相馬千春
中東で無差別殺戮が始まった
高橋一行さんがこのサイトで公開されている「政治学講義第一回(1)」(2023年08月15日)は、E. トッドの著作『第三次世界大戦はもう始まっている』を検証していますが、そこで高橋さんは「私は基本的にトッドに同意するが、しかし「第三次大戦は始まっている」ということには同意しない」と言われている。
高橋さんのこの見立てを伺って、私はすこし安堵したのですが、それから2か月もしないうちに中東でハマスの無差別殺戮があり、イスラエルによる報復の無差別殺戮も始まっています。ウクライナに続いて中東でも戦争が始まると、「第三次大戦が始まるのでは」という恐怖が心のうちに広がっていく。
はたしてこの間の事態は、第三次大戦が「始まっている」ことを、あるいは「始まる」ことを告げるものなのか。
「台湾有事」への影響は?
さらに東アジアでは「台湾有事」が懸念されていますが、アメリカが二つの戦争を抱えている状況下で「台湾有事」が起こるとどうなるのか?
「単純に言えば、米国にとっては無理な話だ。せっせと2つの大規模な戦争を支援しつつ、3つ目が起きる可能性に備えることなどできはしない(2)」というのはデービッド・アンデルマンですが、軍事について多少の知識がある人であれば、誰もがそう思うでしょう。
つまり今の状況では、「台湾有事」に対する抑止力は構築できず、中国が台湾侵攻を決断すればそれは可能であることになる。これはパクス・アメリカーナの終わりを告げる事態なのか。しかし、「第三次大戦が始まるのか」、「パクス・アメリカーナは終わるのか」を問題にする前に、中東での事態をもう少し見ておきましよう。
“イランが裏で扇動していたという話は現時点では信憑性がない”
中東の事態を捉えて「第三次大戦が始まる」とするのは、今回の事態にハマス以外の他の国の意思が想定されるからで、この場合、その他の国としては先ずイランが挙げられる。
たとえば、8日のウォール・ストリート・ジャーナルは、「イランの安全保障当局者がハマスによるイスラエルへの土曜の奇襲攻撃の計画を助け、またベイルートにおけるこの月曜日の会合で襲撃に許可を与えた(3)」としている。
しかしイラン関与説を否定する報道や見解も少なくありません。いくつかを引用すると、まずストラテジー・ページの記事“Winning: Iran Faces Defeat in the Face of Victoryは、「長年のハマスのスポンサーであったイランはハマスの自殺攻撃を望んでいなかった(4)」としている。
また「今回、ヒズボラの軍事行動が比較的節度を保ったものだったことも考えると、イランが裏で扇動していたという話は現時点では信憑性がないと感じています(5)。」というのは、ブリュノ・テルトレ。
そして「イランがこの戦争に直接関わるとは考えづらい。イランはいま、外交的に調子が良い。中国との良好な関係に加え、サウジアラビアとも国交が再開した。…彼らがイスラエルとの戦争を望んでいるという考え方は、私にとってはとても信じがたいことだ(6)」と言っているのはイアン・ブレマーです。
こうしたことを踏まえると、「今回イランがハマスの襲撃に許可を与えた」というのは事実ではないと思われる。
またロシアも関与を疑われているわけですが、これも証拠がある話ではない(7)。いずれにせよ、今回の攻撃はハマス自身の判断によるものと見てよいでしょう。
“「アメリカに死を」というフレーズが改めて中東に響き渡っている”
欧米の論調ではハマスに「テロリスト」の烙印が押されることが多いわけですが、「ハマスが一方的に悪い」とすることが無理であることは、いまさら言うまでもないでしょう。
この間の「パレスティナ問題」については、フィナンシャルタイムズの記事「バイデンとネタニヤフと米国の選択、暴力の連鎖を断ち切れるか(8)」をご覧いただきたいのですが、この記事の副題:「パレスティナ問題を見て見ぬふりをしたツケ」は、今回の事態の本質を的確に言い表しているのではないか。
さてこの記事(10月17日)は今後の展開を次のように予想していました。
「10月半ばの虐殺は、イスラエルがガザ地区で残虐な報復に走るよう挑発するために企画された。/その思惑通りになれば、ハマスの二元論的な世界観とハマスこそがパレスチナ人の正統な代弁者だという主張の裏付けになるだろう。/占領されているヨルダン川西岸でのファタハの支配がさらに弱くなり、イスラエルの過激主義をあおることになる。/こうした波及効果はそれぞれに米国の立場を悪化させ、イスラエルの安全保障をさらに損なうだろう。」
そしていま、事態はほぼこの通りに進んでいて、アメリカは「ガザ虐殺の共犯者」となり、「「アメリカに死を」というフレーズが改めて中東に響き渡っている(9)」(ニューヨークタイムズ)。
つまりハマスの無差別攻撃を起点として、中東ではアメリカに対する戦線が再構築されている。
ウクライナの勝利は困難ではないか?
ここでウクライナに話題を転じます。
高橋一行さんは「ウクライナは主権国家だから、ロシアの侵略は正当化されないと私は思う」と言われていて、これについては私もそう思っています。
しかし「この戦争でウクライナが勝利できるか」と言えば、それは困難ではないか。なによりアメリカ議会下院がウクライナに対して十分な支援を継続するのか疑わしいが、十分な「支援」なしにはウクライナがこの戦争に勝つことはあり得ない。将来を予測することは困難ですが、ヨーロッパ東部の戦線も――休戦状態になることはあっても――残る可能性が高いでしょう。
アメリカの国内政治も混迷している
アメリカの国内政治もまた混迷しています。議会下院ではようやく議長が決まりましたが、与党共和党内に深い亀裂がある以上、下院を正常に機能させていくことは容易ではないでしょう。これはうわべを見れば、トランプ派の所為ということになりますが、事態の根底には、アメリカの社会的矛盾――具体的にはブルーカラー層の没落と社会の分断――の進行があり、それがいよいよアメリカの覇権国としての行動を困難にしているということでしょう。
もちろん中国などの諸国の擡頭とアメリカの相対的な衰退がその覇権の維持を困難化している根底的な原因ですが、上で指摘した状況を踏まえると、今日のアメリカの覇権後退の直接的な原因は、むしろアメリカ外交の失敗とアメリカ社会の矛盾の進化とにあると言って良いのではないか。
このまま「台湾有事」が起るとどうなるか?
さて、アメリカがウクライナと中東という二つの戦線に拘束されたまま、東アジアで「台湾有事」が起こった場合について、もう少し考えておきます。
アメリカのシンクタンクCSISが今年1月に台湾有事に関するレポートを出しましたが、それにはこう書いている(10)。
「ほとんどのシナリオで、米国/台湾/日本は中国の通常兵器による揚陸侵攻を打ち負かして台湾の自治権を維持する。しかしこの防衛は高いコストを要する。合衆国とその同盟国は数ダースの艦船、数百の航空機、そして数万の兵員を失い、台湾はその経済が荒廃するのを見る。」
「合衆国は、ピュロスの勝利を得て「負かされた」中国より長いあいだ損害を被るかもしれない。そのうえ、[勝利の]コストは高いという認識は抑止力をひそかに傷つけるかも知れない。もし中国が、合衆国は台湾防衛の高いコストを支えるのは不本意だと信じるならば、中国はリスクを取って侵攻するかもしれない。」
しかし、他に二つの戦線を抱え、国内にトランピストを抱えている状況では、「ピュロスの勝利(11)」を得るという認識でさえ、あまりに楽観的です。
もちろん習近平が「台湾侵攻」を決断するか否かは別問題です。しかし東アジアにおけるパワーバランスのこのような変化は中国の地域覇権の獲得にとって極めて有利に作用するのは明らかで、これはパクス・アメリカーナの終焉を直ちに意味するものではないにしても、その余命が長くないことを告げるものでしょう。
日本もこうした変化したパワーバランスの下に置かれることになりますが、だからと言って、私は今日の日本の軍拡路線に賛成するわけではありません。端的に言えば、中国の軍事費は7000億ドル(約100兆円)(12)と推計されていますから、日本が防衛予算を10兆円にしたところで、「ミサイル攻撃にはミサイル攻撃を!」といった「対称的な戦略」は成立し得ない。つまり日本は「非対称的な戦略」を採用するしかありません。
「一つの世界大戦」ではなく、「個別的な戦争が頻発する世界」になるのでは?
さて「第三次世界大戦が起こるのか」という問いに戻ってみると、すでにヨーロッパと中東で戦争があり、さらに東アジアでも戦争が懸念されている。しかし「第三次世界大戦は不可避であるのか」といえば、必ずしもそうではない。
第一に「台湾有事が起こる」とは必ずしも言えないでしょう。この点については、CSISのレポートも「侵攻のモデリングは、それが避けられないということを、あるいは、ありそうだということさえも、含意してはいない」という注意を付している。
第二に、仮に東アジアに第三の戦争が始まったとしても、「三つの戦争が存在する」ことと「三つの戦争が一つの世界大戦を構成するものである」こととは別である。もし中国とロシアとイランが覇権を握るために同盟を結んでいるのであれば、その場合は「一つの世界大戦」と言ってよいでしょうが、いまはそういう状況ではない。
なぜかと言えば、パクス・アメリカーナの後、中国とロシアとイランの同盟が世界の覇権を確立することはほとんど考えられないからで、インドは中国を凌ぐGDPを持つでしょうし、中国は――当面の経済的な困難を克服したとしても――少子化・人口減少で経済成長は鈍化し、そのGDPはアメリカを下回る。中東でもアラブ人やトルコ人がイラン人の覇権を認めることはない。
そうするとパクス・アメリカーナの終焉後はイアン・ブレマーの言う「Gゼロ(13)」の世界、覇権が成立しない世界になる可能性が高いのではないか。「覇権国がないのは良いことだ」と言われるかもしれないが、それは極めて不安定な世界で、国々の武力の寡多によってその主張が通るか否かが決まる世界に成りかねない。
だから一つの世界大戦ではなく、個別的な原因による戦争が世界のあちこちで頻発する可能性が高くなるのではないか。しかし戦争の原因が個別的なものであれば、戦争を回避する個別的な努力も有効であり得るはずです。
日本に足りないものは何か?
さて、以上の認識を踏まえて、島国日本の我々にとって何が課題かを考えてみます。しかしこれを考えることは、じつは容易ではない。なぜなら敗戦後、日本は軍事問題をアメリカまかせにしてきたのですから。そこでまず軍事問題に関する日本人の反応を観察することから始めましょう。
一方の極にいるのは、いわゆる護憲派の人たち――ごく少数ですが――で、彼ら・彼女らはひたすら「軍備を持たないことが正しい」と言います。それで「日本が攻められたらどうするの?」と尋ねられると、ある人は「日本は資源のない国だから攻められることはない」と言い、ある人は「攻められたら降服すればよい」と言う。
もちろんリベラル派政党・左派政党はそんなことは言ってはいませんが、「護憲派」はそのコアな支持層をなしていますから、リベラル派政党・左派政党は「護憲派」のセンスに引きずられがちです。これは「軍拡派」にとっては好都合なことで、「リベラル派・左派は現実を見ないお花畑な人たちだ」と宣伝する格好の材料になる。つまり「護憲派」のふるまいはじっさいは皮肉な効果をもたらしている。
他方の極にいるのは、「軍拡派」の人たち――こちらはかなりの数です――ですが、彼らは「軍備を増強すれば国を守ることが出来る」と信じ、またアメリカを信じてもいる。しかし兵器を揃えるだけで軍備が増強されると思うのは、「腰に刀を差しさえすれば、自分も武士になれる」と思うようなものです。また他国を容易に信じるのであれば、頭をなでてくれる大人を無邪気に信用する12歳の少年みたいでもある。
つまり左を見ても右を見ても、そこには「兵学的リアリズム」がない。
こんなふうに言うと「いや自衛隊の幹部は兵学的リアリズムを持っているよ」と言われるかもしれない。しかし防衛大学校教授等松春夫氏の告発「危機に瀕する防衛大学校の教育(14)」をご覧いただけたなら、それが全くの幻想であることが分かるでしょう。
CSISのレポートを読むと日本の防衛政策のでたらめさが良く分かる。
今日の日本の防衛政策が如何に「兵学的リアリズム」から乖離しているかを示すために、日本の防衛予算の使い方とCSISの台湾有事レポートの指摘とを比較してみましょう。
一例を挙げると、日本は巡航ミサイル・トマホーク400発を取得して、これで「敵基地攻撃」を行うことになっていますが、CSISはアメリカ軍に対して「(中国)本土への攻撃を計画してはならない」と提言している。これは「核戦力をともなうエスカレーションという重大なリスク」を避けるための提言ですが、その後アメリカ軍も日本への中距離ミサイル(LRHW=長距離極超音速兵器 やトマホーク)の配備を――少なくとも当面は――行わない方針を明らかにしていますから、CSISのこの提言は現実のものとなっています。
そうすると日本は単独で対中本土攻撃を行う――しかもたった400発のトマホーク(弾頭重量450kg)で――ことになりますが、それは日本単独で、軍事費約100兆円の中国と、引き返すことのできない戦争を始めることを意味している。しかしそんな覚悟が出来ている日本人がどこにいるのでしょうか。
CSISは「より安い戦闘機をもっと生産せよ、そしてステルス航空機の獲得と非ステルス航空機の生産とをバランスさせよ」と言いますが、日本はもっぱら高額のステルス機F35を大量に購入しようとしている。しかしどんな高性能な戦闘機でも、地上では容易に撃破される。台湾有事の際、「日本の航空機の損失は…平均すると122機であり、…大部分は地上で打撃を受ける」。これは沖縄だけでなく日本全土の基地がミサイル攻撃を受けることをも意味していますが、要するに高価な航空機を買い揃えても、自衛隊が保有する作戦機360機の3分の1は地上で破壊されてしまう。
それでCSISは「地上における航空機のサバイバビリティを増進させよ」というのですが、日本の基地はすぐ隣に民家が立っているのだから、基地だけを要塞化したら住民はなんと言うか。ですから日本で基地を要塞化するのは政治的に容易ではない。こうして基地の脆弱性は残ってしまいますから、F35Aなどに高額の投資をしても、かなりの部分は無駄になるでしょう。
CSISによれば、「海上自衛隊も…重大な損害を被る」。その理由も航空機の場合と同様で「海自の軍事的な資産がすべて中国の対艦ミサイルシステムのレンジ内に置かれているから」です。ベース・シナリオでの自衛隊艦船の喪失は26隻で、これは海上自衛隊の主要水上艦艇の約半数に相当する。そもそも「水上艦艇は極端に脆弱であり=Surface ships are extremely vulnerable」、CSISのレポートでは強固な防空システムに保護されているはずのアメリカの空母も2隻の喪失が見込まれています。ところがいま日本では従来のイージス艦より大型の艦船を2隻作られようとしている。その金額は2隻で総額約9000億円で、一隻の単価は従来型の2倍以上になる。各国が無人艦艇への投資を拡大している(15)中で、「令和の戦艦大和・武蔵」のような軍艦を作るのでは、「兵学的リアリズム」からはまったく外れている(16)。例を挙げればキリがありませんので、この問題はこの辺にしておきましょう。
丸山真男・神島二郎が指摘している「兵学的リアリズム」と「エートス」の重要性
さて、私が市民運動で「兵学的リアリズム」などと言うと、私は、いわゆる護憲派の皆さんからは、「アイツは戦争に賛成する人間なんだ」と思われてしまうことが多い。しかし「兵学的リアリズム」という言葉は丸山真男と神島二郎から借用したもので、その著作を読めば、彼らが政治における「兵学的リアリズム」の重要性を認めていることは、明らかです。
それで、ここでも丸山真男と神島二郎の言を少しばかり引用しておきましょう。
「幕末の動乱のなかにダイナミックな戦国状況がいわば再現したとき、この戦闘者としての武士のエートスはもう一度、最後の沸騰の機会を与えられるのである。」(『丸山眞男講義録5. 1965』p.247)
「動きのとれない自然法的規範の拘束と行動の定型化から自由な<こうした武士のエートスのよみがえりによる>兵学的=軍事的リアリズムは、power politicsの波を乗り切るのに有利だった。」(同上、p.252)
「兵学的リアリズムが、革命の指導者をして、まさに強いられた開国を……みごと主体的にうけとめさせ、それがほかならぬ「開国進取」の政策となる。」(神島二郎『近代日本の精神構造』p.187)
丸山や神山を読むと「兵学的リアリズム」に関連してもう一つ大事なことに気付かされる。それは「兵学的リアリズム」は、「武士のエートス」のような「エートス」に支えられて初めて存立し得るものだということ(17)。「軍事的リアリズム」を単なる「技術的な知」として扱えると思っている人がいますが、そうではありません。
さらに、これは我々が困難な状況にあることを意味している。なぜなら武士が滅んだいま、「武士のエートス」を再生させるのは大変だし、そもそも民主主義を建前とする世で、改良版であれ「武士のエートス」が肯定されるのか?という問題がある。あるいは「西欧的な民主主義のエートス」――私は「共和主義的パトリオティズム(18)」をそう呼んでも良いと思うのですが――を確立するという道も考えられるが、日本でそうしたものを血肉化することは大変な努力を要するのではないか?そういう問題があると思います。
「道理に基づいて虚心に議論する」知的共同体の復活が必要
日本の世の中を観察すると、じつは他にも難しい問題がある。それは今日の日本人には「道理に基づいて虚心に議論する=考える」習慣がないということです。
丸山によれば、明治の前期までは「[中江兆民の]『三酔人経論問答』の主人公達の間にあったような知的共同体の意識」、「ちがったイデオロギーの持主が集って徹夜で討論するような精神的空気(19)」がありましたが、これを支えていたのは、江戸期の藩校・私塾での「道理にもとづいて虚心に議論する=考える」という精神だったと、私には思われる(20)。(この「道理」なるものが、何か超越的な原理に依るものではなく、「水平的なDialektikのプロセス(21)」から生じるものである点には注意が必要です。)
ところが藩校・私塾から帝国大学・陸軍士官学校・海軍兵学校・師範学校等々の近代的制度へと教育システムが移行すると、そこで形成された人々のほとんどは――いろいろな知識を詰め込まれてはしても――「道理にもとづいて虚心に議論する=考える」ことをしなくなった。もちろんそうではない人たちも少しはいるのですが・・・。
「道理にもとづいて虚心に議論する=考える」という思考様式が廃れると、日本人は「道理」よりも、「自分が属する集団内の他者がどう思うか」が、つまり「横並びになっているか」が、気になってしまう。これは、私の経験からすると、西欧思想の流れを汲むと自認しているリベラル・左派も例外ではありません。
こうした「集団心理」的思考・行動(22)の拙さは軍事を扱うとなるといっそう明らかになります。「道理」を無視する思考では、合理的判断など出来るはずもなく、その行動は最後にはバンザイ突撃に至るしかない。つまり先のアメリカとの戦争のようになってしまう。敗戦は、本来なら日本人が「兵学的なリアリズム」を再確立する契機にもなり得たはずですが、日本人は「兵学的なリアリズム」の再確立を放棄してしまいました。
しかし、これからの世界はおそらく各地で戦争が頻発する世界であり、またパクス・アメリカーナも終焉するでしょう。そうしたなかで、我々がこれからの時代を生きていくには、どうしても「兵学的リアリズム」とそれを支える「エートス」が必要とされる。そしてそのためにはなにより「道理にもとづいて虚心に議論する(=考える)」精神を、すなわちそのような知的共同体を構築していく必要があると思われます。
注
(1) 高橋一行「政治学講義第一回 第三次世界大戦はもう始まっているのか」http://pubspace-x.net/pubspace/archives/10315
(2) https://www.cnn.co.jp/usa/35210271.html
(3) https://www.wsj.com/world/middle-east/iran-israel-hamas-strike-planning-bbe07b25
(4) https://www.strategypage.com/htmw/htwin/articles/20231015.aspx
(5) https://news.yahoo.co.jp/articles/248e04996e321c189b3fc4dc400bfb0601594cc7
(6) https://news.yahoo.co.jp/articles/7b74b4f354eccf1e20bc3d413db200c5c622debd
(7) 「プーチン氏は、イスラエル・ガザ戦争で得をするのか=BBCロシア編集長」https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-67109742
(8) https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/77461
(9) https://toyokeizai.net/articles/-/710205
(10) 以下のCSISのレポートからの引用は、拙稿「CSIS「中国の台湾侵攻の図上演習」の「要旨」を試訳する」による。http://pubspace-x.net/pubspace/archives/9447
(11) https://ejje.weblio.jp/content/Pyrrhic+Victory によると、「ピュロスの勝利」とは、古代ギリシャの王ピュロスPyrrhusが多大な犠牲を払ってローマに勝ったことから、を意味する。
(12) “China’s Defense Budget Is Much Bigger Than It Looks”による。https://foreignpolicy.com/2023/09/19/china-defense-budget-military-weapons-purchasing-power/#:~:text=U.S.%20Sen.%20Dan%20Sullivan%20recently,of%20just%20over%20%24800%20billion.
(13) イアン・ブレマー『「Gゼロ」後の世界 – 主導国なき時代の勝者はだれか』を参照されたい。
(14) https://pdf.dotool.net/en/file/TJH9YOX9T3.html
(15) 例えば以下のサイトの記事によれば、「韓国海軍は1%に過ぎない無人戦力を2025年頃までに9%、2030年頃までに28%、2040年頃までに45%まで引き上げる予定」である。https://grandfleet.info/indo-pacific-related/south-korean-navy-undergoes-major-restructuring-replacing-45-of-its-force-with-unmanned-forces/
(16) 23年度から5年間の防衛費を、従来の1・5倍にあたる43兆円に増やす計画について、香田洋二氏(元自衛艦隊司令官)は、次のように言う。
「今回の計画からは、自衛隊の現場のにおいがしません。本当に日本を守るために、現場が最も必要で有効なものを積み上げたものなのだろうか。言い方は極端ですが、43兆円という砂糖の山に群がるアリみたいになっているんじゃないでしょうか」https://blog-imgs-157.fc2.com/o/o/h/oohira181/anzenhoshyo_13.html
(17) 丸山真男の「武士のエートス」論については以下の拙稿を参照されたい。
「「武士のエートス」とその喪失について考える――リベラル・左派の何が問題か?(七)」http://pubspace-x.net/pubspace/archives/8273
「(続)「武士のエートス」とその喪失について考える――リベラル・左派の何が問題か?(八)」http://pubspace-x.net/pubspace/archives/8348
(18) 「共和主義的パトリオティズム」についてはマウリツィオ・ヴィローリ『パトリオティズムとナショナリズム』を参照されたい。また拙稿「「デモクラシー」と「主であること(Herrschaft)」」でもヴィローリの説を紹介している。http://pubspace-x.net/pubspace/archives/10037
なお「パトリオティズム」というと「愛国主義と同類」と思われるかもしれないが、その語幹である「パトリ」について、柴田三千夫は次のように言っている。
「この[パトリの]観念は古くからあるが、啓蒙思想は、これに普遍主義的な自由と理性の観念を結びつけた。そのため、自由と理性が支配する地しかパトリではありえないし、パトリをもつことは人類共通の幸福となる。これはコスモポリタニズムであって、一九世紀以降のナショナリズムとは違う。」(『フランス革命はなぜ起こったか』p.167-168)
(19) 丸山眞男『後衛の位置から』所収、「近代日本の知識人」p.95
(20) 以下の文言も度々引用しているが、前田勉『江戸の読書会』は金沢藩明倫堂の「入学生学的」の次の文言を紹介している。
「会読之法は畢竟道理を論し明白の処に落着いたし候ために、互に虚心を以可致討論義[もつてたうろんいたすべきぎ]に候」
(21) 『丸山眞男講義録5. 1965』p.121
(22) 「集団心理」的思考・行動について神島二郎の言葉・「擬制村的」を使うことは許されると思う。しかし注意する必要があるのは、これが当てはまるのはまさしく「擬制村」であって、本来の「村」ではないという点である。現代でも物事を正しく判断できるのは、むしろホンモノの「村」の人々の方であり、「擬制村」――「民主的」市民団体が実はそうだったりする――の人々がほとんど何も考えていないのは、よく観察されることである。
(そうまちはる:公共空間X同人)
(pubspace-x10533,2023.10.26)