高橋一行
(6)より続く
7 ゲノムから進化発生学へ
進化の説明を、遺伝子の突然変異と自然淘汰に求めるネオ・ダーウィニズムに対して、まずは修正され、次いで、それが見直しを迫られるところまで来ているということが、前回までの結論である。自然淘汰の方から考えると、ダーウィンは、厳しい生存競争に勝った最適者が生き残ると考えていたけれども、もう少しそれを緩めて、負の淘汰に曝されるものは、滅亡するが、あとは、それなりに環境に適していれば、生存ができるという程度に考える。次いで、そこに、中立説が出て来て、遺伝子レベルでは、淘汰によらずに、進化することが証明され、次いで、現実的に、少々有害なものでも、中立説が成り立つことが提案され、さらには、表現レベルでも、中立説が成り立つことが示唆されている。すると、自然淘汰は、万能だと考えられた段階から、重要なものという位置付けになり、さらには、淘汰は働くが、しかしそれほど進化を考える際に重要ではないというところまで、その比重が下がっている。そこまでが、今までのまとめである。
さて、もうひとつの、遺伝子の突然変異を進化の根源だとする考えに対しては、遺伝子の突然変異が進化の機構を説明するすべてではなく、むしろ遺伝子の使い方が重要だということになり、そこには、物理法則で説明される何らかの機構があるはずだということになる。さらに、以下に述べるように、ゲノムという考え方が重視されるようになると、個々の遺伝子が重要なのではなく、その総体で考えるべきだということになり、さらに、進化発生生物学(Evolutionary Developmental Biology (通称Evo-Devo))が発達すると、進化に重要なのは、遺伝子ではなく、発生過程の変容であると主張される。このことを、本章で扱う。私は結論を先に言えば、しかしやはり、遺伝子に進化を考える際の、特別な役割があると思うので、遺伝子を含む分子ネットワークの機構が進化を説明するはずだと言って置く。しかしネオ・ダーウィニズムは修正されるだけでなく、その全面的な見直しが迫られていると思う。偶然と物理法則に基づく、新たな説明方法が必要だ。
「生命誌研究館」を主宰する中村桂子は『自己創出する生命 -普遍と個の物語-』の序章で、次のように言っている。
DNAの研究史を振り返ると、1960年代は、DNAの暗号が解明され、進化のことは何でも、DNAで分かると考えられた時代であり、さらに、1970年代は、遺伝子操作などが可能になり、何でもDNAでできるという期待があった時代だった。あらゆる生物のあらゆる現象をDNAの働きとして、追跡することが可能だと考えられていたのである。それが、1980年代半ばから、DNAを総体として、つまり、ゲノムとして理解する時代になった。生命は、全遺伝子を含むゲノムという単位で見なければならないという発想になった。
それは、自己創出の問題でもある。ドーキンスは、自己複製系として、生命を見ているが、そうではなく、自己創出系として生命を見て、その普遍性と多様性を、両方同時に見て行かねばならない。それが彼女の問題意識である。
具体的には、次のことを考える。ふたつのことが重要である。まず、DNAのあり様を確認すること。もうひとつは、発生、免疫、脳などの生命現象の裏にある、DNAの働きを調べること。このふたつが重要であると言い、本書では、前者について語りたいとしている。
以下は、中村に従って、前者の話をする。後者の、発生については、本章の後半に書き、免疫、脳については、本稿でいずれ、章をあらため、書いて行きたい。
DNAのあり様ということで言えば、それはまず、無駄が非常に多いということが挙げられる。つまり、遺伝子=DNAではなく、ヒトの場合、遺伝子は、全DNAの1-3%に過ぎないのである。するとそれ以外のDNAは何なのかと言うと、それは、遺伝子と遺伝子の間にあるスペーサーや、働きのないイントロンや、機能を持っていない偽遺伝子だったりする。また、同じ構造が繰り返されていたりする。そういった無駄なものも含めて、すべてのDNAの総体がゲノムであり、ゲノムとして、自己創出の役割を担っている。
そこでは、複製ではなく、発生が重要である。ゲノムは、次のゲノムを、周囲からの情報を取り入れて、少しずつ変化させて産み出して行く。その都度、新しい個体を発生させているのである。その自己創出の仕組みを解明すべきである。
さて、真核細胞では、ゲノムは、一対で、つまり2セットある。これをディプロイド細胞と言う。それが生殖の際に、ゲノムを1セットだけ持つ細胞であるハプロイドになり、他の個体のハプロイドと合体して、新しいディプロイドを作る。
ここで、親の遺伝子の一部が、子に伝えられると考えるのではなく、子はまったく新しいゲノムを作っていると考えるべきである。確かに材料は、親からもらっているが、そしてドーキンスならば、遺伝子の方が主体で、個体は媒介に過ぎず、単に、その親の遺伝子が子に伝えられていると考えるのだろうけれど、ここで重要なのは、総体としてのゲノムなのだから、材料が問題なのではなく、新しく、その都度、子が、自分のゲノムを作っているという点なのである。そうして、子は個体となるのである。
ここで進化生物学者の団まりなを引用して、中村は、次のことを論じている。
上述のディプロイドとハプロイドの往復こそが、生命の自己創出の根源なのだが、これが、真核細胞の進化の過程で、まずは、ハプロイド真核細胞ができ、次いで、ディプロイド真核細胞ができるという順を辿っている。単細胞から多細胞細胞へ進化する際に、真核細胞の誕生が際立って重要であるということは、すでに述べた。つまり、単細胞(原核細胞 – 真核細胞) – 多細胞の順で進化していると考えられるのだが、ここでは、さらに細かくその過程を見ると、原核細胞 – ハプロイド真核細胞 – ディプロイド真核細胞 – 多細胞という順に進化しており、ここでディプロイド真核細胞の出現が、進化の過程の中で、際立って重要であるということが分かる。ディプロイド細胞が誕生して、性が出て来る。その性を通じて、ふたつの個体のハプロイドから、まったく新しいディプロイド細胞ができる。それは新たな個体であり、ここで個体と種という普遍は分離する。その都度その都度、個体が生じ、その個体の連続の中に、種という普遍が宿る。同時に、その個体には、死という宿命が与えられる。
ここで中村は、DNAが遺伝子として続いて行くという観点を重視するのではなく、ゲノムという考えを取り入れて、主体としての個体が、その都度、新たな、そして一回限りの生を営む個体を作り上げて行くことの重要性を強調している。
さらに、ゲノムの情報の下で、自己創出する生命系は、免疫系、神経系の中にも、自己創出という性質を与えている。それらの系は、外部からの影響を大きく受け、それに対応する。その対応によって、それぞれの個体の免疫系、神経系ができる。しかしまだ、基本的に、ゲノムの支配下にある。これが発展して、脳ができると、それは、ゲノムよりも、はるかに大きく、外部からの影響を受け、外部に対応するようになる。つまり、ゲノムを超克する。免疫系、神経系、脳と、ゲノムと環境との相克、主体と客体の相互作用の中で、如何に自己創出するかという問題になる。主体的になればなるほど、他者の影響を強く受け、他者との相互作用を通じて、さらに主体化するのである。
実は、個々の遺伝子の突然変異が重要なのではなく、ゲノムとして考えなければならないということは、すでに、中立説の研究が進展した際に、理解されていたことである。中立説は、遺伝子の突然変異が、直ちに自然淘汰に掛かり、それで以って、進化がなされると考えるのではなく、遺伝子は、勝手に、つまり淘汰に関わりなく、変異し、蓄積され、しかるべき時が来たら、それらが、発動して、表現型の進化に繋がるということを主張した。ここで、ゲノム理論において、DNAには無駄が多いということが言われるが、その無駄こそが、進化を可能にしたのである。そして問題は、ひとつは、DNAが無駄をたくさん作って行く仕組みだが、もうひとつは、そのDNAが、どのように発生に繋がるかということなのである。後者について、以下に書かねばならない。
全体、システム、自己創出、普遍と個別、主体、相互作用といった言葉が、進化論を語るのに使われる。機械論的発想からどうやって、抜け出すか、その格闘のあとが見られる。
まずは、個々の遺伝子ではなく、ゲノム全体をシステムとして捉え、そのことで、生物の主体性を記述する。
すでに、中村の問題意識の中に、生命現象の基本は、遺伝というよりは、むしろ発生にあるということがある。生物の特質は、自己複製する、代謝する、膜を持ち、外界から区別されているという、3点にまとめられる(このことは、次章で、詳述する)。しかし中村は、これらの特質をまとめて、自己創出するものと、一言で言うべきだと考える。そして、受精卵という細胞から、個体が生まれて来る、個体発生こそ、生命体が、生命体として、存在し得るための不可欠な基本現象なのだと言う。
以下、進化発生生物学(Evolutionary Developmental Biology (通称Evo-Devo))について書く。それは、この個体発生と系統発生を遺伝子の発現調節という観点から解明しようとする新しい学問であり、そこにおいて、先刻から問題となっている、発生について、進化の問題として、論じることができるからだ。
さて、進化発生生物学は、進化を担うのが、個々の遺伝子ではなく、遺伝子の発現調節ネットワークであること、さらには、それと協調して分子ネットワークが働いていることを明らかにした。
まず、問題としてあるのは、次のことである。複雑な動物も、元々は一個の受精卵から始まる。それが分裂し、分化して、身体になるのだが、それぞれの細胞に収められている遺伝子のセットは同じもので、それなのに、様々に異なる器官に分化して行くのはなぜかということである。
すると、まず考えるべきは、ここで重要なのは、細胞の形を決める遺伝子ではなく、その遺伝子の発現に関わる、遺伝子発現調節ネットワークがあり、これが、形態形成を指令し、さらに、生命の形態の基本体制の進化をもたらしているということである。
今までの分子進化学では、生命の機能を実行する遺伝子のDNA配列が研究対象であったが、Evo-Devoにおいては、遺伝子の使い方が重要であり、つまり、遺伝子発現調節ネットワークの研究が必要であることが理解されるようになった。
さて、進化の問題を考える前に、発生の問題をまとめて置く。エピジェネティクスについて、発生生物学者の佐々木裕之著『エピジェネティクス入門 -三毛猫の模様はどう決まるか-』を使う。
今まで、分子生物学においては、遺伝子が種に特有の発生に関する情報をすべて持っていて、それは発生過程をすべて支配し、かつ進化も、この遺伝子の突然変異でなされると考えられて来た。しかし、そこに、まず、エピジェネティックスの研究の進展が出て来る。エピジェネティックスとは、DNAの塩基配列に変化を起こさず、細胞分裂を経て、伝達される遺伝子機能の変化やその仕組みを研究する学問である。それは言葉の意味から言えば、「あとから作られる」ということで、発生機構論とでも訳すべき学問領域である。
このエピジェネティックスの機構の代表的なものとして、DNAのメチル化がある。これは、これは動物や植物のゲノムがメチル化という化学的な修飾を受けることで、具体的には、DNAにメチル基を付加したり、外したりすることによって、遺伝子発現を調節する作用を指す。このことによって、DNAの塩基配列に変化がなくても、細胞分化の過程で、様々な変化が生じるのである。DNAメチル化が、細胞の分化に従って、遺伝子のスイッチを調節する例は、たくさん研究されて来ているのである。
ここで考えねばならないのは、個体は、遺伝子の命令に従って、機械的に形態を形成するのではなく、主体的、かつ個性的に、例えば、このメチル化などの作用を通じて、自らの形を作って行くということである。同じ種の生物が、かくも形態が異なるのは、もちろん、そもそもゲノムが多型であること、環境の影響を受けることがその理由として挙げられるのだけれども、このエピジェネティクスが、作用していることもある。
しかもこの、遺伝子発現調節メカニズムは、遺伝する場合もある。これによって、獲得形質の遺伝が説明される。例えば、肥料を与えられた亜麻は、葉が大きく育つが、この形質は、次世代に受け継がれる。この現象を、エピジェネティックスの機構で説明ができるのである。つまり遺伝子の突然変異によらずとも、エピジェネティクスは、偶然や環境の変化を個体に取り込み、次世代にも渡って、そのゲノムを操ることができるのである。
また、このほかにも、遺伝子以外の多様な世代間情報伝達システムが知られている。そもそも、エピジェネティクス自身が進化し、生物は、その仕組みを活用して、進化して来たのである。筆者は、例えば、このDNAメチル化について、これは生物にとって、実に使い勝手の良い道具であり、今や哺乳類は、これなしには生存できなくなってしまったと、本書をまとめている。
もうひとつ、ここで押さえておくべき事項は、ホメオボックス遺伝子である。同じく発生生物学者の倉谷滋が書いた『かたちの進化の設計図』を見て行く。
まず、ショウジョウバエの研究から、ある分節の形が、別の分節の形になってしまうような、突然変異が見つかる。これを、ホメオティック突然変異と言う。例えば、ショウジョウバエは、頭、胸、腹の三つの分節からなり、さらにそれがいくつかの分節に分かれる。胸は、前胸、中胸、後胸と別れ、中胸には翅が生え、後胸には、元々は翅であったものが、退化して、平衡桿と呼ばれるものなり、それが生えている。それが突然変異によって、後胸にも、翅が生えることがある。つまり、ハエは、翅が一対しかないのに、トンボのように、二対あるものがある。
これは、平均桿が突然変異して、翅に戻ったというのではない。後胸の代わりに、中胸が重複しているのである。つまり、後胸がなくなり、中胸がふたつ繰り返されているのである。
この突然変異の研究から、様々なことが分かる。まず、器官が単に変異したのではなく、別の器官になっているということは、発生プログラムがまとまって、制御されているところが、そのスイッチを間違えたために、起きたのではないかと考えられる。元々、遺伝子のセット、つまりゲノムは同じものなのに、それが、異なる器官に分化して行く仕組みを研究するのが、この発生生物学の課題であった。遺伝子には、細胞の形を決める遺伝子と、その遺伝子のスイッチを入れたり、切ったりする発現調節遺伝子とがあり、その遺伝子群の相互作用によって、中胸になったり、後胸になったりするのだが、ここでその位置情報が狂ってしまって、後胸になるべきところが、中胸になってしまったのである。
その際、それら発現調節遺伝子は複数がまとまって、群を成して存在しているということも分かっている。この、ホメオティック突然変異に関わる遺伝子群を、ホメオティック遺伝子と言い、それが、多数の遺伝子の発現を制御しているということになる。
さらに、このホメオティック遺伝子の解析が進むと、体節構造の発生を制御する、いくつかのホメオティック遺伝子の中に、他のホメオティック遺伝子と同じ塩基配列部分を持つものがあることが分かり、それが、ホメオボックスと名付けられる。このホメオボックス遺伝子は、実は、たくさんの種類があることが分かり、その研究が進んだのである。
その結果、ホメオボックス遺伝子が、動物においては、基本的な体つくりの構造を調節する最も重要な因子であること、ゲノム上に、その遺伝子群が並んで存在すること、さらにすべての新生後生動物において、基本構造が変わらないことなどが、解明されたのである。
さて、そうすると、ショウジョウバエとマウスと、基本的なホメオボックス遺伝子群は共通であることが分かる。まずは、そういう研究があり、今では、さらにもっと広い範囲の動物で、発生のための遺伝子群が共通だということが分かって来て、とすれば、つまり、ヒトも同じ遺伝子群を持っていることが分かり、しかし、ショウジョウバエとマウスとヒトと、この形態の大きな違いは何かということが問題になる。それは、遺伝子の違いに起因するのではなく、発生過程に原因があることになり、さらには、動物の形態の大きな違いを促す進化も、遺伝子の変異が主要因ではなく、発生過程の変容が大きく働いているということが分かる。こういったことが、進化発生生物学の研究の進展で分かってきたことである。
ここで、生態進化発生学(Ecological Developmental Biology(通称Eco-Evo-DevoまたはEco-Devo))を提唱する、ギルバートは、以下のように、ネオ・ダーウィニズムを批判する。
まず、すべての進化的に重要な変異は、遺伝子の変異であるということに対して、エピジェネティクス的な変異も、世代から世代へ伝えられるということを、Eco-Devoは示している。
第二に、生物は遺伝的に、それぞれ別個の個体であると考えられていることに対しては、生物は、集団内で、それぞれ相互作用しつつ、多くの遺伝子系から成る、ひとつの大きな集団を形成していると、Eco-Devoは考えている。このことは、自然選択を考える際に、それが個体に働くだけでなく、集団に働くということがあり得るということを示しているのである。
第三に、すでに種が持っている遺伝子から、どのような表現型を作るのかということに対して、環境が大きな影響を与え得るということを、Eco-Devoは示唆する。つまり環境に適合するよう、表現型を作ることができるということである。
例えば、先の、生殖細胞のメチル化は、エピジェネティクス的な変化であり、それは、獲得形質の遺伝のひとつである。それは、遺伝子の突然変異によらずに、環境が遺伝子を沈黙させたり、発現させたりする。それは、他の個体と相互作用する。そしてそれは、世代を超えて、伝達されるのである。
発生中に現れる変異は、従って、遺伝子の変異、エピジェネティクス的な変異、表現型の可塑性と、三つの要素があり、それらの相互作用で成り立っているのである。
とは言え、遺伝子は、進化の過程の中で、やはり重要な役割を演じていることに変わりはなく、すると、遺伝子だけでなく、遺伝子を含む、分子ネットワーク全体から、進化を考えようというあたりが落ち着くところとなる。
発生学は有機体説的である。それは私の言葉では、物理法則にのみ基づこうとして、しかし、システム論的な発想を持っているために、それが、生気論に近いものだという誤解を受けることになる。このことに関して、科学哲学者の戸井田和久は、「「エボデボ革命」はどの程度に革命的なのか」という論文の中で、先のギルバートを引用しながら、次のように言っている。すなわち、発生学のフレームワークであった有機体説は、第一に、生気説に極めて近いとみなされて、そのために嫌われている。発生学者自身が、そちらに近付く場合もある。中には、スピリチュアル系の発生学まであるのだそうである。また第二には、ナチズムと、第三には、マルクス主義と結び付けられることもあり、ますます嫌われることになったと言うのである。ユクスキュルとドリューシュという高名な遺伝学者が、生気論に走ったということもあり、つまり生物学者のナイーブな言動が、それに拍車を掛けている。
先に、進化論は、機械論的な発想から一歩でも踏み外そうものならば、創造説の烙印を押されて批判され、また逆に、創造説の側からの歓迎を受けるということを書いたが、状況は似ている。
しかし、発生を調達するのは、遺伝子だけでない。まさしく、ネオ・ダーウィニズムは批判されるべきである。しかし、だからと言って、極端な、発生論至上主義に走る必要はない。ギルバードの主張を勘案し、穏やかな、ネオ・ダーウィニズム至上主義批判をし、かつ、分子ネットワークによる進化論という代案を提出したい。この分子ネットワークによる進化論については、次章で詳述する。
戸田山和久も、遺伝子に一定に役割を認めつつ、しかしなお、ネオ・ダーウィニズム的な発想には、大きな変更が求められるとし、Evo-Devoは、かなりの程度、革命的だという結論を出している。
先の倉谷滋は、『個体発生は進化をくりかえすのか』という著書の後書きで、今、盛んに研究され始めた進化発生学が本当に、19世紀のレベルを超えているのかという問題提起をしている。つまり、超えていないのではないかと言いたいようなのだ。確かに、ここで議論されていることは、すでに、2世紀前から議論され、かつ、結論が出ないまま、いつの間にか、議論されなくなってしまった問題である。そして、今なお、それらに対する明快な答えがないのかもしれない。しかし問題は、20世紀に、分子生物学や遺伝学が発達して、そこでは、遺伝子の突然変異が、進化を決める根源だという議論があり、それを自然淘汰が支えるというパラダイムができ上がったことにある。その際、近年の進化発生学の興隆は、単に、分子生物学や遺伝学の知見を活用して、今まで解けなかった問題を解こうということだけではなく(当然、それは重要なことなのだが)、進化論が、あまりに、遺伝子中心、自然淘汰万能論になってしまったことに対する反動であるという面は、これは、指摘する必要がある。
また、科学ライターの渡辺政隆は、『ダーウィンの夢』という本の中で、わざわざ一章を、このEvo-Devo革命が明らかにしたものの解明に充てている。そして、形態が多様なのに、遺伝子が共通だということは、同じ遺伝子を、使い方を変えて使っているからにほかならず、そもそも進化とは、あり合わせの材料の使い回しで起こるからだと書いている。しかし、その上でなお、Evo-Devoと19世紀の発生学とのつながりを重視し、つまり両者の根本的な違いに言及せず、ネオ・ダーウィニズム批判としての、Evo-Devoという捉え方もしていない。
参考文献
中村桂子『自己創出する生命 -普遍と個の物語-』筑摩書房、2006
団まりな『性と進化の秘密 -思考する細胞たち-』角川書店、2010
佐々木裕之『エピジェネティクス入門 -三毛猫の模様はどう決まるか-』岩波書店、2005
Gilbert S.F., & Epel, D., Ecological Developmental Biology –Integrating Epigenetics, Medicine, and Evolution-, Sinauer Associates Inc., 2009, 『生体進化発生学 エコ-エボ-デボの夜明け-』正木進三他訳、東海大学出版会、2012
戸田山和久「<エボデボ革命>はどの程度革命的なのか」横山輝雄編『ダーウィンと進化論の哲学』所収、勁草書房、2011
倉谷滋『かたちの進化の設計図』岩波書店、1997
倉谷滋『個体発生は進化をくりかえすのか』岩波書店、2005
渡辺政隆『ダーウィンの夢』光文社、2010
(たかはしかずゆき 哲学者)
(8)へ続く