【提言】学問研究の自由と学問批判の自由

石塚正英

 
   ウノ・ハルヴァ著・田中克彦訳『シャマニズム―アルタイ系諸民族の世界像―』(全2冊、平凡社・東洋文庫、1971年7月)の「再刊にあたって」(1989年3月)において、田中は同書翻訳・刊行当時の心境として、次の述懐を綴っている。
 

   本翻訳書があらわれてから、じつに十八年の歳月が流れた。旧版の「訳者のあとがき」で述べておいたように、本書の翻訳がどうしても必要だとして、私にそれをすすめられたのは大林太良氏であったが、じつは私自身にも、いかに骨が折れてもこの翻訳だけはやっておきたいという、ものにせかれるような気持ちがあった。それを、「たずさわっている地域からすれば、訳者にとっても、氏以上に翻訳の刊行は切実であった」というふうに、当時は抽象的にしか表現しなかったが、いまはその「切実」だと思われた事情をはっきりと述べておきたい。その事情というのは、当時、日本のほとんどすべての大学をゆさぶっていた大学紛争のことである。
   当時私の勤務校であった東京外国語大学もその例外ではなく、いやそれどころか、紛争が最も鋭いあらわれかたをした場所であった。なかでもモンゴル語学科は、学問と教育にかかわる、内的・外的矛盾の容赦のない噴出を前に、なすすべもなかった。私はいまでも、当時の学生の叛乱の真の原因は、決して政治的な動機によるものではなく、大学と、そこの制度の中で学ぶということの根本の矛盾が風俗の変化として現われたのだと考えている。研究者という生き方も風俗の一つであるとするならば、多くの人たちが試みたように、学生に対して政治的な答えを出そうとするのは見当違いであって、そこはあくまで研究者として応えなければならない性質のものであると考えた。私は叛乱する学生たちと対話ができるためには、かれらの手に、とにかくハルヴァの翻訳を握らせたいと思ったのである。(第2分冊、303-304頁)

 
   田中は1934年生まれである。その彼が、大学の教員・研究者としてこの翻訳を完成させた35~36歳の頃、1949年生まれの私は20~21歳前後の大学生で、学費値上げ反対闘争や大学立法(警察力の大学構内への立ち入りを認める法案)反対闘争を繰り広げつつ、「学問論の構築へ向けて」を『立正大学学生新聞』に連載していた(上条三郎名、229~231号、1970年12月~71年2月)。その動機は、まさに同時期に田中が考えていた「大学と、そこの制度の中で学ぶということの根本の矛盾」を突くことだった。
   私が立正大学で論戦を挑んだ教員の中に、田中克彦と同様学生に真摯な態度をとる人物は数人いた。その一人に生物学教員の中村禎里がいる。1932年生まれの中村は、『ルイセンコ論争』(みすず書房、1967年)をまとめた後、『河童の日本史』(日本エディタースクール出版部 1996年)などという民俗学の本もまとめた。その中村は、私が「学問論の構築へ向けて」第3回を掲載した『立正大学学生新聞』(231号、1971年2月、1面)に、「自然科学と近代合理主義」を掲載した。その中でこう記した。
 

   人間に似た機械や装置の作動は、並みの意味での技術革新の効果を発揮するだけではない。数量的な制御にくみこみ難い、非合理で不確定な要素をふくむ人間を、生産過程から必要で可能であるかぎり排除し、それにかえて疑似人間を置くことこそ資本が生物工学に託した課題であろう。
   こうした新しい生物学、すなわち生物工学は、放置しておくならば現存の生物または人間という定在そのものに、しだいに無関心になるであろう。生産における抽象的機能が、現実の生物や人間に等しければよいのであって、それらのほかの性質は捨象される。

 

 
   1970年段階にあって、田中や中村のように、自己のよって立つ個別領域すなわち学問する営為の中で、各自各様の動機付けの下で、教員と学生が学問の協働構築者として向き合う方向を示した研究者たちは、確かにいた。
   38歳から70歳まで、私は東京電機大学の教壇に立っていた。開講講座の一つ、「科学研究と学問論」(2007年度)は、履修生に対する私なりの、生涯をかけた学問論構築の一局面を講じるものだった。そのシラバスを一部引用する。
 

人はなぜ学問するか。自然や社会について知りたいからか。つまり、人間はホモ・サピエンスだからか。では、人間は動物と違って、なぜホモ・サピエンスなのか。福沢諭吉は『学問ノススメ』をかいたとき、天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず、とした。人間は、動物と違って自由や平等を求めたがるが、それは学問によって得られるのか。では、人間はなぜいつまでたっても戦争をやめないのか。学問=科学して原爆つくる愚考を犯しているのは人間である。動物ではない。倫理観と責任感のない学者=科学者は社会の害悪である。動物以下である。本講義では、そのような諸問題「科学研究と学問論」を解説する。
   その際、経験知や感性知の立場を前近代的と見なして拒否するのでなく、これを知の体系の一方の極に据えて、また他方の極に科学知や理性知をおき、双方を交互的な運動や相互的な往還といった動的なサイクルに位置付けしなおし、連合させていくことが意味をもつであろう。その先に見えてくる新しい知をここでは〔歴史知〕と呼ぶことにする。本講義では、こうした歴史知的な世界観を、日常生活をしたたかに創造する積極的な要因とみて、解説講義の主題とする。

 
   古稀を過ぎて、私はとんでもない観念を闘いの相手に選んでいる。人間の内部に存在するとして誰もが疑わない〔人間の本質〕を相手にしているのだ。内部にコア〔人間なるもの〕〔人格〕があると考えるから人間身体から環境的自然へという〔内発的〕な人間形成概念が成立してきた。けれども、そのように想定されてきたコアは、見方によれば外部からもたらされたものによって凝固結晶しているのだ。人間から人間の変容を説明するのでなく、環境的自然から人間の変容を説明することが理に適っている。〔外発的人間身体〕である。そうであるから、ようするに、実在としての自我の否定である。自我は、身体を介して環境から取り込まれる様々なモノとコトの結節点として関係的に生成するだけなのだ。このような自我否定の学問は学校教育の破壊であり、青少年の情操教育に百害あって一利なし、と論難されそうだ。けれども、ここまで極端な議論を可能にすることこそ、学問研究の自由であり学問批判の自由なのではないだろうか。(2020年12月10日、成稿)
 
(いしづかまさひで:科学者倫理を考える会)
 
(pubspace-x8029,2020.12.13)