主体の論理 (1) フロイトの事後性について

高橋一行

 
  この古色蒼然たる題名は、しかしM. フーコーやJ. ラカンやJ. バトラーの理論が私たちの共通認識になったと思われる現在において、あらためて意義を持って来るのではないかという思いがあって付けられている。このテーマで以下、数回に分けて書いて行きたい。
  そもそも主体というのは、近代哲学の提起した重要な概念であるが、ポストモダンになって、それが歴史的に制約されたものだということが明らかになり、場合によってはその解体が叫ばれ、またその基盤の脆弱性が主張され、主体はそもそも空無なのだとも言われるのだけれども、私はここで、それらの言い分はどれも正しいと思いながらも、しかしなお主体は生成する、つまり嫌でも応でも主体化は生じているということを論じたいと思う。
  具体的に言えば、今回はフロイトの事後性という概念について、それをヘーゲルのそれと比較して説明する。主体がまだ生成していない段階で、そこに存在するのは偶然的な事象なのであるが、それを事後的に主体が意味付けして、そのことによって主体は主体として生成する。この機構を具体的に説明したい。
  例えば、性的な主体ということを考える。人は異性愛者か、同性愛者か、またはそのどちらのカテゴリーにも入らないかのどれかであるが、議論を簡単にするために、異性愛者か、同性愛者かのどちらかだとする。どちらであるかは偶然的な出来事である。人は自らの傾向をどこかの時点で自覚する。異性愛者であれば、多数派に属しているので、自らそうであるという自覚がないかもしれないのだが、同性愛者であれば、成長過程のどこかの時点で自分が少数者であることに気付く。そこでその個人はどう社会に対して向き合うのか。それは強く自己主張をして、異性愛者を攻撃する場合もあり、なかなかカミングアウトできずに悩む場合もあり、そもそも自分は何者なのか、よく分からないという場合もあり、そういう具合にそれぞれの主体化が図られているのだが、しかし結論を先に言っておけば、その主体化の機構は実は同性愛者と異性愛者の場合と変わらない。どちらも偶然そうなったのであり、いつの時点かでそのことに気付き、あとはどうそこから主体化するかが問題となる。このことは次回のテーマで、バトラーを参考にしつつ、彼女のフーコーやラカン批判を検討しつつ、確認をしたい。
  そしてその次の回では、当事者研究というテーマで書きたいと思う。同性愛者や自閉症者や様々な形態の障碍者といった少数派がしばしば当事者として自らを研究対象にしている。客観的であるべき研究で、しかし主観的であることは実は客観に迫るための最も大きな力であると私は思う。つまり私は当事者研究を望ましい研究のスタイルであると思う。しかし事態はそれほど簡単ではなく、自分のことは自分が一番良く知っているという面と、同時に自分のことは自分では分からないという面もある。当事者研究を通じて、何とか主体化が図られ、自らが置かれている社会の中での関係性が自覚される。ここでも自らが少数派であること自体は偶然的なものである。そして事後的にそのことに対しての意味付けがなされる。そこから得られる結論は、誰もが偶然に、何かしらの当事者であるということである。当事者研究は、この10年ほどで急速に進んで来た学問領域である。いくつかの本も出ていて、それらを参考にする。
  さらにはその後に、神経症、統合失調症、鬱、自閉症の当時者の主体化を論じる。この4者を同格に並べてしまうことに違和感を覚える人もいるだろうけれども、順に最初のふたつは19世紀と20世紀を特徴付ける精神の病であると言われ、あとの二者は私の考えでは、21世紀に特徴的な精神の状態でないかという問題意識で並べられているのだが、ここでもそれらの当事者の主体化の構造は、基本的に健常者と呼ばれる人の機構と変わらないはずである。そもそもラカンには健常者という概念はない。つまり彼の考えでは、人は誰もが神経症者か、精神病者か、倒錯者か、自閉症者のどれかなのである(注1)。
  その程度に見通しを与えておく。さらに、G. ドゥルーズとF. ガタリの書いた二冊の本、『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』の副題がどちらも「資本主義と分裂症」となっていることに明らかなように、上述の問題意識がまさに資本主義との関連で考察されるべきであろうと私も思うのである。このことについては、資本主義を超えたいのに越えられないという感覚があり、加速させれば超えられるのではないかという楽観もあり、シンギュラリティがいきなりやって来て、すべてを解決してくれるのではないかという千年王国待望論もある。加速主義と呼ばれる主張である(注2)。それを参照しつつ、人は資本主義をどう生き抜くのか、あるいはそれにどう対処するのか、またはそれをどう克服するために模索するのかということが問題となる。ここからが本題となる。
  つまり、この資本主義と主体というテーマを深めて行きたいと考えたとき、私が馴染んで来た言い方では、一般に主体化とは、歴史の事象の中に必然性を洞察して、それに身を投じることだとされる。そのまさに変革の主体となることが、自由になることと同義なのだとされる。そして、それはまさしくヘーゲルとマルクスの考えに由来するのだと言われる。しかし本当にそうなのか。
  言い換えれば、主体化とは、敵と戦い、弾圧に屈せず、強く自己主張をして、同志と連帯をし、オルグをして組織固めをする。それが主体だとされるかもしれない。しかし、集団の中で、皆と同じでありたい、空気を読んで自己主張はしないという、昨今の若者のあり方だと言われるものもまた主体ではないか。そのどちらがより望ましいというものでもないだろう。本稿は、どういう主体が良いのか悪いのかという話ではなく、人は嫌でも応でも主体化してしまうのであり、その主体化の機構を問題にしたい。それぞれに歴史的、社会的に規定された主体化があり、しかしその機構を確認したいと思うのである(注3)。
  ここで歴史における偶然の事象を貫く必然があり、それを認識して、社会変革のために立ち向かうことの中に自由があるという考えは、間違いではないが、厳密に議論がなされるべきである。このことは、このあとすぐに検討される。
  私が本稿で提起するのは、ここで必然性は事後的にしか見出せないという考え方である。この様に考えると、必然性を認識して、そこから自由が得られるという考え方も、だいぶ意味合いが変わって来るのではないか。
 
  この事後性という概念について、まずフロイトの考えを参照してみたい。結論を先に言えば、これはこのあとで展開するヘーゲルの考え方と同じものである。
  フロイトは「心理学草案」の中で次のように言う。「事後的(nachträglich)にのみ外傷となった想起が抑圧されるということは至るところで認められる」(Freud 1987 = 2010, p.448 = p. = p.67)。このことは次のように言い換えられる。「防衛-神経精神症再論」の中では、「幼少期の外傷体験は事後的に、新たな体験と同じように作用するのだが、それは無意識においてなのである」(Freud 1952=2010, 原注3、p.384 = p.199)。
  過去の出来事は、のちになって想起され、事後的に変形や強調を蒙って、心的外傷となる。過去の経験はそのままでは経験として成立していない。それは単に偶然的な出来事であって、その個人の中で体験として位置付けられていない。それを事後に思い出すことによってのみ、それは体験としての性質を獲得する。とりわけ8歳までの性的体験は抑圧される。一旦抑圧されたものが、のちに病として現れる(注4)。
  これが事後的という言葉の意味である。その経験がなされたときには、まだそれは意味を持っていないから、厳密にはまだ経験とは言えない。のちに意味付けされて初めて、それは経験となる。そして主体が、その経験を持つ主体として成立する。
  事後的という言葉の意味がここでは分かりやすく示されている。偶然の事象が事後的に必然と認識される。主体が偶然の意味付けをする。または意味付けを否定し、それが無意味であることを自覚する。そういう場合もあるだろう。いずれにせよ、そのような操作を経て、偶然の出来事は体験となり、主体の中に位置付けられる。
 
  このことをヘーゲルの論理と比較する。まず、偶然を貫く必然を認識して、自由になるという考えは、考え方そのものとしては正しいと思う。そしてまたそれはヘーゲル論理学に由来するのである。
  ヘーゲル論理学は、その第二部の本質論の中で偶然と必然の議論があり、そこで偶然は必然に転化し、そのことを認識すると、第三部の概念論に進む。このあたりについては、私は何度か書いてきたが、簡単に言うと、偶然が実在するということがまず議論され、またその偶然は条件が整えば、媒介を経て必然性に転化する。その必然性を思考することこそが自由であり、この自由が自我とも呼ばれる。それがヘーゲル論理学の展開である(注5)。
  しかしそれを私は次のように読み込む。つまり偶然がまず存在し、そこに様々なレベルでの秩序化が生じ、それを事後的に見れば必然と見なし得るという見方をする。それが偶然の必然への転化ということになる。そしてそのことを自覚して人は主体化する。歴史の必然を認識するとは、まさに自分が置かれた偶然的な状況を自ら意味付けして、生きて行くということなのである。
  さて、そのようにヘーゲルを読むことはできるのか。いろいろな角度からその根拠を補強してみたい。以下、ヘーゲルの「論理学」における存在から無への移行について見て行きたい。『小論理学』の無の説明のある節には、「追思惟」(Nachdenken)という言葉が出て来る。これはヘーゲルのキーワードである。結果を前提にして、物事の進展をその結果から考える思考方法である。つまり事後的に必然性を認識する方法である。「存在及び無に対して、より深い諸規定を見出すのはこの追思惟という論理的思惟であり、この思惟によって諸規定は偶然的でなく、必然的な仕方で生み出されるのである」(87節注)。
  ここに事後性が明確に説明されている。最初に存在しているものはまだ規定性を持たない。それに対して人の思惟が規定を与える。そういう説明がなされている(注6)。
  もうひとつの根拠がある。加藤尚武の「確率論の哲学」という論文を参照する。
  まず、しばしば偶然性を基礎付けたのはヒュームであると言われる。そしてそこからカントが、何とか必然性を根拠付け、さらには自由を論じ得たとされる。しかし本当にそうなのか。
  その通説に対して、まずヒュームは偶然性を基礎付けていないと加藤は言う。ヒュームはニュートンの決定論的な世界観を承認し、しかし人間の能力ではそれを認識できないという不可知論を展開した。そのために、あたかも偶然が実在するということをヒュームが基礎付けたかのように言われる。しかしヒュームはただ単に、人間は、必然性を偶然性としてしか捉えられないとしたに過ぎない。
  そしてそのヒュームを受けて、さらにカントとヘーゲルがどう対処したかということを、的確にまとめて行く。まずカントはヒュームに倣って、ニュートン力学の必然性を認め、しかしヒュームと異なって、人間の自由を保障しないとならないと考える。そこで彼は現象世界と物自体を分け、物自体は認識できないが、人間の自由を保障するものという地位を与えたのである。ここまではカントについての通説である(注7)。
  加藤の独自性は、そこからさらにヘーゲルの偶然論について、次のように展開するところにある。「ヘーゲルは、カントが視野に入れたニュートン力学の必然性の枠に収まらないような真理を知っていた」と彼は書く(加藤 p.361)。そしてヘーゲル『精神現象学』から次の引用をする。
 

哲学の境地とは、おのれの諸契機を生み出し、またこれらを遍歴するところの過程のことであり、そこに生ずる運動の全体が肯定的なものとこれの真理とをなしている。だから真理と言っても、同時に否定的なものを内含しており、もし捨象せられるべきものであるとみなされうるとすれば、「偽なるもの」とも呼ばれるであろうものをも内含しているのである。消失するものがそれ自身むしろ本質的とみなされるべきであって、真理から切り離されて、そのそとの何処か分からない処におきざりにせられるべき固定的なものという規定において見られるべきではないが、同様に真なるもののほうでもまた他方の側にあって静止せる死せる肯定的なものと見なされるべきではない。現象とは生成と消滅とのことであるが、しかしこの生滅それ自身は生滅せずに自体的存在を保って真理の生命の現実性と運動とをなしている。かくして真理とは、だれひとり酔わぬものとてはなきバッカス踊りのよろめきであるが、しかしだれかが離れ出ようとすると、すぐにはそうさせないから、このよろめきは同時に清澄純一の安らいでもある(p.46 = p.44)。

 
  この文章はまず、真理は動的な均衡であるということを示している。次に、真理は個別的偶然的な運動の集合が、全体としては必然性を形成するということが心の中で成り立っていると言い換えることができる。さらに真理は共同の主観性であるとも言い換えられる。これはアダム・スミスの思想である。市場経済というバッカス祭に参加するものは、所有と売買の自由という酒に酔っている。
  この偶然と必然観は、本稿で何度も繰り返すが、まさに偶然が必然に転化するということなのだが、それはしかしそれほど単純な話ではない。偶然が根底にあり、それが自己組織的に秩序化する可能性が示唆されている。しかし注意すべきは、その根底にある偶然性の方であり、自己組織の能力もまた偶然にさらされている。つまり秩序化は、因果の必然性ではない。加藤は「共同の主観性」と言ったが、私はそれは事後的に私たちが確認するものだと考えている。共同で事後的に構成するのである。
  ヘーゲルはまず偶然の実在を示し、それが確率的な必然のもとにあること、かつさらには自己組織性の原理に従って、統計的な必然性になり得ることを示したのであり、つまりヘーゲルこそが偶然性の基礎付けをしたのである。
  以上のようにヘーゲルを読んだ上で、もう一度「論理学」の本質論の終わりの方から概念論に掛けての議論を見直したい。追思惟という考え方と、動的な必然性や共同の主観性という考え方を押さえる。
  つまり必然が事後的なものでしかないとすると、その必然を認識して主体が確立されるというのも、事後的に意味付けをして主体化するという話になり、先のフロイトの考えと一致する。しかし変革の主体としてはいささか心許ないように見えるかもしれない。そしてそれはもうその通りであって、主体とはこんなものでしかないというのが、私のここでの結論である。ただこのあとの回で詳述するが、主体の根拠がかくも脆いものであるということが私の言いたいことではない。それは確かにそうなのだが、しかし主体がこのように生成するということが問題なのである。その機構を問いて行きたい。
 

1 ラカンのカテゴリー分けに、鬱がないということに気付かれるだろうが、鬱はふたつのタイプに分かれ、ひとつは神経症的な鬱、もうひとつは精神病的な鬱である。
2 このことは「加速主義について」(全5回 2019.8.24 – 2019.11.20「公共空間X」)で書いた。なお、ここまでの参考資料は、次回以降に示す。
3 最近読んで面白かったのは、『分断社会と若者の今』という本で、そこでは若者は保守主義者になったのではなく、ひとつには経済を重視する物質主義者になったのであり、第二に、高学歴者を中心に新自由主義的になって来ており、そして全体に長い物には巻かれよという、これは権威主義ではなく、宿命主義というべきものになっているという分析がある(吉川他編 第3章)。それは私の感覚でも極めて妥当な感じがある。それに対して私は憂うべき現象だとは思わない。この若者が変革の主体となるしかないのである。
4 邦訳『フロイト全集3』の解題を参照した。
5 拙著『他者の所有』5-3「偶然と必然」、及び『所有しないということ』3-1「偶然の体系『自然哲学』を読む」で、このことを議論した。
6 ここで私は、必然性は認識の領域でのみ成り立つということが言いたいのではない。必然性は主観と客観の相互作用で成り立ち、しかもそのことによって、必然性は客観的に存在すると言い得るのである。
7 この通説に抗って、カント自身が認識できないとされた物自体に迫って行こうとしたというのが、私の「病の精神哲学」(全12回 2017.11.15 – 2018.12.16、「公共空間X」)の趣旨である。本稿はその続きという位置付けが与えられる。
 
参考文献
Freud, S., Entwurf einer Psychologie, Gesammelte Werke Nachtragsband, S.Fischer Vertrag, 1987 =「心理学草案」総田純次訳『フロイト全集3』、岩波書店、2010
—– Weitere Bemerkungen über die Abwehr – Neuropsychosen, Gesammelte Werke Chronologisch Geordnet, S.Fischer Vertrag, 1952 = 「防衛 – 神経精神症再論」野間俊一訳『フロイト全集3』、岩波書店、2010
Hegel, G.W.F., Phänomenologie des Geistes, G.W.F.Hegel Werke in zwanzig Bänden 3, Suhrkamp Verlag, 1976 = 『精神の現象学 上、下巻 ヘーゲル全集4,5』金子武蔵訳、岩波書店, 1971, 2002
———   Wissenschaft der Logik I,II, G.W.F.Hegel Werke in zwanzig Bänden 5,6, Suhrkamp Verlag, 1969 = 『ヘーゲル論理の学』I,II,III山口祐弘訳、作品社、2012、2013
———  Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften I, G.W.F.Hegel Werke in zwanzig Bänden 8, Suhrkamp Verlag, 1970 = 『小論理学(上)(下)』松村一人訳、岩波書店, 1951, 1952 
加藤尚武 「確率論の哲学」『加藤尚武著作集4』未来社、2018
高橋一行『他者の所有』御茶の水書房2014
—– 『所有しないということ』御茶の水書房2017
吉川徹他編『分断社会と若者の今』大阪大学出版会、2019
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x7992,2020.11.07)