量子力学は科学でなく技術である―パイディアの欠如

石塚正英

 
 
はじめに―問題の所在
 
   すでに好奇心の芽生えている人は別として、ある現象や出来事、物事にふと関心を抱いた人は、「なぜ」と質問されても、「ほんの気紛れさ」と答えるくらいだ。そういうことを繰り返し問われても理由など思いつかない。あるいは滅入ってしまう。けれども、何も意図せずにひたすら心の向くまま作業や物思いに没頭していると、ふと何か轍のようなものができていることに気付く。ふりかえったら最後、その轍を消したくなるか、あるいはそれを一本の道と思いたくなるか、そのあたりが、好奇心に忍耐力が加わるかの岐路である。「なぜ」とか「どうして」とかの気持は、最初は意識しない。それは偶然の重なりから生まれる。問い「なぜ山に登るのですか」、答え「そこに山があるからさ」。問い「なぜ毎日やっていて飽きないのですか」、答え「それが、いわば心の置きどころなのです」。つまり、好奇心には遠大な計画とか目標とかはなく、経過や流れだけがある。その成り行きは、自分の道具作りに魂を打ち込む職人の意気地に近い。結果として、遠大な道のりを踏破することになるかも知れない。
   紙片であれ木片であれ、その形を変化させる場合、人はたいがい、何かの形状を意図している。にもかかわらず、それが出来上がるまでの途中でできた図形に興味が湧くことはよくある。けれども、最初の意図が形状でなく内実だったら、途中は途中でしかない。まだまだ似てもいない、といった具合だ。円空が雑木や木片で仏像を彫るときは、途中の造形であろうと、削ぎ落された木っ端であろうと、それなりに崇拝という意味を見出したり、自分なりの聖性という内容をあてがったりする。ようするに、途中の偶然であっても、その形状に意味や内容を添えて、それに関心を示すことはある。単純に三角や四角の形状じたいに注目しているわけではない。
   ただし、その意味内容が内在的か外在的かということは重要である。その違いは好奇心の持続に大きく影響する。円空の作仏に象徴される自発行為は内在的であるが、現代社会の営利や委託は外在的であり、目的は作業そのものでなくそれがもたらす利益増にある。その指摘は 〔産学共同〕―21世紀の今日では〔産官学軍共同〕―の学術研究にも妥当する。儲かる研究は何か、費用対効果はどうか、である。1965年にノーベル物理学賞を授与された朝永振一郎は、あるエッセーにおいてこう語っている。
 

今世紀の物理学における大きな出来事の一つは、量子の発見である。量子の概念を完全に理解することは、専門家以外にはとうてい望むことが出来ないであろうが、量子について一言も触れないで近代物理学の特色を明らかにすることも不可能である(☆01)

 
   量子概念は専門家以外には理解できないが、量子コンピュータなどの技術開発には無視することのできない外在的な期待が寄せられている、ということだろうか。発端の仮説段階にあって、研究がどのような結果を生むか具体化していなくとも、進捗の過程にあって、方法や根拠は歴然としてくる。だが、発見された量子については、その振舞いにに理解困難な謎を残しているものの開発自体は推進せねばならない。そのような現状では、科学的すなわち内在的な意欲・好奇心は減退しかねない。それでも、技術的すなわち外在的な期待に支えられた人財―財貨を生む技術者―の多くは、意欲を失わない。それは科学的な態度とは言えない。科学哲学者の村上陽一郎はこう主張している。
 

量子力学の法則に従いながらこれらの物質系がいかに振る舞うか、という問いに答えることによって、微視的な物理現象を記述し説明しようとするのが、素粒子物理学です。もっとも、実は、この領域では、ややこの原則から離れた状況が生まれつつあります。それゆえに、もはや、これは科学ではなくなってしまった、と考えている物理学者さえもいます(☆02)

 
   この発言には、量子力学・素粒子物理学は科学でなく何か技術開発に係る外在的な要因が示唆されている。朝永と村上の言い分に接して好奇心をくすぐられた読者は、「量子力学は科学でなく技術である」と題する以下の本論を読み進めてほしい。
 
一、知とは何か、あるいは教養と学問
 
   学識のある人は、学識があるのだから、自分は自然や社会についてたくさん知っていると思っている。しかし、ある分野についてものごとを知れば知るほど、さらに未知の領域が拡大するものだ。つまり、学識をつめばつむほど、自分はとば口に佇むだけで、ほんとうは何も知らないことを思い知るようになる。量から質への転換とも言えることだが、いままで学んできたことがらは、果たして有益なのだろうか。複数の解釈や正反対の結論が導かれることはないと言い切れるだろうか。人文・社会・自然の科学諸分野における新説の樹立は、おおむね、既存の価値観や定義に疑いをもつ地点から出発してきたではないか。
   なるほどこれまで多くの場合、特定の文化的価値観や政治的信条により、あるいは経済的利害により、真実の追究に偏りが生まれ、客観性がねじ曲げられてしまって、事実とか真実とかは闇の中へと埋もれてしまったりしてきた。そして、歪曲された方の解釈や定義があたかも真実のように公言されたりもしてきた。フェイクである。ただし私は、すべてを疑え、と言いたいのではない。複眼的観察力を養いたい、と提案しているのである。村上は、先ほど引用した著作で量子力学にはいろいろと言及しているが、社会科学の領域には「立ち入らない」としている。私にすれば、科学哲学や社会哲学こそが量子の振舞い、その揺らぎを説明できると思うのだが。
   そこで一つの逸話を『ソクラテスの弁明』から引用する。哲学史では有名な「無知の知」である。ソクラテスが40歳に差しかかる頃、彼の熱狂的な崇拝者カレイフォンは、デルフォイのアポロン神殿に行って、ソクラテスより賢い男がいるか、と訊ねた。これに対して巫女は、彼より偉い人物はいない、という神託を与えた。ソクラテスは神託の意味を探るべく、有名な政治家、軍人、詩人などに問答して回った。彼以上の賢人に出会うことがあれば神託に反論できるからである。ところが、問答の相手はみな、自分では知恵があると思いつつ、もっとも大切なこと、すなわち「善についても美についても」何も知らなかったのだった。対してソクラテスは、「何も知りもしないが、知っているとも思っていない」ということを彼自身は知っている。その一点でもって、ソクラテス以上に偉い人はいない、という神託は正しかったのである(☆03)。「無知の知」あるいは「汝自身を知れ」はまた、私にすれば「パイディア」とも密接に関係する(☆04)
   もう一つ、浄土真宗の開祖と言われる親鸞が極めた「悪人正機」という説についても、ここに記す。「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という一節が『歎異抄』に記されている。善人でさえ往生できるのだから、悪人はいうに及ばない、という意味になる。世間の常識からいえば、悪人でさえ往生できるのだから、善人はいうに及ばない、となるところだが、親鸞はあえて正反対のことを説いている(☆05)。以上は、私が本稿で問題にしたい「知とは何か」、あるいは、好奇心における内在的動機と外在的動機の峻別に関連し、それを象徴する逸話2題である。
   次に、社会学者マックス・ウェーバー『職業としての学問』を参考に、「教養と学問」について述べる。20世紀前半のドイツでは、学歴は教養と代替可能だった。つまり、学歴の高さや深さがそのまま教養の高さや深さを示していた。だがウェーバーによれば、「霊感(die Eingebung)」を生み出す情熱が「学者にとって決定的なもの」でもあった(☆06)。それが20世紀に至ると、ドイツでも、教養と代替可能の学歴でなく、専門知であれ教養知であれ単に威信の拠り所としての「学歴」保持者が登場してきた。しかし、それはおかしい。教養とは何よりもまず人間性とか人間形成とかと深く関連している。生まれたての人間は、教養については、いわばその下地があるだけにすぎず、教養があるのではない。ないのでもない。素地として与えられているだけなのだ。それを洗練させて実質的な教養に仕上げる過程がなければならない。その過程では、幼いままの自己や我欲は制御され、そのかわりに自己の適正を発見しそれに相応しい専門的知識を自己に蓄積していく。そのようにして自己を研磨することを陶冶といい、それによって完成していく精神性を教養という(☆07)
   そこまで進むと、拠って立つ場はどこか特定の専門的領域であっても、教養の地下水脈では他者との普遍性を獲得している。ただ、その普遍性はけっして抽象的なままで相互認識できるのでなく、各個別々の専門知において獲得される。いったんこれを獲得しえた教養人同士ならば、たとえ職業や専門が違っても相互理解は申し分ない。高度先端医療技術を駆使する医師と法隆寺を修復する宮大工の棟梁とは、相互に獲得した教養の高処において何かしら意志疎通がかなう。法隆寺を修復するまでに伝統の技術を身につけた棟梁には学歴と代替可能な教養が備わっていることになる。つまり、その棟梁にはしかるべき学歴があるのだ。あえて「学歴」と称さなくていいのではあるが。ただし、唯一の例外が存在する。他の専門分野や一般市民と意志疎通が断然困難な量子力学である。
 
二、パイディアに起因する科学―あるいは理想と現実
 
   哲学者のロジェ・カイヨワは、著作『遊びと人間』において、子どもといわず大人といわず、人々の遊びは二つの極に配置できるとしている。一方は「パイディア(Paidea)」というギリシア由来の語で表現され、気晴らし、騒ぎ、即興、無邪気な発散、未分化の素養といった共通の原理、統制されていない気紛れで特徴づけられる。他方は「ルドゥス(Ludus)」というラテン語で表現され、無秩序で移り気な性質を安易に目標に到達させないようにする傾向のことである。
   その際、カイヨワが「パイディア」という語を選んだ理由として、「それが子どもを表わす名詞を語源としていて、子どもを連想させるから」である(☆08)。そのパイディアのみの状態では、人は、ものごとに対して名付けによる概念区分をすることはない。たとえば、ある子どもが1本の小枝をもってそれを嬉々として振り回したとする。そのとき、その行為をチャンバラと認識すれば、それはもはやパイディアがルドゥスと結びついている。パイディアでは、小枝を振るのは意味のないことなのだ。意味なき行為とそれを介しての快楽にこそ、パイディアの特徴がある。要するに、カイヨワが言いたいのはおよそ遊びというものには無意識ながらパイディアの状態が潜在していて、それがたとえばチャンバラ遊びと本当の真剣勝負とを区別するものなのだ、ということ(☆09)。本稿に即した用語で言い換えると、パイデイアすなわち好奇心である。
   しかし、21世紀の今日、大人たちはパイディアをふつふつとさせる遊びを忘れてしまっている。科学・技術の発展と、それによる高度情報化の進展は、私たちの生活から意味のない行為、無規律の自由を排除した。すべては意味と規律の世界に包摂されてしまった。ものごとの分別をわきまえてしまった大人たちは、それを自明のこととしている。科学精神を棄てて技術至上に走ってしまった感がある。だが、日々新たに生まれてくる子どもたちは、いつも第一歩から社会人になる。幼児の頃はまだパイディアまるだしの園に暮らしている。その子らは以後どうなってしまうのか。村上が不安げに言っている科学からはみ出しそうな量子物理学の世界こそ、彼らを待っているはずである。さては何のことか、以下において、村上の議論を参考にして検討してみたい。
 
三、委託を使命とする技術至上へ
 
   先にも記したとおり、私は、学問とはそもそも好奇心・パイディアを原動力にしていると解釈している。それは先史文化に起因する。学問は文明期の哲学から始まったとして、その前提なり土台なりは先史人たちの空想的パイディアにあった。先史由来の〔感性文化〕を基盤としつつ、ギリシア時代に至って〔美の文化〕という新たな類型ないし系譜が産み出されたということである。「科学」は、ギリシア時代以来全体を包摂していた哲学(学問)の中から、次第に個別の領域ごとに分かれて来た歴史を背負っている。その意味で、例えば美学は哲学の中の「美」を論じる一分科の学だった。バウムガルテン(1714-62)の著書『美学(Aesthetica)』(1750/58)は先史に由来する「感性的認識の学」の一到達点を象徴しており、カント(1724-1804)の著書『判断力批判( Kritik der Urteilskraft)』(1790)は哲学からの分科たる美学の確立を象徴している(☆10)
   さて、ここからは技術に特化した議論を加えたい。技術は、古代・中世ヨーロッパのキリスト教社会においては、地上の富を豊かにするだけのものとして軽視された。またイギリスでは、元来ギリシアで天才、特別の才能を意味した“engineer”が技術者という意味に用いられた。百年戦争当時、大砲や火薬の製造技術が優れたエンジニアの腕の見せどころであったという。産業革命の時代以降になると、技術は技巧的・手工業的な次元におさまらなくなり、やがて機械制大工業ないし電機電子関連産業にかかわる内容にまで体系的な膨らみを持ちはじめた。これに相応して、用語も多様化をみせ、20世紀には広く工学一般に“engineering”があてがわれ、セットとなった「科学技術」に関する一般用語としては、“technique”の派生語である“technology”が普及するようになる。
   科学は本来、人が生活資料や社会環境を生産ないし獲得する場合の、生産する対象と、生産する方法とについての客観的な認識や立場(パラダイム)である。あるいはまた、自然現象や社会現象を客観的に認識し操作するに際しての、思考ないし観点である。それに対し技術は、そうした科学的認識・パラダイムに立って自然や社会を処理し改変する方法・手段としての知識やリテラシー、それにシステムをさす。その両者を比べてみると、近代産業社会に至るにつれて、技術が社会をリードしていく体制が整っていったのである。いわゆる技術至上主義である。科学はセットにされた上で、事実上置き去りにされていった。
   科学哲学専攻の野家啓一は、『科学哲学への招待』において以下のように記している。「科学は一般に『観察や実験などの経験的方法に基づいて実証された法則的知識』と定義できる」(☆11)。この定義から推すと、量子力学は科学でないことになる。そうなのである。量子力学は科学でなくて技術なのである。科学であれば、「なぜ」という問いかけに無頓着ではいられない。量子力学に関する解説書のいずれを読んでも、量子の振舞いがなぜ生じるのか、その理由説明はない。方法(how)の説明と原因(why)の説明とはあい異なる。前者でもって後者にかえることなどできない。〔量子もつれ〕を対象とした2022年のノーベル物理学賞は方法を評価しているにすぎない。その後も、原因は未解決で現象は不可思議だ、との応答は続く。驚くことに、なすすべがなく万事休す、と嘆いたり任務を放棄したりしているのは専門家なのである。最初期はアインシュタインから始まって、本稿の冒頭で引用した朝永しかり、その後に関係書を刊行した古澤明やルイーザ・ギルダー、山本義隆しかり、である(☆12)
 
四、フィジカルな科学とメソフィジカルな技術
 
   量子の振舞いは〔非局所〕と〔瞬時〕で特徴づけられる。専門研究者たちはその動きを物理学とか力学の名のもとに解明しようとしてきたが、それがそもそも躓きのもとだった。それらの名称はニュートン力学とか古典物理学からの借りものである。量子理論とニュートン理論とは、似て非なるもの同士である。似ているところは、どちらも自然界を拠り所に人間が構築している点である。非なるところは、一方がニュートン理論(自然法則)に即しているが他方はそれに即していない点である。その問題について、私は数本の論文で強調してきた(☆13)。よって繰り返しになるのだが、ここで必要な限り再論しておく。それは〔存在圏(バース)の3類型〕というオリジナルである。
   量子力学は、素材の量子を物質(実在)世界に見出しているが、〔非局所〕と〔瞬時〕で特徴づけられる量子の振舞いは実在のものではない。そうした中間的な位置を、私は〔メソフィジカル・バース〕としている。名付けによる概念区分である。ここに示す「メソ」とは「中間」という意味である。量子世界は、私の定義にあっては半自然世界(メソフィジカル・バース)であり、超自然世界(メタフィジカル・バース)のように神秘的ではないが、五感の働く世界としての自然世界(フィジカル・バース)でもない。右図〔存在圏(バース)の3類型〕のbにおける「象徴物」は、ここでは量子にあたる。c(自然)+b(量子)=量子(力学)世界、となる。その際、量子世界は宇宙に拡がるものの、必ずや古典世界(c)に根を持つことになる。メソフィジカル・バース(b)はフィジカル・バース(c)に裏打ちされているのである。後者の存在なくして前者の存在はあり得ない。もしあり得るとすれば、それは神の世界と同様のメタフィジカル・バース(a)であろう。だが、現実のものだが動きは実体的ではない量子の存在する世界は(b)に落ち着くことになる(☆14)
   さて、以上の議論を村上や野家の文脈に載せて再論してみると、①20世紀までの物理学はフィジカルな科学であり、②20世紀以後の量子論はメソフィジカルな技術である、ということになる。先端素粒子論という括りで、村上は次のように言う。
 

物質的なイメージをまったく欠いた、一種の数学的存在としか考えられないのです。そうであるとすれば、上に挙げたような「科学」の定義には当てはまらなくなってしまいます。少なくともそれは「物」理学ではない、と考える人々がいても不思議はないでしょう。(中略)数学が扱う「数学的」実体が、物質系そのものでないことは、ほとんど自明です(☆15)

 
   この引用は評論的だ。では村上自身はどう考えているのだ、と問いたい。私にすれば、「一種の数学的存在」は理論世界の観念的存在なのであって自然界の物質的存在ではない。数学(的存在)は代数も幾何も〔メソフィジカル・バース〕の存在であり、と同時に、科学的(パラダイム的)存在でなく技術的(道具的)存在なのである。その意味では、ウェーバーが言う次の言葉は的を射ている。「もし数学者というものはただ机に向かって定規だとか計算機だとかを使うだけで学問上の価値ある結果に到達するものだと思うならば、それは子どもらしい想像というほかはない」(☆16)
 
五、好奇心から構築される学問論
 
   本稿の最終テーマとして学問論を取り上げる。私はこのテーマで1970年から翌年にかけて幾つか文章化し、その後も折に触れて考察してきた。半世紀を経てそれを集大成し、2019年に『学問の使命と知の行動圏域』と題する拙著にまとめた。その書名にある「使命」は、「委託」といった村上著作の同語と正反対の意味を有する。それを説明するのに、上記拙著の「はしがき」から引用する。
 

1949年生まれの私は2019年に古稀となる。1968年ころから社会的・政治的・文化的な諸問題に関心をもち、身近にあるいろんなメディアに文章を投稿してきた。おりしも、1968年5月パリで生じたゼネストに端を発するフランス五月危機(労働者・学生・一般大衆の一斉蜂起)は、私の心身を徹底的にゆすぶった。あれから50年、私の研究生活歳時記では紙幅の尽きかける晩秋を迎えている。けれども、20歳当時に抱いた、学問の道を歩むべし、との使命を現在も抱き続けている。アメリカン・ファーストのトランプ時代となって、集団的自衛権や自衛艦空母化の諸問題を眼前にして、その使命は放棄できないのである。そのような直近の状況も考慮しつつ、半世紀の研究生活で折に触れて綴った学問論に関連する文章を、以下に集成することとしたい(☆17)

 
   読んで字のごとく、私にとって学問の使命とは研究第一である。目次には以下の章題が読まれる。「学問論の構築へ向けて」、「戦争と学問」、「新たな科学論の構築へ向けて」、「学問における自立空間を求めて」ほか。1984年から2009年にかけて単独で編集・刊行した『社会思想史の窓』と称する学術媒体には以下の編集精神を掲げた。「文化の領域にアソシアシオンの自立空間を築こう」。私にとって学問の使命は、国家や企業の委託に係るものではない。真理探究の好奇心と忍耐力を支えとする求道精神の言い換えである。わが研究対象は人文・社会・自然の科学3部門に及んでいるが、そのほとんどが複合領域にある。2020年に退職した東京電機大学では技術者倫理と身体科学(複合科学的身体論)、それに情報社会学を講義していた。テキストの2点、『複合科学的身体論』(北樹出版、2004年)や『感性文化学入門』(東京電機大学出版局、2010年)はそのためのツールである。単純に私の好奇心から構築した講座ではないものの、いずれも、履修生が好奇心をそそられないような座学は避けた。
   議論を整理するためのやや極端な区分けだが、問題は科学か技術か、その重みである。知と技の関係、と言い換えてもいい。先ほど言及した拙稿「学問論の構築へ向けて」において、私は、学問=〔知識・技術⇄思想〕という図式を示した。〔⇄〕は相互に影響を与え、交互的に支えあうことを意味する記号である。その説明を引用する。
 

学問は、人間が自然・社会にかかわることを前提として、さらにはその結果として生まれ、発展してきたが故に、思想を内包する。思想なくして、また「かかわり」なくして、学問は必要とならなかった。(中略)知識と技術はまた思想の形成に応じて、主体から客体へのかかわりの度合いに応じて、その段階の学問に実体的な基礎を与える。獲得された知識・技術はさらに思想形成を促し、新たに形成された思想は、それはそれでさらに高度の知識・技術を要求する。人間のかかわりが主体性を維持・強化していくことにより、学問はやがて科学的視座を獲得していく(☆18)

 
   ここに記した「思想」は、「時代思潮」や、「経験知」、「理性知」とも置き換え可能なものである。ニュートンの世紀には理神論的宗教思想が幅を利かせていた。よって万有引力は神の摂理である。アインシュタインの世紀には宇宙や天体まで含む時空間を数学的に捉える物理思想が確立した。しかし、どうであろう。量子力学に至って、自然法則までもが打破されてしまったのだ。量子力学の世界では自然法則は成立せず科学の定義に即していないという名状しがたき思想、それは専門家の間でのみ理解されているが、①なぜ打破されたか、その原因究明については誰にも不可思議なままなのである。ただし、②量子が不可視の世界に存在し技術革新に貢献しているのは紛れもない事実である。私は、①を根拠にして、量子力学は科学でないと結論しており、②を根拠にして、量子力学は技術であると結論している。技術開発する者たちは、科学(量子もつれの原因究明)を見限っても成果(利潤)は潤沢に得られるので、独走してしまったのである。力学的な原因に関しては、マックス・ウェーバーが『職業としての学問』において、すでに興味深い指摘を成している。
 

たとえば我々が電車に乗った場合、専門の物理学者ならいざ知らず、一般には、誰もがその動くわけを知らないし、また知らなくてもすむのである。我々はただそれがどう動くかを「予測」できればいい。これによって我々は、電車の動きに基づいて行為することができる。しかし、それがどのような構造によって動くかは、少しも知っている必要はないのである。ところが、野生人(der Wilde)は、彼らの使用する道具について、これとは比較にならぬほどよく知っている(☆19)

 
   ウェーバーの説明に従うならば、電車の事例ではあるものの、現代人は走行の①原因を知らぬまま②その技術だけを享受しているのに対し、野生人(これまでは「未開人」と訳されてきた)は道具においてであれ、①と②の双方を捉えていたのだ。これは、電車とか道具とかの種別の問題でなく、①と②の関係における野生人の卓越性を物語っているのだろう。そのような事例は、私が四半世紀を費やして監訳してきたジェームズ・フレイザー『金枝篇』に通底するものである(☆20)
   その際、野生人・非文明人の方法すなわち「呪術」は迷信で、似非科学と同じだ、という判断は間違っていることをここで補足したい。呪術は前近代社会や非欧米社会にあって「メチエ(métier)」として意義を有していたのである。それに対して、欧米の科学は、それ自体が近代という価値観を背負っており、近代に関係しない時代や場所においてはメチエたり得ないものなのである(☆21)。前近代の職人世界では、アート(技術)とメチエ(職人芸)は切っても切り離せないものだった。アートは目に見える技であるのに対してメチエは秘められた技である。鍛冶屋の焼入れ、板前の包丁磨ぎ、左官の土壁づくりなどは、メチエのなせるものなのだが、それを現代人はアートと思っている。実はアートはメチエに支えられているのである。ヨーロッパでは、メチエはマイスターによって連綿と継承されてきた。機械工業はアートをメチエから分断してしまったのである。
 
むすびに
 
   〔存在圏(バース)の3類型〕について一つ付言する。〔c(ナノ自然)+b(量子)=量子世界〕の組み合わせと同類の組み合わせに、〔c(森羅万象)+b(霊魂)=自然信仰〕がある。量子と霊魂がなぜ同類なのか、といぶかる人々は多かろう。その点に関しては別稿「クアンタム(量子)とプシュケー(魂魄)」に詳しい説明を記してある。要点だけ記すと、〔生物の民俗的分類〕という研究方法、研究視座に関係する。例えば、空飛ぶ生物、地面を動く生物、水中に暮らす生物などと、生息区域ごとに生物をグループ分けする方法・視座である。私の分類法で区分けすると、量子も霊魂も〔bメソフィジカル・バース〕に位置するだけである。内容や働きでなく、存在圏で区分けしているのである。
   名付けによる概念区分、あるいは〔言分け〕は、「古典力学と異なる」としか言いようのない量子力学の概念確立にとって、きわめて有意義である。そうして区分けすると、俄然、存在感がでてくる。同類項が存在するので、不可思議ではなくなってくる。人類社会が続く限り、精霊や霊魂は森羅万象のいずれかに住まう。キリスト教やイスラム教でなく自然崇拝であれば、神々はみな、信徒の求めに応じて呼びだされるまで霊界に暮らすのだが、霊界は自然世界に潜んでいる。自然世界なくして霊界は存在できない。同じように、量子は微小ながら自然世界なくして存在できないナノ世界に位置するのである。量子に居場所をあてがってやったのだから、非科学的な振る舞いの原因は、いずれは非科学的に説明できるようになるだろう。科学的視座と方法で解明できないことは、ほかの視座や方法でもってそうしなければならないのである(☆22)
 

01 朝永振一郎『科学者の自由な楽園』岩波文庫、2005年(初2000年)、150頁。
02 村上陽一郎『科学・技術と社会』光村教育図書、1999年、13-14頁。
03 プラトン、久保勉訳『ソクラテスの弁明・クリトン』岩波文庫、1996年、20-21頁。三嶋輝夫『汝自身を知れ―古代ギリシアの知恵と人間理解』日本放送出版協会(NHKライブラリー)、2005年、参照。
04 ソクラテスと「パイディア」の関係については以下の文献に詳しい。吉田雅章「教養知と専門知識―ソクラテスの求めた知の意味するもの」、長崎大学教養部紀要(人文科学編)、第38巻第1号、1997年。
05 石塚正英「親鸞の弥陀と越後の鬼神」、同『フェティシズムの信仰圏』世界書院、1993年、第5章、参照。
06 Max Weber, Wissenschaft als Beruf、München und Leipzig, 1919, S.10. マックス・ウェーバー、尾高邦夫訳『職業としての学問』岩波文庫、2004年、23頁。
07 『職業としての学問』はウェーバーが自ら大学生向けに行った講演を文章化した著作であるが、タイトルの「職業(Beruf)」は「使命」とも訳される。つまり、「天職」「聖職」の意味を有する。本論を読むと、彼の言う“Beruf”は単なる職業・職種でなく、教養であることがはっきりわかる。
08 カイヨワ、多田道太郎・塚崎幹夫訳『遊びと人間』講談社文庫、1990年、67頁。
09 石塚正英「子どもの世界・遊びの世界をたずねて」、石塚正英編『子どもの世界へ―メルヘンと遊びの文化誌』社会評論社、1999年、参照。
10 石塚正英「感性文化と美の文化―バウムガルテン・ヘーゲル・フレイザー」、同、『歴史知のオントロギー―文明を支える原初性』社会評論社、2021年、第11章、参照。
11 野家啓一『科学哲学への招待』筑摩書房、2015年、14頁。
12 古澤明『量子もつれとは何か―「不確定性原理」と複数の量子を扱う量子力学』講談社、2011年、73頁。ルイーザ・ギルダー、窪田恭子訳『宇宙は「もつれ」でできている―「量子論最大の難問」はどう解き明かされたか』講談社、2016年、26頁。日経サイエンス編集部『量子宇宙 ホーキングから最新理論まで』日本経済新聞出版社、2018年、45頁。山本義隆「カッシーラー『現代物理学における決定論と非決定論―因果問題についての歴史的・体系的研究』訳者あとがきと解説」、みすず書房、2019年、279-280頁。
13 拙稿数本のうち一篇を記す。「破壊されゆく〔実在〕観念―先端科学の園」、『頸城野郷土資料室学術研究部研究紀要』ディスカッションペーパー、第9巻第15号2024.10.08.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kfa/9/15/9_1/_article/-char/ja
以下の拙著に再録。『量子力学の陰日向―文明を支える原初性』社会評論社、2025年、第5章。
14 〔メソフィジカル・バース〕に関する詳細は、以下の拙稿参照。「地中海的ハビトゥスと量子世界観―ブローデルとブルデューを参考に」、「自然と超自然の緩衝域を考える―メソバース(時空中間域)の想定」、「〔講義〕未来社会Society5.0と〔メソバース〕」、すべて以下の拙著に含まれる。『原初性漂うハビトゥスの水脈―量子世界・地中海・ゲルマン・クルド』社会評論社、2024年。
15 村上陽一郎、前掲書、13-14頁。
16 Max Weber, Wissenschaft als Beruf、S.12. ウェーバー、前掲書、26頁。
17 石塚正英『学問の使命と知の行動圏域( Mission of Study and Intellectual Sphere)』社会評論社、2019年、6-7頁。
18 同上、43頁。
19 Max Weber, Wissenschaft als Beruf、S.15. ウェーバー、前掲書、32頁。
20 野生人の卓越性について、人類学者のジェームズ・フレイザーはこう指摘している。「しかしながら、我々が感謝して記念すべき恩人の多くは、恐らくそのほとんどすべてが野生人だった。要するに、すべて考え合わせれば、我々と野生人との類似点は相違点よりもはるかに多く、また我々が野生人と共有し事実かつ有益なものとして大切に保存しているものは、我々の野生の祖先に負うところが大きい」
James George Frazer, The Golden Bough, A Study in Magic and Religion, part2, p.422. フレイザー、石塚正英監修・神成利男訳『金枝篇―呪術と宗教の研究』国書刊行会、第3巻、2005年、266頁。なお、『金枝篇』を理解する一助として、私は以下の著作を刊行している。『フレイザー金枝篇のオントロギー―文明を支える原初性』社会評論社、2022年。
21 文明人の技術(アート)にあたる野生人の方法は呪術(アート+メチエ)である。以下に示す一覧表「呪術と技術の関係あるいは宗教と科学の関係」を参照。なお、3区分はタイプ別けを明示しているのであり、①は②→③のパラダイムにも通奏低音として潜在し、ときに現象世界に浮上する。

22 オンラインジャーナル〔公共空間X〕に掲載した以下の拙稿を参照。「クアンタム(量子)とプシュケー(魂魄)」
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/12748
また、同名のオンライン講座をYou-Tubeに掲載してある。以下のURL参照。
https://www.youtube.com/watch?v=aTJttT2Wyj4&t=164s
 
(いしづかまさひで)
 
(pubspace-x12826,2024.03.10)