病の精神哲学3  カントの構想力論

高橋一行

                            
 
2より続く
 カントはいくつかの著作で構想力に言及している(注1)。私はここで、『純粋理性批判』(以下、第一批判)、『人間学』と『判断力批判』(以下、第三批判)における構想力概念の変化について論じたいと思う。私は前章で、『人間学』における構想力について触れている。それは心の病を生じさせるものであった。結論を先に言えば、第一批判で取り挙げられた構想力が、『人間学』においてより一層豊かな意味を付加され、それが第三批判で使われる。そういう経緯がある。
 さて以上のような見取り図を以って、第一批判における構想力について検討する。最初に言うべきことは、実は、第一批判の第一版と第二版では、この構想力の扱いが大きく異なるということである。そしてこのことについては、すでに多くの議論がある(注2)。ここでは黒崎政男のまとめを参照する(黒崎)。
 第一版において、構想力は次のように言われている。「それだから我々は、人間の心の根本能力、すなわち一切の認識の根底にア・プリオリに存在している能力として、純粋構想力を持っている。我々はこの構想力によってのみ、一方では直観における単なる多様なものをまったく感性的に総合し、他方ではこのように総合された多様なものをさらに純粋統覚による必然的統一の条件とひとつに結び付ける。感性と悟性という両極端は、構想力の超越論的機能を媒介として必然的に結合されねばならない」(A124)。感性と悟性が連関することで認識が成立するというのが、カント第一批判の要点であったから、ここでは構想力がそのための最も根源的な働きをするものとして扱われていることになる。しかもこの引用の箇所の少し前では、「構想力は直観における多様なものを総合してひとつの形象にする能力である」(A120)という定義があり、「構想力は、ア・プリオリな総合の能力である」(A123)ということで、それは独立の重要な能力として扱われている。
 引用は一か所に留める。ここを見るだけでも、構想力は、感性の「直観の多様性」と悟性の「統覚の統一」とをひとつに結合するものという役割を与えられていることが分かる。そして繰り返すが、第一批判は、感性と悟性の能力を吟味する書であって、そのふたつを結合する能力は、最も根源的なものということになる。
 では第二版はどうなっているのか。ここでは、「演繹論」の箇所が徹底的に書き改められて、そこにおいて、構想力の役割も大きな変容を蒙ることになる。
 少し長くなるが、ここも一か所だけ引用する。「構想力とは対象が現前しなくともこの対象を直観において表象する能力である。ところで我々の直観はすべて感性的直観であるから、構想力は感性に属する。その理由は感性こそ、悟性概念に、これに対応するような直観を与え得るための唯一の主観的条件だからである。しかしまたこの構想力による総合は自発性の働きである。この自発性は規定するものであって、感官のように単に規定されるものではない。つまり構想力の総合は感官をその形式において統覚の統一に従ってア・プリオリに規定することができる。だから構想力はその限りで、感性をア・プリオリに規定する能力である。構想力がカテゴリーに従って、直観における多様なものを結合するところの総合は、構想力の先験的総合でなければならない。これは感性に及ぼす悟性の作用であり、また我々に可能な直観の対象に関する悟性の最初の、同時にまた他の一切の適用の根拠であるところの適用である」(B151f.)。
 ここで構想力は、まずは感性であり、次いで感性と悟性の両方に関わるとしつつも、最終的には完全に悟性の能力のひとつになってしまう。これは大幅な書き換えと言うべきものではないか。
 黒崎政男は、第一版において、構想力が感性的なものと位置付けられたり、悟性の働きの一側面だとされたりするのは、構想力が、感性的な面と悟性的な面と、両方を未分化の形で有していたからで、感性と悟性の両方に吸収されることができないものと考えられていたとし(p.152)、それが第二版では、構想力は消去されて、悟性一元論になってしまったとまとめている。そして第一版において、感性と悟性の二元論を維持するために、構想力をそこに位置付けられず、論理的に宙ぶらりんな構造をしているのだが、その宙ぶらりんを維持しようというパワーこそ、カント思想の最高のピークだとし、悟性一元論になってしまった第二版のカントは、思想的に退化したのだと断じている(p.174f.)。
 私は、『純粋理性批判』は、感性と悟性のふたつの能力の説明があればそれで良く、つまり構想力にそれほど比重を置く必要はないし、力点としては、悟性の能力の吟味にあるのだから、第一版でカントは感性と悟性を繋ぐものとして構想力の概念を提起したが、第二版では結局構想力の役割を減じてしまったということに過ぎないと思う。第一批判の中だけで考えれば、そうなるのは致し方ないと思うし、その方が話は整合的である。しかし構想力は実は、このあとのカントの思想の中で重要な意味を持って来る。それは第一批判が書かれる前から始まり、晩年まで続けられた『人間学』の講義の中で、育まれているのである。先の回で私は、菊地健三を引用して、カントには哲学の書と観察の書があると言った。構想力が必要になるのは、哲学の理論としてではなく、観察の領域であり、特に『人間学』が重要なのである。
 さてその『人間学』では構想力はどうなっているか。先に私は、『人間学』は『純粋理性批判』のネガだと言った。とすれば、後者で、肯定的な構想力が扱われ、前者で否定的な構想力が扱われることになる。そして実際、「心の病は構想力の病である」(50節)と言われる。しかしそういう話なのか。
 まず、『人間学』における構想力の定義がある。「構想力とは、対象が現存していなくても、ある対象を直観する能力のことである」(28節)。定義としては、これで十分であろう。そして「構想力の素材は、感覚から取って来なくてはならない」(同)。感性の能力ならば、この多様なものを単に受動的に受け止めるだけなのだが、構想力の場合は、それが目の前になくても、自発的に頭の中で作り出すことができるのである。
 定義としてはこれだけで、あとはここから肯定的にも否定的にもなるのだが、前稿では私は『人間学』の否定的な話を紹介した。つまり構想力そのものが否定的な能力なのではないが、私の取り挙げた『人間学』のテーマがそうだということである。ここは正確に言えば、第一批判は哲学の書であって、構想力の形式について語り、そのネガとしてある『人間学』では、その具体的な内容が観察されている。
 つまり『人間学』の構想力は、前稿で取り挙げた、構想力の病であるところの心の病のみならず、他にもいろいろな機能を持っており、それをここで挙げるべきであろう。すなわち、過去のことを想起する能力、未来のことを表象する先見能力も構想力の所産である(34節)。空想、連想、社交の場での親和性も挙げられている(31節)。
 以下のような叙述もある。「誰であれ、ある種の状況に置かれると、専ら構想力の働きによって、平静心が失われる」(28節原注)。「(恋愛感情という)病気は創像する構想力の産物であるから、不治の病であるが、結婚すると治る。というのは、結婚は真実だからである」(32節)。
 興味深いのは、次のような文言である。「悟性と感性は私たちの認識を算出するために、両者の異種性にもかかわらず、まるで一方が他方から、あるいはふたつがひとつの共通の幹から起源を発しているかのように、進んで兄弟の契りを結ぶ。しかし両者が本当の兄弟ということはあり得ない」(31)。この文章は、構想力の説明をしている節の中に出て来る。つまり明らかにこの「共通の幹」とは構想力のことである。するとこれは、『純粋理性批判』第一版の構想力の定義を補強するものであることが分かる。
 しかしそれでいて、心の病のひとつ、精神錯乱を論じたところでは、「精神錯乱は判断力の一種の狂った状態であって、その結果、構想力が隔たった事物を結び付けるという悟性に似た戯れを演じている」(52)と言われている。構想力は感性的でもあり、悟性的でもあり、両者の共通の根でもある。
 要するに構想力の意味するところは、第一批判(の第一版)と『人間学』で変わらない。しかし後者において、構想力は最も重要な概念である。それは前者で形式的に論じられたに過ぎなかったのに、後者において、構想力の所産をカントがつぶさに観察し、その夥しい実例を挙げているのである。つまり『人間学』の中で、構想力は豊かな意味合いを持たせられる。
 次のように言うこともできる。『人間学』において、感性と悟性と両方が構造化されて、構想力に幅が出て来ている。感性と悟性の共通の根でもあり、同時にその両方にまたがって、その両方の機能を兼ね備えた存在になっている。一元論にせず、二元論的発想を残して、構想力はその両方の長所を併せ持つ強力な能力である。そのことが観察の書において良く表されている。
 そしてカントが特にこだわるのは、天才である。「構想力による独創が概念に一致している場合、それは天才と呼ばれる」(30節)。「本来天才が活躍する場は構想力の領域であるが、それは構想力が創造的であるからだ」(57節)。ニュートンやライプニッツの名が挙がる(59節)。極めつけはやはりルソーである。『人間学』におけるルソーの引用は前稿に書いた。ここでは「『美と崇高の感情に関する観察』への覚書」に頻出するルソーへの言及に注意を促しておく。一例を挙げれば、「ただならぬ精神の明敏さ、天才の気高い高揚、感情に満ちた魂」「異常な才能」、「雄弁の魔術」(p.185)という言葉でルソーの才能は形容される。ルソーは心の病と天才と両方を持ち合わせている。まさに構想力が溢れ出る才能の持ち主である。
 さてその天才は『判断力批判』の中でも重宝される。崇高の説明があり、芸術が論じられて、「天才とは、芸術に規則を与える才能のことである」(46節)と言われる。「主観における自然が主観の能力(構想力と悟性)の調和によって、芸術に規則を与えねばならない」(同)。第三批判の前半の主題は趣味判断であり、まさしくその趣味の対象は美しいものであって、美しいものを産み出すのが天才である。
 この天才論が『人間学』と『判断論』を繋いでいると言って良い。観察の理論の中で天才を論じている内に、それを再び哲学の理論の中に位置付けるべく、カントは第三批判『判断力批判』を書く。ここは従って、第三批判の位置付けから先に書かねばならない。濱野喬士の画期的な研究を参照する(濱野)。
 まず第三批判は多くの場合、美学的諸問題が扱われている前半部しか評価されて来なかった。それを後半部の目的論的判断論を積極的に評価しつつ、体系的に扱うということが必要である。またそのことによって、第一批判、第二批判とのつながりも見えて来ることになる。そしてそのことは、第三批判を、形而上学的、存在論的問題を扱う書だと見なすこと、端的に言えば、それは「超感性的なもの」を巡る問題群を扱っている書物であるとみなすことなのである。
 これは第一批判の扱う認識の問題と第二批判が扱う自由の問題との関係をあらためて問うということに他ならない。自然の根底に存する超感性的なものと、自由概念が実践的に示していた超感性的なものとを統一させるのである。そしてそれを再度、自然の方へ、かつ感性的な方へ向けてその規定可能性を問うのである。そしてその際に、感性と悟性だけでなく、今まであまり重視されなかった、構想力と判断力とが重視されるということになる。
 ここで「超感性的なもの」とは、第一批判、第二批判で物自体と呼ばれ、またはヌーメナルなものと呼ばれたものが、いわばヴァージョンアップして現れたものである。そしてそれを規定する構想力、判断力も、パワーアップしないとならない。
 それで私は、上で述べた観察の理論において構想力が果たした役割に加えて、ここに第三批判を、濱野に従って第一批判と第二批判から発展した書物と読むだけでなく、菊地に示唆されつつ、哲学と観察の調停の書として読みたいのである。観察の理論で構想力がパワーアップし、それによって、このことは以下に説明するが、判断力もレベルアップしたのである。
 そういうことを押さえた上で、いよいよ『判断力批判』の構想力を見て行く。
 第一批判において、悟性と直観のふたつが対立する概念として提示され、構想力はその間に位置付けられるか、直観の能力を含み持ちつつ、悟性の方に引き寄せられるかという位置付けであった。しかし第三批判においては、悟性と対立するのは構想力で、直観という言葉はあまり使われない。ア・プリオリな直観の能力が構想力であり、その構想力が悟性と対になるのである。「対象の表象、すなわちそれによってある対象が与えられるような表象から認識が成立するためには、この表象は直観における多様なものをまとめるところの構想力と、この多様なものの表象を概念によって統一するところの悟性とを必要とする」。そしてこのふたつの能力、つまり構想力と悟性が「表象にあって、自由な遊びを営んでいる」(9節)のである。
 さらに、「趣味判断は、自由に働く構想力と合法則性を持つ悟性が、互いに生気を与え合っているという単なる感覚に基づいていなければならない」(35節)と言われる。「趣味は、直観または表示の能力(すなわちこれが構想力)を、概念の能力(これが悟性)のもとに包摂する原理にほかならず、それは自由に働く構想力が合法則性を有する悟性と調和する限りにおいてである」(同)。
 佐藤康邦は、この間の事情について、ここでは構想力の中に直観内容が構造化されていて、すでに悟性の領域を含んでおり、一方「悟性の方も幾分か感性的領域に近づけられている」。そして第一批判においては、悟性が感性に対して優位な位置を占めていたのだけれども、ここでは悟性と構想力は対等な関係にあり、感性的領域と思惟の領域は同列に並んでいるのであるとしている(佐藤p.120)。
 私は構想力がパワーアップしたという言い方を先刻からしている。そしてどこでそれがなされたかと言えば、それが『人間学』でなされ、それこそがこの書の功績なのだと思う。つまり、狂気に陥ることができるくらいに、また天才と世に謳われるくらいに強力な能力であって初めて、超感性的なものを把握できるのである。これは悟性にも感性にもできないことであって、構想力で以ってはじめてなせる業なのである。
 さて、第三批判の前半において、趣味判断、美的(直観的)合目的性の批判は構想力の上に基礎付けられる。後半、つまり自然の目的論、自然の客観的合目的性の批判は反省的判断力の上に基礎付けられる。そしてこの両者合わせて第三批判の論点と見なすべきである。ここは上述の濱野がそのように考え、また佐藤もそのように第三批判を読み、私も同じ主張をしたい。
 このあたりを詳しく説明する必要がある。しばらく、佐藤に従って、まとめてみる。まず、第三批判は、その名が示す通り、全体として判断力の話であって、とりわけ反省的判断力が問題になる。しかし前半部では、反省的判断力の役割は構想力を支えるというもので、主たる仕事はこの構想力が行う(佐藤p.84f.)。美的判定における構想力と悟性の戯れの内での合致ということも反省的判断力を前提で生じる(同p.129)。それに対して、後半部で、反省的判断力は自然に関する認識内容を反省する次元で目的という概念を必要とし、反省的判断力の本来の作用を行うものとして、目的論的判断力が要請される(同p.92ff.)。以上が佐藤の『判断力批判』全体のまとめである。
 さてそこで次の問題は、この構想力と判断力の関係である。つまり構想力がパワーアップして、『判断力批判』で主たる概念として使われ、それは濱野に従って、第一批判の物自体が第三批判では超感性的なものへと変化しているのだから、それを捉える構想力がパワーアップすることは必要なことである。そして佐藤も構想力の意味が、第一批判と第三批判では随分と異なると言う(同p.120)。感性と悟性の間にあるものというだけのものでは不十分で、感性を構造化して自らの内に含み、悟性の能力にも近付いて、さらにはその悟性をも超えて行かねばならないのである。
 しかし第三批判の後半の議論では、この構想力という言葉はあまり使われなくなって、代わりに判断力が前面に出て来る。とすると、この構想力と判断力はどういう関係にあるのかということが問われねばならない。
 第一批判においては、判断力とは、対象を規則のもとに包摂する能力のことであった(B171)。直観によって与えられた多様なものを悟性の規則に包摂するのである。ここで判断力は悟性と理性の間にあるもので、一方構想力は感性と悟性の間にあり、先に書いたように、その仕事は形象的な総合、つまり直観の多様性をまとめ上げることであった。すると判断力と構想力は、人間の能力の中での位置付けは異なるが、同じ仕事をするものということになる。まずは構想力が、感性-構想力-悟性という関係性の中に位置付けられ、次いで判断力が、悟性-判断力-理性という順に位置付けられることになる。さらに判断力は構想力が成立して、そののちに機能し得るのである。それは佐藤が言うように、「判断力と構想力は異なった位相に属しつつも、一心同体のものとして機能する」(同p.206)のである。
 さて第三批判において、判断力とは、第一批判と同じく、悟性と理性の間にあるもので(XXI)、つまり自然概念と自由概念とを媒介するもの、純粋理性から実践理性への移り行きを可能にするものである(LV)。そして具体的な仕事としては、それは特殊を普遍のもとに包摂する能力のことである(XXV)。その限りでは、ここでも判断力と構想力の仕事は良く似ている。そしてカント自身は、この両者について、「判断力は、構想力を悟性に適合させる能力である」(50節)と言うのである。従ってここでも、両者は異なった位相、つまり第三批判においては、構想力は前半部、判断力は後半部の主たる概念として位置付けられ、そして両者の機能は本質的に同じであり、さらに前者が十分にその仕事を終えたのちに、後者にバトンタッチするという関係にあるのである。
 さてさらにそうなると、両者間のこのバトンタッチはどのようにして行われるかという問題が出て来る。佐藤は、趣味判断に従った主観的合目的性と自然の客観的合目的性の把握との間に断絶があり、それを繋ぐのが、美的基準概念だと言う(同p.149f.)。それはこういうことだ。
 美の理念のひとつに「美学的な標準的理念」がある(17節、56節注1)。これは美の理想に関して、人間の形態を判定するための基準を示すような構想力の個別的直観である。それは美的判断の次元でのみ機能するのだが、同時に個体を超えた普遍的な基準を持ち、経験を超えた理念の領域に属する。それは「形態の構造における最大の合目的性」とカントによって表現され、さらに「この合目的性は、自然の技巧の根底に言わば意図的に存する形象」とも言われる(以上、17節)。するとそれは構想力による、趣味判断の主観的合目的性の把握の問題なのだが、自然の客観的合目的性の論理的把握に繋がるものである。つまり構想力の趣味判断が、反省的判断の論理的能力へと進展する際の繋ぎの役割を果たしているのである。
 
 第一批判でそれほど重視されていなかった構想力が、『人間学』では主要な概念として使われ、そこでその意味が充実し、第三批判で活用される。第三批判は、前半で構想力が中心的な役割を果たして主観的合目的性が扱われ、後半ではそれが反省的判断力に取って代わられて客観的合目的性が基礎付けられる。この反省的判断力は、第一批判において、すでに構想力とほぼ同じ機能を有していたが、第三批判においても、パワーアップした構想力に導かれて、自然の合目的性を把握できるまでに豊かになっている。
 さて以上の本稿の主張であらためて力説したいのは、構想力が心の病を論じる中で、その意味が充実して来たということだ。そしてそこで言われていることは案外ヘーゲルに近いということだ(注3)。このあたりを次稿で再度確認をする。
 
 最後に三木清の理論を参照することで、今までの整理ができる。
 まず、第一批判『純粋理性批判』の第一版と第二版の違いについては、次のように書いている。まず第一版で、構想力を独立の根源的な能力と認め、その固有の根本的な能力は総合であり、その総合において、感性と悟性を媒介するという重要な職務を認めている(三木p.110f.)。ところが、第二版になると、「構想力の地位は著しく低められており、殆ど抹殺されようとさえしている」(同p.116)。「第二版においては構想力の総合の本来の姿は隠れてその第二次的な姿が前面に現れている」。「構想力の先験的な機能が一面的に悟性の立場から捉えられ、かくてその総合が悟性の感性に対する所作と見られるに至った」(同p.118f.)とまとめている。
 さてしかし、三木理論の興味深いところは、このあとの叙述である。三木はそれからずばり、構想力とは実は判断力のことであると言い切っているのである。
 三木の説明では、まず判断力は構想力を悟性に適合させる能力である。しかし『人間学』において、すでに構想力は悟性に適合している。かくて判断力は構想力と同一であると言うのである。この場合、構想力は内に悟性を含む統覚であると三木は続ける。あるいは次のように考えることもできる。判断力は構想力の根源的な機能に関する論理的反省的側面である。この場合、判断力は構想力を悟性に適合させる能力、または規則のもとに包摂する能力である(同p.136ff.)。
 しかし私は、カント第三批判は『判断力批判』であって、『構想力批判』ではないので、第三批判で重要なのは判断力であり、構想力はあくまで、第一批判と第三批判を繋ぐものであり、哲学の理論と観察の理論を繋ぐものであり、第三批判の中で、前半部の議論から後半部へと繋ぐものであると思う。三木はここで天才的な直感でものを言っているが、しかしやや説明不足であると思う。
 また三木はこのあと、「反省的判断力の論理は合目的性の論理にほかならぬ」(同p.153)とし、この「合目的性の論理はヘーゲルの論理を思わせる」(同p.184)とする。さらに「歴史は理性に従ってではなく、構想力に従って作られてゆく」(同p.244)とした上で、この論文の最後を、「ヘーゲルの言う具体的普遍の中には構想力が含まれねばならぬ。弁証法の根源と結果とには構想力がなければならぬと言い得るであろう」(同p.250)と結んでいる。このヘーゲルとカントの比較が次の課題である。
 
注1 構想力はカント以前から哲学史の中では重要な概念であり、さらにカント以降、フィヒテ、シェリング、ドイツロマン主義が扱って来た。できるだけ、そのことにも触れて行きたい。
 
注2 ハイデガーは、『カントと形而上学の問題』の中で、カントのこの問題を扱い、その上で自説を展開する。またこのハイデガーのカント論についても、夥しい論文が存在する。
 
注3 佐藤康邦は、「『判断力批判』とヘーゲルの間で」という身近エッセイ(『ヘーゲル哲学研究』vol.16, 2010)の中で、「カントとヘーゲルの間」ではなく、「カント『判断力批判』とヘーゲルの間」に関心があるという話から始め、両者の発想の違いを描く。カントは、「小心翼々とも見える批判哲学的知性の自己規制が、また、最後まで消えることのない機械論への配慮が、『判断力批判』における有機体論のダイナミックな展開を抑圧している」のだが、ヘーゲルはそのカントを批判して、自然におけるダイナミックな有機体論を展開し、さらにそこから精神が、より有機体なものとして出て来るということを論じ得たのである。佐藤はこのカントの、「有機体論の豊饒な可能性を目にしながら、その有機体論に様々な批判哲学的制約を加えずにはいられなかった」ことに価値を認めたが、私はさらにヘーゲルもカントのこの注意深さを無視して、そんなに安易に形而上学を作り上げた訳ではないということを言っておきたい。
 
参考文献
黒崎政男『カント『純粋理性批判』入門』講談社、2000
佐藤康邦『カント『判断力批判』と現代 - 目的論の新たな可能性を求めて – 』岩波書店、2005
濱野喬士『カント『判断力批判』研究 - 超感性的なもの。認識一般、根拠 – 』作品社、2014
三木清『構想力の論理』岩波書店1993(第一刷は1946)
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
4へ続く
(pubspace-x4783,2018.01.01)