主体の論理(4) 厄介なる主体

高橋一行

                                
   前回、バトラーの性的主体理論を扱った。そこで最後にジジェクの『厄介な』におけるバトラー批判に触れている(注1)。バトラーはラカンを激しく批判するが、それはラカンを誤解していて、両者は本当は対話ができるはずであるとジジェクは言う。そのことに私も同意する。そうすると、ラカン理論とはどういうものかということを説明する必要が出て来る。同書第1章でジジェクは、カントの構想力論を挙げ、ハイデガー、ヘーゲル、フィヒテと論じているのだが、その背景にラカン理論が控えている。同書第1章を使い、カント構想力論、ヘーゲル否定論、フィヒテ障碍論を取り挙げて、ラカン理論に繋げたい。このジジェクの論稿のメインのテーマは実はハイデガーなのだが、これは次回に取り挙げる予定である。ここで哲学的な主体論を展開することになるが、それは事実上、ラカンの主体論になるだろう。
   このあとで詳細に引用するが、ジジェクは「物自体を巡るカントからヘーゲルへの移行は、ラカンの前中期から後期への移行である」と言っている。本稿はそのことを確認するものである。
   ラカンの概念は難解だが、しかしカントやヘーゲルの言葉でそれを説明すると、少なくとも哲学に馴染のある人には分かりやすくなるはずである。
   もっとも本稿ではラカンの説明はラカンを引用せず、すべてジジェク経由のものである。ラカン自身に即して説明することは、大変な仕事で、いずれ取り組むつもりではあるが、本稿ではできないからである。
 
   カント構想力論は以下の通りである。カントは『純粋理性批判』(以下、『純理』)「演繹論」で次のように書いている(注2)。
   まず認識には感性と悟性とふたつが要る。悟性は知性と訳しても良い。そのまったく異なるふたつの能力が合体することが必要である。感性と悟性とふたつが全く異なる能力であるということと、そのふたつが合体することで認識が成立するというところに『純理』の根本があるということをまず押さえておく。
   ここに構想力が要請される。認識が成立するためには、様々な表象がひとつに総合されることが必要だ。この総合という作用が重要だとカントは断った上で、「総合というのは、盲目ではあるが、心の欠くべからざる機能である構想力の働きによるのである」と書く(A78=B103 注3)。総合する能力こそが構想力である。そして「この構想力を介して我々は、一方にある直観の多様と、他方の純粋統覚の必然的統一の条件とを、ひとつに結合する。感性と悟性という両極端が必然的に連関するために、構想力の超越論的機能を媒介としなければならない」(A124)。
   ここで第一版(1781)ではこの構想力が根源的な役割を担っている。しかしその能力を第二版(1787)では著しく減じる。第二版では、「構想力は、対象をその対象が現前していなくても直観において表象する能力である」(B151)と規定しておいて、直観は感性の能力だから、構想力は感性的であるとし、しかし構想力は総合する能力であって、それは自発性を持つということであり、しかし自発性は悟性の能力だから、「構想力の超越論的総合は、感性に対して行う悟性の作用のひとつである」(B152)として、構想力を悟性の能力の一部分にしてしまうのである。
   ここにハイデガーが着目した。カントは『純理』第一版で構想力の能力を高く評価しておいて、しかし第二版でそこから退却したとし、その上で、ハイデガー自身の構想力論を展開する(ハイデガー)。
   ジジェクのこの本の第1章は、このカント構想力論から始まるハイデガー論なのだが、そのテーマは次の稿で書くことにして、話を先に進める。ジジェクはカントの構想力論をこれ以上展開しないし、またなぜカントが第二版でその役割を減じたのかということについても言及しない。それは大きな問題であって、その考察は必要なことだと私は思い、それは本稿の後半部で行う。しかしとにかくまず、ジジェクの論理の展開に即して、それを順に追ってみたい。
   ジジェクはカント『純理』を引用し、そこで言われている構想力を「総合する力」だとし、それに対して「否定する力」を重視すべきだとし、そこからヘーゲルの否定性に話を持って行く(『厄介な』 p.50f.)。これはかなり強引だ(注4)。つまり、カントは構想力の否定的な面を見ていないが、ヘーゲルはそれに対して、否定的なものこそ根本であると考えたとして、ジジェクは次のふたつのヘーゲルの著作の引用をする。
   まずひとつ目は、あちらこちらでジジェクが言っている、「世界の闇夜」である(注5)。これはジジェクが随所でヘーゲルの否定性を表すものとして取り挙げている。否定性がヘーゲルの論理にとって、根本であるということだ。それはヘーゲルの『イェーナ実在哲学』にあり、ヘーゲルが33歳ころのものである。
   この「世界の闇夜」についてジジェクは、「ヘーゲルは主体性の位置をひとつの空なる場として、…「世界の闇夜」、「無から無」として描く」とか、「他者の欠如の深淵」とか、「存在論的狂気、主体が世界から完全に撤退すること」と言う。
   またもうひとつは、ヘーゲル『精神現象学』の序文にあるもので、「否定的なもののもとへの滞留」として知られているものである。「精神が己の真理を勝ち取るのは、ただ自分自身を絶対的分裂の内に見出すときのみである。この否定的なもののもとへの滞留(金子武蔵訳では「否定的なもののそばに足を止める」という訳になっている)こそ、それを存在へと展開させる魔法の力なのである」(同 p.31)。ジジェクの著書『否定的なもののもとへの滞留』というタイトルはここに由来する。
   ヘーゲルの否定性について、ジジェクの引用する「世界の闇夜」は構想力の否定性であり、もうひとつの「否定的なもとへの滞留」は悟性の否定的な作用だとされる。カントは構想力も悟性も総合する力であるとするが、ジジェクは、この両者が持つ否定的な力を強調する。両者は総合する力と否定する力と両方を持っているのだが、それがヘーゲルによって、否定する力が重要視されたと見ている。構想力と悟性がどのような関係にあるかということについて、ジジェクは『純理』の第一版と第二版の違いに言及していないから、このあたり生産的な議論ができていない。しかしここでは、このふたつの能力がどちらも総合する力と否定する力を持ち、それらが「相互関係にある」ということ、それがヘーゲルによって、その根本はどちらも「分裂をもたらす否定的な力」(『厄介なる』 p.58f.)であるとされている。
   つまり構想力は両義的である(同 p.50)。カント自身は構想力をまとめる力だと考えている。しかしカントが重視しなかった、構想力のもうひとつの面、つまり否定的な力を重視したい。それがヘーゲルの否定性に繋がる(同 p.52f.)。ジジェクはそのように考えるのである。
   この否定性こそ、ジジェクの捉えるヘーゲル理論の、かつジジェク理論の根本でもある。
   以下ジジェク理論をまとめる。ここもこのサイトですでに詳述しているところで、引用先など明記しない。すなわちそれはジジェクの「無以下の無」理論である(注6)。
   これはジジェクが現代物理学や生物学からヒントを得て考えたものであると同時に、ヘーゲル論理学の冒頭部分、存在-無-成の議論に始まり、ヘーゲル哲学の根本を成す否定性をより分かりやすく説明したものであると私は考えている。それは具体的には、以下の物質の生成、生物の発生、精神の出現という進化論に良く現れている。
   まず宇宙はビックバンから始まる。そこに光があり、その光は素粒子となるのだが、その素粒子は質量がないから、それはまだ物質とは呼べない。つまり物質が存在しない宇宙に、どのように物質が存在するようになったのかという議論をここでしている。
   そこで真空よりもエネルギーが低い、つまり無よりもさらに無の状態が生じる。これをヒッグス場と言う。その場を通過することで素粒子は抵抗を受け、質量を与えられ、物質となる。かくして物質が生成する。
   同様に、生物が存在しないときに、物質はエントロピー則に従って、秩序が崩壊する方向に進むのだが、その中で高度に秩序化された生物が発生する。ジジェクはアトラクターという概念を使う。全体としてエントロピー則に従う系の中で、局所的にアトラクターの周りでは動的な秩序形成ができ、それが生物の発生に繋がるのである。
   3番目の議論は、精神がどのように発生するかという話で、これもまだ精神が発生していないときに、生物が持つ死の欲動から、すなわち生とは反対の方向の中で、精神が出現する。
   これがジジェクの捉えるヘーゲルの体系である。それは否定を根底に置き、否定の力を推し進めることによって、強引に成立する体系である。
 
   物自体も現象の否定的な自己関係から生じる。
   以下、カントとヘーゲルの物自体の考え方の違いについて説明する。
   カントは結局『純理』では悟性の能力を中心に考え、悟性が認識できるのはこの現象の世界だけであり、その背後に物自体の世界があるとする。カント自身によって、物自体は「認識する(erkennen)ことはできないにせよ、しかし少なくともこれを物自体として考える(denken)ことはできねばならないという考えは依然として留保されている」とされるのである(B XXVII)。つまり物自体と言うのは何だかは良く分からないけれども、存在するということだけは要請されているのである。そして『純理』では話はここまでで、そのあとは『実践理性批判』(以下、『実践』)において、物自体の世界は道徳的世界であり、自由の問題として実践的にそれを構成し得るとする。物自体は理論理性を超えているが、実践理性の自覚の問題として再度取り挙げられる。ジジェクが批判するのは、この点である。このことを以下で取り挙げるが、先にヘーゲルの物自体論を説明しておく。
   カントの物自体論は、ヘーゲルによって、次のように批判される。『小論理学』から引用する。ヘーゲルはまずカントの物自体を空虚な抽象物、蒸留の残滓だと批判する(44節)。カントは中途半端である。現象の外に認識できないものとして物自体を設定し、それを本質だとする。しかし本質というのは現象の背後に留まっているものではなく、「世界を現象に引き下げることによって、自分が本質であることを明らかにする」ものである(131節補遺)。そこからさらにジジェクは、そのような空虚な抽象物、滓として存在しているものこそが、物自体なのだと持って行く(注7)。
   ここまで説明しておいて、このカントとヘーゲルの考え方の違いが、ラカン理論とどう関わるのかということを説明しないとならない。
   まずラカンの想像界、象徴界、現実界について、ごく簡単な説明をしておく。想像界というのは、イメージの領域で、それに対して象徴界は言語の領域である。私たちは言語とイメージで構築された世界を生きている。しかしこの言語とイメージをはみ出す領域があり、これを現実界と言う。これはちょうどカントの言うところの物自体が現象の向こうにあり、私たちに悟性では認識できないとされたことと並行的に考えることができる。
   しかし1960年以降のラカンは、この現実界を重視するようになり、この領域は単に象徴的なものでは捉えられないものとするだけでなく、そもそも不可能性そのものであるというように考え、以下にジジェクの引用をするが、それは象徴界の裂け目として存在し、主体は象徴界からの問いかけに対する現実界からの応答であるというように考える。これがまさしくヘーゲルの考える、否定性の極みとしての物自体に対応する。これが本稿の冒頭に書いた「物自体を巡るカントからヘーゲルへの移行は、ラカンの前中期から後期への移行である」ということの意味である。
   ジジェクは次のように書いている。『症候』から引用する(注8)。まず物自体は到達不可能で、それは現象世界の穴である。到達不可能な物自体という空虚は、幻想によって埋められ、それを通して、超現象的な物自体は現象の世界に入る。それは否定性である。また主体は非実体である。それは主体と内界的対象との距離を保っている非実体的自己関係としてのみ存在する(同 p.208ff.)。
   このことをどう考えるか。ジジェクの最初の本である『ヒステリー』(1988, 2011)には、次のように書いてある。「カントはものという概念を、負の形式で、不合理な不可能性としてしか示すことができなかった」(同 p.152)。「現実的なものについてのラカンの問題系と、物自体に関するカントの問題系の間の本質的な相容れなさが生じており」、ラカンをカントを参照して読むことはできないとしているのである(同 p.153)。カントは現実的なものとの外傷的な出会いを回避している。それは真理を前にしての恐怖であり、真理との出会いを回避している(同 p.154)。ジジェクはこのように書き、このあとヘーゲルの話に進む。
   ジジェクの2冊目の本と言っても良い『イデオロギー』(1989)では、『判断力批判』の崇高概念が検討され、カントは現象の崩壊を通じて物自体に到達しようとしたとしている。それは肯定的なものとして存在している。しかしヘーゲルにとって、もの自体は根源的な否定性である(同 p.307f.)。
   これは良く分かる。この理解で十分なのか。
   『身体なき』(2004)になると、もっと明確な説明がある。1950年代初頭、ラカンはフロイトの物とカントの物自体を結び付けて、それを現実的なことだと考えた。それは象徴界の統合に抗うものとし、そこに直接的に近接することはできないが、象徴秩序を介して、近接は可能だとした。しかしこのようなカント的地平を、ラカンは1960年代に超克した。それは欲望から欲動への軌跡でもあるし、物自体を巡るカントからヘーゲルへの移行でもある。より詳しく言えば、コジェーブ、イポリットに影響を受けて、ヘーゲル的な普遍性の概念で象徴界の分析をし、現実界については、カントの物自体の概念を踏襲していたのだが、しかしそこから物自体概念に捻りを加えることによって、その内在的迂回へと進んだのである。それは物自体を滓であると把握するヘーゲル的な理解に至ったのである(同 p.200f.)。
   先の『症候』の物自体論に再び着目する(同 p.92)。ヘーゲルの否定性とは、カントの現象と物自体を隔てる深淵のことだとそこで言われている。ヘーゲルは物自体に到達したのではない。視点をずらしただけなのである。
   同様に言葉と物との間に深淵があり、その深淵を克服するのではなく、問題はその深淵をいかに捉えるかということなのである。その深淵を開く暴力的な行為を問題にする。それは現実界の中の裂け目を明るみに出すことである。
   
   『厄介な』第1章の読解に戻ろう。
   ジジェクはこの物自体に接近するという考え方を構想力批判の問題として展開する。つまり構想力は自発性であり、そのために私たちは物自体に接近できると考えることの危険性が指摘される(同 p.46ff.)。これはしかし、構想力の問題なのだろうか。カントは『実践』で構想力理論を展開していないから、超越論的自由の問題を構想力に結び付けて議論するのはいささか無理がある。まずはそういう指摘をしておく。
   しかしハイデガーは、カントの実践理性と構想力の関係を論じている。ジジェクはここに依拠して、自発性と自由の問題を論じる。つまり構想力は、『純理』で扱われ、またこのあとで書く予定だが、第三批判で復活する。『実践』では扱われない。しかしハイデガーは、「実践理性もまた必然的に超越論的構想力に基づく」(ハイデガー p.155f.)としており、ジジェクは構想力概念を拡張して、この実践理性の自由概念を問い質している。
   そこで議論されるのは、カントの物自体は超越論的対象ではないということである。この読解が一番重要なところだ。
   まずカント自身は超越論的自由を物自体と見なす(『厄介な』 p.45)。しかし超越論的自由は現象の世界に属している。それは物自体ではない。もし主体が物自体の世界に到達したら、その主体は消滅してしまう(同 p.47)。
   超越論的対象は物自体ではなく、無そのものだとも言われる(同 p.78)。ここでカントの物自体が批判され、代わって、それはヘーゲルの理解するもので捉えられるべきだということになる。このことは今、ラカン理論と照らし合わせて説明して来たことである。
   そしてここからフィヒテに話が移る。つまりカントの物自体からヘーゲルの否定性と話が進展したのだが、その間にフィヒテを入れると、繋がりが良く分かるとジジェクは考えている。
   まずフィヒテが出て来るのは、彼がカントの物自体を否定したとジジェクは考えているからだろう(同 p.68)。物自体を否定したという点で、フィヒテはカント理論を進展させて、ヘーゲルに近付くのである。
   そこで出て来るのが、フィヒテの障碍(Anstoss)という概念である。これがラカンの言葉で言えば対象aであり、現実界に繋がっているものだとされている。つまりカントの物自体は消去されたのだが、代わって障碍という概念が出て来るのである。
   フィヒテ知識学は、「自我はまず自己自身を定立する」(第一命題)、「自我は自我に対して、非我を反定立する」(第二命題)、「自我は自我の中に、自我に対しての非我を反定立する」(第三命題)と進展する。自我も非我も自我の中に互いに限定し合うものとして定立される。
   乱暴にフィヒテの主張をこのようにまとめて、それはカントの物自体を否定したもので、ヘーゲルに近付いたものだと考えられるのである。
   ここでジジェクはフィヒテの引用をしていない(注9)。フィヒテのどこを参照しているのか分からないが、『全知識学の基礎』から引用してみたい。まず自己と非我が上述のように定立される。そこに自我の外にある客観は存在しない。すなわち「除外されるべき客観は存在する必要は全くない。いわばただ自我に対する障碍が存在するだけで良い」(同 p.154)。「この障碍は自我の助力なしに存在するのではないであろう。むしろ障碍はまさに自己定立における自我の能動性によって生じるのであろう。いわば自我のますます外へ向かって努力する能動性が自己自身の中へ追い返される」(同 p.156)。このように考えられる。
   ここからジジェクは「あらゆる現実を還元して絶対的な主体が自ら媒介することにより、概念的なものを外在化する」というまさしくヘーゲルのやり方にフィヒテは近づいたと言っている(『厄介な』 p.68)。
   さらに続く。「フィヒテは主観主義のまさに核心にある不気味な偶発性というものに初めて着目した」(同 p.76)とある。これが障碍である。
   さらにカントの物自体は他者である、つまり主体の措定する行為に還元されることのないものであると考え、それをフィヒテは消去するのである。つまりフィヒテは「あらゆる現実を還元して、絶対的な主体が自ら媒介することにより、概念的なものを外在化する」というヘーゲルの理論に近付いたとしている(同 p.68)。ここからさらにジジェクは、物自体の代わりに出て来る障碍を、ラカンの言うところの対象aだとする。
   フィヒテがカントの物自体を否定して、代わりに障碍概念を出し、それが対象aだということがポイントだが、それは物自体は現象世界の滓だという、ジジェクの考えるヘーゲル理解があって、このあとに引用するように、それを後期ラカンの、現実界は象徴界の裂け目としてあるということと対応し、それが対象aとして現れるということなのである。
   ここで対象aの説明が要る。これは一般に欲望の原因のことである。前期ラカンにおいて、それは想像的な自我の対象であるが、後期になると現実界に関わるものとなる。ここを少し説明しよう。まず私たちは生まれてすぐに原初的な満足体験をする。それをものの体験と言う。それは死の欲動に突き動かされた享楽の追求のことだとされる。このものの享楽の残滓が対象aである。この死の欲動、享楽、ものとすべてが後期ラカンでは、現実界に結び付けられて議論されている(注10)。
 
   『斜めから』にも晩年のラカン理論が説明されている。「ラカンの晩年は標準的なラカンと随分と異なる」(同 p.256)という言い方がされる。また「物自体は近付くには熱すぎる」(同 p.314)とある。この物自体は現実界である。しかしこれは近付くには熱すぎる。カントが物自体に接することができる、道徳的に実践できるとしたことに対してジジェクは批判的で、そのような物自体だと、これは現実界とは異なるという話である。
   そしてここからさらに、「他者は現実界の本質的偶然性を隠ぺいする遡及的幻想に過ぎない」(同 p.138)ということになる。享楽がまず存在し、他者はあとから作られる。そしてその他者から幻想が生じ、人は生きて行かれるのである。
   『ラカン』から引用する。ここに「ラカンの現実界はカントの物自体とは一切無関係である」と言われている。カントの物自体は、知覚によって歪曲される前の、我々から独立したものである。つまり永遠に象徴化を擦り抜ける固定した超歴史的な核心である。それに対してラカンの言う現実界はそれよりももっと複雑なものなのである(同 p.115)。そしてその現実界とは、「象徴的ネットワークそのものの内部にある割れ目」であるとされている(同 p.126)。
   象徴界を現象の世界とし、現実界を物自体とするならば、カントなら、物自体を現象の向こうに設定し、感性と悟性、それに両者をつなぐ構想力を持った主体の認識対象としての現象の客観的妥当性が主張される。それがヘーゲルに至ると、現実界=物自体は象徴界=悟性の司る現象の割れ目としてのみ存在し、しかしその現実界が根本的に主体を規定する。
   そうなるとジジェクによれば、物自体の世界に到達したら大変なことになるのである。「主体が物自体の世界に接近してしまったら、その主体は消滅してしまうだろう」(『厄介な』 p.47)ということをジジェクは言う。超越論的自由の自発性は物自体であると誤読したのがカントの陥った行き詰まりである。
   このことと、「主体は、大文字の他者すなわち象徴秩序が発した問いに対する現実界からの応答である」(『イデオロギー』 p.271)ということを併せて考えたい。そして対象aとは、主体の中にあって、主体の対象であり、象徴化されえない意味作用の残滓である。そしてその対象aを内部に持っているために、主体は最初から、主体を引き付けると同時に撥ね付ける対象に対して分裂している。以上がラカン理論である。
   徹底した否定性、または無以下の無と言う理論に基づいて、世界は出来上がっている。これは徹底した偶然性に基づくものだと言っても良い。そこにあるのは事後的な必然性だけである。これがヘーゲルの否定性から得られるジジェクの主張である。
   このことは、私たちの反省作用の外部に客観的現実があるという、通常の唯物論の発想を拒否することでもある。現実の外に何かが存在するとなると、それを見詰める何かしらの精神が必要になり、それこそ観念なのであるとジジェクは言う。私たちの精神は現実の一部である(『ジジェク自身』 p.137f.)。それは現象の世界の向こうに物自体の世界があるという発想を拒否するということであり、そこからさらに、物自体は現象の滓だということも導かれる。
   このカント、フィヒテ、ヘーゲルの読解から導かれたジジェク理論と、今までジジェクを参照することで説明して来たラカン理論が接続されるのである。
 
   以上は、ジジェクを補足しつつ説明して来たが、以下はジジェク批判である。
   ジジェクとジジェクの考えるヘーゲルは、構想力を重視していない。そう断言して良い。しかしヘーゲルは本当にそうなのか。
   前述の黒崎政男はイェーナ期ヘーゲルが、構想力を根源的一元論的に捉えていることを評価している。これはヘーゲル研究者には良く知られていることだ。
   イェーナ期の著作『信と知』で、「超越論的構想力は、それ自身まったく直観的悟性そのものである」(同 p.46)とヘーゲルは書く。直観的悟性とは、神のみが持つ能力だとカントが考えていたもので、人間は持つことができず、従って、カントは超越論的構想力の概念を消してしまったのだが、ヘーゲルはこれを構想力の能力だと言うのである。構想力を直観的な悟性、つまり悟性であって、直観=感性でもあるもの、すなわち両者の根源とみなすのである。さらにはそれは超越論的なもの(神のみが持つ)と経験的なもの(人間の能力)の根源だとみなすのである。
   一方で、ヘーゲルの否定性概念は、初期の頃からヘーゲルの中に明確にある。それはジジェク、ないしはコジェーブに言わせれば、30歳前後からある。『信と知』が書かれたのは1802年で、ヘーゲルは32歳である。前述の『イェーナ実在哲学』はその翌年である。そうすると、カント読解における構想力は感性と悟性の根源性として捉えられ、しかしヘーゲルの理論の中ではそれは否定的なものとなると考えるべきではないか。その否定する力は、否定性、または無以下の無として、ヘーゲル理論の根本となったのであろう。
   まず構想力には、総合する力と否定する力がある。カントは前者を重視し、ジジェクは後者を重視する。一方ヘーゲルは、それを根源だと捉える。そしてヘーゲル理論では、根源にあるのは否定性である。通常ヘーゲル論理学は、根源にあるものが分割され、さらにその分割されたものが統一されるということになるが、根源にあるのは否定性であり、それが事物や認識を生成させ、さらにそれが否定作用によって、分割されて多様な世界ができる。その多様性が維持されたまま、つまり一元化されず、統一がなされる。ジジェクによって示唆されるヘーゲル理論とはこういうものだ。そうすると、実は総合する力と否定する力は同じもので、構想力の場合も、カントとジジェクと力点の置き方が異なるという話になる。さらにまた構想力には、『信と知』で指摘されているように、感性と悟性の根源という役割がまずはあり、それはヘーゲル理論において否定性と言い換えられ、さらにその根源が分割して感性と悟性が生じたあとは、三者並んで人間の能力の多様性を示し、そこで構想力は感性と悟性を媒介するという役割を持つ。今まで展開して来たことをまとめるとこのようになる。
   そして実際、ヘーゲル『精神哲学』を見ると、そこでは構想力が感性と悟性の間にあるものとして位置付けられている。
   カント理論における構想力は、『純理』第一版において感性と悟性の根源と捉えられ、第二版では両者を繋ぐ媒介となり、より高次の悟性に吸収されて行く。ヘーゲルによって、構想力の根源性については、それは否定性と言い換えられ、その媒介性の方は、そのまま構想力として残り、『精神哲学』の中に位置付けられた。そう考えることができないだろうか。つまり構想力は、『信と知』で考えられたように、感性と悟性の根源であり、かつ以下で述べる『精神哲学』で考えられているように感性と悟性を繋ぐものである。構想力の持つ、否定性と同時に総合力でもあるという根源性と、多様な能力のひとつとしての、感性と悟性の媒介性と、そのふたつを見て行きたいのである(注11)。
   実際に、『精神哲学』の目次を見ると、そこではまず、魂が論じられ、感覚する魂となり、それは必然的に病に陥り、精神錯乱や夢遊病が論じられる。つまり精神は否定的なものとして生じている。しかしそれは習慣によって克服される。それは魂から意識へ、さらに精神へと進む。その発展の段階の中に、構想力も位置付けられている。それは直観と思惟の間にある。そこでは無意識も論じられ、それが記憶され、記号化されて、思惟の段階に入って行くものだとされている。
 
   次にカントについてもまた、恐らくジジェクは知らないので、まったく論じることはないが、しかしもし彼がそれを知っていれば、飛び付きそうなテーマがある。
   ヘーゲルの「世界の闇」は狂気に至り、深淵を垣間見るのだが、カントにその観点がないとジジェクは見ている。しかし『人間学』には、空想や妄想、夢や予知、鬱と躁に錯乱が論じられる。それらが構想力にとって本質的に関わりのあるものとして扱われる。このあたりは、意外にカントはヘーゲルに近いのである(注12)。
   私のカント論は以下のようになる。まずカントは、『純理』第一版で出した構想力概念を第二版で引っ込めたが、その後『人間学』などで狂気概念とともに育んで行き、年を取ってから、『判断力』で再び取り挙げたのである。それはこの否定的な力である構想力でしか、物自体に近付き得ないとするヘーゲルにかなり似ているものと見ることができる。
   構想力をイェーナ期ヘーゲルのように、感性と悟性の根源に据えることはできない。あくまで純粋理性を論じたいカントにとって、感性と悟性の二元論を維持して、悟性の優位を説くしかない。とりあえず、『純理』ではそのような結論を出し、そしてその悟性では物自体は認識できず、『実践』において、実践的に物自体に近付くしかない。それが公式的なカント理論である。
   しかしもうひとつのカントの道がある。ジジェクは先の『厄介な』で、ヘーゲルが「世界の闇夜」を経験することで、狂気に辿り着いたとし、それはそもそもデカルトのコギトが持つ狂気に由来することを示唆しているが(p.60f.)、カントもまたこの『人間学』で狂気を論じ、そもそもこの狂気は構想力の産物であるというようなことを言っている。これはまさしくジジェクの言う、構想力の否定的な面なのではないだろうか。ジジェクはまったく言及しないが、カントには、このような構想力の否定的な側面への言及もある。
   この道はカントの余技ではなく、間違いなくカントのもうひとつの側面なのである。カントは狂気に迫っていたのである。また、そこで構想力概念が育まれなければ、いきなり第三批判で構想力が復活する訳がない。
 
   フィヒテの構想力論もここで触れたい。ジジェクは今回取り扱ったこの論稿をカント構想力から始めて、フィヒテに至っている。しかしなぜフィヒテの構想力論にそこで言及しないのか。フィヒテ構想力論こそ、自我と非我を合一するものである。「自我と非我という反定立者を合一することこそが我々の課題であり、それらは矛盾を合一する構想力によって完全に合一されることができる」とフィヒテは『全知識学の基礎』で言う(同 p.162)。フィヒテの面白さは構想力理論にあるのではないだろうか。「構想力の揺動」理論では、自我と非我は対立しつつ結び付く。
   ここでフィヒテ論を展開することは、時間と能力が不足しているために私にはできないのだが、しかしジジェクの言わんとしていることを十全に述べるためには、「構想力の揺動理論」に触れない訳には行かないだろう。それは矛盾するものを矛盾したままで合一すること、すなわち揺動(Schweben)という言葉でしか言い表せない理論である。先の障碍概念はこの「構想力の揺動」として提出される概念である(注13)。
   再びフィヒテを引用しよう。「障碍は自我が能動的である限り、自我によって生ずる。従って障碍は自我が能動的である限りにおいてのみ、障碍である。障碍の可能性は自我の能動性によって制約される。すなわち自我の能動性がなければ障碍もない。さらに自我の自我自身による限定の能動性は障碍によって制約されているだろう。すなわち障碍がなければ、自己限定もない。さらに自己限定がなければ客観もない、等々」(同 p.156)。
   木村は、これを「絶対的に反立したものをその反立という動性において統合する、そうした根源的動態に他ならない」としている(同 p.81)。否定性は安易に肯定性となるのではなく、対立する二者は、それぞれ否定性を維持したままで動的に統一される。
 
   ジジェクはカント構想力論を扱っておきながら、構想力そのものは論じていない。ヘーゲルの構想力論も扱っていない。カントにあまり知られていない構想力論があることも論じない。フィヒテにも構想力論はあるが、もちろんそれも扱わない。構想力概念は深められていない。単に構想力という言葉を出しにして、結局いつもジジェクが言っていることがここでも繰り返される。
   では構想力をまったく評価しないジジェクを批判すべきだろうか。構想力概念を主張したカントを、その総合する力のみを重視し、否定的な面を見ていないとしてジジェクは批判するのだが、しかし今度はジジェクが、否定的なものばかり重視して、その否定的なものを徹底することで得られる肯定的なものを評価していないと批判されるだろう。
   確かにジジェクは、構想力の否定的作用だけを評価する。しかし否定を徹底すると肯定になるはずだ。と言うより、そもそも否定の徹底を肯定と言うのである。否定の否定が肯定だということ、悪無限の過程を繰り返す内に、その中にすでに真無限が胚胎しているということ、意識の過程はそれ自体すでに自己意識であるということ(『転移』p.311)、これらは皆同じ論理である。現象と物自体の深淵を見ることがすなわち物自体に達するということであり、ふたつの対立物が徹底して対立しているが故に結び付けられるということでもある。これらはすべて同じ、ジジェクが強調するヘーゲルの論理ではないのか。
 
   実際、ジジェクの社会についての考察はいつもシニカルである。ジジェクの強調する否定性からはシニシズムしか出て来ないのか。先に書いたように、ジジェクにおいて、カントの自由概念は徹底的に批判されている。そしてカントの『実践理性』は現代の政治哲学に大きな影響を与えているが、ジジェクはそれらをも批判する。例えば、ロールズの正義論がもし実現されたら、「そうした社会は必ずや怨恨の爆発の諸条件を生み出すだろう」と言い、「平等としての正義は羨望に基づいている」と断言する(『ラカン』 p.68f.)。ユートピアは馬鹿にする。連帯だとか、アソシエーションと言った、国家を超えようという模索も冷笑する。しかし希望は否定性からは出て来ないのか。
   ジジェクは構想力よりも現実界を重視する。先に書いた、現実界への応答としての主体、すなわち「主体とは大文字の他者、すなわち象徴的秩序が発した問いに対する現実界からの応答である」という文言がジジェク理論の根本になっている。主体が問いを発するのではない。主体は他者の問いに答えられないという不可能性の空無である。またそこでは、対象aは主体の一番の核心にある現実界の点であり、絶対に象徴化されず、あらゆる意味作用の残滓・遺物として生み出される。
   構想力を内に秘めて象徴的世界に立ち向かう主体ではなく、現実界によって成立させられてしまった主体をジジェクは論じる。まさに「厄介なる主体」である。
   ジジェクはこのように否定性を強調するが、しかしその否定の徹底を通じて肯定性は現れないだろうか。そこは戦略の問題なのではないか。資本主義を否定する運動こそがポスト資本主義であるという結論を私は導きたい。つまり否定を徹底することで、次の世界が見えて来るはずである。
   次回、ナチスに加担したハイデガーを参照して、この問題をさらに考えたい。そこでは「政治的主体」、「資本主義を変革する主体」がテーマとなるはずである。
 

1 ジジェクの著作は、参考文献表にあるように、すべて略称で表す。
2 黒崎政男を参照した。また拙稿、当サイト「病の精神哲学3 カントの構想力論」を参照せよ。
3 カントの引用について、カント業界では、第一版の原文のページ数をAとし、第二版をBで表すのが慣例なので、私もそれに従う。
4 もっともジジェクはここで『純理』第二版を引用する。先のB151f.の箇所である。この引用部では、構想力は総合する力だとされつつ、しかしそれは悟性に吸収されるということになっている。だから第一版を使った方が、もっと積極的に構想力の意義を訴えられたはずである。そもそもジジェクはこの第一版と第二版の区別をあまり重要視していないようだ。
5 拙稿、当サイト「ジジェクのヘーゲル理解は本物か(1) 闇と鬱」参照せよ。すでに当サイトで詳細に論じているので、本稿で必ずしも引用先は明示しない。
6 拙稿、当サイト「病の精神哲学6 実在論から目的論へ」を参照せよ。
7 拙稿、当サイト「病の精神哲学4 カントとヘーゲル」を参照せよ。
8 『厄介な』p.78の注47に『症候』を参照せよとある。『症候』はジジェク本人が言うように、『厄介な』と内容が重複する。前者はラカンの側から、後者はカントとヘーゲルの側から同じものを見ている。
9 『神話』において、フィヒテ論はより詳しくまとめられている。さらにそこでは、フィヒテの前期と後期の理論の違いや無限判断論も扱われている。
10 ラカン論は、ジジェクのすべての著作にあるが、とりわけ『斜めから』は重要である。その第1部には、現実界と対象aの説明があり、有益である。ここで脇道に逸れるが、ジジェクはカオスを対象aだとしている(同 p.80)。カオス数学と複雑系進化論は、私の知る限りジジェクだけが認めている。皆、デリダやマラブーに倣って、数学や進化論と聞いただけで、それは支配の学問、強者の論理だとしてしまう。しかしカオス数学と複雑系進化論は、これこそ偶然性を認める立場だということを、ジジェクを援用しつつ強調したい。このことはヘーゲルと聞いただけで、すべてを体系化する形而上学だとか、国家中心の全体主義だとかと決め付けてしまうこととまったく同じなのである。
11 この問題については、野尻英一と池松辰男を参照せよ。
12 拙稿、当サイト「病の精神哲学2 カントの「心の病」論」を参照せよ。
13 木村博を参照する。木村はAnstossを「撥ね返し」と訳す。フィヒテの隈元忠敬訳と『神話』では「障害」という訳語が使われる。ジジェクの『厄介な』では、「障碍」と訳される。私はこの訳語を使う。
 
参考文献(著者名のアルファベット順)
フィヒテ, J. G.,『全知識学の基礎・知識学梗概』隈元忠敬訳、渓水社、1986
ヘーゲル, G. W. F.,『精神現象学・上下』金子武蔵訳、岩波書店、1971, 2002
—-  『精神哲学・上下』船山信一訳、岩波書店、1965
—-  『小論理学・上下』松村一人訳、岩波書店、1951, 1952
ハイデガー, M.,『カントと形而上学の問題 ハイデガー全集3』門脇卓爾訳、創文社、2003
池松辰男『ヘーゲル「主観的精神の哲学」 – 精神における主体の生成とその条件 -』晃洋書房、2019
カント, I.,『純粋理性批判 カント全集4,5,6』有福孝岳訳、岩波書店、2001, 2003, 2006
—-   『実践理性批判 カント全集7』坂部恵他訳、岩波書店、2000
—-   『判断力批判 カント全集8, 9』牧野英二訳、岩波書店、1999, 2000
—-   『人間学 カント全集15』渋谷治美訳、岩波書店、2003
木村博「フィヒテ自然哲学の基底 - 構想力の揺動 -」『ドイツ観念論と自然哲学』伊坂青司他編、創風社、1994
黒崎政男『カント『純粋理性批判』入門』講談社、2000
野尻英一「未来の記憶 – 哲学の起源とヘーゲル構想力についての断章 -」『哲学の戦場』那須政玄他編、行人社、2018
ジジェク, S., 『ヒステリー』『もっとも崇高なヒステリー者』鈴木國文他訳、みすず書房, 2016
—-  『イデオロギー』『イデオロギーの崇高な対象』鈴木晶訳、河出書房, 2000
—-  『斜めから』『斜めから見る – 大衆文化を通してラカン理論へ -』鈴木晶訳、青土社, 1995
—-  『症候』『汝の症候を楽しめ』鈴木晶訳、筑摩書房, 2001
—-  『滞留』『否定的なもののもとへの滞留』酒井隆史他訳、筑摩書房, 2006
—-  『転移』『快楽の転移』松浦俊輔他訳、青土社, 1996
—-  『厄介な』『厄介なる主体1.2』鈴木俊弘他訳、青土社, 2005, 2007
—-  『身体なき』『身体なき器官』長原豊訳、河出書房新社, 2004
—-  『ラカン』『ラカンはこう読め』鈴木晶訳、紀伊国屋書店, 2008
—-  『ジジェク自身』(& Daly,G.,), デイリーとの対談『ジジェク自身によるジジェク』清水知子訳、河出書房新社2005
—-  『神話』(& Gabriel, M.,)ガブリエルとの共著 『神話・狂気・哄笑 -ドイツ観念論における主体性-』大河内泰樹他監訳、堀之内出版 2015
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x8107,2021.03.01)