身体の所有(10) 身体論の整理

高橋一行

 
   このシリーズの最終回である。身体について、理論の整理をしておく。
   まずはヘーゲルの身体論において、他者の存在が重要な視点を与えるということを指摘したい。本稿の結論を先回りして言えば、身体が自己と他者を繋ぎ、またその他者が私の精神と身体を統一させる。ここでは『法哲学』の議論を参照して、そのことを確認したい。そののちにJ-P. サルトルの身体論を扱う。ここでも他者論が話の中心となる。その上で、M. メルロ=ポンティと廣松渉のサルトル批判を取り挙げる。その批判と彼らのサルトルの理論に代わる案が妥当なものかどうか、検討したい。
 
   ヘーゲルは身体について論じる際に、他者の重要性について、次のように言う(注1)。
   「身体は精神の意志ある器官となり、活気のある手段となるためには、まずもって精神によって占有取得されなければならない。だが他者にとっては、私は私が直接的に持っている私の身体において、本質的に一個の自由な者である」(48節)。
   「だが」という言葉で始まる後半部の文言が重要である。「他者にとっては」、私は私の身体において、私である。私が私であるのは、他者が私の身体を私だと認知してくれるからである。ここでは私の身体こそが、他者から見て私そのものであるということで、このことは当然、他者においても他者の身体こそが他者そのものであると私が思うだろうということになる。つまり身体が私と他者を繋いでいるのである。このことが指摘すべき第一点である。同時にここにはもうひとつ論点があり、それは他者が私の身体を私であると認識するということは、ここで他者によって、精神としての私と身体(物質)としての私が結ばれているということである。
   この文言はしかし、その前の文から続けて考え直さねばならない。前文で言われているのは、精神が身体を所有するということである。しかしその所有した身体によって、私は私であると他者から認知され、上で述べたように、そこから私の身体が私と他者を繋ぐことになり、さらにはその他者が私と私の身体を結び付ける。
   精神が身体を所有するとなると、これはデカルトの二元論の亡霊がまだヘーゲルまでは残っているのだと思われるかもしれない。しかし重要なのは、精神が身体を所有したあと、他者はその身体を以って私であるとする。ここにおいて、つまり他者から見て、私の身体と精神が統一される。これは精神と身体の二元論ではない。
   ここでヘーゲルの他者論をさらに展開したいのだが、そのために先にヘーゲルの所有論を書いておく(注2)。
   まずヘーゲルは『法哲学』で、所有の定義を三つ与える(53節)。所有とは物をまず占有取得し、次いでそれを使用し、そして最後に交換や売買を含めた譲渡をすることである。所有するというのは、一般にはまず、あるものを自分のものにすることだと思われている。それはそれで正しいのだけれども、重要なのは、さらにそれを使用することであるとヘーゲルは言う。使用しないものは所有してはならないということもここでは含意されている。かつヘーゲルにとって、最終的に所有とは、所有物を人に譲渡することである。
   このようにヘーゲルにおいて、所有の定義は三つあり、そしてヘーゲルが何かを三つ並べたときは、最後のものが一番重要なものだから、所有物を他人に譲渡するということが、所有の本質なのである。するとここで他者が必然的に要請される。何ものかを所有するということは、それを通じて他者との繋がりができるということなのである。
   またヘーゲルは所有の三つの定義をそれぞれ、肯定判断、否定判断、無限判断としている。所有するというのは、まずは自分のものにするということだし(肯定判断)、次に所有したものを使ってしまえば、自分のものでなくなる(否定判断)。そして最終的に所有というのは、人に譲渡すること、つまり所有しなくなってしまうことだというのである。この最後の無限判断がヘーゲルの論理の要である。無限判断というのは、正反対のものを結び付ける判断のことである。
   それは何かを所有しても、人に譲渡することが根本だという所有論である。ヘーゲルの論理は、何でもすべて自分の体系の中に取り込んでしまうものだと一般には考えられるが、自分のものは最終的に自分のものではなくなるということが、さらには人とモノが結び付けられることが所有だが、しかし最終的に人とモノとは結び付かず、自分の手を離れて、他人のものになってしまうことが意味されている。
   このような無限判断はヘーゲルの論理展開において、至るところで使われる。例えば今回の冒頭に書いたように、精神と身体は統一される。しかし統一されたと言っても、心身は時に齟齬をきたす。そもそも統一されるとは、この精神と身体のように統一し得ないもの、正反対のものを無理やり統一するということなのである。
   また私と他者も一体化して、私たちという集団を創るが、そこでも不和があり、しかし不和の原因となる異質なものを相互に抱えつつ、私と他者は結び付けられるのである。
   さて以上のようにヘーゲルの所有論をまとめた上で、今度は、人は身体をも所有するということを指摘したい。ここには以下のような機序がある。
   まず精神は身体を所有する。これは先に書いた通りである。さらにここから、ヘーゲルの労働論が始まる。精神にとって身体は先ず客体だが、今度はその客体としての身体が主体となって、自然に働き掛ける。自然という客体に対して、身体が主体となる。これが労働である。そしてそうして得られた生産物を私は所有する。
   ここで身体は客体であり、かつ主体でもある。その両者が統一されていると言っても良い。これが第一の論点である。またそのほかに、自己が身体を所有することから労働が始まり、労働生産物を所有するに至るということも言われている。身体の所有は所有の始まりである。これが精神としての私と身体と自然の関係である。私の身体は私から見れば客体だが、自然から見れば自然に働き掛ける主体である。
   この自然から見れば、身体は自然に迫ってくる主体だということは、それは身体が能動性を持つということである。精神は直接自然に関わる訳には行かないから、身体を使って自然に働き掛けるのだが、それは十分に身体を乗っ取って、そこに自らの意志を隅々まで行き渡らせるのである。まずはそういう構図を取る。
   しかしそのように、精神と身体の二元論的な分離を前提にしたような記述をしつつ、しかし両者は統一されていて、その限りで自然に働き掛けることができる(注3)。
   このように拙論をまとめた上で、再び加藤尚武の言うところを見ていきたい。加藤は『法哲学』の48節の他、40節と57節を挙げて、以下のように論じる。
   まず40節は次のような文言である。「人格は自分を自分と区別することによって、他の人格に対して振舞う。しかしどちらの人格もただ自分のものの所有者としてのみ、互いにとって、現存在を持っている。」
   所有というのは、自己を二分して、所有する主体と所有される客体に分けることである。ここで自己を自己から区別するというヘーゲルの良く使う論理が出てくる。自己が自己へ否定的に関係すると「論理学」で言われる論理である(例えば『小論理学』97節)。この内面的な自己と自己の区別が、外面的には自己と他者の区別になる。つまり上の文言の中の「自分のもの」とか、「互いにとって、現存在を持っている」というのは、身体を表していると考えれば、これは先の48節の文言にストレートに繋がる。つまり私は所有主体の私と所有される私の身体に二分される。他者もまた同じことが言えて、そのことによって、外面的に、つまりそれぞれ身体を持つものとして、私と他者は区別される。
   57節は以下の通りである。「自分の自己意識が自分を自由なものと捉えることによって、自分を占有取得し、自分自身の所有となり、他の人たちに対して自分のものとなる。」
   ここでも「他の人たちに対して」というのがポイントである。この所有される自己は身体に他ならず、つまり私は私の身体を所有するのだが、その所有は他者から見て遂行される。つまりここでは所有論から他者を導出している。
   先に述べたように、まず身体の所有が所有の根源であること、そして所有とは何かしらの自然物を自分のものにすることから始まるが、最終的にはそれを他者に売買・交換・譲渡するということにその本質があること、端的に言って、所有とは譲渡であるというのがヘーゲルの理論であった。
   このようにまとめると、上述のヘーゲルの記述と整合的になる。身体の所有が所有の根源であり、所有とは最終的に他者への譲渡に終わるのであれば、ここに必然的に他者が招聘される。私の身体は他者に開放され、私の身体が私と他者を繋ぐのである。
   加藤の簡潔な説明を引用して、以上のまとめをしたい(加藤)。
   まず所有は心身を分離する。つまり所有主体をイデア界に、所有の対象を感性界に定立する。また、私は私の身体を所有する。身体の所有があらゆる所有の根源となる。
   さて、ここまでは私とその所有物、精神としての私と身体としての私は二元論的に対立しているように見える。しかしここで先の、他者から見れば、私の身体が私そのものであるという文言が重要となる。私は私の身体を所有しているのだが、私の所有物は他者から見れば私の存在である。私の存在の最も具体的な在り方は他者にとっての私の存在である。私の自己意識における心身分離は、かくして他者を媒介して心身結合に至る。他者こそが所有によって分離した心身を統一する。
   デカルトの二元論的存在論では心身分離が他我の存在問題を解決不能に陥れていた。しかしヘーゲルは、デカルトから完全に自由である。ヘーゲルは心身問題と他我問題というデカルトの難問を解決している。正確には、ヘーゲルがデカルトの二元論を克服したのではなく、そもそもデカルトの二元論は克服されるものとして設定されている。それはそもそも虚像である。このように加藤は言う。
   さらに整理をする。拙論において、所有は他者への譲渡であり、ここに他者が出てくる。また労働する主体という観点において、身体を所有する精神と精神によって所有される身体とは統一されて、労働主体となって自然に働き掛ける。
   また加藤説では、身体の所有が所有の根源であり、そして他者から見て、所有する私と所有される私の身体とは統一される。
   今まで拙論を繰り替えし展開してきたが、今回この加藤説を拙論に接続させて、補強することができる。
 
   前回も取り挙げた市野川容孝は、身体には自己と他者を繋ぐという軸があり、かつ身体にはもうひとつ、精神と物質を繋ぐという軸もあるとしている(市野川)。
   このことはしかし、単にふたつの軸があるということではなく、ヘーゲルが述べているように、このふたつの軸を関連させていかねばならない。
   これはまず他者から見て、私の身体が私であり、また私から見れば、他者の身体が他者であるということで、ここでそれぞれの身体が私と他者を繋いでいるのだが、これは同時に、他者から見れば、物質としての私の身体が私の精神そのものであるように見えるということである。だから身体は、他者から見れば、物質と精神と両方を統一したものだと言うことができる。これが先のヘーゲル『法哲学』の解釈である。そして市野川ならふたつの軸があると言うのだが、加藤の言い方では、心身問題と他我問題を身体論が解決するということになる。
 
   ここからサルトル、メルロ=ポンティ、廣松の身体論に進む。
   まずサルトルに身体論があり、それが案外面白いことに気付かされる。「案外」とここで書くのは、私が物心が付いてから、ずっと実存主義は馬鹿にされてきているのだが、実はそんなにひどいものではないと思うからである。構造主義が出てきて、ポストモダンが出てきて、さらにそのポストモダンさえ批判されるとき、実存主義があらためて問い質されるとは誰も思わないかもしれないが、しかしその身体論には見るべきものがある。
   さらにそれは、上述のヘーゲル身体論と良く似ているようにも思う。結論を先に書いておけば、実は両者はまったく異なるのだが、その発想において、関心事は共有されている。
   実際に見ていきたい。サルトルの大部の著作の『存在と無』は三巻本で、第三部は「対他存在」という題で、その中の第一章が「他者の存在」であり、第二章が「身体」である。
   第一章では「まなざし」について、サルトルはひとつの節を設けて論じている。
   「いかなる瞬間にも、他者は、私にまなざしを向けている」とサルトルは書く。私が「他者によって見られているということは、他者を見ていることの真理である」。
   私が存在し、また他者も意識を持った存在としてあるというところから出発するのではなく、私は他者から見られているということにおいて存在する。「他者にとって」という関係性において私が存在することを、対他存在と呼ぶ。
   さて私は対他存在であると同時に、身体を持つものとして対自存在でもある。ここで身体があらためて問われ、先の対他存在としての身体ではなく、対自存在としての身体が議論される。すでに『存在と無』の第二部で、対自存在については十分な議論がされている。「対自」の意味については、このあとで詳述するが、とりあえず「主体的な」という意味で了解してほしい。この主体性がサルトルの議論のひとつの論点になるのだが、ここではその議論は省略して、身体論のみを追ってみたい。身体はここで、私によって「超出されるもの」(サルトル II-p.235)であり、私を根拠付けるものである。
   するとここで対他存在としての身体と対自存在としての身体が出てくることになる。そしてさらにそこから、次の段階の身体が論じられるのだが、それらを順に整理すると、まずはI「対自存在としての身体」があり、次いでII「対他存在としての身体」があり、その両者から、その次にIII「身体の第三の存在論的次元」があるとサルトルは論じるのである。
   この三つはどういうことか。
   まず「私は私の身体を存在する」というのが、第一の存在次元である。事実として身体が世界内存在するということであり、身体の主体性が論じられる。対自としての私は身体を対象化できないとされている。
   次いで私の身体は他者によって利用され、認識される。これが第二の存在的次元である。私は他者にとって存在する限りで、他者は主観であり、私は対象である。それゆえ、私は他者によって認識されるものとして存在する。
   さらに私は私にとって、身体という資格で他者によって認識されるものとして存在する。これが第三の存在論的次元である(同 p.339)。
   ここで「身体を存在する」という言い方は日本語として成り立つのかと問われるべきである。フランス語原文は、J’existe mon corpsであり、「存在する」という意味のexisterは自動詞であるが、サルトルはそれを他動詞として用いている。身体を物質と考えて、それを主体が所有するという風に考えられているのではない。ここでは身体の能動性が意味されている。
   それから他者の存在が議論され、まなざしという観点が導入される。それが対他存在としての身体である。その上でこの両者が結び付けられて、他者のもとで、身体を持つものとして私は存在するということになる。
   この限りでこれは結構まともな身体論だと私は思う。身体を論じるのに、対他という観点を出しているのは注目すべきである。
   それは対自、対他、その両者の克服という順に論じられていて、一見すると、ヘーゲルの議論とよく似ているようである。しかし結論を先に書いておけば、実はヘーゲルのそれとまったく異なる。以下、そのことを書く。
   ここでメルロ=ポンティを取り挙げる。というのも、彼は以上のサルトルの身体論を批判するからである。それがどのようなものであるかということを見ていくことで、サルトル身体論の整理ができるだろう。
   メルロ=ポンティの初期の主著『行動の構造』の「序文」は、A. ドゥ・ヴァーレンが書いており、そのサルトル批判は簡潔である。つまり、サルトルは、対自としての身体と対他としての身体という区別をしたが、しかしそれは即自と対自の対立を強調し、思惟と延長のデカルト的二元論を強化したと言うのである。実はこの文言にメルロ=ポンティのサルトル批判が集約されている。これはどういうことなのか。
   このことについて、メルロ=ポンティ自身は、例えば『知覚の現象学』で次のように言う(注4)。私たちは今までデカルトに倣って、身体と精神を分離して考えてきた。しかし私たちは身体を認識するためには、「自らそれを生きること」が必要である。「私とは私の身体である」(1.p.324ff.)。
   またサルトルを批判してメルロ=ポンティは、「私は私の身体によってこそ、他者を了解するのであり、それはちょうど、私が私の身体によってこそ、物を知覚するのと同じである」と言う。また他者の所作の意味は、「その所作が描き出している世界の構造、そしてやがて今度は私の方で捉え直すことになる世界の構造と混じり合っている」と言う(1.p.305)。
   さらには、「私が身体を持っているということは、私が一対象として見られることができること、しかも私は主体として見られることを求めていること、他者は私の主人または奴隷となり得ること」(1-p.276)とも言う。
   ここでメルロ=ポンティにとって、身体を媒介に私と他者が繋がれるのだが、それはサルトルのように二元論的にではなく、両者が合わさってひとつのシステムになるのである。「他者の身体と私の身体もただひとつの全体をなし、ただひとつの現象の表裏となる」(1-p.218)。
   そうするとメルロ=ポンティにとっての対自と対他の関係が、サルトルのそれと異なっているということが明確になる。
   メルロ=ポンティは、「対自すなわち私にとっての私と、他者自身にとっての他者は、対他すなわち他者にとっての私と、私自身にとっての他者という地から浮き上がってくるのでなくてはならない」と言う(1-p.363)。そこから彼は相互主観性、世界内存在という言葉使いをする。
   サルトルの場合は、対自と対他が並列に並べられ、それは対自と即自の二元論であり、それが精神と物質の二元論に繋がり、自我と他我の分離になる。それをメルロ=ポンティは批判するということになる。
   問題は、サルトルの言う対他は即自なのだということである。他者が私にまなざしを向けているとき、私は他者に見られる対象であり、これが対他存在なのだが、それは同時に即自なのだということである。使い方としてはこういうことだ。つまり対他=即自であり、これが対自と二元論的に対立する。
   以下、この即自、対他、対自の定義を明確にしておく。
   まずヘーゲルは「論理学」を使う。ヘーゲルにとって、即自(an sich)と対自(für sich)、対他(für anderes)は次のようになる。即自は、未発展、潜在態、無自覚態という意味である。概念がまだ自己の内に留まり、潜在的には自己の発展の萌芽を含んでいるのだが、その時点ではまだ抽象的自己同一性を保つ状態となっている。そしてその即自が他者と交渉し、そこで自己の自立性を失えば、対他となる。さらにこの対他がさらに自己を取り戻せば、対自となる。それは自立的つまり独立的で、自覚的かつ顕在的という意味がある。
   『小論理学』を見ておく。存在論の最初のカテゴリーは質であり、その冒頭に、「存在は即自的に過ぎない概念である」とある(84節)。つまりこの最初の段階の存在が即自存在なのだが、この存在が他と関係すると、それは対他存在となる(91節)。質という存在の他のものへの関係の側面である。ヘーゲルにおいて、このように他と関係することは、否定と呼ばれる。この他との関わりからさらにこの他のもの他のものに関わるとき、そこに自己が復活して、対自存在が生まれる(95節)。このように説明される。
   一方サルトルにとって、即自(en soi)と対自(pour soi)、対他(pour autrui)は次のようになる。ここで『存在と無』の訳者による用語解説は有益だ。そこでは即自は「意識にとって存在するところの物の超現象的存在」とある。これはカントの物自体に近い。意識に対して、物の在り方を示す基本的用語である(p.549)。一方で対自は「意識の存在論的な構造を示す言葉」である(p.553)。これで理解が容易になる。サルトルにおいては、やはり即自と対自は二元論に対立しているのである。
   また対他存在は、これはヘーゲルと同じく、単に「他者に対して」とか、「他者にとって」ということに過ぎない。しかしサルトルの場合、対他存在は、他者から見た即自存在のことである。ヘーゲルにおいては、対他は、即自が対自になる過程に位置付けられるものなのに対し、サルトルは対他=即自となって、これが対自と対立する。
   対他身体とは、他者によってまなざしで見られる私の客観的存在のことである。対自身体とは、まなざしを意識しない対自が世界に関わるときに生きられている身体のことである。この両者は並べられて、一元化されないのである。
   ヘーゲルにとって即自は対自になるものであって、両者が対立するものではない。それは一元論以外の何物でもない。しかし世間は、サルトルはヘーゲルの影響を受けて、二元論に留まったと考えているのではないか。一方で私は、サルトルはヘーゲルの用語を使っているので、二元論に見えず、なぜ世間がサルトルを二元論だと言うのか分からなかった。今ここで明確に言うべきである。ヘーゲルは一元論でサルトルは二元論だと。
   ここでさらに話を整理するために、廣松渉を出す。廣松は港道隆との共著『メルロ=ポンティ』の中で、まずこのメルロ=ポンティのサルトル批判を紹介した上で、今度はメルロ=ポンティを批判する。
   廣松は言う。「メルロ=ポンティとしては、サルトルのごとき「即自」と「対自」の二元論的峻別を退け、「即自と対自との総合」を企てる(廣松1983 p.202)。
   まず廣松はサルトルを徹底的に批判する。以下、その批判の論点を確認する。
   次いで廣松はメルロ=ポンティに対しては、メルロ=ポンティがサルトルを乗り越えようとしている点では評価しつつも、まだまだそれが不十分であるという風に批判する。具体的には、メルロ=ポンティがまず『行動の構造』において、サルトルの方法論を批判し、『知覚の現象学』において、身体論を展開することによって、サルトルを乗り越えているとしている。そのことは評価されるべきなのだが、廣松はさらにその物足りなさを指摘する。
   廣松は、サルトルは対自-対他の区別をし、そのことは評価できるが、しかしそれは即自と対自のデカルト的二元論であると明確に言う。『世界の共同主観的存在構造』のII-1「共同主観性の存在論的基礎」の第1節では、この身体と他者の関係が論じられている。そしてそれに続く第2節は丸々サルトル批判である。
   廣松は、サルトルの言う対他存在を次のように批判する。先の「まなざし」論を念頭に、サルトルにおいては、人から見られる際の私は即自であるということになる。即自については、先に詳述したように、これは単に対象として物のように見なされるという意味である。サルトルにおいて、他者から見られた私は、他者にとって単なる対象であり、これが即自なのである。
   ここで廣松は次のような例を挙げる。つまり見張り番をしている人が、ついうっかりうたた寝をしてしまい、しかし突然、人目を感じて我に返ったとする。その際にその見張り番は、本当は見張りという仕事中なのだから、自らの役柄を自覚して、慌てて我に返ったということになる。明確な意識は事後的に現れるとしても、まず当人は、自分の見張り番としての役柄を遂行すべき自分を感じているはずである。
   ところがサルトルの議論では、人は他人から見られる、つまり被視的存在として、身体的自己の即自的在り方のみを議論することになる。しかし役柄存在の自己は、被視存在の自己とは異なるはずである。人は社会の中で役柄を持って存在しており、その意識は、反省的に自らを考える時だけでなく、この、うっかりうたた寝をして、はっとして我に返ったというような場面でも出てくるはずである。
   つまりサルトルの対他は即自だということは、事実の問題として異なるのではないかと廣松は言う。
   廣松から見て、サルトルの対他存在は、即自・対自二元論に定位したひとつの即自存在として規定されていると言い、その不十分さを指摘し、そこから上述のように、廣松理論の役柄存在、被視存在という考え方で以って、それを入れ替える。
   廣松理論においては、人も物も、それぞれがまず存在して、そののちに社会的な意味付けがされるというのではなく、意識は本源的に社会化され、共同主観化されているということ、私たちは現象世界を受け止めるときに、そのままで受け止めるのではなく、常に意味付けされたものとして受け止めているのだということになる。これが廣松哲学からのサルトル批判になる。
   さらに廣松理論から見て、メルロ=ポンティは、サルトルのレベルは越えているのだが、しかしまだその理論は不十分かつ抽象的であるということになる。先に引用をした、メルロ=ポンティの「私が身体を持っているということは、私が一対象として見られること、主体として見られることを求めていること」と「他人の身体と私の身体は単一の全体をなす」という文言を挙げて、廣松は自説を出しつつ、このメルロ=ポンティ批判を始める。
   例えば以前取り挙げた幻影肢において、腕を事故か何かで失った人にとって、身体の現在と、記憶の中においてかつて存在した身体のイメージを持っている精神と、その両者の齟齬が痛みを生む(注5)。その際に廣松が言うには、「体験的身体はごく日常的に皮膚的限界を超えて膨縮する」はずなのに、メルロ=ポンティはこの実存的身体の膨張や収縮を認めないと断言する(p.205f.)。つまり精神にとって、かつて存在していた指先までが自らの腕であるのなら、それがその人の身体であると言って良いのに、メルロ=ポンティはそうは言わないのである。
   廣松が出す例では、指先がトゲに触れている場合、指先の一状態の感知とトゲの一状態の感知とを区別できないのではないかということである(廣松1983 p.208、及び廣松1972 p.139)。痛みを感じる身体と痛みを与える物体との二元論ではなく、両者の区別はできず、その根底にあるのは膨張・収縮する身体だという指摘がメルロ=ポンティにはないと言うべきなのである。つまりメルロ=ポンティは二元論の克服を目指しつつも、不十分であるというのが廣松の指摘である。
   私の例を挙げれば、居合で刀を振りかざすとき、刃先が今どの位置にあって、どの方向に向かっているかということは、目をつぶっていても分かる。つまり刀は道具ではなく、私の身体の一部なのである。刃先まで私の身体は伸びているということである。
   もうひとつの廣松の指摘は、とりわけ対他的身体に関するメルロ=ポンティの指摘は抽象的で、具体性に欠けるというものである。
   それは先にサルトル批判で上げた例と同じく、つまり見張りという役割を持っているのに、うたた寝をしてしまった人と、それを咎める人との関係である。私が他者から見られる際、そこにあるのは私と他者という抽象的なものではなく、具体的に私も他者も社会的役割を持ち、両者の間には何か共に行動をするといった実践的な場ができている。そういう具体的性が重要である。私と他者が一体となったシステムをなしているというメルロ=ポンティの指摘は、サルトル批判としては十分だが、身体の役割の考察としては不十分なのである。さらにそのシステムの社会的役割まで問われるべきである。
 
   以下はまとめである。
   デカルトからヘーゲルへの流れを、つまり二元論の克服という哲学史の流れを、もう一度、サルトルとメルロ=ポンティが繰り返しているように私には思われる。廣松はそのことを指摘し、さらにメルロ=ポンティを補強する。
   ヘーゲルにおいては、身体を所有し、心身は分離し、所有から他者が招聘され、その他者は私の心身を統一する。また私の身体が他者から見て私そのものであるということは、身体が他者と私を繋ぐということである。
   こういう理解がサルトルにおいてはまったく異なる。身体論において、対他という観点を提出し得たのだが、その際に自己意識としての対自存在と、相手を物と見ている対他存在は二元論的に対立している。
   そのことをメルロ=ポンティは批判し、さらに廣松もその批判を徹底する。
   今回、ヘーゲルとサルトルの即自・対自理解が異なることが解明できたと思う。このことによって、サルトルの身体論の意義と限界は明瞭になったはずである。
 

1 加藤尚武から示唆を受けた。引用は加藤が引用するものである。
2 拙著所有論4部冊と、拙論「ヘーゲルの身体」を使う。
3 もうひとつ考えるべきは、精神と身体の関係において、身体の方が根源的であるとする論点である。これも私が繰り返しているが、進化論的には自然が精神を生んだのである。ここからも自然と精神は一元論的に考えられる。
4 メルロ=ポンティの引用に際し、廣松1983を参照した。
5 「身体の所有(8) メタバース、または共有する身体(2)」( 2023/02/08)
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/9620
 
参考文献
市野川容孝『身体/生命』岩波書店、2000
加藤尚武「法における心身問題」(初出1986)『加藤尚武著作集第3巻』未来社、2018
サルトル,J-P., 『存在と無 I, II, III』松浪信三郎訳、筑摩書房、2007 – 2008
高橋一行『所有論』御茶の水書房、2010
—-   『知的所有論』御茶の水書房、2013
—-   『他者の所有』御茶の水書房、2014
—-   『所有しないということ』御茶の水書房、2017
—-   「ヘーゲルの身体論」『政経論叢』Vol.88, No.1,2, 2020
廣松渉『世界の共同主観的存在構造』勁草書房、1972
—-  「メルロ=ポンティと間主体性の哲学」『メルロ=ポンティ』廣松渉・港道隆、岩波書店、1983
ヘーゲル, G.W.F., 「法の哲学」『世界の名著44 ヘーゲル』藤野渉、赤沢正敏訳、中央公論社、1978
—-   『小論理学(上)(下)』松村和人訳、岩波書店、1951-1952
メルロ=ポンティ, M., 『行動の構造』滝浦静雄、木田元訳、みすず書房、1964
—-   『知覚の現象学 1, 2』竹内芳郎他訳、みすず書房、1967, 1974
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x9785,2023.04.07)