主体の論理(7) 否定性から出現する主体(2)

高橋一行

 
 
   木元裕亮は、ネットに膨大な量のジジェク論を展開している(注1)。木元の論稿は、ジジェクの多岐に亘る論点を追っているが、その中で注目すべきは、ジジェクとハイデガーの関係を論じた箇所である。第1部第3章「ジジェクとハイデガー ハイデゲリアンとしてのジジェク」を読んで行こう。
   まずジジェクは著作の随所でハイデガーに言及する。その参照の仕方にふたつのタイプがある。私は本連載の第4回で、『厄介なる主体』を、また第5回で『大義を忘れるな』を、そして今回、Less Than Nothingを引用するが、それらまとまったハイデガー論において、ジジェクはハイデガーを痛烈に批判する。そのために私は、ジジェクこそハイデガーの一番の論敵であると位置付けているのだが、しかし実はジジェクは、この3著のほかにもあちらこちらでハイデガーに言及する。それらは上述の3著のまとまったハイデガー論と違って、ごく短い言及なのだが、しかしその短い言及は、概ねハイデガーに好意的である。その落差は不思議なくらいである。
   木元はそこのところで、「さしあたりの印象」だと断った上で、「ジジェクはハイデガーに対して、明示的に立場取りを行おうとするときにはしばしば誤っており、他方でほんのついでといった形でハイデガーに言及するときに多く示唆的である」と言う(第1部第3章0)。
   この文言は、木元の大部のジジェク論を最も適切に要約するものとなっている。つまり木元はここから「ほんのついでにといった形で」ジジェクがハイデガーに言及している箇所をていねいに集めて、そこからジジェクのハイデガー論をまとめ、かつハイデガーそのものをも詳細に分析して、そのジジェクの言及が適切であること指摘する。そしてジジェクはハイデゲリアンであるという結論を導くのである。そして上述の3著のまとまったハイデガー批判は、誤りであると断定する。
   しかし私は、まずは木元の言うところに従って、ジジェクが断片的にハイデガーに言及しているところを見て、そのハイデガー理解が適切であることを確認し、かくもハイデガー理解が適切であって、その上で意識的にハイデガー批判をするのであれば、その批判は本質的なものであると考える。
   とりわけ『パララックス』において、本の最後に付けられている索引を見ると、60ほども引用がされているのだが、それらはどれもほんの数行で、中には1行位程度のものもある。しかしそれらの多くはハイデガーを適切にとらえて、賛意を示している。ここから考えれば、木元の言うところは正しいと思われる。ではしかしなぜジジェクはまとまったハイデガー論において、彼を批判をするのか。
   ジジェクのハイデガー批判は、ジジェクのヘーゲル理解に基づいている。つまりヘーゲルに依拠して、ジジェクはハイデガーを批判する。とりわけハイデガーのヘーゲル理解が不十分であることを批判するのである。
   とすると問題はジジェクのヘーゲル理解にある。私は一貫して、ジジェクのヘーゲル理解が適切であることを指摘している。しかし木元は、ハイデガーのヘーゲル批判に全面的に基づいて、ジジェクはハイデガーの「ヘーゲル批判をまじめに受け取っていないように見える」と言う(1-3-8)。つまりせっかくハイデガーがヘーゲルを批判しているのに、それを受け止めずに、逆にヘーゲルの罠に嵌って、その立場からハイデガー批判をしていることを「嘆かざるを得ない」(同)と言うのである。
   本稿の前半部で私は、この木元の言うところを具体的に示して行こうと思う。そして後半部では、再びマラブーのハイデガー擁護に戻り、それをジジェクが如何に批判するかを見て行きたい。
   まず木元は、ジジェクの思惟の中心は、主体性に内在する否定性にあるという。これは正しい。この否定性と主体性の理解が問題の根本である。
   本連載の第4回で取り挙げたように、ジジェクはハイデガーがこの否定性を見落としてしまったという批判をしている。まずそのことから検討する。
   ここで木元はハイデガーを詳細に読解する。そして結論を先に言えば、ハイデガーにとっても否定性は根源的なものであること、しかし主体はその否定性に対しては無力であり、ハイデガーは主体性を重視することでその否定性に迫れるとは考えていないのだとする。
   ハイデガーの読解そのものを本稿の目的にはしないので、ここは木元のまとめを追うだけであるが、まずはハイデガーの問題意識は、否定的なものの絶対的に始原的な運動は如何なるものかということであり、これを概念化しようとしたのであるとする(1-3-1)。ハイデガーにとっての主題は存在の理解にあるが、その理解は無の理解によってのみ可能となる。存在の絶対的先行性は無の絶対的先行性である。そこで木元は「無の無化」という言葉を使う。これは無が無として働くことを意味する(1-3-4-1)。そしてこの無を根底に置く存在了解において、主体は無力である。存在了解の形成は人間主体の遂行するところではない。否定的なもの、無を経験することは、人間にはできない(1-3-4-2)。
   木元はハイデガーをていねいに読み解く。そこのところを私は省きたいと思う。その理解は基本的に正しいと思われる。しかし問題はそこにはないのである。
   つまりこの木元のハイデガー理解は正しいとして、しかしそれはジジェクの否定性と主体性の理解と根本的に異なるのである。しかし木元はそうは考えない。あくまでジジェクがハイデガーと異なるのは、そこはジジェクのハイデガー理解が不十分だからだと考える。そこで必要とされるハイデガー理解とは、ハイデガーのヘーゲル批判の理解である。問題はそこにある。
   まず先述の「無の無化」とヘーゲルの否定性は連関していると木元は言う。しかしそこからさらにハイデガーはヘーゲル批判を始める。
   まずハイデガーは、これは本連載の前回分に書いたように、ヘーゲルにおいては、絶対的なものがすでに存在していると考える。ヘーゲルにおいて、終わりにおいて獲得されるものを始まりにおいてすでに前提しているというハイデガーの文言を木元は引用する(1-3-8)。これがヘーゲルの否定性に内在する根本的な問題だとされる。ヘーゲルは否定性を重視するけれども、その否定性は最終段階で克服されるものに過ぎないし、その最終段階がすでに最初の段階で前提されているのだから、その否定性は実は否定性ではないということになる。ハイデガーはそう考え、その考えに木元も全面的に依拠する。
   ここでヘーゲルの否定作用は、絶対的なものを意識の中に構成するものであるのに対し、ハイデガーの「無の無化」は存在者全体を超える超越であると、両者の説がまとめられる。ここからさらに、ハイデガーはヘーゲルの絶対知を自らの主張する超越と同一視するのである。かくしてヘーゲルはハイデガーの中に位置付けられることになる。
   またその際に、超越は人間の力を離れて、存在そのものの問題群に位置付けられるから、「無の無化」は主体に淵源することはあり得ず、ヘーゲルの方が無造作に否定性の起源を主体に帰していると批判される。
   従ってハイデガーのヘーゲル批判は次の二点にまとめられる。ひとつは、ヘーゲルにおいて、否定性は最終的には克服されてしまうものに過ぎないということ、そしてその否定性の起源を主体に帰したことなのである。
   そのハイデガーのヘーゲル理解に対して、ジジェクはヘーゲルの立場にたって、ハイデガーを批判する。第4回に書いたように、ハイデガーこそ、否定性を見ていない。否定性の淵を垣間見て、そこから後ずさりしてしまったと言うのである。また主体概念はこの否定性から出て来るのである。このことはこのあとにLess Than Nothingから引用して示したい。
   しかし木元はこれをジジェクの間違いだと断定する。この間違いは、ジジェクがハイデガーの忠告を無視したために、ヘーゲルを踏襲してしまったことから生じたと言うのである。
 
   さてハイデガーのこのヘーゲル批判はすでに私が書いたように、ヘーゲルを極端に一面化してしまったものであり、ジジェクはそのことを正確に理解していたから、ヘーゲルに依拠してハイデガー批判をしているのである。ここでジジェク=ヘーゲルの否定性と主体についての理解を示さないとならないだろう。
   前回私は、ヘーゲルには、否定性が存在と思考の両方を進展させる原理であり、ヘーゲルの記述におけるその否定性の論理を追うことこそがヘーゲルの魅力であるとし、しかし同時に、ヘーゲルには確かに最終的には絶対知に収斂するという面もあり、そういう記述もまたヘーゲルのするところであると書いた。だから読者がそのどちらを重視するのかが重要だと書いたのである。その点で、ハイデガーのヘーゲル読解は間違いという訳ではなく、後者の面を強調し過ぎるものなのである。それに対して、ジジェクは戦略的に前者を、これもまた極端に重視し、ヘーゲルの体系の中に否定性が徹底されていることを見ようとする。
   ヘーゲルにおいて、まず否定は真に実在するものだと考えられている。思考の中だけに成り立つものではない。それは根源的な存在様式である。また否定は二段階あり、最初の否定でその存在が規定される。つまりスピノザの「規定は否定である」という命題はヘーゲルの取り挙げるものである。次にそれが他者の中でさらに否定される。これが否定の否定である。ここでジジェクは、この否定の否定を否定の徹底であると考えている。否定がさらに否定されることで、否定は徹底されるのである。そして最後に、この否定の否定を通じて無限性が発生する。それは否定を徹底することで主体が宿すものである。つまり否定性の中から主体性が生じるのである。主体性が先にあって、否定性を根拠付けるのではない。
      ジジェクはこのようにヘーゲルを読み込んで、そこからさらにふたつの独自の概念を提唱する。独自のというよりも、ヘーゲルをよりヘーゲルらしく解釈するための戦略的概念と呼ぶべきものである。ひとつは「無以下の無」である。これは先のハイデガーの「無の無化」とはまったく異なり、まずは何もない宇宙の始原において、否定性を強めることで物質を生じさせ、次いで生命のない物質の中に、エントロピー則という否定性に向かう物質の傾向を利用して、局所的秩序としての生命を生み、さらに「死の欲動」というこれもまた否定的な概念を使って、精神を生み出すのである。この三段階の理論の総称が「無以下の無」である。
   第二に、ヘーゲルの無限判断論を拡大解釈し、それをヘーゲルにおける最も重要な概念だとする。ふたつの根本的に異なるものを、共に否定することで結合させるのである(注2)。
   以上、ヘーゲルの否定性と主体性を戦略的に徹底することで、ジジェクは自らの理論を構築し、それに基づいてハイデガー批判をするのである。つまり私の考えでは、ジジェクはヘーゲリアンであって、ハイデゲリアンではない。
 
   前回取り挙げたマラブーの著書『真ん中の部屋』の第3章を読む。マラブーはハイデガーのHegel (未邦訳、全集第68巻)を読む。マラブーによると、しかしこの本はまだフランスでは系統だって論じられていないということだ。
   ハイデガーの本の中に収められた第一論文は「否定性」と名付けられ、第二論文は「ヘーゲル『精神現象学』の「緒論」の注釈」となっている。マラブーは、ハイデガーのこの論文の第一のものはアフォリズムに近いと言い、また第二のものは、他のヘーゲルを論じた2冊(前回取り挙げた『杣道』所収の「ヘーゲルの経験概念」(全集第5巻)と、『ヘーゲル『精神現象学』』(全集第32巻)と比べて、「さほど豊かなものではない」と言いつつも、ここでしかハイデガーが言っていない発言に注目する。
   ここでも否定性がテーマであり、そこから主体性が論じられる。論点はこの二点である。まず否定性については、これは先の木元の分析したものと同じである。そして結論もほぼ近い。しかしここではヘーゲルが持つ二重性が常に問われていて、その限りで話は少し複雑である。この二重性というのは、前回のテーマで言えば、ヘーゲルの理論に、歴史的なものの重視と論理的なものの重視とふたつある、つまり否定性を重視する傾向と否定性を最終的には絶対的なものに収斂させてしまう傾向とふたつあるということで、ハイデガーはヘーゲルのこの二重性に自覚的である。そしてマラブーは、ヘーゲルにこの二重性を見出したのはハイデガーの功績であると考えていて、しかし私たちにはハイデガーの分析を待つまでもなく、このことはすでに自明であろうとした。そういう経緯はあるのだが、しかしハイデガーがヘーゲルの二重性を一応は尊重しているので、議論が複雑になるのである。
   具体的に書いて行く。まず、ヘーゲルは拒否(Neinsagen)、否定(Verneinung)、否定性(Verneinheit)、ない(Nicht)、無(Nichts)、無化(Nichtung)といったものを一度も例証しなかったとハイデガーは言う(Heidegger p.37, マラブー p.64)。否定的なものは根源から問われることがない。そのために隠蔽された状態に留まると言うのである。
   ハイデガーから見ると、あんなに否定性にこだわっているヘーゲルが、何も「例証」していないということになる。しかしハイデガーが言うのは、ひとつはヘーゲルが否定的なものを最初から前提していて、その存在論的な由来を考慮していないということであり、また否定性は論理的な過程ではなく、それは存在の別名ではないかと言うのである。
   この点は次回、ヘーゲルの「論理学」を使って、さらに検討する。ハイデガーの言うことは分からないでもない。しかしヘーゲルに即してヘーゲルの中にある二重性を指摘することが目的ではなく、ヘーゲルの否定性を不十分なものと見なし、自らの主張を打ち出すということになる。だからハイデガーのヘーゲル批判は、ヘーゲル批判ではなく、そこからハイデガーの主張が現れて来るという代物である。
   もうひとつは主体性の問題である。ヘーゲルの理論に即し、ヘーゲルの体系の中で、否定性から主体性を導く際に、ハイデガーは超越論的な苦痛(Schmerz)という概念を提出する。苦痛とは「否定的なものが特権的な仕方で顕現した状態」であるとマラブーはハイデガーの言わんとすることをまとめている(マラブー p.67f.)。
   ヘーゲルにおいて、経験的なものと超越論的なものは分離していないが、ハイデガーはここから戦略的に、否定的なものは、経験的な苦痛であると同時に論理的であるという意味で超越論的であると、その両者の関係をずらした上で結合させる。そしてその否定性から主体が導かれる。超越論的苦痛を感じる主体がここに要請される。
   これはまた「意識がその本質を自己産出するときに経験する苦痛」であり(同 p.67)、「この苦痛は恐らく精神が展開する運動の最良の表現ですらある」とマラブーは言う(同 p.69)。
   さらにこれは強力な主体の工作機械のことであるとされる(同 p.77)。工作機械とは、ハイデガーの『哲学への寄与論文』(全集第65巻)で展開される概念であり、それは体験を生み出すものである(66-68節)。主体は体験を蓄積して、主体となる。主体は自らの力で自らを作り出す。
   そしてこの超越論的苦痛はヘーゲル哲学の圧痛点として、否定性の苦痛として現れる(同 p.78)。ここでヘーゲルの否定性から主体が導出されるという考えを、ハイデガーは一旦自分の主張に引き入れて、迂回した上で正当化する。
   しかしこの「苦痛」という表現は、初期ヘーゲルの『信と知』からハイデガーが見つけて来たものである(Heidegger p.135, マラブー p. 69)。私は以下、ハイデガーの迂回を経ることなく、直接ヘーゲルに当たってみようと思う。
   実際「無限の苦痛」という表現が、『信と知』の最終段落にある。「しかし純粋概念ないしは、その中にあらゆる存在が沈み込んでいる無の深淵としての無限性は、無限の苦痛(Schmerz)を純粋にモメントとして、しかしまた最高の理念のモメント以上ではないものとして示さねばならない。その苦痛は、かつては(精神の)教養過程において単に歴史的なものに過ぎず、近代の宗教がそこに基づいている感情、すなわち「神は死んだ」という感情としてあったに過ぎないのである」(Hegel 1986 p.432 = 1993 p.169)。
   海老澤善一は、この「無限の苦痛」とは、確かにヘーゲルが言っているように、「神が死んだ」ということに対する人間の感情であるのだが、その出来事を存在の真理として理解する際の苦痛というモメントが、まさしく弁証法の魂である否定的なものに他ならないと言っている(海老澤 p.20)。
   さらにはこの「苦痛」という表現は、『宗教哲学』にもある。これはヘーゲルの晩年の10年間の講義録である。「苦痛(Schmerz)とは肯定的なものに内在する否定的なものであり、そうしてそれ自身において、肯定的なものもまたこのように自らに矛盾し、自ら棄損されるものでもある」(Hegel 1986 p.263)。この解釈も海老澤によれば、自らの内にある肯定的なものとは神のことであり、無限の苦痛は、人が神の内で自らを知る、自己反省的な感覚であるとしている(海老澤 p.20f.)。
   マラブーは初期ヘーゲルだけを評価し、体系完成後のヘーゲルの中には何も見出せないとするが(マラブー p.52)、否定的なものが弁証法を駆動するという発想はヘーゲルが生涯持っていたものだし、その否定的なものの感覚が、この「苦痛」という表現に現れている。つまりこの「苦痛」こそヘーゲルの特質であるということを、ヘーゲル研究は示している。
   ヘーゲルの言う主体とは、たかだか「苦痛」を感じる主体に過ぎないというのがハイデガーとマラブーの言うところである。ヘーゲルは大層主体を大事なものだと見做しているが、それはせいぜいそんなものに過ぎないと、ヘーゲルを脱構築するのである。しかしヘーゲルはハイデガーやマラブーに言われなくても、もともと脱構築されている。つまり主体とは「苦痛」を感じるものであり、そういうものとして主体は重要なのである。
 
   このマラブーに対するジジェクの批判がある。もうここまで論じて来れば、もはやダメ押しに過ぎないかもしれない。
   さて、Less Than Nothingの第13章に、ジジェクのまとまったハイデガー批判が展開されている。すでに書いたように、このようにまとまってハイデガーを論じるときに、ジジェクはハイデガーに対して極めて批判的になる。『厄介な』と『大義』に続いて、3冊目のハイデガー批判である。
   まずハイデガーは、先に書いたように、ヘーゲルは否定的なものを捕らえていないと批判する。しかし否定性とは、現象の秩序における裂け目だとしたらどうだろうかとジジェクは問う。つまりそれは決して現れ得ないのである。それは超越論的な身振りだからと言うのではない。そうではなく、それは逆説的なものであって、考えることが難しい否定であり、いかなる作用因によっても包摂されることのないものであり、それこそヘーゲルが自己関係的な否定と呼ぶものである。それはあらゆる肯定に先立つものであり、その後ずさりの否定的な身振りがあらゆる肯定的なものの空間を開くのである。ジジェクは、ヘーゲル弁証法は否定に始まり、否定の徹底に終わると考えている(Zizek p.869)。
   また「超越論的苦痛」について、ジジェクはハイデガーとマラブーの主張をひっくり返し、ハイデガーこそ、超越論的な苦痛を考えることができなかったのだとする。存在を考える際に、主体を捨ててしまったからである。主体がなくて、どうして苦痛が感じられるのか(Zizek p.869)。つまりハイデガーがヘーゲルを脱構築することで見出した概念は、本当ならばハイデガーが持つべきものであって、それを持ちえないことがハイデガー哲学の欠点なのであると、ジジェクは考える。
   誤解がないように書いておけば、ジジェクは、実存主義的に主体を重視した前期ハイデガーを評価するというのではない。そうではなく、ハイデガーを参照して、デリダやマラブーが主体の脱構築ばかりすることを批判して、如何に脱構築しようとも、それにもかかわらず構築されてしまう主体について、注意を喚起しているのである。
   否定性と主体について、先に木元を扱ったので、マラブーの言うところとハイデガーのヘーゲル批判、及びそれらに対するジジェクのヘーゲルの立場に立つ再批判が容易に理解されるだろう。繰り返し確認すべきは、ここでもジジェクのハイデガー批判は本質的であるということである。
 
   Less Than Nothing第13章の最初の節には、「ラカンはハイデゲリアンではない」という題が付けられている。ジジェクはここで次のようにラカンの説をまとめる。
   まずラカンは1950年代まではハイデガーの影響下にあったが、次第にそこから離れて行く。そこでフロイトの無意識論を独自の観点で深めて行く。
   ラカンはフロイトの肯定-否定概念の検討をする。ハイデガーによれば、言語は存在の開示であるのだが、事態はもっと複雑である。まずジジェクは、ラカンの考えから導き出せるとして、排除(Verwerfung)、抑圧(Verdraengung)、否定(Verneinung)、否認(Verleugnung)と4つの形態を取り扱う。排除は、象徴界から追い出され、現実界に戻る。抑圧は象徴界に留まっているが、意識では接近できず、症状の形を取る。否定は、拒絶されて意識の中に留まる。最後に否認は、その象徴的な影響は宙吊りになっている。この4段階は、排除の意味合いが次第に弱められているとして、ジジェクが整理した順番である。
   私の説明では、以下のようになる。まず否定はフロイトの短い論文「否定」の中で取り挙げられた概念である。患者の「夢の中に現れたのは私の母ではありません」という言明は、私たちには、「それはまさしく母親である」と受け止められる。フロイトは「否定は抑圧されたものを認識するための一種の方法である」と言っている(フロイト p.296)。これを他の3つと区別して、別格とする。
   あとの3つの否定、つまり排除、抑圧、否認は、それぞれ精神病、神経症、倒錯に対応する。ラカン派はそう考える。それらの概念については、先のジジェクの説明が成り立つ。そしてすべての人は、このどれかの否定的傾向を持っている。すべての主体はこの否定性の傾向から作られている。あとは人によって、その否定の仕方が異なるだけの話だ。
   さてハイデガーにとってもラカンにとっても、否定性は根源的なものだが、一方ハイデガーにとって、主体は存在の開示のための道具に過ぎない。しかしラカンにとって主体は否定性から出現し、しかもそれは捻じ曲げられ、切断されている。
   つまりこの否定性と主体性の考え方は、ハイデガーのものとラカンのそれと根本的に異なっている。つまりラカンはハイデゲリアンではないとジジェクは言う。そしてジジェクはラカニアンを自称する。ゆえにジジェクはハイデゲリアンではない。
   先に書いたように、ハイデガーは、ヘーゲルは否定、拒否、無などを一度も例証しなかったと批判したが、それをもじって言えば、ハイデガーは否定、排除、抑圧、否認を一度も主体と関係付けて論じることはなかったのである。否定を意味する様々な言葉遣いと、それに対応する主体の状態についても考察しなかった。
   
   否定性は然りによって基礎付けられると、マラブーは著書の第3章、つまりハイデガーによるヘーゲル解釈を取り挙げた章の最後に書いている。ノーに対するイエスはイエスの否定であると同時に、ノーの否定である。この否定はフロイトの否定や排除に似ているとマラブーは言う(マラブー p.78)。しかしここでフロイトは唐突に引き合いに出され、その含意はまったく深められていない。単に示唆されているだけだ。ジジェクはこのマラブー批判を意図して、フロイトの否定概念をラカンを参照して展開し、ハイデガー批判に繋げる。
   ジジェクもラカンも若い時にハイデガーの影響を受けている。しかしそれにもかかわらず、彼らがハイデゲリアンでないのは、この否定性と主体性の二点の理解が、ハイデガーと異なるからである。
   なお、さらに論じるべきはヘーゲルとラカンの関係だが、とりあえずここではそれはジジェクにおいて結び付いているとだけ言っておく。それ以上については今後の課題である。
 

1.木元裕亮のこの論稿は、日本語でまとまったジジェク論としては唯一のものである。
2.拙稿「ジジェクのヘーゲル理解は本物か(1)-(3)」本サイト(2020.3.7 – 4.10)を参照せよ。
 
参考文献
海老澤善一『対話 ヘーゲル『大論理学』 存在の旅へ』梓出版社、2012
フロイト, S., 「否定」『自我論集』中山元訳、筑摩書房、1996
Hegel, G.W.F., Jenaer Schriften 1801 ― 1807, Werke 2, Suhrkamp, 1986 = 『信仰と知』上妻精訳、岩波書店、1993
—   Vorlesungen ueber die Philosophie der Religion II, Werke 17, Suhrkamp, 1986
ハイデガー, M., 「ヘーゲルの経験概念」『杣道』(全集第5巻)、茅野良男他訳、創文社、1988
—   『ヘーゲル『精神現象学』』(全集第32巻)、藤田正勝訳、創文社、1987
—   『哲学への寄与論文』(全集第65巻)、大橋良介他訳、創文社、2005
Heidegger, M., Hegel, Gesamtausgabe, Band.68, Vittorio Klostermann, 2009
木元裕亮「スラヴォイ・ジジェク研究―「否定的なもの・否定性」について」
https://conception-of-concepts.com/philosophy/zizek/zizek-negativity/
マラブー, C., 『真ん中の部屋ヘーゲルから脳科学まで』西山雄二他訳、月曜社、2021
松本卓也『人はみな妄想する ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』青土社、2015
ジジェク『厄介なる主体1』鈴木俊弘他訳、青土社、2005
— 『大義を忘れるな 革命・テロ・反資本主義』中山徹他訳、青土社、2010
—   『パララックス・ヴュー』山本耕一訳、作品社、2010
Zizek, S., Less Than Nothing: Hegel and the Shadow of Dialectical Materialism, Verso, 2012
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x8232,2021.07.17)