隣接異次元――『お父さん、あのね…』

森忠明

 
   昨夏、K少年院の盆踊り大会に招待された。十四歳から二十歳までの若者八十人と「21世紀音頭」「好きになった人」「血液ガッタガタ」などを踊って汗をかいた。休憩時間にトイレへ行くと、ワープロの練習をかねているらしい短文が、廊下の壁にずらっと掲示されていた。テーマは〈今の自分と父〉で、次のようなのがあった。
   〈今年の父の日には何も出来なかったけど、来年は現金等、大切なものと、そしてバラの花を贈りたいと思います〉
   〈おとうさんいつもありがとう。あと、大きくなったら、おもいっきり酒をのみたいです。それからやさしい父親になりたいです〉
   秋の運動会にも招待されたので出かけると、背の高い少年が私に近づき、「きょうは下駄じゃないんですか」と言った。盆踊りの日に私が下駄で参加したのを覚えていたのだ。父親に甘えるような口調だった。

 
   娘が生まれて七年近く父親業のようなものをやってきたが、どういうのが”正しい”父親なのか分からない。最も似ている者同士の最も小さな裂け目には最も橋をかけにくい、というふうなことをニーチェが書いていたはずで、私にとっての娘は隣接異次元の世界である。
   娘のほうも「パパって天国にゆく人?大地獄へゆく人?」などと唐突に質問。父の正体が分からないのだろう。
   私の父は公務員を四十年間大過なく勤めあげた男だけれど、家庭では恐妻家で放任主義者。夫や父としての役割演技が下手な人だった。ぶんなぐってもらった記憶も、名作童話を買ってもらった記憶もない。
   私が九歳頃の夏の夕方。中年(に見えた)女性が木戸の表札を指さして喚きだした。
   「この森忠雄(父の名)は人殺しだよ!新世界で人を殺してきたんだ!」
   しつこく繰り返す。母はいきり立ち私は不安をつのらせた。ストーカーの一種である。父は黙って晩酌をつづけていた。「警察をよぶ」と母。「ほっとけ」と父。「新世界ってどこ」と息子。「大阪だろ。オレは行ったことがない」。
   父の泰然自若ぶりに私は感心した。と同時に(この男はもしかすると新世界という別の星からやってきた謎の生物かもしれん)と考え、不気味だった。その少し前、立川セントラル劇場で「宇宙人来襲」というような恐るべき映画を見たせいもあった。
   C・G・ユングの「個人の運命における父親の意味」を読むと、私の父みたいに好い加減なパパのほうが、原型とやらに同一化してファシストじみるパパよりもマシだということを教えられる。凡夫の私としては「娘を擬装されたエロティシズムで可愛がり、彼女たちの感情を暴君のように圧制」(ユング・小川捷之氏訳)しないでおこう、と自戒するのが精一杯である。

 
   『おとうさん、あのね…』(松村美樹子・作、広野多珂子・絵、ポプラ社、一〇三〇円、九六年十二月刊)には、過労からくる無口と生来の口下手のために、一人娘の理奈ちゃん(小五)と打ち解けて話せない父親が出てくる。この手のを”弱い父”とか”抑制された父”とかいうのだろうか。
   父との距離の取り方が分からず、小さい胸をいためる理奈ちゃんに同情、「いたいけな娘を困らせるな、グズおやじめ」などと野次ってしまった。地味だけれど上品で格調高い小説である。絵もたいへん上質。売れ線の本ばかりだしている出版社かと思っていたが、清らかな伏流水的作品も大事にしているらしく安心した。
   蛇足ながら、我が父はまだ健在である。六十歳の時に大腸ガンの手術を受け、名医から「あと一年の命」と宣告されたのに、二十年たった今も死なない。バイクをぶっとばして花見やラグビー観戦。やはり新世界からやってきたターミネーターではなかろうか。
 
(もりただあき)
 
森忠明『ねながれ記』園田英樹・編(I 子どもと本の情景)より転載。
 
(『おとうさん、あのね…』の「…」は、正しくは高さが中央の表記なのですが、編集技術が未熟で正しく表記できません。お許しください。――編集部)
 
(pubspace-x10057,2023.10.31)