現代の“デモクラシー”は「一般意志」を代理しているのか?――この間の選挙結果を見て考える

相馬千春

 
1. 九月からの諸選挙で政治状況は大きく変わったが・・・。
   今年の9月以降、自民党総裁選、立憲民主党代表選、そして衆議院選がありましたが、この三つの選挙によって、日本の政治状況が大きく変わったことは、言うまでもないでしょう。また11月に入ってからの米大統領選でのトランプの勝利、兵庫県知事選での斎藤氏の勝利も日本の政治に大きなインパクトを与えている。そこでまず最初の三つの選挙の要約から考察を始めことにしましょう。周知のことなので退屈でしょうが、お付き合い戴けたなら幸いです。
   先ず立憲民主党の代表選挙では、小沢氏などに推された野田佳彦氏が枝野氏に勝利。立憲民主党は従来リベラル派とみなされていましたが、野田氏の代表就任で、立憲民主党は「保守」色を持つ政党に変身したといえる。
   他方、自民党総裁選挙では、一回目の投票で安倍政治の継承を掲げる高市氏が保守派の党員層を摑んでトップに立ったが、決選投票では「米国が高市政権誕生を強く警戒している(1)」ことなどから、石破茂氏が当選。この結果、旧安倍派の衰退は決定的なものとなりました(その後の総選挙で安倍派の当選者はわずか22人)。しかし保守政治内部での安倍政治vs.非安倍政治の闘いはいまだに決着がついていないと見ておくべきでしょう。
   そして衆議院選挙では、自民党・公明党は大幅に得票と議席を減らして過半数割れとなり、立憲民主党が議席を大幅に伸ばすことになりました。しかし立憲民主党の比例票がほとんど伸びていない点には注目すべきでしょう。
   自民・公明が比例票を激減させ、立憲民主党も比例票をほとんど増やせなかったのに対して、比例票を大幅に伸ばしたのは、国民民主党とれいわ新選組でした。両党とも獲得議席数はそれほど多くはないものの、この総選挙で実際に支持を拡大したのはこの両党といえるでしょう。
   また維新と共産党は比例票を大幅に減らしています。前者については、その行状からして当然かもしれませんが、共産党は何故後退しているのか? 党員ではなくても、考えてみる価値はありそうです。
   この他、参政党と保守党が合計で300万票の比例票を獲得した点も重要で、日本における右派的エネルギーが大きいこと、またそれが無党派層にも浸透していることが示されたと言えるでしょう。
   さて、このような選挙結果を受けて、第二次石破内閣が成立しましたが、この内閣は少数与党政権であるため、当面の日本の国政の在り方はこれまでとは違ったものにならざるをえない。従来は与党内の協議で国政は決まりましたが、これからは与野党間の協議を通して、それぞれの課題ごとに多数を形成しなければならない。これを「政治の不安定化」と称する人もいるでしょうが、こうした状況のほうがむしろデモクラシーの本来の姿に近いはずです。
   自民党・立憲民主党の党首選と衆議院選という三つの選挙の結果については、以上のように要約してみましたが、如何でしょうか。
 
2. なぜ政権交代ができなかったのか?
   さて、選挙前には<野党がまとまって政権を獲得すべきだ>という意見も少なからずありました。それではなぜ政権交代にまでは到らなかったのか?
   そう問うならば、<野党間の選挙協力が成立しなかったから>という答えが返ってくるでしょう。たしかに立憲民主党は維新・国民民主党とは憲法・安全保障政策などで、またれいわ新選組とは消費税などの財政政策で、それぞれ大きな違いがあって、政策合意はできなかった。また立憲民主党と共産党との協力関係も不調に終わったことで、立憲民主党が議席を獲得できなかった小選挙区も少なくありません。
   たしかに政権交代ができなかった直接的な原因としてはこうした要因を挙げることができる。しかしより根本的な原因として、野党第一党の立憲民主党に魅力を感じる有権者が多くはなかった点を見逃すわけにはいかないでしょう。そうであるからこそ立憲民主党の比例票はほとんど増えなかったわけです。つまり今回の立憲民主党の獲得議席の大幅増は、自民党の裏金問題という「敵失」によるところが大きく、立憲民主党自体が評価されたわけではないということです。
   そもそも今回の選挙戦で、立憲民主党はもっぱら「政治改革」を争点にしていて、人々の最大の関心事である国民生活を改善すること(2)の方は争点にしませんでした。その一例を挙げると、この選挙戦で野田氏は「信なくば立たず」という言葉を盛んに使っていましたが、<物価上昇で苦しくなっている国民生活をどうするか>については語っていないのも同然だった。しかし「信なくば立たず」というは言葉はどういう文脈で登場するのか? それは子貢が政治の要諦を問い、孔子が答えるという文脈でのことであり、この問いに孔子は先ず「食を足らし、兵を足らし、民之を信ず」(『論語』顔淵篇)と答えている。ですから「信なくば立たず」と言って、「食を足らし、兵(安全保障)を足らす」ことを政治の争点から外すのであれば、この言葉の誤用としてこれ以上のものはないでしょう。
   たしかに、立憲民主党が「政治改革」を争点にしたことは戦術としてはかなり成功したでしょうが、戦術的勝利には限界がある。したがって人々の何よりの願いである「生活の改善」を争点にした国民民主党とれいわ新選組が比例票をそれぞれ357.9万票、158.9万票と大幅に伸ばしたのたいして、「生活の改善」をほとんど訴えることのなかった立憲民主党の得票が増えなかったことは当然といえるでしょう。
 
3. 議員たちは人々の意志を代理しているか?
   そもそも衆議院議員(レプリゼンタティブ)というのは、主権者の意志を代理(レプリゼント)することが本来の仕事(公務)のはずで、自分たちの考えを宣伝することが本来の仕事ではありません。だからこそ税金から歳費が払われている。人々はほんとうに民意を代表する人物だと思えば、よろこんでその人物に投票しますが、自分たちの考えの宣伝には熱心でも、民意を代表することには不熱心であれば、人々がそのような人物には投票しないのは当然です。
   私は無党派の者ですが、それでもここ数年は<今の政治状況は変えなくては・・・>と思い、野党候補を応援してきました。しかしそんな私から見ても、野党の政治はいまだに市民から遠い所にあると感じられる、つまり一般市民の感覚と政党との間にはギャップがある。これは根が深い問題で、「政党政治」の宿命なのかもしれません。
   たとえば、ある政党にはその政党なりの考え方、そして固有の体質がありますが、それらは一般市民からは特殊なものに見える。また他のある政党は、より一般的な思想――民主主義や人権など――を基盤としてはいるが、それでも或る考えに固執することがあって、一般市民にはそれは特殊な考え方と感じられる。そして一般市民がそれに異論を唱えても、政党がその異論を虚心に聴いてくれることなど、ほとんどないのではないか。
 
4. 現代の「民主」政治は「一般意志」を代理しているか?
   こうした政党の考え方や体質の「特殊性」は、じつは近代民主主義の出発点から問題にされています。ルソーは『社会契約論(3)』で「一般意志(la volonté générale)」という思想を提示して「一般意志は常に正しく、常に公共的利益を志向することが明らかとなる(4)」と言い、さらに次のように言っている。
 

「人民がよく事情を知って討議するとき、市民が相互間になんらの連絡ももたないとしても、・・・結果として常に一般意志を生じ、その決議は常に正しいものであろう(5)。しかし党派が、党派という部分的結合が、政治体という大結合を犠牲にしてつくられると、これらの結合のおのおのの意志は、その構成員に対しては一般意志となり、国家に対しては特殊意志となる。」(P.241~2)

 
   さらにルソーは「これらの結合の一つが他のすべての結合を圧倒するほど大きくなった場合」には「すでに一般意志はなく、支配的見解も特殊な見解にすぎなくなる」とも言う。
このように「党派という部分的結合」が「国家に対しては特殊意志」を掲げ、しかも「この[=部分的]結合の一つが他のすべての結合を圧倒するほど大きくなった」といわれる状況は、これまでの日本政治にそのまま当てはまるでしょう。
   しかし政党に負の側面があるにしても、私たちの社会にはもちろん「結社の自由」という基本原則があり、また政党が現実の政治の中で必要なものとして機能していることは否定できません。さらに政治結社(6)に対して一律に「一般意志」を代理するように求めるならば、それに対しては、後で見るように、批判があり得る。しかしルソーが指摘しているような政党の負の側面が現に存在し、それが日本の民主主義を蝕んでいることは否定できないでしょう。 そうであれば、政党もそうした負の側面を不断に克服する必要があるのではないか。
   たとえば、小選挙区制のもとでは政党の本部に大きな権限がありますが、そのために個々の議員は、地元の有権者よりも、政党本部の方に眼を向けているのではないか? そうであれば、有権者の意志は、政党本部がフィルターとなって、議会には届かないことになる。つまり政党政治によって、議員が主権者を代理することが阻害されているわけです。
   例えば、物価上昇によって多くの人々が困っている今日、消費税減税を求める人々の声は強く、世論調査によれば、消費税減税を望む意見は約6割、反対意見は約2割に過ぎない(7)。しかしこの世論は自民党によっても立憲民主党によっても代理されてはいません。自民党や立憲民主党が消費税減税の代わりに対策として何を掲げているかといえば、それは所得減税と給付金である。しかし消費税減税と所得減税・給付金を較べると、同額の財政支出で前者のほうが後者に比べて2倍のGDP押し上げ効果があるのだから、『財政破綻』を招くのであれば、それはむしろ所得減税・給付金の方のはずです。また<消費税減税は高所得者により有利である>という意見もあるが、その点はほんらい逆進的な消費税から累進的な所得税に課税の中心を移すことで対応できることである(8)。ですから<人々がよく事情を知って熟議する>ならば、消費税減税こそが「一般意志」となるはずですが、今日の議会ではそのような熟議は行われない。
 
5. 政治結社と「一般意志」
   さて、政治結社に対して「一般意志(9)」を代理するように求めることについては、先に申した通り、批判があり得る。例えば<人民の「一般意志」よりも、さらに普遍的な思想があり得るのではないか?>と問われるならば、この問いに対して<否>と答えることは困難でしょう。この点で参考になるのは、ヘーゲルの次の指摘です。
 

「ある国民の最も見事な最高の原理も、特殊な国民の原理である以上、制限された原理であり、時代精神は、それを超えて進んでいく」(『1817-18自然法と国家学講義』p.278)

 
   上の引用でヘーゲルは、ルソーの「一般意志」を批判的に継承した(10)上で、「ある国民の最高の原理」という言葉を使っていると思われますが、この「ある国民の最高の原理」といえども、それ自体は「特殊な国民の原理」・「制限された原理」であることを免れません。したがって、ある政治結社が「ある国民の最高の原理」を超えた思想を掲げることは決して間違ってはいない。仮に議会が一般意志を適切に代理しているのであれば、ある政治結社がもっぱら<一般意志を越えて進んでいく時代精神>を掲げることは、まったく妥当なことでしょう。
 
6. 政党が人々の「一般意志」を適切に代理しないと、どうなるのか。
   しかし議会が「一般意志」を適切に代理していない時に、政党あるいは政治結社がもっぱら<進んだ時代精神>だけをーーあるいは<特殊的な意志>と受け止められる考えを――宣伝するのであれば、どうなるでしょうか。人々は既成の与・野党に絶望して、単に幻想を提供するだけの政治勢力に希望を託するようになるのではないか。アメリカにおけるトランプの勝利、日本における斎藤元彦氏などへの熱狂はそのような事態の到来を物語っていると私には思われるのです(11)。
 

(1) https://president.jp/articles/-/86369?page=5 による。
(2) https://www.nhk.or.jp/senkyo/shijiritsu/archive/2024/10_1.html「「衆議院選挙で投票先を選ぶ際に最も重視すること」は?」 を参照されたい。
(3)『社会契約論』からの引用は井上幸治訳(中公文庫版)による。
(4)ただし、ルソーによれば「だからといって人民の決議が常に同じように公正であるということにはならない」のであり、「人は常に自分の幸福を望むのであるが、必ずしも幸福とはなんであるかがわかっているわけではない」。
また「全体意志と一般意志には、しばしば多くの差異がある。一般意志は共同利益にしか注意しないが、全体意志は私的利益を注意するもので、特殊意志の総和にすぎない」とも指摘している。
(5) ここで「討議する」と訳されているのはdélibéreであり、「決議」と訳されているのはdélibérationであるが、これらは、それぞれ、「熟議(熟慮)する」、「熟議(熟慮)」とも訳し得る。
ちなみに、東浩紀はこの箇所を「もし、人民が十分に情報を与えられて熟慮するとき、市民がたがいにいかなるコミュニケーションも取らないのであれば・・・、小さな差異が数多く集まり、結果としてつねに一般意志が生み出され、熟慮はつねによいものとなるであろう。」(『一般意志2.0』p.53)と訳している。
(6)拙文で「政党」というのはもっぱら「議会政党」のことであるが、「政治結社」一般については、「議会政党」とは区別して考察する必要がある点には留意を要する。
(7)「時事通信が10~13日に実施した[2023年]11月の世論調査で消費税減税の賛否を尋ねたところ、「賛成」が57.7%、「反対」が22.3%だった。「どちらとも言えない・分からない」は20.0%。
 支持政党別では、自民党支持層で賛成48.2%、反対33.9%。賛成は立憲民主党支持層で71.0%、日本維新の会支持層で58.5%。反対はいずれも22.6%だった。ほぼ全ての政党で賛成が反対を上回った。」( https://www.jiji.com/jc/article?k=2023111600808&g=pol による。但しこのURLは現在は削除されている模様。)
(8)物価上昇による生活の困難に対しての<しかるべき財政政策>に関しては、以下の拙論を参照されたい。
「世界の財政理論は“格差打破”へと転換している」
「財政政策の新たな可能性ーーサマーズ、ブランシャール、イエレンの提起ーーを考える(2)」
「財政政策の新たな可能性ーーサマーズ、ブランシャール、イエレンの提起ーーを考える(1)」
「24年春闘後も実質賃金の下落は続きそうだ――政治はどう対応すべきか。」
「実質賃金低下と消費増税に挟撃されて将来を失いつつある日本で、消費減税は有効な対策だ」
(9)ここからの議論は、ルソーの「一般意志」論よりも、むしろへーゲルの“der allgemeine Wille”に関する考察に基づいている。したがって以下で「一般意志」と記しているところは、「普遍意志」と表記すべきかもしれないが、“allgemeine”は「一般的」とも訳せることもあり、ここでは「一般意志」としておく。
(10)ヘーゲルによるルソーの「一般意志」論の批判的継承がどのようなものであるのかに関しては、以下の三つの論稿を参照されたい。
滝口清栄:『ヘーゲル『法「権利」の哲学』』「第四章 意志論と原法哲学の成立――ルソーの批判的継承」。
小井沼広嗣:『ヘーゲルの実践哲学構想』「第二章 陶冶論と普遍意志の構成」。
飯泉 佑介:『意識と〈我々〉』「第7章 世界を欠いた意識の関係」(初出は「普遍的世界の対象化:ヘーゲル『精神現象学』自己意識章の社会形成論的意義」)。
なお小井沼は、ルソーの「一般意志」とへーゲルの「普遍意志」の違いについて、次のように述べている。

「ルソーの説く「一般意志」は、社会の構成員の現実の意志には必ずしも還元されない理念性を帯びているが、あくまでも共同利益を志向する政治的意志として設定されている。一方、へーゲルの「普遍意志」は、最終的に「国民精神」と重ねられている点を鑑みるかぎり、政治的な国家のみならず、文化的・歴史的な共同体の意志としての広がりを有している。」(前掲書p.72)

(11) 私はトランプや斎藤元彦氏の勝利について自前で分析する能力を持ってはいないが、東浩紀の次の指摘は妥当ではないかと思う。

「トランプ候補の危うさは広く知られている。/にもかかわらず圧勝となったのは、民主党がそれ以上に忌避されたからだ。
近年の左派は気候変動やアイデンティティ政治など「意識の高い」政策に熱心で、足元の格差や貧困には冷淡だった。
今回の選挙結果は、そのような「金持ち左派」への幻滅が露呈したものだ/だとすれば、この敗北は米国だけの問題ではない。
現在の政治を動かしているのは、右傾化でも排外主義でもなく格差への怒りである。米民主党はその現実に鈍感だった。」

( https://dot.asahi.com/articles/-/240673?page=1「トランプ圧勝に『左派』への幻滅 構造変化の根本に『格差への怒り』」)
日本の場合も、リベラル・左派が<「意識の高い」政策に熱心で、足元の格差や貧困には冷淡である>と看做されるならば――言い換えると民衆の「一般意志」と乖離した政治課題を主要な争点にし続けるならばーー彼らは次の選挙で手ひどい敗北を被るのではないか。
 
(そうまちはる:公共空間X同人)
 
(pubspace-x12283,2024.12.05)