進化をシステム論から考える(6)  中立説をどう考えるか

高橋一行

(5)より続く
6. 中立説をどう考えるか
 ネオ・ダーウィニズムにおいて、自然淘汰を万能とする説明がなされていた。そこに、中立説が出て、しかし、そこにおいても、自然淘汰は、それなりに重要だと言われる。しかし、さらに、中立説に基づいて、進化の機構が説明されるようになると、自然淘汰は、それは自然界に働いてはいるけれども、進化を説明するのに、それほど重要なものではないということが分かる。自然淘汰が働いていないとは言わない。それは当然のこととして、働いている。しかし、進化の説明に重要ではないのだとしたら、どうなるのか。
 ダーウィニズムは、偶然の変異があり、そこに自然淘汰が働き、進化するというもので、さしあたって、神による創造説によらず、進化を説明できたことに、その意義があったとしておこう。偶然と淘汰の組み合わせが重要だ。
その後、遺伝学が発達して、この偶然というのは、遺伝子の突然変異だということになる。これで、ネオ・ダーウィニズムが完成する。そこまでは、何度も説明して来た。
 しかし、その後、木村資生によれば、ネオ・ダーウィニズムは、遺伝子の突然変異が、すぐに淘汰に掛けられてしまい、本当は、遺伝子の突然変異は、大部分が偶然のままであるのに、そのことが考慮されていないという、ネオ・ダーウィニズムへの批判が出て来る。つまり、偶然に力点を置いていないと言うのである。
 一方で、ラウプやグールドのように、自然淘汰は認めているが、しかし、それ以前に、隕石が落ちて来て、環境が激変するというような、偶然があり、そこが、ネオ・ダーウィニズムでは考慮されていないという批判もある。やはり、もっと偶然の役割を重視しようということである。ただ、同じく偶然という言葉を使うが、木村の言い分と、意味するところは異なっている。
 そこで、木村の場合は、遺伝子の突然変異は、偶然のままだが、一方で形態の変異はあり、それは自然淘汰に掛かり、ネオ・ダーウィニズムは正しいという折衷案が出て来る。
 また、ラウプとグールドは、環境の変化という偶然を根本的なものとして押さえた上で、しかしそこに淘汰も働き、両者を組み合わせる案が出される。
 さて、その上で、本稿第2章で書いたのは、ステルレルニー、垂水雄二、吉川浩満が皆、ドーキンスvs.グールド論争で、ドーキンスの方が勝っているとするのはどうしてか。自然淘汰が根本だということが、どうしてそれほどにも強調されなければならないのか。グールドでは、創造説になってしまうという誤解があり、それは、誤解ではあるが、しかし、ある意味で必然的な誤解であり、それを防ぐには、徹底的に、機械論的発想で行かねばならない。そして、そこに自然淘汰を根本に置かないと、うまく行かなくなる。
 つまり、偶然を強調すると、どうして進化が起きるのか、説明ができなくなる。それで、一方で、偶然を強調して、ネオ・ダーウィニズムを批判し、その裏で、ひそかに、何か、創造説的なものを密輸入しているのだろうという話になる。
 しかし、本来、創造説は、偶然を認めず、すべて、神の思し召しで説明する原理である。それに対して、ダーウィニズムこそ、偶然を重視し、しかし、偶然だけでは、進化を説明し得ないから、根本原理に、自然淘汰を置くことになる。そうすることで、創造説を否定する。そうすると、ダーウィニズム以上に、偶然を重視する考え方が、創造説だと言われるのは、どうしてだろうと思う。それこそ、物理法則のみで、進化を説明しようとするものだったはずなのである。ただ、自然淘汰以外に、今まで、うまく進化を説明する原理がなかったのである。
 
 私は、ここで、偶然の変異を利用して、それを進化に繋げる何らかの機構があり、その上で、緩やかな淘汰が掛かるという図式を考えている。すると、ドーキンスは、遺伝子の突然変異を、すぐに、進化に繋げてしまっている点で、まったく不十分であり、むしろ、ラウプやグールドの方が正しいのではないかと思う。ただし、彼らは、その偶然を進化に繋げる機構について、説明できず、従って、それが、何か神秘的なものに思われて、創造説だという誤解を招く。また、私がこれから説明する、その機構も、十分に説明し得ないと、やはり、創造説だと言われかねない。そういう危険性は承知しておく。
 機械論的発想でなければ、あとは創造説になってしまうという言い方は、多くの自然科学者がするところだ。私は、その機械論的発想を、物理法則によるものという言い方に換えたい。そして創造説ではなく、物理法則によるだけで、如何に、機械論的発想を脱するかということを論じたい。
 そしてその際に、偶然の役割が根本で、しかも、緩やかな意味ではあるが、自然淘汰はあり、また、吉川が言う意味で、この自然淘汰は、トートロジーだが、しかし、進化論にとって、原理として必要だったということには、賛成する。だから、進化論は、常に修正ネオ・ダーウィニズムの範囲内にあると言っても構わないと思う。しかし、本稿を進める中で、次第に、ネオ・ダーウィニズムをその中に含み込む、より大きな理論を創りたいと思うのである。
 
 さて、木村資生、太田朋子と同じく、国立遺伝学研究所で遺伝学の研究をして来た斎藤成也は、『自然淘汰から中立進化論へ -進化学のパラダイム転換-』という本の中で、その書名の通り、自然淘汰論から中立進化論へ、パラダイム転換が起きていると主張する。
 1960年代に主張された中立説が、1980年代に入って、確立されたことは、すでに述べている。今や、中立説を疑う人はいないと言って良いだろう。しかし、そこのところで、自然淘汰説が否定されたのではないということを、木村自身の本を使って、論じてきた。しかし、斎藤は、ここで、明らかに、これは、自然淘汰説が否定されたのだと言う。
 1940年代から1960年代まで、興隆を誇ったネオ・ダーウィニズムは、現代進化論の中心から消えて行ったとまで、言うのである。
 確かに、木村も、自然淘汰万能論のネオ・ダーウィニズムに対しては、批判をしている。しかし、最終的には、自分の中立説と、自然淘汰論は融和すると考えている。ところが、斎藤は、自然淘汰がまったく当てはまらないと断言する。
 さらに斎藤は次のようにも言う。DNAレベルでは、進化に寄与する突然変異の大部分が、中立突然変異であるという考え方は、確立している。しかし、肉眼で見える形態や行動などの表現型になると、今でも、自然淘汰論が支配的である。しかし、この表現型のレベルでも、これらの大部分は、中立進化をしているのではないか。
 斎藤の言い分では、木村は、その中立説を、分子レベルに限定したが、しかし、その後、表現型レベルでも、中立進化説が成り立つことが示唆されているのである。つまり、このようなことを考える。それまで生存に有害だった突然変異が、環境の変化によって、淘汰上、中立になるということはあり得る。隕石が地球に激突するというような、偶然的な出来事があり、それまで、環境に適応していた、恐竜のような生物が絶滅する。その隙間に、淘汰の制約から解放された哺乳類が、新しい形態を産み出す。つまり、その哺乳類が、何らかの突然変異をしたとしよう。中立的な進化を、表現型レベルでもしたと考えてみよう。
 それは例えば、カバのような四足水棲哺乳類が、気楽に水辺に生活しているとする。そこに、その四足が退化するという突然変異体が生じる。環境の変化のために、恐竜は絶滅している。捕食者が周りにいないし、食料にも困らなければ、生存競争も起きず、そして、中立的に、その子孫を増やして行く。そこでは、形態レベルで、中立説が成り立つ。つまり、足のなくなったカバは、本当は元のカバに比べて、やや生存競争に不利である。しかし大きな困難はない。淘汰にほぼ中立なのである。
 さて、その突然変異したカバの子孫が、河川から、海に進出する。ここで、中立突然変異が、生存に有利なものに代わるということはあり得る。新しい環境である、海で、彼らは、魚類よりも大きく、そこは、生存に極めて適している。これが、今日のクジラやイルカの祖先となる。種分化が、これで成立する。
 ここで、二段階の環境の変化が考えられている。最初は、例えば、隕石が降って来るというようなもので、これで、その生物に生じる、ここでは足がなくなるという突然変異が、生存に不利なものから、ほぼ中立的なものに変わる。そして中立進化が起きる。次いで、今度は、自ら、河川から海へと、環境を主体的に変える。そして、中立的なものから、生存に有利なものに変えて行く。しかし、重要なのは、中立的な突然変異が起きて、子孫が増えているということである。表現型の進化が、実は、中立進化で起きているということが、ここで示される。クジラとイルカは、多数の種があるが、それらの種分化は、中立進化で説明ができる。こういうシナリオである。
 これは私の言葉で言えば、まず中立進化があり、その後は、主体的に、進化が行われたのである。中立進化という、偶然があり、それが最初にあって、そこで進化が成立していて、あとは環境適応的に、生物が主体的な行動をするのである。中立進化が根本で、あとは、動物が発達して来れば、次第に主体性が増すということになる。そう言う具合に、斎藤の言うところを、私の考えに繋げることができる。
 
 斎藤は、次のような世界観を考えている。キーワードは3つある。ひとつは、偶然である。突然変異、遺伝的浮動、隕石の落下など、進化論の根本は、この偶然である。しかし、この偶然は人を不安にする。それで、生物学者は、自然淘汰概念にしがみつき、それを批判する人は、創造説を唱える。しかし、この偶然の重要性を、進化を考える際には、根本に置かねばならない。
 次に、有限ということを考える。中立説において、重要な、遺伝的浮動は、集団の大きさが、有限だから成り立つのである。地球という、有限の世界で、進化が起きたのである。
 第三に、時間という概念を、斎藤は提案する。ここで、彼は、「歴誌主義」という言葉を使う。生物の進化の研究は、「歴誌主義」の観点が必要だと、彼は言う。
 今や、物理法則そのものが、時間軸に沿って、発展をするものだとされている。時間が、この世界の本質を作り上げている。ここで、歴史を考えねばならないが、それは、文書記録という研究対象を持つ学問のことではなく、自然史のことなので、そのことを明確にするために、「歴誌」という言葉を使いたいと言うのである。
 ここで私は、グールドにおいて、進化論は、科学ではなく、歴史であったということを思い出す。そのことが、再度評価されるべきである。すでに、第3章で述べたことだが、偶然性が、生物の歴史の根底にある。
 
 さらに、次のことにまで、議論は進む。
遺伝子レベルで生じる中立的突然変異は、偶然的な遺伝的浮動だけで、集団内に広がるから、そこに、淘汰は要らない。しかも、弱有害な突然変異でさえ、遺伝的浮動で広がると考えられるのだから、淘汰の果たす役割は、極めて小さなものでしかない。このことと、さらに、斎藤が言うように、遺伝子レベルだけでなく、形態レベルでも、中立説は成り立つということと、併せて考えると、もうこれは、淘汰概念は捨ててしまっても良いのではないかという気もして来る。斎藤は、そう言っている。自然科学者は、特に、第一線で、遺伝学を研究していると、淘汰概念を捨てたら、それは、すぐに、創造説だと批判するのが常だけれども、斎藤は、偶然だけで良いという言い方をする。もちろん、偶然と物理法則のふたつなのだが、しかし、偶然の方を強調している。木村本人と宮田が、頑固に淘汰概念を守ろうとしているのに対し、対照的である。
 ここで、強い負ならば、滅びる、または、集団内に広がらないという言い方をしてみる。しかし、これは当たり前である。当たり前すぎて、これが法則だと言えるのかという話になる。しかし、私たちは、すでに、吉川を通じて、淘汰は当たり前の、つまり、トートロジーに過ぎず、しかし、だからこそ、進化の原則なのであると論じてきた。太田の言うように、「弱有害」でも生き残るし、斎藤の言うように、徹底的に中立で生き残っているとしても、どちらも、しかし、淘汰概念は、まだ生きている。そう考えるべきかもしれない。
 まず、①偶然的な遺伝子の突然変異があり、それを、②淘汰で整理して、進化が起きるという、ごく単純なネオ・ダーウィニズムに対し、私は、偶然的な遺伝子の突然変異を含む、もっと大がかりな、何らかの機構があり、そこに、緩やかな淘汰が働くと考えている。その「何らかの機構」には、中立説があり、「やや中立説」もある。
その「何らかの機構」は、創造説や生気論ではないから、徹底的に物理的なものでなければならず、このことは何度も強調しておく。ここでの問題は、では、それがあれば、淘汰は要らないのかということだ。
 私は要らないとは言わない。しかし、根本ではない。とすれば、理論の中心には置かない。そういう結論になる。
 ただ、ここではまだ、物理法則が、つまり、先の、「何らかの機構」が、十分には考察されていない。宮田は機械論にこだわり、しかし、斎藤は、そういう、機械論的な物理帝国主義とは決別しなければならないと言う。私は、さらに、物理学も発展していて、今や物理法則が、その機械論的限界を脱している。それは活用できるはずであると考える。
 ここでも、中立説の唱える、遺伝的浮動という機械論だけでは、やはり、進化の全容を記述するには、不十分である。「何らかの機構」を解明すべく、先に進みたい。
 
参考文献
斎藤成也『自然淘汰から中立進化論へ -進化学のパラダイム転換-』NTT出版、2009
(たかはしかずゆき 哲学者)
(7)へ続く