自然法爾、陽はまた昇る!―ニュートン別冊『無と有の物理学』コメント

石塚正英

   かれこれ10年は昔になるが、科学雑誌『Newton』の別冊『無と有の物理学―「何もない」空間は存在するのか?「存在する」とはどういうことか?』(2015年9月15日)を読んでメモを執った。それをあらためて読み返し、少しだけ手を入れてみた。編集人の水谷仁が書いた巻頭言「はじめに」に限定して、ここに公開してみたい。まずは当該箇所を引用し、それに続いて私の注記を5点添える。引用文中の数字記号と下線は私の挿入である。
 
〔引用〕
   ①何かが「そこに有るのか、無いのか」は、その何かがみつけられた瞬間に決まる。また、②ある空間からどんなに物質を取り除いていったとしても、たえず粒子がわきたっていて「からっぽ (無)」の空間には決してならない
   にわかには信じがたい、これらの「有る、無し」にまつわる不思議な話は、原子よりも小さな世界の出来事を解き明かす「量子論」によってみちびかれました。
   ところで、無の空間がないということは、「無」という状態自体がないのでしようか。いいえ、③私たちの宇宙こそが、空間も時間も何もない「無」から誕生したと考えられています。しかし、まだ宇宙誕生の真相は解き明かされていません。
   このなぞをとく④最有力候補の理論では、あらゆる物質の根源である素粒子のあり方を根本的にかえます。大きさの「無い」点とみなされていた素粒子を、大きさが「有る」極小のひもととらえるのです。そうして考えていくと、私たちの4次元時空はさらに高次元の世界である必要があり、それまでとはまったくことなる宇宙創生モデルができるといいます。
   このように、「有」と「無」の問題は、はかりしれないほど大きくて深いなぞに私たちをみちびいてくれるのです。本書では、「存在」、「空間」、「宇宙創生」、「素粒子」、そして⑤古代から多くの哲学者や数学者をとりこにしてきた「数」について、「有」 と「無(ゼロ)」を論じていきます。有と無の不思議な世界を,、どうぞお楽しみください。

2015年8月
水谷 仁

 
〔注記①〕「何かが「そこに有るのか、無いのか」は、その何かがみつけられた瞬間に決まる」という文章の意味がわからない。ためしに、複文構造の文章をネットの自動翻訳ツールにかけてみると、以下の結果がでた。
〔英語〕Whether something “is there or not” is determined the moment it is found.
〔ドイツ語〕Ob etwas „vorhanden ist oder nicht“, entscheidet sich in dem Moment, in dem es gefunden wird.
   もっとわかりやすい文章にならないものだろうか。たとえば以下の書き換えはどうだろうか。あるとき誰かがあるところに何かを置いたとする。それがまだ「そこに有るのか、無いのか」は、その何かが誰かにみつけられた瞬間に決まる。いやいや、私にとっての心配事は量子論の世界ではそうではないのだ。デンマークの理論物理学者ニールス・ボーアは著作『量子力学の誕生』において次のように回想している。――そもそも原子的現象では、たとえば電子が「いつ、どこで、どのように」輻射を放出するのか、というような古典論では通常設定される設問自体が成りたたないのではないのか、つまり量子的な現象は本質的に確率的であって、その背後に個々の現象の生起を確定的に支配しているメカニズムを探し求めることは意味がないのではないか、と考えるようになっていった(ニールス・ボーア、山本義隆訳『量子力学の誕生』岩波文庫、2000年、469頁)。量子的な現象が確率的に発生するとなれば、その現象は因果律に即したフィジカルな自然現象でなく、メタフィジカルな超自然現象とみなされかねない。
 
〔注記②〕「ある空間からどんなに物質を取り除いていったとしても、たえず粒子がわきたっていて「からっぽ (無)」の空間には決してならない」という文章の意味がわからない。空間とは文字どおり、「からっぽ」の状態を意味するので、そこに取り残しの物質はありえない。それから、からっぽとは空(から)のことであって、無のことではない。いわんや「たえず粒子がわきたって」いる場は空間の事例にまったくふさわしくない。この一文で水谷は、何もない空間というのは、たとえそれが真空状態であっても絶対にありえないということを言いたいのだろうか。それとも、「にわかには信じがたい」が「原子よりも小さな世界の出来事を解き明かす「量子論」によって」なら判明すると言いたいのだろうか。
 
〔注記③〕「私たちの宇宙こそが、空間も時間も何もない「無」から誕生したと考えられています」と水谷は言うが、その考えは始まりや終わりを決めたがる人々、「私たちの宇宙」に妥当するだけである。私の宇宙は水谷の考える宇宙と違っている。長年にわたるわが研究対象である19世紀ドイツの哲学者ルートヴィヒ・フォイエルバッハはこう言っている。「自然は何らのはじめももたなければ何らの終わりももっていません。自然におけるすべてのものは交互作用をなしており、すべてのものは相対的であり、すべてのものは同時に結果であり原因であり、自然におけるすべてのものは全面的であり相互的であります。(第一二講)LFGW. Bd.6. S.115.」(Ludwig Feuerbach Gesammelte Werke, hg. v. W. Schuffenhauer, Berlin, Bd.6. S.115.)
 
〔注記④〕「最有力候補の理論では、あらゆる物質の根源である素粒子のあり方を根本的にかえます。大きさの「無い」点とみなされていた素粒子を、大きさが「有る」極小のひもととらえるのです」と綴る水谷本人は、はたしてどこまでわかっているのだろうか。「最有力」以外の理論は無視できるのか。「あらゆる物質の根源である素粒子」は大きさや重さが有るとか無いとか言うが、素粒子に大きさがあれば自然界はあり、なければ自然界はないのか。けれども、「ひも」はあるのだから自然界もあるのだろう。
 
〔注記⑤〕「古代から多くの哲学者や数学者をとりこにしてきた「数」について」と水谷は言うが、ギリシア自然哲学など古代の哲学を当代の物理学者はさして学んでいない。そこに端緒を認めはするが端緒に過ぎず、「物理学の誕生」秘話として思い浮かべるだけである。ただし、山本義隆『物理学の誕生』は別格である。
  

アリストテレスの『動物発生論』には「常にあり必然的であるような自然にかんしては 何ごとも自然に反して起こることはない」とある(770bl0-11)。古代ギリシャ文明,とりわけアリストテレスが人類の自然観にもたらした最大の転換は,この一行に集約されている(同上、7頁)

 
という文章で印象づけられる。自然は万有引力の法則にしたがって動いているのであって、自然や万有引力が数学的法則にしたがっているわけではない。自然法爾、陽はまた昇る!
  

  
付記:本稿に関連する拙稿が本サイトの以下のページで読まれる。ついては参照されたい。
ハイゼンベルク『部分と全体』を読む
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/14003
量子力学は科学でなく技術である―パイディアの欠如
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/12826
量子力学という科学の非科学性―〔メソフィジカル・バース〕の提唱
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/12056
 
(いしづかまさひで)
 
(pubspace-x15723,2026.07.12)