからだ。だから、ケア倫理学を参考にして、レヴィナスの倫理学の豊かさを確認したい。
 結論として、佐藤は言う。顔に基づいて、積極的な体系はできない。しかし、顔の圧殺を告発する作業が倫理学の営みである(同p.261)2
 
 最後に、以上のことを所有論として、まとめてみる。
 他者とは、認識できない存在であった。では、認識の対象ではない、他者との関係は如何なるものか。レヴィナスは言う。「他者、つまり意味する者は、自分についてではなく、世界について、言葉で語ることで、語られた言葉の中に、現れる。他者は、世界を提示し、命題化することで、自らを現わすのである」(レヴィナス・上p.185f.)。他者は話し相手である。他者は、語られる主題とは、別のレベルに身を置く。語られる対象としての主題化を受けることはない。認識の対象ではなく、同化されない。このように、佐藤は言う(同p.84f.)。
 ここは次のように言い換えられる。他者は所有できない。他者は所有の対象ではない。そうではなくて、他者は、所有を巡って、人間関係を構築すべき、存在である。
もう少し言ってみたい。私は最初、他者を所有したいと思う。そして他者は、原理的には、所有し得る。しかし、倫理的には、他者は所有すべき対象ではなく、上で述べたような、所有を巡って、関係を作るべき存在であると分かる。そのことが、私の主体化に繋がる。私はそのような他者との語らいの中で、形成されるのである。
 
 
1. ここで、検討されるのは、ノディングスである。N. ノディングス『ケアリング 倫理と道徳の教育 女性の観点から』立山善康他訳、晃洋書房、1997
2. 佐藤義之の思想を追うには、佐藤2004の方が良い。佐藤自身、その本の「あとがき」において、最初の著作(2000)が、「レヴィナスの思想そのものに取り組んだのに対し、今回の著作は、私なりの考えをかなり自由に展開した」と言っているからである。しかし、それゆえに、レヴィナスの思想を追うべく、私は、「最初の著作」を使った。
 
参考文献(取り挙げた順)
津田均「『うつ病』と『うつの時代』」『現代思想』Vol.39-2, 2011
J. デリダ「暴力と形而上学 -E. レヴィナスの思考に関する試論-」『エクリチュールと差異(上) 』若桑毅他訳、法政大学出版、1977
村上靖彦『レヴィナス -壊れものとしての人間-』河出書房、2012
S. ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳、紀伊国屋書店、2008
佐藤義之『レヴィナスの倫理 -「顔」と形而上学のはざまで-』勁草書房、2000
佐藤義之『物語とレヴィナスの「顔」 -「顔」からの倫理に向けて-』晃洋書房、2004
E. レヴィナス『全体性と無限』(「ヘーゲルを読む」4章前出)
(たかはしかずゆき 哲学者)
(3)へ続く
(pubspace-x11102014.09.18)