主体の論理(6) 否定性から出現する主体(1)

高橋一行

                                
   C. マラブーの『真ん中の部屋 ヘーゲルから脳科学まで』の第2章は、フランスにおけるヘーゲル受容がテーマである。それは、ハイデガーによって開かれ、J. イポリット、A. コイレ、A. コジェーブによって織り成されたヘーゲル哲学の注釈の系譜学であるとマラブーは言う。つまり彼ら3人はフランスにヘーゲルを伝えたが、それは最初からハイデガーによって解釈されたヘーゲルであったということである。
   マラブーは問う。ヘーゲルには、時間性、正確に言うと未来への問いがあるのだろうか。あるいはその反対で、あらゆる超越性を解消する閉鎖的な体系しかないのだろうか。
   マラブーはイポリットの分析から始める。ヘーゲルの中にふたつの読解があり、それを和解させられるかというのがイポリットの課題である。それは歴史哲学と絶対知という二重性である。時間性と永遠性と言い換えても良い。イポリットはヘーゲルにふたつの方向を見る。
   コイレは、このふたつの傾向に歴史的弁証法と神学的弁証法という表現を与える。否定と超越に力点を置く読解と、歴史が停止し、概念の非時間性が前提となる読み方のふたつである。言い換えれば、永遠に未完成としての時間と時間の停止としての死=絶対知である。またそれは否定性の持つふたつの意義に対応させられる。つまりひとつは、否定性が現前の不安を構造化し、超越のエコノミーを展開する。もうひとつは、否定性が論理的な意味を持ち、弁証法的な過程はその総体において、非時間性を前提とする。
   コジェーブは、以上のふたりの問題意識を受けて、ヘーゲルが念頭に置く時間は、歴史的で未来が優位に立っている時間であると考え、このようにヘーゲルを解釈することで、もうひとつの解釈、つまりヘーゲルが論理的な過程、すなわち絶対知を重視していることとを結び付ける。コジェーブは、ヘーゲルにおける未来と差異性の力を思考しようとして、しかし同時に、時間の終わりとしての絶対知を認めている。ここにハイデガーのヘーゲル解釈の二重性、つまり本来的な時間化の運動と未来の終結の両方が認められる。
   上述のように、この3人の主張をまとめた上で、彼らに対してマラブーは次のような批判をする。彼らはまず、歴史的な時間性と論理的な永遠という対の、その形成過程を問わない。つまり前者の未来の優位は、ヘーゲルの考えではなく、ハイデガーのものなのに、彼ら3人はそのことを明確にしていない。つまり前者の考え方はハイデガーがヘーゲルを解釈する際に自らの思想を持ち込んだものなのであるのだが、彼らはそのように理解していないのである。これが第一点である。
   またこの時間は通俗的な時間であり、ハイデガーが主張する、到来するものと主体が関係付けられるという性格のもの、または超越という自己の外に脱しようという運動ではない。さらには意識と人間を同一視して、その思想を人間主義的に還元しているとマラブーは批判する。つまり彼ら3人のハイデガーの理解は不十分だというのである。しかし私は本稿で、ハイデガーの理論を解明することを目的としていないので、この点については、これ以上は踏み込まない。ただマラブーの目から見れば、そのハイデガー理解は物足りないのだが、しかしとにかく彼ら3人はハイデガーによって脱構築されたヘーゲル解釈をフランスに持ち込んだのである。
   マラブーの読み込むハイデガーのヘーゲル解釈は以下のようになる。まずハイデガーはふたつのタイプのヘーゲル読解を示している。それは一方では本来的な時間化であり、他方は未来の終結である。そのふたつの読解の亀裂がヘーゲルにおいて浮き彫りになる。それは言い換えれば、本源的な有限性にその場を持つ存在論的な理解と、抽象的で形式的な論理的理解ということになる。ヘーゲルの弁証法は、ふたつの和解し得ない方向から成り立っていて、その分裂、和解し得ない対立の論理を明確にしなければならないとマラブーは言う。
   ここで3者が主張するヘーゲルの二重性は、ハイデガーの解釈から得られるものだというマラブーの主張は明解だが、しかし前者がハイデガー哲学で、後者がヘーゲルそのものだというほど簡単な話ではない。ハイデガーが、後者の、一般的に解釈されたヘーゲル像に自らの思想を織り込んで、前者の像を作り上げ、その結果ヘーゲルの二重性を作っているのである。つまり後者のヘーゲルを脱構築して前者の像が得られるのだが、その脱構築をしたのはまさにハイデガーで、その正確な由来を知らなければならないとマラブーは言うのである。
   マラブーの説明を聞いて、コイレについては翻訳がされたのは最近のことで、私もコイレを読んだのはその翻訳を通してのことなのだが、イポリットとコジェーブについては、ずいぶん早くから読んで来て、この分かりにくさは何だろうと思っていた。マラブーの説明を聞いて納得する。それは私がハイデガーに馴染んでいなかったためだったのである。またそれはマラブーのヘーゲル論にもあてはまる、と言うより、マラブーこそ最もハイデガーに媒介されたヘーゲルを論じており、私には感覚的に良く分からないという感じを与えていたのである(注1)。
   まず3人に以上のことを直接確かめてみたい。
   コジェーブ『ヘーゲル読解入門』から読み始める。彼はハイデガーの著作が公刊されていなかったら、『精神現象学』はまったく把握されなかったであろう(コジェーブ1987 p.359)と言う。この文言を見つけたときは、衝撃的と言って良いくらいの驚きを私は覚える。今までの私のヘーゲル理解にハイデガーはまったく存在していなかったからだ。
   また『概念・時間・言説』では、コイレの『精神現象学』講義を受け継いで、コジェーブがソルボンヌでの講義を始めたが、それは好首尾を収めたと言い、その際に、「ハイデガーの『存在と時間』を読んでいなかったら、この講義を十分に活用できなかっただろう」と言う(コジェーブ2000 p.27f.)。
   一方イポリット『ヘーゲル精神現象学の生成と構造』の方はハイデガーへの言及は少ないのだが、しかしヘーゲルを説明するのに、ハイデガーを引用し(イポリット 下 p.285)、その注で、「ヘーゲルにおいては、否定性や分裂が存在しているが、それにもかかわらず和解が成立している」という点で、ハイデガーとヘーゲルのテキストはまったく異なると言っている。つまりヘーゲルにふたつの方向があるが、最終的には和解の方向が勝るというのである(同 下p.425)。こういうヘーゲル像がハイデガーとの比較で語られている。
   さらにコイレの訳者解説には、マラブーとコイレの差異が書かれている。つまり時間の解釈について、マラブーとコイレで少し異なる。マラブーは、コイレが分析するヘーゲルの時間はハイデガーの時間概念と異なると言っている。これはハイデガー自身が『存在と時間』の中で、ヘーゲルの時間を通俗的な時間であると断言していることを受けての話であろう(ハイデガー2013 第2編第6章82節)。だがコイレは、まさしくヘーゲルの論じる時間はハイデガーの時間と同じだと考えている。この点で、コイレはヘーゲルの中にハイデガーを読み込み過ぎているとマラブーに批判されることになる。読み込み過ぎかどうかはともかくとして、いずれにせよ、ヘーゲルの時間論を、ハイデガーを媒介して読み込んでいるのである。
   ここで、3人がハイデガーの影響を受けつつも、直接ヘーゲルの中に二重性を読み込もうとしているのに、マラブーは、その歴史性、時間性の方は完全にハイデガーのものであって、ヘーゲルのものではないと断言するのである。
   しかし以下、そのマラブーに対して私から反論をしたい。まず一方で歴史哲学があり、他方で絶対知に収斂するという方向があり、その対立し合う二重性がヘーゲルにある、ないしは本来的な時間化の運動と未来の終結という二分法があるのは確かだが、後者こそがヘーゲルの強調するところだというのは、ヘーゲルの絶対知の考え方を捉え損なっていないだろうか。そもそも運動と運動の止まった絶対知とふたつは別のものなのか。絶対知とは静止した状態になることではなく、永遠に運動をすることなのではないか。
   また実際に存在するものの運動は有限なもので、その認識は最終的には絶対知に終結するというのもヘーゲルの理解としてどうなのか。ヘーゲルにおいては、存在の運動と認識の運動は同じで、常にそれは運動を続けるものなのではないのか。
   つまり歴史性、時間性と絶対知の違いは、動的と静的の対比ではない。それは有限と無限の理解に関わるのだが、ヘーゲルにおいて、無限とは運動であり、生成である。そして絶対知は運動であり、永遠の運動である。このことは『精神現象学』だけの問題ではなく、「論理学」も含めて、ヘーゲルの体系全体にとっての問題である。
   さらに日本のヘーゲル研究においては、ヘーゲルの論理に歴史性と総体性を強調するという二面があり、前者をマルクスが重視し、その結果、ヘーゲルに中に前者を見出すという読み方がされて来たのではなかったか。
 
   ここでそのことを確かめるために、マラブーを参照しつつ、実際にハイデガーのヘーゲル解釈を読んで行こう。ハイデガーは、結構多くの本の中でヘーゲルに言及している。それを逐一追うことはここではできず、今回は以下を使う(注2)。
   マラブーは次のハイデガーの文言に着目する。それはハイデガーの「ヘーゲルの経験概念」(『杣径 ハイデガー全集 第5巻』所収)に見られるものだ。この論稿は、『精神現象学』の「緒論」、すなわち最初の章である「意識」における方法論を記述する箇所を扱う。その短い文章をハイデガーは詳細に分析する。まずハイデガーは、「絶対的なものが我々のもとにあり、かつあることを意志する」という文言を強調する。そしてこれを「絶対的なもののパルーシア」(ハイデガー1988 p.153)と言う。パルーシアは「臨在」と訳されるのだが、それは現前(Anwesenheit)のことだと言って良い。ハイデガーは、『存在と時間』でもパルーシア概念を活用している。これは彼の哲学を説明するキーワードである(ハイデガー2013 序論第2章第6節 p.164ff.)。
   マラブーは、『存在と時間』ではヘーゲル主義は未来の終結として解釈されており、ハイデガーは基本的にヘーゲルをそのように読んでいるのだが、しかしここでハイデガーはパルーシアを持ち込むことで、ヘーゲルに時間化の運動を認めようとしているとする(マラブー p.45ff.)。さらにマラブーはパルーシアを、「真理の主体的な地平」、「未来の事前の明け」、「出来事の可能性そのもの」とも言う(同 p.46)。
   マラブーが先に引用した個所に黒崎剛も着目している。しかし彼の解釈は先のマラブーのそれとまったく異なっている。黒崎は『精神現象学』を詳細に分析した上で、以下のようにハイデガー引用する。まず、ハイデガーの「ヘーゲルの経験概念」から、先のマラブーの引用と同じ個所を参照する。さらに続けて、次の箇所も引用する。「現象学とは、精神が自分のパルーシアとの間で行う対談という対話の自己集成である」(ハイデガー1988 p.225)。また「精神の現象学は絶対的なもののパルーシアである。パルーシアとは存在するものの存在である。…絶対的なものの「我々のもとにある」ということが支配している限り、我々はすでにパルーシアのなかにある」(同 p.229f.)という文言も引用する。
   ここでハイデガーは、「絶対的なものの意志」が「自然的な意志」を引っ張って行くという風にヘーゲルを読んでいるのだと黒崎は考える。ハイデガーにおいては、絶対的なパルーシアがすでにあって、それと即自的な意識とが相互作用をすると考えられる。意識は「その運動が目的、すなわち絶対的なものの意志の強制力から規定されているところの歩み」を辿るのである(同 p.186)。
   ここのところで、つまりパルーシアについて、黒崎とマラブーで解釈が正反対になる。黒崎は、ヘーゲルの叙述では、このあと詳述するように、意識と対象が相互作用をし、さらに対象が二重化して自らの内に吟味の尺度を持ち、そのことによって意識と対象が進展するのだが、つまりヘーゲルは有限の運動をここで強調しているのに、そこにハイデガーはパルーシアを持ち込んで、絶対化していると批判する。
   ここでもヘーゲルの二重性が問われている。ハイデガーは、絶対知に収斂してしまうヘーゲルに何とか時間化をもたらそうと、パルーシア概念を導入して、ヘーゲルを解釈しているのだと、マラブーは考える。つまりマラブーの解釈するハイデガーは、パルーシアを単純に絶対知だと考えるのではなく、そこに未来性を見出して、絶対知に収斂してしまうヘーゲルを脱構築する。
   しかし黒崎は、そもそもヘーゲルを読めば、そこで絶対知が支配している訳ではないということはすぐに分かるのに、ハイデガーはパルーシア概念を使って、そちらの方に持って行ってしまうと批判する。
   ヘーゲルがそもそも二重性を持っているのである。ハイデガーは、ヘーゲル哲学は最終的には絶対知に収斂してしまうのだが、そこにパルーシアという自らの思想を持ち込んで解釈し、未来に切り開かれるヘーゲル像を提出する。しかし黒崎によれば、ヘーゲル自らは「意識」の章で、意識と対象の運動に即して論理を進展させているのに、ハイデガーはそこにパルーシアという絶対知を持ち込んでしまう。ヘーゲルに即して解釈すれば、絶対知に導かれるのではなく、意識と対象自身の運動が考察されているはずである。
   
   さらに『精神現象学』について説明する必要がある。目次を見る。まず意識が対象であり、それが自己意識となり、さらに理性を経て、精神となり、最終的には絶対知になる。まずそういう目次を頭に入れておく。
   「意識」の章から見て行く。ここは全面的に黒崎の説明に依拠するということを申し添えておく。ここでは、「感覚的確信、あるいはこのものと思い込み」、「知覚、あるいはものと錯覚」「力と悟性、現象と超感覚的世界」と3段階で進んで行く。
   ここで最初に確認すべきは、意識とその対象とがともに進んで行くという構造になっているということである。意識と存在の同一性が、ここにおけるテーマである。意識は自らを分析することで、自らの中に自らの対象が内在していることを確信している。それを解明することで、自らを超えて行くのである。
   第二に、意識が対象を吟味するのだが、その吟味が正しいことを確証する尺度が必要になる。この尺度はどこから得られるのか。
   まず意識とは対象と自己とを結び付けるものである。それは同時に、意識が対象から独立していることを前提にしている。対象には、知として意識と結び付くという側面と、意識から独立しているという面と、二重性がある。ここで自体存在(Ansichsein)という考え方をヘーゲルは提出する。意識に関係付けられる存在と、意識の外にある存在とふたつがある。後者を自体存在と呼ぶのである。そしてこの自体存在が意識と対象が合致するかどうかを決める尺度となる。
   ただ単に、意識と対象が合致するかどうかということが問題になるのではない。もしそうなら、その場合、意識と対象が合致するかどうかを判断する尺度は、超越論的に意識の外にあることになる。しかしヘーゲルの記述では、意識の中に、対象への知とその真理性を吟味する尺度とふたつがあり、そのふたつの契機を比較するのである。すると意識の中にある知と尺度である対象がともに進展するということになる。
   このように意識の経験は運動する。意識と対象とが一致するとき、それは意識が意識を超える新たな視点を見出した時にほかならない。つまり知の真理性を吟味し、それは知の尺度である対象を吟味することであり、それは意識に対して現れた対象が概念としての自体存在であることと一致するかの吟味である。このようにして意識が知と対象の運動を経て、再び意識に戻って来ると、今度はそこに新しい対象が発生している。意識が真理性を獲得したときに、その意識は新たな対象を求める。つまり新たな意識は対象を新たに変え、新たな対象が今度は意識に迫って来る。意識と対象はこのような相互運動をするのである。
   『精神現象学』の方法論においては、尺度が自ら変わって行くのである。マラブー式に言えば、超越論的であるはずの尺度もまた変化するのである。この時点で、絶対知を持ち込む必要はまったくない。意識と対象に任せておけば、事態は進展する。
   その後は、意識は自己意識となる。「意識」の最後の段階で、意識は現象とその法則である内なるものとを対象とするのだが、ここでこの3者が連結する。つまり意識と対象、思考と存在の同一性が姿を現す。この同一性が無限性である。ここで意識は対象が自己構造を備えていることに気付き、自らも自己意識となる。
   その後この自己意識は、自己関係的な思考をしつつ、他者との相互承認を経て、理性となる。この理性はさらに、対象が自らの存立根拠になっている共同の世界であることが理解されると精神になる。精神は対象性を克服して、つまり自己意識は対象意識ではなく、自分が自己意識であることを完全に自覚して、絶対知に至る。その際に、ここは黒崎が簡潔にまとめているのだが、無限性、無限判断、推理というトリアーデが出て来て、無限判断で分割された意識と対象が、推理的に連結されて、絶対知に至るのである。かくして絶対知が成立する。そしてこの絶対知をどう解釈するかということが問題になるのである。
   『精神現象学』の前半の「意識」の章(全体の分量から言うと1割強)の原理は、意識と対象があり、また対象は二分化され、その結果、尺度を自らの内に持っていることである。そのあとは「自己意識」の章(全体の1割程度)になる。そこで対象は自己になり、無限性が生じる。さらに「理性」から「絶対知」まで(分量は8割弱)が論じられる。
   この『精神現象学』の後半の原理は、つまり理性の運動を駆動するのは、無限性、無限判断、推理のトリアーデである(黒崎 p.513)。ここでは無限判断論が重要な概念である。無限判断論は、ジジェクの十八番とも呼べる概念である(注3)。黒崎とジジェク、及び私においては、この無限判断が意味するところが異なっている。しかしその差異はここでのテーマとはせず、以下のことだけを言っておく。
   つまり『精神現象学』の無限判断は、対立する二項を無理やり結び付けるものである。その強引な結び付きをジジェクは重視する。それが「論理学」では、推理論的に三項が連結され、つまり対立する二項に媒介項が加わり、その媒介項のために、連結が十分な根拠を持ってなされるということになる。しかし黒崎は『精神現象学』においても、推理論的連結がなされていると言う。つまり媒介項が働き、連結は十分な必然性を伴ってなされる。私はしかし逆に、「論理学」でも三項になったとは言え、対立する二項は無理やり結び付けられていると思う。媒介があろうがなかろうが、変わらない。つまり『精神現象学』と「論理学」の発想は変わらないのである。
   このことは、『精神現象学』において、対立する二項が止揚されて絶対知に至るのだけれども、そこで運動は終わるのではなく、続けられるのだと解釈されることになる。「論理学」においても、媒介の止揚によって、絶対理念に至るのだけれども、しかし対立を克服しようとする運動は続けられているのである。
   ここで絶対知ないしは絶対理念、及びそれらはいずれも無限と称されるのだが、それらをどう解釈するかという、ヘーゲル解釈の根本が問われることになる。ここでの仮の結論として、絶対知は運動であり、それは永遠の運動であると言っておく。そしてまた無限は運動であり、生成であると言っておく。このことは次回ヘーゲルの否定性概念について説明し、それによって如何にして無限が生まれるのかということが十分説明されれば、納得してもらえると思う。ここで言いたいのは、この否定性こそがヘーゲルの論理だということである。
 
   もうひとつの論点として書いておくべきは、『精神現象学』の「緒論」と「序文」の違いである(黒崎 p.472)。
   「緒言」は意識の経験を叙述するものである。それは有限な意識が、その意識に現象して来る対象と相互に進展し、そのことによって、意識の無限構造を明らかにし、存在学を位置付ける。それに対して、「序言」は理性が対象の無限性構造を自覚して、絶対知に至る過程、つまり精神の現象学を叙述する。そこでは完成された統体性が議論されている。
   黒崎は、この両者の方法論が矛盾していることを、「意識-対象の相関関係を超えた絶対知の立場からの認識を求めたヘーゲルの試みが破綻したことを示している」とし(同 p.474)、またハイデガーのパルーシア論は、「緒論」を現象学的に解釈することによって、「序文」の思想、つまり意識と対象の分裂は絶対知の境地で解消され、現象する絶対的なものを追えばそれで良いとする考えと接合させたものだと言う(同 p.611)。
   つまりヘーゲルの中に、ふたつの対立する考え方がある。ハイデガーのヘーゲル解釈は、「序文」の立場から「緒論」の意識経験学を解釈しようとするものであり、すなわち『精神現象学』は、完成された絶対的なものが世界に対して自己を啓示する神学であるという立場を作り出したとしている(同 p.612)。
   すると先のマラブーの言い分と繋ぎ合わせれば、ハイデガーは、ヘーゲル『精神現象学』は、絶対知による神学であるという解釈で固定しておいて、そこに自らの考えを混ぜて、未来に開かれた像をもうひとつのヘーゲル像として対置するということになる。しかし本来ヘーゲルが二重性を持っていたということは忘れられてしまう。
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   ヘーゲルの二重性というのは、『精神現象学』の読解に限らず、研究者の間ではしばしば指摘されているものだ。
   許萬元は、ヘーゲルの弁証法は、その特徴として内在性、歴史性、総体性の三点があると言う(許 第二篇)。
   内在性は分かるだろう。先の『精神現象学』の「意識」の章における意識と対象の進展を考えても良いし、「論理学」のカテゴリーの移行を思い出しても良い。事物や認識の進展は、内在的な矛盾が自ずと現れて、それに対処することによって、次の段階に進むのである。
   また歴史主義的見地とは、この内在的手法が徹底されたものである。この見地の重要性は特にここで詳述するまでもなく、ヘーゲルにとっては有限なものはすべて変化するものとして、歴史的な存在なのである。
   問題は最後の総体性である。確かにヘーゲルは、体系を完成させると、歴史的な見地が克服されて絶対的な総合に達すると、自らの哲学を規定する。通常ヘーゲル哲学はそのように考えられているし、ヘーゲルの文言を読めば、実際にその通りなのである。
   しかしまず、この内在性、歴史性、総合性の3つは、方法論として考えると、内在的方法を前提にして、歴史的方法と総体主義的な方法とが統一されたものである(許 p.154)。そしてそこに理論と実践という観点を加えると、歴史主義は実践を重視し、総体主義は理論を最終的には重視するという立場になる。ヘーゲルの立場は後者であるのだが、前者の立場に立つのがマルクスである(同 p.178)。ただここで注意しなければならないのは、ヘーゲルは最終的に総体主義、理論重視になるとはいえ、その叙述に満ち溢れているのは、歴史主義的、実践重視の立場であり、それこそがマルクスがヘーゲルから学んだものなのである。
   これは世間で言われるように、ヘーゲルの観念論とマルクスの唯物論は正反対であるとか、発想がまるで異なるというものではなく、後者はほんの少し前者の力点をずらしたに過ぎないと言うべきものである。
   ここで私が1972年に出版された許萬元の本を敢えて出したのは、私がヘーゲルを読もうと思ったときに、最初に出会ったのが、この種の本だったからである(注4)。そこではマルクスの意義は、そのほとんどがヘーゲルに由来すると考えられている。
   そういう風にヘーゲルを読んでいると、歴史性の重視は当然の話であり、それこそがヘーゲル読解の魅力だと私は思って来たのである。
   黒崎もまたマルクスに影響を受け、マルクスが『精神現象学』を労働論として読んでいることに着目する(黒崎 p.651f.)。つまりマルクスに影響を受けて、ヘーゲル解釈をして来たことを明らかにしている。先にマラブーが言うところの、「未来に向けて」「歴史性」を重視するのは、マルクスによるヘーゲル受容の一番の重要なところである。
 
   今回はハイデガーに脱構築してもらわなくても、十分ヘーゲルは面白いという話である。『精神現象学』にしても、「論理学」においても、絶対知や絶対理念が、当事者の意識やカテゴリーを絶対知や絶対理念に向けて引っ張って行くのではなく、当事者がその都度、自らに対応する対象とともに運動し、その運動を通じて、次の段階に至るという仕組みを持っているからである。その運動を駆動するのが否定性である。そしてそこからもう一歩踏み込んで、さてそもそも絶対知や絶対理念、または無限に到達するというのはどういうことかということに迫りたい。そこでヘーゲルの否定概念を検討する。つまり次回は否定性というテーマが明確になる。さらにヘーゲルの論理においては、この否定性から主体性が出て来る。またマルクスなら、そこから労働する主体を導き出す。さらにマルクス主義者は、歴史における変革の主体性が出て来るとヘーゲルを読み込んで来た。そこにも否定性の論理がある。
 

(1)マラブーのヘーゲル論を以前私は扱っている。拙著『他者の所有』第5章を参照せよ。
(2)またさらにもう数冊を次回で使う。
(3)ジジェクは次回扱う。無限判断こそ、ジジェクの専売特許である。私はこの10年余り、口を開けば、この無限判断のことを言い続けて来た。このことをしかしハイデガーもコジェーブも言わないのである。もっとも、私はヘーゲルは脱構築しなくても良いと言ったのだが、しかし実際にはジジェクに示唆されて脱構築して来ており、そしてもしジジェクがハイデガーの影響を受けているとしたら、話は振り出しに戻ることになる。それが次回の課題である。
(4)「この種の」と言ったのは、マルクスの理論が全面的にヘーゲルに由来すると考える研究者は多いからである。一例として、許萬元の理論を高く評価している牧野紀之を挙げる。今回、『精神現象学』の訳は彼のものを使った。
 
参考文献
ハイデガー, M., 『存在と時間(1) – (4)』熊野純彦訳、岩波書店、2013
—– 『杣径 ハイデガー全集 第5巻』茅野良男訳、創文社、1988
ヘーゲル, G.W.F., 『精神現象学』牧野紀之訳、未知谷、2001
イポリット, J., 『ヘーゲル精神現象学の生成と構造(上)(下)』市倉宏祐訳、岩波書店、1972、1973
コジェーブ, A., 『ヘーゲル読解入門 『精神現象学』を読む』上妻精他訳、国文社、1987
—– 『時間・概念・言説 ヘーゲル<知の体系>改定の試み』三宅正純他訳、法政大学出版局、2000
コイレ, A., 「イェーナのヘーゲル 近年出版の「イェーナ体系構想」について」小原拓磨訳、『知のトポス』No.15, 2020
許萬元 『ヘーゲル弁証法の本質』青木書店、1972
黒崎剛 『ヘーゲル・未完の弁証法 「意識の経験の学」としての『精神現象学』の批判的研究』早稲田大学出版局、2012
マラブー, C., 『真ん中の部屋 ヘーゲルから脳科学まで』西山雄二他訳、月曜社、2021
高橋一行 『他者の所有』御茶の水書房、2014
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x8174,2021.06.28)