相馬千春
(八)より続く。
十一、日本近代成立期の「民衆運動」(続き)
私たちは、日本近代成立期の「民衆運動」として、すくなくとも三つの運動――明治維新期の「世直し」、明治初期の「新政反対一揆」、「困民党」などの自由民権期の民衆運動――の検討を課題として設定していました。前回は明治維新期の「世直し」について考えてみましたので、年代順からすれば、次は「新政反対一揆」の番なのですが、先に「困民党」などの自由民権期の民衆運動について考えることにします。
2.「困民党」などの自由民権期の民衆運動
a.近代的土地所有の確立と民衆の抵抗
前回取り上げた「世直し一揆」の背景には、百姓の(近世的な)土地所持の危機がありましたが、明治新政府は、近世的な土地所持そのものを解体して、近代的土地所有を確立していきます。そこで、「困民党」などの自由民権期の民衆運動を見ていく前に、まずこの土地制度転換を――鶴巻孝雄『近代化と伝統的民衆世界』(以下〈鶴巻〉と表記)、水林 彪「土地所有秩序の変革と「近代法」(1)」(以下〈水林〉と表記)によってーー簡単に見ておきましょう。
鶴巻孝雄は、土地制度転換の「決定的な契機」を「旧来の土地所持の独自な形態の法的・制度的根拠を喪失すること」(〈鶴巻〉p.195)としていますが、先に見た「質地請戻し慣行」(何年たっても元金さえ出せば質地を請戻しできるという慣行)などは、「旧来の土地所持の独自な形態」の最たるものでしょう。
こうした「独自の形態」が「地租改正とその実施要項」あるいは「土地貸借法など」によって法的・制度的根拠を喪失していくわけです。
このうち「地租改正」は、「一八七二~三年におこなわれた「壬申地券」の交付作業と、七四年七月以降の「地租改正条例」にもとづく改租作業に大きく分けることができる」(同上p.202)のですが、一八七二年二月に地所永代売買が解禁され、「これにともない売買・譲渡しの土地への地券交付が開始される」(同上)。
そして、1873年1月17日には「地所質入書入規則」が布達され、「この布達により、新たに取り結ばれる質地契約は、年季の最長を三年と制限され、近世以来のさまざまな土地貸借慣行が廃棄される」(同上p.203)ことになります。
水林 彪によると、この「地所質入書入規則」によって「富裕農民が膨大な量の土地を集積することを可能とする法的条件」(水林p.129)が整うことになった。しかし当初は「地所質入書入規則に準拠せず、はじめから質取主を所有権者とした地域も広く存在した」(同上p.130)。しかしこうした処置が取られたのは「やがて質地を請戻しうることをも当然視する法観念」(同上p.131)があったからだそうで、じっさい「明治一〇年代に入ると、全国各地で、質地訴訟が展開する」(同上p.131)ことになります。
こうした質地訴訟に対する大審院の判断は当初「概して質入主の請求を結果として認容する判決を出す傾向が強かった」(同上p.131)が、1884(明治17)年4月15日の判決において、大審院はそれまでの考えを翻し、「質取主が名請し、以後長く質入主が受戻しをしなかったということは、質取主名請の時点で流地となったということであるとする控訴審の判断を支持した」(同上p.131)。
つまり1873(明治6)年の「地所質入書入規則」の布達で、直ちに近代的土地所有制度が確立して、質地請戻しの慣行が過去のものとなったわけではない。同規則の布達から近代的土地所有についての司法判断が確定するまでには十年余を要したことになります。
b.近代的土地制度確立への農民たちの抵抗
このような近代的土地制度へ確立過程では、これに対する農民の強い抵抗がありました。
1878年には相州大住郡真土村の村民たち――土地を取り上げられた農民のみならず、義憤にかられた同調者を含む――が、質取主・松木長右衛門とその家族・雇人、計7名を惨殺する事件(真土事件(2))が起き、1884年にも相州淘綾郡一色村の高利貸し・露木卯三郎とその養子が農民たちに殺害される事件が起きます。
これらの事件に関して、少なくとも以下の二点には注目すべきでしょう。
その第一点は、真土事件では世間の同情は被害者の方ではなく、加害者たちの方に集まり、彼らが「義民」扱いされていることです(3)。つまり当時の『民衆的』倫理観からすれば、被害者こそが私欲に凝り固まった悪であり、これを制裁した加害者のほうに正義がある。ここで『民衆的』と『』を付けたのは、いわゆる民衆以外の人々もこの倫理観から自由ではなかったと思われるからで、じっさい広範な減刑嘆願の世論にも押されて、政府は犯人たちの刑を軽減し、獄死したものを除く全員が1890年までに出獄しています。また土地も被害者遺族から――仲介人を通して――農民たちに返還されている。
第二に、これらの事件は『強欲』な金貸したちを牽制し、民衆の利害を貫くうえで、大きな力を発揮したとみられることです。
阿部安成「不穏な死体の存在(4)」(以下〈阿部〉と表記)は、次のように言う。
「石垣商店には日録様式で綴られた「石垣記録」がある。……松木殺害に「実ニ可怖コト也」と戦き、「後ノ戒卜成ス可」しと書かれたこの記録は、真土村事件を恐怖と自戒として経験した人物の存在をあらわしている。」(〈阿部〉p.265)
「焼き打ちの嚇しは、「津ヽかな起命ハきのふ共伸社あすハ露木の友となる身ぞ」、と書かれた張紙ともなった。……すでに死体となった露木の名から恐怖が伝播してゆく。実行者のみえない脅迫により、「梅原修平[金融会社共伸社社長―引用者、以下同様]ハ勿論家族雇人ニ至ルマテ狼狽一方ナラス」……。」(同p.264)
こういう状況では、富裕者も妥協せざるを得ない。「露木事件」のほぼ一月後には、江陽銀行が放火の予告を受けるが、社長は民衆の御機嫌を取ろうとして、八幡宮の祭りの際には酒樽と魚を持ち込んだという。しかし民衆の方がそれを「フショウブショウニ請ケ取る」状況だった(〈阿部〉p.266)。この記述からは「露木事件」が金貸しと民衆の力関係を明らかに変えている様が見て取れる。じっさいこのあと江陽銀行は負債者と「示談内済」の道を選んでいます(同上)。
c.「焼カルヽモノハ不徳ナル者」――民衆の日常的な抵抗とその方法
債権者を殺害するというのは、極限的な抵抗と言ってもよいでしょうが、債権者、富裕層に対する民衆の抵抗には、種々の方法があって、その一つが放火やその予告でした。
「米金貸借ニ際シ約定期限ニ至リ返済ナキヲ以テ債主ヨリ強ヒテ之レヲ促セハ、忽チ放火シテ、以テ己レカ怨ヲ報セリトス」(〈鶴巻〉p.134)
これは、青森県士族・間山菊弥が、宮内省御用掛・佐々木高行に提出した具上書(1880年1月16日付)からの引用なのですが、この具上書によれば、債権者が借金の返済を強く迫ると「放火」されることがあったことがわかります。間山によれば、これは旧藩時代からの「悪習」であり、藩の役人でさえ「焼カルヽモノハ不徳ナル者」という認識であったという(同上p.135)。
牧原憲夫『客分と国民の間』(以下〈牧原〉と表記)もこの具上書を取り上げていますが、この時代、「東北・関東では一様に放火件数が多く、青森だけが特殊とは思えない」(〈牧原〉p.32)、「放火を予告する張り札(火札)は東京などでもさかんに張られており、ワラ束は米価値下げを要求する火札が無視された時の次の手段といえるかもしれない」(同上p.30)と言います。
つまりこの時代、「放火」やその予告は、民衆の抵抗の一般的手段となっていたわけです。「放火」以外にも戦術はありました。「朝野新聞」(1885年4月10日)の記事(「武州北多摩郡通信」)中には次のような文言があるそうです。
「目今当地は芝居大流行にて、東京より出稼ぎの女俳優は大当りなり、是は花買ひとて金儲半分、面白半分より成り立つものにして、原素は矢張り不景気なり」(同上p.121)
なぜ不景気で「芝居大流行」なのか?「花買ひ」とは何なのか? 牧原は次のように言います。
「「花買ひとて金儲半分、面白半分」の意味がわからなかった……。ところがのちに、武相困民党の一角を担った北相模地方に「はなげえしばい」なるものが存在することを知らされ、事態がのみこめた。」(同上p.121)
「大塚博夫氏の調査によると、借金を返せない家のために組内の者が主催者となって、神社の境内などで芝居興行をおこない、債権者を”招待”する。一般の観客は木戸銭を払うが、債権者は借金証文を祝儀がわりに差し出して酒肴の接待をうけ、借金は棒引きにされてしまう、というのである(「ほうづけとはなげえしばい」『民俗』七九、相模民俗学会)。……明治末までこの慣行はつづいたらしい。」(同上p.123)
「殺人」や「放火」に較べれば、「花買ひ」芝居への”招待”などは、だいぶん穏やかなものと思える。しかしこれとて、今日の感覚からすれば、”招待”とは名ばかりの強要ということになるでしょう。こうした実態を見ると、この時代の民衆の抵抗が相当に暴力(ゲヴァルト)的であることは否定できない。しかし、富裕層の横暴を制約したものは、専ら民衆の暴力だったのでしょうか?
この問題を考える際、私たちは、例えば真土村では「[殺害された]松木長右衛門以外の質取主二十余名はすべて、旧来の慣行を踏まえた約定を履行し、質地の地券名請名義を質置主としていた」(〈鶴巻〉p.15)ことに注目する必要があるのではないでしょうか? つまり松木以外の富裕者(あるいは相対的富裕者)たちは、旧来の村の掟を守っていたわけで、松木が例外者=逸脱者であった。そうであればこそ、掟から逸脱した松木に対する死の制裁も社会的に容認されたのではないでしょうか?
前回、白川部達夫の「有力百姓は村のなかで、小百姓への融通機能をはたしてこそ、その富の正当性が認められ、これに背くものは私欲として村方騒動で非難され、ときには社会的制裁の対象となった」(『近世質地請戻し慣行の研究』p.7)という言を引用しておきましたが、幕法・藩法から近代法に切り替わった後にも、近世以来の倫理観が、民衆はもとより、富裕層や権力層にも影響力を保持していたのでしょう。
d.自由民権運動と下層民衆
自由民権運動は士族の運動として始まり、豪農層にも拡大しますが、「民衆」はこの運動にどのように関わっていたのでしょうか。
「吾輩ノ実験スル所ニ拠ルニ、苟(いやしく)モ演説堂ニ立チ着実平穏ノ言論ヲ吐露スル時ハ、一堂寂寞トシテ声無ク、或ハ其ノ間ニ坐睡スル者アルガ如キノ有様ナレドモ、其ノ論鋒ノ政治ノ得失ニ及ブアレバ、忽チ喝采ノ諸方ニ起ル有リ。愈(いよい)ヨ激烈ニシテ愈ヨ危険ナレバ、喝采ハ愈ヨ多ク愈ヨ急ナリ。」(『日本近代思想体系 21 民衆運動』p.187)
これは民権派の演説会での民衆の様子を、末広重恭が描写したものですが、この描写からは、民権運動への民衆の微妙な距離感――共鳴する側面とギャップを感じる側面の併存――を読み取ることができるでしょう。
この微妙な距離感の根底にあるものは何でしょうか?まず踏まえておくべきは、自由民権運動を担った士族・豪農たちは、漢学(儒教)の教養をベースに西欧近代思想を受容した人々であったという点です。ですから安丸良夫の言い方を用いれば「講・若者組・民俗宗教などを民衆の愚昧さの表現とみて軽蔑し、その排除のための啓蒙……を重んずる(5)」――これは政府側と同じ――のは、彼らにとって当然のことでした。
また「米価が騰貴し放火騒ぎや施米の動きがあちこちでみられた一八八〇年前後には、新聞投書や建白書のなかにも仁政の精神に戻るよう求める声が高まった」が、「民権派は仁政に対して否定的だった」(〈牧原〉p.85)わけです。なぜなら民権派にとっては、「財産の自由」は「人の三大自由の権利」であり、「政府が米価を統制したり、裁判所が金貸しを仮牢に放りこんだり、村人の総意に逆らうと村八分になるぞといって借金や質入れ証文の書替えを強制するのは、「財産自由の権」だけでなく「身命自由の権」ひいては「人生自由の権」への侵害」(〈牧原〉p.86)に他ならなかったのですから。
しかし啓蒙派=民権派が肯定する近代化――土地制度、訴訟制度、学制等々――こそが、民衆を苦しめていたのですから、ここには埋めがたいギャップがあったわけです。(この民権派と民衆のギャップ(対立)については、「困民党」を問題にする際に再度問題にします。)
それではなぜ、民衆は民権運動に共鳴できたのでしょうか?牧原憲夫は次のように言います。
「民衆は、郡吏・巡査を毒蛇糞虫になぞらえた演説者に、「救世主」に出会ったかのような解放感・快感をおぼえたのである。……殺し文句をいつ、どんな身振り、どんな調子でくりだして「演劇的興奮」をつくりだすか、そこに弁士の腕の見せどころがあった。」(〈牧原〉p.96)
こんな演説をしたのは「高尚」な指導者クラスではなく、「書生・壮士」です。彼らは、「巡査や地方役人を権力そのものであるかのごとくに扱い、これと抗争することが「権利自由」であるかのように煽動し、……仁政願望をかきたて、民権の実現を復古であるかのように民衆に誤解させ、しかも資金[演説会の入場料など]を遊興費や生活費に流用した」(同上p.101 )と牧原は言い、さらに次のように言います。
「こうした逸脱こそが多くの民衆の反政府的心情を一挙に沸きたたせ、民権運動の政治的エネルギーを増幅し活性化させたのであり、それゆえに明治政府に対して多大なインパクトを与えることができた、と私には思えるのである。したがってこれは、異質な反官意識の背中合わせの連帯、もしくは、そのズレゆえに生じた激しい共振、スパーク、とでもいうほかない。」(同上)
<「書生・壮士」――民衆とは異質な者たち――の逸脱的行為によって、はじめて「民衆の反政府的心情」が一挙に活性化していく>という牧原の「民権運動」把握は、民権運動に限らず、政治過程というものを考える上で極めて示唆的だと思われます。
e.困民党
「困民党」というと秩父困民党が有名ですが、「困民党」といわれるものは、「松方デフレ」を背景として1883年(明治16)から85年までの3年間に、宮城県から鹿児島県まで1府15県で数十件も発生したのだそうです。この「困民党」の運動はどのようなものだったのでしょうか。鶴巻孝雄は次のように言います。
「要求には幅があり、規模も差が大きいのですが、滞った負債元金の長期年賦と利子の減免を債主(私立銀行・金貸し会社=生産会社・個人金貸しなど)に要求するのが特徴で(基本的な願いで、といってもよいのですが)、ときには政府・行政による救済的な措置などを、県庁や郡役所、裁判所や警察に求める場合もありました。また、「利息制限法」の強化を主張した地域もあります。主要な行動は、歎願ですが、集団の圧力を背景にした強談が一般的で、ときには大衆的規模のデモンストレーションや抗議行動があり、群馬などでは打ちこわしが、神奈川県の南部、大磯近辺では債主殺害(露木卯三郎殺害事件)が、あるいは秩父事件のように、民衆が武器を取って公然と軍隊と衝突し、東京への武力侵攻を企てた民衆蜂起もありました(6)。」
こうした運動を展開した「困民党」を歴史の中でどう位置付けたらいいのか?ここでは、まず二つの視点から考えたいと思います。すなわち、一つは先行する時代の「世直し」との関連で「困民党」をどう見るか。もう一つは同時代の自由民権運動との関連をどう考えるか、です。
まず、第一の視点から。
「露木事件」を例にあげると、相州南西部で起きたこの事件では、「3名の村民が村内農民の地券状を抵当として金貸露木卯三郎より借金をし、それが焦げついたため、「地券主ヘ厳重督促……公裁……終ニ地処公売又ハ身代限リノ処分」を受けるに至」る。そこで(1883(明治16)年10月14日)、「農民たちは「祖先ニ対シ不相済次第ニ付仮令身ハ如何ナル刑律ニ罹ルモ、彼ノ大森等ノ家宅ニ押寄セ談判ノ上、時機ニヨリテハ彼レ等ノ家屋ヲ打毀チ、以テ積年ノ怨ヲ報セン」と、竹槍をもって[大住郡子易村の]山中に集会した(7)」と言われます。農民のこうした行動とその動機を見ると、そこに「世直し」との連続性を見ることは容易でしょう。
しかし、鶴巻は「世直し」における質地騒動と困民党の違いをも指摘しています。
「質地騒動も困民党事件も、ともに土地貸借を前提とした民衆運動だが、両者の間には近代的土地所有権=私的所有権の制度的確立をもたらした「地租改正」があり、質地騒動は所有の権利そのものをめぐって争われたが、困民党事件には、財産所有権や経済的自由の制限主張は看取できても、近代的な土地所有権に対抗する、権原を異にする所有権の明確な主張はほぼみられない」(〈鶴巻〉iv)
「貸借の性格が「道徳的貸借」から「苛酷な貸借」へと転換したことも、[困民党成立の]原因の一つだった。道徳的貸借とは、同族団の長や村役人、富裕者が困難をかかえた村民に対しておこなう救済的な貸借で、苛酷な貸借とは、私立銀行や金貸会社による利子取得のための貸借を指す(8)。」
次に、「困民党」と自由民権運動との関連はどう評価すべきでしょうか。
「秩父困民党」に「自由党員」が関与していたこともあり、長いあいだ困民党は「自由民権運動」の一環として把握されてきました。しかし鶴巻は、「困民党」の運動は「自由民権運動」とは別のものである、と言います。
この点を理解するには、自由民権派が「苛酷な貸借」の両極である「市立銀行や金貸会社」と「困民」のどちら側に立っていたのかを見ておくことが早道でしょう。
じつは困民党が押し掛けた私立銀行や金貸会社の中には、豪農の自由民権派が関与しているものも少なくない(9)のですが、先にも見たとおり、それは「自由民権」の理念と矛盾するものではありません。すなわち、自由民権運動は啓蒙の立場に立っていたが、啓蒙の立場は所有関係の近代化を推進するものに他なりません。地方での民権派の浸透は、啓蒙主義の結社の形成が背景にある場合も多く、自由民権派の演壇に置かれた洋燈(ランプ)はまさに啓蒙の灯だったわけです。他方で、困民党の側は村の文化への――啓蒙の側(政府・民権派)からの――抑圧に強い反撥を感じている。高橋敏は――静岡県駿東郡の状況について――次のように言います。
「貧民党の起爆剤や原動力になったのは銀行憎しだけではなかったのである。明治初年以来、国家権力を背景に様々な啓蒙的抑圧が加えられており、欝積した不満が爆発したとも考えられる。明治一〇年代の村落は、民衆の生活・信仰面では高揚期をなしており、若者組は祭礼、開帳の復活に躍動し、民衆の結集の核の講は多彩に生き残っており、流行神も民衆を捉えて盛行を極めている。夜這い・地芝居・祭文語りに愚民視される民衆の土俗は、啓蒙民権家に愚弄されつづけたが、それだけ健在の証拠でもあった。」(高橋敏『民衆と豪農』p.228-229)
自由民権派は啓蒙の側に立っていたが、困民党は、民衆的『土俗』の側に立っていた。鶴巻の言を引用すれば、困民党は「近世社会のなかでの共同体的な保護救済システムを理想化し、それを「慣習的な権利」として、政府や銀行や民権派が唱える「自由」や「権利」に対置した(10)」と言える。
私たちの時代の感覚からすれば、困民党は時代錯誤と見えるかもしれないが、しかし所有、なかんづく土地所有に関して、時代は未だ過渡期であり、民衆にとっては「慣習的な権利」こそが「正義」であった。それに対しては官吏も豪農・富裕層も譲歩せざるを得ない場合が少なからずあったわけです。
f.秩父困民党
秩父事件については、自由党員の関与がありましたから、この事件も自由党系の一連の「激化事件」の一つである、という考え方もあるでしょう。
しかし秩父困民党の運動は、次のような点で、自由党系の激化事件とは性格が異なっていたといわれます。すなわち、鶴巻によれば「秩父での蜂起計画は、松方デフレ下の物価下落によって、負債に困苦する民衆の高利貸征伐=打ちこわしを、まずなりよりも基本としてスタート(11)」したものである。あるいは安丸良夫によれば「秩父困民党の目的四項目のうち、もっとも重要なのはもとより第一項で、高利貸の収奪に苦しむ農民を結集した負債返弁騒擾たるところに、秩父事件の基本性格があった」(「民衆運動における「近代」」p.486)。(引用中の「第一項」とは「一、高利貸ノ為身代ヲ傾ケ生計ニ困(くるし)ムモノ多シ。依テ債主ニ迫リ、十ケ年据置キ、四十ケ年賦ニ延期ヲ乞フコト」のことです。)
さて、それではなぜ秩父では武装蜂起となり武相ではそうはならなかったのか。この点について、牧原憲夫は興味深い推理を展開しています。
牧原によれば「秩父にはなお自律的な紛争解決機能の一翼をになう侠客とそのネットワークが健在」であり、秩父困民党幹部、坂本宗作・落合寅市(とらいち)らは「バクチ仲間」であるが、「その連中が一方で「自由党」を名のっていた」。そこで「負債農民は……目の前にいる「自由党」に「葛藤」の仲裁を求めたのではなかったか」。ところが「金貸会社はかれらを相手にしない」ので、彼らは「郡役所・警察への訴願を通して明治政府の治政を問う」のだが、それは事態をさらに悪化させた(〈牧原〉p.117-118)。
「行政は仲裁=介入を拒否し、しかもかれらの活動が金貸会社を硬化させ、裁判所への召喚状が一斉に送りつけられた。「債主方ノ掛ケ合」いをお前らに任せたばかりに「困難極マル事ニ付、如何様ニカ致シ呉レ」(小柏常次郎尋問調書、『秩父事件史料集成』三)と困民は迫った。自由党員のなかに「関東一斉蜂起」の目論見があったにせよ、蜂起は負債農民から強いられたものだった。」(同上p.117-118)
秩父の状況をこう推量する牧原は、これに対して「八王子を中心にした武相(武州・相州)地域では様相が異なって」いたと言い、次のような事情を挙げます。
「だが、武相では、郡長や戸長・県会議員など地域の有力者が積極的に仲裁に動いた。……経済的強者と仲裁人のあいだには社会階層的な同質性だけでなく日常的な交流も存在していた。これでは侠客が活躍する余地は小さい。他方、秩父では戸長・郡長はもとより大宮郷(現・秩父市域)の有力者も仲裁に動かなかった。同じ郡内といっても、困民党農民が生活する秩父山塊と、郡役所や大商店のある大宮郷周辺とのあいだには、地域的な一体感が弱かったのではなかろうか。」(〈牧原〉p.119)
「武相の場合、仲裁人は政治的・社会的階層性において民衆と異質でありながら、徳義観念を共有することで、なかば民衆の代弁人となりえた。高久嶺之介氏は、この時期にはそうした有力者のいた地域のほうが多く、困民党のような「事件」をおこす地域のほうが例外ではないか、とさえ述べている(12)。」(同上p.124)
g.近代成立期日本における「徳義観念」の意義
牧原はこのように秩父と武相の状況の違いを推量してますが、ここで、次のことは注目に値するのではないでしょうか。すなわちそれは、「民衆」を代弁し「経済的強者」との仲裁を行う「侠客」や地域の「有力者」が存在し、彼らが「民衆」と「徳義観念」を共有していたことです。このような「徳義観念」は、その起源を儒教などに求めることも可能でしょうが、寺小屋などで普及された教えの実態は、『支配階級のイデオロギー』として機能したものとは言い難く、むしろ容易に民衆の武器になりえるものであったと言ってよいでしょう(13)。もう一つ考えなければならないことは、この「徳義観念」の影響力の強さです。「民衆」や「侠客」のみならず、地域の「有力者」も、さらには「金貸し」のような「経済的強者」でさえも、元々は村落共同体のうちから発生した――その多くはいまも村に住んでいる――のですから、多かれ少なかれ、この共同体的な「徳義観念」に拘束されていることは不思議ではない。さらには武家も、領地を統治する過程で、こうした「徳義観念」に染まらざるを得なかったのではないか?
こうした共同体的な「徳義観念」は、経典によって伝わるものではありませんから、現代の我々は、その存在を見落としてしまいがちです。しかし近代成立期の日本において『支配的イデオロギー』に相当するものがあったとするならば、こうした「徳義観念」こそがそれだったのではないでしょうか。
注
1 東京大学出版会『日本史講座第8巻 近代の成立』所収。
2 鶴巻孝雄によれば、この事件が発生するまでの経緯は次の通りである。
「相州大住郡真土村では、「無年季金子有合次第請戻しの質地慣行」がおこなわれていたが、……壬申地券の交付にさいし……、質地契約継続中の土地……の名請人が問題となり、……質取主の松木長右衛門が強引に自己の名義にしてしまう。このとき、村吏立会いの上で「後日何時タリトモ金円調返上ハ地券受戻」しの口約束が結ばれる……。ところが、一八七五(明治八)年にはじまる本格的な地租改正事業(地券名請者の最終的な確定作業)のなかで、土地の「自己所有ノ権」を失うことを恐れた質置主(村民六五人)が質地の返還を要求し、対立が表面化する。しかし、質取主である松木長右衛門が地券名請を強行したため、「人民旧来ノ所有地ニ離ルヽ而已ナラス彼レニ掠奪セラルヽニ均シ」と村民側の不満が高まり、交渉を繰り返した後、一八七六年一一月に横浜裁判所(裁判長立木兼善)への訴えがおこなわれる。一審(横浜裁判所)では質地の取戻し権が認められたが、二審(東京上等裁判所)では逆転敗訴してしまう。裁判費用に苦しむ村民たちは、大審院への上告を断念して司法省の門をたたくが、門前払いにあい、ついに一八七八年一一月、質取主一家と雇人を殺害するというテロ行動を決行する。」(〈鶴巻〉p.14-15)
3 真土事件の事件後の展開については、植本展弘「暴民哭々」http://www.teisensha.com/han/HAN_03_UEMOTO.pdf の参照を願うが、この論文では長谷川伸『ある市井の徒』から加害者たちが護送されるときの状況を語る次の文が紹介されている。
「平塚から横浜までの間、道路の両側に見送りの人々が、垣をつくったように並んでいたそうです。その人々の過半以上が見送りで見物ではないのです。到る処でだれが音頭をとるともなく、南無阿弥陀仏と称名の声が起こったそうです」。
4 一橋論叢第122巻 第2号 平成11年(1999年)8月号所収。 https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10632/1/ronso1220201500.pdf
5 安丸良夫、岩波書店 日本近代思想体系21『民衆思想』所収、「民衆運動における「近代」」p.500。
6 鶴巻孝雄「武相困民党120周年記念フォーラム―パネルディスカッション問題提起―」 http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuru-hp/konnminn/k-120kinennfo-ramu.htm
7 鶴巻孝雄「覚書・困民党-その要求と課題の行方」 http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuru-hp/konnminn/k-oboegaki.htm
8 鶴巻孝雄「近代経済原理への反発―困民党・米騒動・小作争議」 http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuru-hp/konnminn/k-syougakukann.htm
9 自由党員と金融会社の関係の具体的事例については、鶴巻孝雄「覚書・困民党-その要求と課題の行方 2、八王子周辺困民党の事例」 http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuru-hp/konnminn/k-oboegaki.htmを参照願いたい。
10 鶴巻孝雄「武相困民党120周年記念フォーラム―パネルディスカッション問題提起―」http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuru-hp/konnminn/k-120kinennfo-ramu.htm
11 鶴巻孝雄「秩父困民党の蜂起―激化事件と民衆運動―」http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuru-hp/konnminn/k-titibujikenn.htm
12 高久嶺之介『近代日本の地域社会と名望家』柏書房、一九九七年。
13 〈牧原〉(p.56)は、寺子屋の教本から以下の文などを引用している。
「士は万民を養ひ助むためのつかさなり……しはきは仁義の道に乖(そむ)きて悪事なり……富貴の人は其力に随ひて泛(ひろ)く人を恵(めぐみ)助くべし……財を惜て人を救はざるは不仁の人なり」(「庭訓要語」)
こうした言葉が、容易に領主や「富裕層」に対する「武器」になり得えたことは、想像に難くないだろう。
(十)に続く。
(そうまちはる:公共空間X同人)
(著者の求めにより、見出し「近代成立期日本における「徳義観念」の意義」に「g.」を付け加えました。――編集部、2019.01.26)
(著者の求めにより、「じつは困民党が押し掛けた私立銀行や金貸会社の中には、豪農の自由民権派が関与しているものも少ない」を「じつは困民党が押し掛けた私立銀行や金貸会社の中には、豪農の自由民権派が関与しているものも少なくない」に訂正しました。――編集部、2019.02.09)
(pubspace-x5825,2019.01.10)