マラブーのエピジェネティクス理解を問う

高橋一行

 
   C. マラブーは『明日への前に - 後成説と合理性 -』(以下、『明日』)において、カント理論における「超越論的なものは、発生・発展し、変化し、進化する」と言う(同 p.9)。これがこの本の主張である。カント以後、超越論的なものを捨て去るか、またはそれに反動的に固執するかということが見られるが、その両方を批判し(同 p.287)、超越論的なものの発生、発展、変化を見ること。これが主題である。マラブーは、カントの時代に議論されていた生物学の用語を使い、超越論的なものを前成説的にではなく、カント自らが主張した後成説に従って、カントを読んで行くと言っている。
   ここで最初に、超越論というカントの基本概念について説明する。しかしカントは、実はこの語に明確な定義を与えていない。わずかに、次の文言が見出される。「超越論的という語は、決して物に対する我々の認識の関係ではなく、認識能力に対する我々の認識の関係を意味する」(『プロレゴメナ』p.90)。それはアプリオリな認識能力における認識の機能と言って良い。というのは、カントは『純粋理性批判』(以下、『純理』)で「諸対象に専念するというよりも、諸対象についての我々のアプリオリな諸概念に専念するすべての認識を、私は超越論的と呼ぶ」( p.63)と言っているからである。
   ではアプリオリとは何かということが問題になる。カントは「アプリオリな諸認識を、この経験やあの経験からではなく、端的にすべての経験から独立に生ずるような諸認識」のことである(同 p.68)。ここは分かりやすいかと思う。
   竹田青嗣は、アプリオリを、「本来」、「もともと」という意味だとし、超越論的というのは、「人間の認識が基本的に経験を超える枠組みを持つ」という意味だとしている(竹田 p.18, p.36f.)。とりあえず、それで良い。
   次に、この後成説とその対概念である前成説について説明する。
   動物の発生を考える際、子どもの身体の中に小さな雛形があって、それが次第に展開すると考えるのが前成説(preformation)である。後成説 (epigenesis) は、それに対してそのような仕組みを想定せずに個体形成がなされると考えるものである。
   ここでピント-コレイアを参照する。まず、前成説がキリスト教にとって正当な科学観で、それが支配しているところに、近代になって後成説が出て来て、一気にそれが支持されたということではないということに注意が必要である。そういう見方をややもすれば私たちがしがちなのは、今の時点で見ればもはや後成説しか成り立ち得ず、前成説はあまりに宗教的過ぎると思うからなのであるが、事態はそれほど単純ではない。実は科学的な装いをした前成説の方が後成説よりあとから出て来るのである。しかも後成説が支配的になるのは、カントの死後大分経った19世紀末である。
   具体的に書いて行く。デカルト(1596 – 1650)やハーヴェイ(1578 – 1657)は、その機械論的自然観や運動と物質だけですべてを説明しようする理論に基づいて、後成説を主張する。しかし機械論では、機械と生物の違いを説明できない。そこで前成説が浮上する。科学革命が起きて、しかしむしろ機械論的哲学では説明できないために前成説が求められる。
   ヴォルフ(1734 – 1794)、カント(1724 – 1804)は後成説を主張する。それは器官の多様性やその形成を説明するが、世代間の連続性を説明できない。まだこの時期は前成説の方が支配的なのである。しかしこの事実は科学史家が見落としてきたものであるとピント-コレイアは言う。前成説の方が「美しい構成物」なのである。しかもそれは、顕微鏡のような画期的な科学技術に支えられている。このことを科学史家は見誤っている。彼らは歴史的な勝者の観点から前成説を断罪している。カントの時代は、まだこの前成説の方が極めて優勢である。前成説こそ、昔からある発想と当時の最新の技術を結び付けるものである。
   しかしその不利な形勢の中で、カントは『判断力批判』(以下、『判断力』)81節において、「形成欲動」(Bildungstrieb)という概念を出し(注1)、有機的物体において、後成的に形成をする力を認めている (以上、ピント-コレイア プロローグ)。ここにマラブーが着目する。
   もう少し科学史の説明を続けたい。デカルト以降に前成説を理論化したのは、デカルト学派である。著名なところではマルブランシュ(1638 – 1715)やライプニッツ(1646 – 1716)がいる。つまりカントはデカルト流の機械論を支持したが、全体的にはまだしばらくは前成説が主流である。ピント-コレイアは詳細に歴史を追う。それはダーウィン(1809 – 1882)の時代も続くのである。この説明が、この大部の著作をなしている。
   決着が付くのは1894年である。これがこの本のエピローグで述べられる。ヘルトヴィッヒ(1849 – 1922)が発生理論まとめたときである。19世紀の発生学がようやく前成説を批判し得たのである。
   しかし実は現代においても、前成説的な発想は残っているのではないかと著者は問う。例えば恐竜の化石のDNAから生きた恐竜が出現するという映画は、前成説的ではないのか。単離DNAがそのまま新しい生命体を生み出すことはない。しかし世間はそれを誤解する。遺伝子は、両親から半分ずつもらったものを、もう一度全部組み直して、その生を零からスタートさせる。小さな身体の雛形をそのまま親から受け継ぐ訳ではない。しかしあたかもこの化石のDNAの中に、子どもの身体の雛形が入っているという発想は残っている。さらに言えば、生殖細胞の何らかの構造が発生の過程を決めるという発想を前成説的と言うのなら、それは今でも一定の役割を担っている。このことが本稿の主題となる。
 
   さてマラブーはカントの超越論概念は、後成説的なものだと言う。そして私はそれを基本的に正しいと思う。そのことはのちに詳述する。しかしそこからマラブーはさらに次のように言う。前掲書『明日』から引用をする。「17世紀の後成説(epigenesis)から現代のエピジェネティクス(epigenetics)を隔てている数世紀を飛び越えることすら可能になる」と言う(同 p.9)。ここでマラブーは、現代の進化発生学の中から出て来たエピジェネティクス理論を高く評価する。しかしここにマラブーの進化論に対する理解の不十分さが露呈している。
   つまりこういうことである。マラブーは、「遺伝子とエピジェネティクスが取り結ぶ複雑な関係が、・・・過去に前成説と後成説の間で繰り広げられた論争の新ヴァージョンでもある」としている(同 p.146)。つまりかつての前成説vs.後成説の対立が、現代において、遺伝子理論vs.エピジェネティクス理論として再現されているとしている。しかしこのことが成り立つのは、かなり限定的な条件のもとにおいて、ないしは単なる比喩としてである。そもそも前成説vs.後成説は個体発生の話であり、その問題は今や完全に決着が付いている。それに対して、エピジェネティクスは「遺伝学やゲノム、あるいは遺伝子と表現型の関係をより詳しく調べる中で見つけられ、進歩してきた学問分野」(仲野徹 p.27)である。それは進化を説明するのに、遺伝子の突然変異だけによるのではなく、個体の発生過程の変容に着目し、遺伝子機能の変化を研究する考え方である。
   言葉の整理をしておく。DNAはデオキシリボ核酸という物質の略称である。現代生物学は、細胞の中にあるこのDNAを遺伝子と考えている。そして1930年代の集団遺伝学の発達を受けて、遺伝子の突然変異と自然淘汰だけで進化を説明しようというネオ・ダーウィニズムが起き、それは1960年代頃まで主流である。しかし、本稿で扱う中立説など、様々なネオ・ダーウィニズム批判が起き、ネオ・ダーウィニズムは大幅な修正をされる。さらに1980年代から、このDNAを総体として考えようという話になって、これをゲノムと言う。私はこのゲノムという言葉を好んで使うが、マラブーはDNAや遺伝子という言葉を使っている。以下の論述では、それらが混ざって使われるだろう。
   一方でエピジェネティクスは、言葉としては1942年に、「あとで」の意味のギリシャ語に、遺伝学を意味するジェネティクスとが結び付けられて、作られている。それは後成説を説明するのに、細胞がそれぞれの表現型を示す過程において、遺伝子がどのようにその産物と影響し合うのかということが問われることで考えられた学問領域である。それがエピジェネティクスの概念の本質である(同 p.17f.)。エピジェネティクス理論は、後成説の発想の中で、細胞がどう形成されるかを問う概念なのである。ただし当時はまだDNAが遺伝子であることが分かっていない。だからエピジェネティクスはもっとのちになって、「エピジェネティクスな特性とは、DNAの塩基配列の変化を伴わずに、染色体における変化によって生じる、安定的に受け継がれうる表現型である」という定義が、これは2008年に出て来る(同 p.i, p.21)。それは個体の発生の問題であると同時に、それが重要視されたのは、ゲノムの遺伝情報に上書きされた情報が扱われるからである。
   もう少し説明しておく。それは遺伝子の働きを抑える仕組みと言っても良い(佐々木 p.2ff.)。遺伝子が発現する過程で、エピジェネティクス的な調整が行われて、生物の形態が変わって来る。朝顔の花の模様や三毛猫の柄が個体によって異なるのは、色を決める遺伝子が細胞ごとに調整され、どの細胞で遺伝子のスイッチが働くかは偶然決まり、その偶然によって模様や柄が変わって来るからである。
   また肥料を与えられた亜麻の葉が大きくなり、その形質が子孫に遺伝することが知られているが、そこにもエピジェネティクスが関係している。これは環境からの変化がDNAの中のメチル基を変化させ、これが遺伝子の働きを変えて、新たな形質を生むために生じる現象である。その変化したDNAメチル化状態は、そのまま子孫に伝わる。つまり獲得形質が遺伝する。
   この獲得形質の遺伝は画期的な話である。というのは、ネオ・ダーウィニズムにおいて、獲得形質は遺伝しないというのが根本で、進化は遺伝子の突然変異と自然淘汰だけで行われると考えられたからである。このがちがちのネオ・ダーウィニズムは、その後様々な修正が施されて、本稿のこのあとに詳述するが、今や突然変異と自然淘汰だけで進化を説明することはなくなっている。
 
   ここで先にマラブーの言うところをまとめておく。
   カントは『純理』第二版で、後成説に言及する。マラブーはその27節を詳細に読み解く(『明日』第1章)。そこでカントは思考本来の発生的な力を重視する。カテゴリーと対象との一致は、その一致が創造的で自己形成的な関係の産物である。それは生物学のアナロジーを使えば、あらかじめ定められた調和の産物だと考える前成説でもないし、無機物が奇跡的に活性化するという偶然発生説でもなく、後成説であるほかない。
   さてこの問題は、様々な研究者たちの論ずるところとなる。マラブーは、『ヘーゲルの未来』(以下、『ヘーゲル』)という本の中で、ヘーゲル読解の中から可塑性の概念を得たが、この可塑性という言葉は、ヘーゲルはほんの数か所でしか使っておらず、さらにマラブー以外にその単語に着目した人はおらず、マラブーがかなり強引にヘーゲル理論を象徴する概念として強調していた(『ヘーゲル』p.45)。しかしここカント論では、カント理論が後成説的であるかどうかということは、多くの研究がすでにあり、マラブーはそれらの研究をいつくか取り挙げて詳細に検討する。つまりマラブーは、ヘーゲル論とカント論で、手法を変えて論じ、しかしこれは本稿ののちに説明するが、結論を先に言えば、そこで得られた可塑性とエピジェネティクス性はその特徴においてかなりの程度重なる。このことを先に指摘しておく。可塑性については、これもあとで詳述する。
   本題に戻る。カント後成説論を論じる際のひとつの考え方は、カント自身は、自らの理論を後成説的だと言ってはいるが、しかし後成説と超越論的なものは両立できず、超越論的なものをカントが扱う限り、それは前成説的であるはずだと主張するものである。そういう意見に対し、マラブーは、超越論的なものの自発的な形成以前に超越論的な必然性があるとする考え方は、却ってそれは、超越論的な必然性の偶然性を肯定することになってしまうと言う。超越論的なものが生成する、その力を見なければならないのである(『明日』 p.120)。
   もうひとつは、カントを前成説だと見る見方だと、それはどうしても神学的になってしまうということで、それを拒否して後成説を取ると、今度は超越論的なものまでが捨て去られてしまう。とりわけここでネオ・ダーウィニズムが批判される。つまりカントをネオ・ダーウィニズム的に読む論者がいて、彼らは、カントのカテゴリーと経験の対象の一致を適応と進化によって説明できると考え、超越論的なものを必要としなくなってしまうのである(同 p.122f.及びp.140)。
   これは強くマラブーによって批判される。マラブーの発想の根本に、このネオ・ダーウィニズムへの強い拒否感がある。超越論的なものが進化論によって消えてなくなってしまうのを何よりも強く非難する。
   ここで登場するのがエピジェネティクスなのである。それは「表現型を構築する過程で、ある遺伝子の働きを活性化させたり、抑止したりするのを決定する」ものである(『明日』 p.144)。それは個体発生の問題であり、「この発生は自律的で自己形成的な成長、形成力を持つ成長」(同 p.145)である。
   このエピジェネティクス理論は遺伝子万能論を批判するものとして高く評価される。一方で、遺伝子の突然変異と自然淘汰ですべてを説明しようとするネオ・ダーウィニズムに対しては、それでは超越論的なものが消え去ってしまうという危機感から、エピジェネティクス理論の超越論的なものの形成力に期待する。他方で、遺伝子理論をまったく正反対に捉えて、それを個体発生において考えると、遺伝子理論は、すでに個体発生を完全に支配するものとして現れ、それはあたかもかつての前成説のようであり、つまりかつての前成説vs.後成説の対立が現代において、遺伝子万能論vs.エピジェネティクス理論の対立になると言うのである。
   後者の観点から説明を続ける。確かにこういう理解はあった。つまり遺伝子万能論は前成説的だという説明はあった(注2)。しかし先に取り挙げた仲野徹がはっきりと書くように、「エピジェネティクスという学問分野は、遺伝学やゲノムといったパラダイムが転換して現われたものではない。遺伝学やゲノム、あるいは、遺伝子と表現型の関係をより詳しく調べる中で見つけられ、進歩してきた学問分野」(p.27)であり、そもそも両者は対立していない。
   第二に、ここでマラブーによって、遺伝学もエピジェネティクス理論も、個体発生の問題として考えられている。しかし私は今までずっと、この両者は進化論の中に位置付けられる学問領域だと思っていた。マラブーの説明には著しい違和感を覚える。
   仲野の定義では、エピジェネティクスは「安定的に受け継がれうる表現型」である。また、N. キャリーの『エピジェネティクス革命』という本の副題は、「世代を超える遺伝子の記憶」である。つまりエピジェネティクス理論はどう見たって進化の問題なのである。
   それは獲得形質の遺伝という問題である。だからネオ・ダーウィニズムに対しては、エピジェネティクス理論は革命的である。個体発生が、遺伝子理論だとすべて前成説的に決定されているのに対し、エピジェネティクス理論では、自己形成するから革命的だということではない。遺伝子の突然変異と自然淘汰理論だけで進化を説明しようとする理論にとって、革命的であるということなのである。しかし、1980年代にエピジェネティクス理論が様々な研究成果を伴って注目される以前に、1960年代から遺伝学が進展して、すでにネオ・ダーウィニズムの構図は崩れている。つまりネオ・ダーウィニズムはエピジェネティクス理論によって完全に否定されるが、それはエピジェネティクス理論だけによって否定されたのではない。
   仮に、前成説vs.後成説がゲノム理論vs.エピジェネティクスと並行的に論じられるとしたら、それは(1960年前後に出て来た、遺伝子万能論)vs.(1980年代に自己主張をするために遺伝子万能論を攻撃したエピジェネティクス理論)とするなら、まだ理解可能である。
   確かに1960年代の一時期に、ゲノムが解明されればすべて生物は理解できるという、万能感に満ち溢れた発言があったのは事実である。それに基づいて、多くの俗説が誕生した。その中には遺伝子が個体の生成をすべて決定しているというものまで含まれていたかもしれない。しかし遺伝子にとって重要なのは、それが親から子へ、個から孫へと遺伝するということで、個体がその生成の過程でまったく環境の影響を受けず、すべて遺伝子が決めた通りに発現するかどうかという話ではない。例え環境の変化を個体が受けても、それが遺伝しない、つまり獲得形質は遺伝しないというのが、遺伝子万能論と私がここで呼んでいる考え方なのである。つまり親から子へ、個から孫へと、すでに決められた遺伝子は忠実に伝わるという考え方である。環境の中で、個体の形態や能力が変化しても、それは遺伝子の変化には繋がらないということである。それでは、どうやって進化するのかと言えば、突然変異があり、それが淘汰に掛けられて、適者が残ると考える。そういう考え方である。しかしそこから個体がすべての生成過程がすでに遺伝子によって決められているという俗説が生まれる。マラブーが相手にしているのがそういう俗説なのではないかとさえ思えて来る。
   実際、ヒットラーのクローンを作れば、ヒットラーが生まれるという話もあったのである。しかし一卵性双生児が別個の人格を持った存在であることは、そして肉体的なレベルでも、育ちが異なれば違って来るということは、誰でも知っている。
   エピジェネティクスの重要性は、環境が個体の形態や能力に影響を与えるということではなく、繰り返すが、そこで獲得した形質が遺伝するということなのである。それでエピジェネティクスが革命的であるという話になる。
   マラブーが、遺伝子学が前成説だというのなら、それはその遺伝子の総体が、ある日いきなり完成したものとして出現し、個人の生成を完全に支配するものだということになる。ネオ・ダーウィニズムは遺伝子の突然変異と自然淘汰だけですべての進化を説明しようとするとされて来たが、そしてそれは結果として見れば、まるで個体の変容のための完成された雛形として現れている。それを所与として見ればそういうことになる。しかしそれは今や、以下のような根本的な修正を施されている。
   つまりネオ・ダーウィニズムが前提する遺伝子学は、1960年代以降、様々な批判に晒され、改良される。まず遺伝子は、表現型と接続しないと意味がない。環境の影響をまったく受けずに、遺伝子は突然変異をし、それが直ちに表現型にそのまま反映し、それから自然淘汰が起き、進化が起きるという、あまりにも狭量なネオ・ダーウィニズムは、さすがにごく限られた時期にのみ発せられたものだ。一方で、このエピジェネティクス理論を含む進化発生学が20世紀後半に急速に発展したときに、それ以前の遺伝子万能論に反発して、自らの考え方を革命的だと名乗ったのも事実だ。遺伝子がすでに完成されたものとして存在し、発生は創造ではなく、単にその遺伝子が顕現するだけだという考え方は、確かに前成説的ではある。しかしそもそも進化発生学は、遺伝子学を前提にしており、それを全否定するものではない。
   ここで戸田山和久を参考にする。戸田山はエピジェネティクス理論を含む進化発生学(evolutionary developmental biology、通称evo-devo)について、その理論はどのくらい革命的かと問い、「遺伝子の変異が進化の主要因ではなかったこと」、「発生過程の変容が進化的変化を生み出していること」、「発生メカニズムそのものも進化すること」を挙げて、その革命性を説明している(戸田山)。つまりエピジェネティクスは進化理論として革命的なのである。
   それに対して、遺伝子万能論も突然変異と自然淘汰だけでは進化が説明できないということに気付く。つまり遺伝子レベルでの変異が直ちに表現型の変異に結び付くのか。それぞれの変異がそれぞれ独自にあり、相互作用しているのではないのか。突然変異がすべてを決めているのかということが問われている。
   それでエピジェネティクス理論が出て来る前に、様々な補正が行われる。その結果、遺伝子万能論は、ゲノム理論に変わり、それはマラブーの言葉を借りれば、可塑的なものとなったのである。このことを以下に詳述する。2015年に発表した拙論を短くまとめて紹介する(注3)。
   以下、三つの水準で考えてみる。ゲノムはいきなり神が与えたものではないし、昔良く使われた比喩で言えば、サルがランダムにキーボードを叩いたら、シェイクスピアが出来上がるというような具合に仕上げられたものでもない。
   まず遺伝子レベルでの突然変異は、ダーウィン的な正の淘汰の産物ではなく、中立的な突然変異が多いことが分かる。それが蓄積するのである。これが中立説の主張である(木村資生1986、1988(注4))。集団遺伝学と分子遺伝学が発達し、数量的な研究が進むと、進化に有利な突然変異は極めて少ない頻度でしか起きないことが分かる。それを進化の要因と考えることはできない。進化は淘汰に中立的な突然変異遺伝子が蓄積され、遺伝的浮動、つまり集団内で世代間の偶然的な変動が起きて、それが固定されたために生じるのである。そこに帰納的に無駄と思われるDNAや重複が非常に多い。しかしそれが潜在的な進化の能力となる。ゲノム自身がまずは歴史的に、飛躍と断絶を通じて、38億年掛けて生成して来たのである。
   第二に遺伝子の変異がすぐに表現型の変異に繋がるのではなく、遺伝子がどんどん変異し、その変異が蓄積され、重複と混成を繰り返し、そしてそれが環境の変化に応じて、つまり偶然の環境の変化に触発されて、一気に表現型の変化に繋がる。そこでは遺伝子の変異が問題なのではなく、変異した遺伝子をどううまく使うかが問われている(宮田隆2014)。
   しかも遺伝子が変異しても、すぐには表現型の変化に結び付かないこともあれば、遺伝子は全然変異していないのに、表現型だけの変異が進むこともある。そういう具合に、それぞれ別個の動きをするのである。過去の歴史を見れば、10億年前から9億年前に掛けて、遺伝子レベルでの変異がたくさん生じ、それは多様化する。そしてそれが6億年前から5億年前のカンブリア紀に、形態レベルでの爆発的多様化が起きる。遺伝子の変異が蓄積され、それが環境の変化に触発されて、一気に表現型での変化が起きている。そもそもゲノム理論において、環境からの影響は決定的重要な要因なのである。そこでは遺伝子の使い方が重要だとも言われる。そしてありあわせの遺伝子を活用して、何とか環境に適応する。
   また先の中立説は、遺伝子レベルだけでなく、形態レベルでも成り立ち、例えばカバが突然変異して、その足を失う。それは生存競争に不利なものだが、しかし水辺で暮らしている限り、それほど不利ではなく、中立的と言うべきである。そのカバが川から海へと進出し、クジラやイルカの祖先となる。ここに種分化が成立する。ここでカバは偶然を活用して進化したのである(斎藤成也2009)。
   第三に、これが一番重要なのだが、個体は遺伝子の命令通りに発現するのではなく、一旦個体の中で、その遺伝子の情報を全部解体し、組み直して、その都度生成して行く。つまり自己創出するのである。まさにそれこそが、のちに説明するマラブーの言葉を借りれば、可塑的である。遺伝子は永続するというのではなく、主体としての個体が、その都度一回限りの個体を造り上げている(中村桂子2006)。
 
   もうひとつ、自然淘汰が万能かということも、今や大幅な修正がなされている。ラウプによれば、隕石が地球に落ちて来て、それまで栄えて来た生物の大部分が絶滅し、新たな種が繁茂する。そういうことを地球は繰り返して来たのである。今生きている生物は最も適者であったのではなく、運が良かったのである。それだけの話だ。地球の歴史において、絶滅は大きなものが5回、小さなものは20回以上あったとされている。
   さらに今生き残っている生物を考えると、それは人間も含めての話なのだが、どう見ても環境に最適な構造はしていなくて、世界は多少不便でも何とか工夫して生きているという感じの生物で満ち溢れている。つまり自然淘汰はもちろんある。環境に著しく有害な生物は存続できないだろう。それはしかし、当たり前の話だろう。問題は最適のものが生き残っている訳ではなく、何とか生き残れるくらいのところで生き残っているということなのである。むしろその環境に最適な生物は、隕石の落下などの偶然の環境の変化に、最も大きな影響を受けて、脆くも絶滅したはずである。
   つまり遺伝子の突然変異と自然淘汰は、それは進化の十分条件ではなく、単に必要条件の一部に過ぎない。ネオ・ダーウィニズムは根本から否定されたという訳ではなく、突然変異と自然淘汰は必要なのだが、しかし大幅に修正され、そこではまさにマラブーの主張するように、偶然性と可塑性が根本的なものとなっている。
   
   マラブーは、個体が、遺伝子の命令通りに発現するのでなく、個体の中で創造されているという点に着目する。しかも環境からの影響を重視する。それこそエピジェネティクスだと言う。しかしそれはわざわざエピジェネティクスだと言わなくても良いことだ。それこそがゲノム理論なのである。
   エピジェネティクス理論やそれを含む進化発生学が出て来る前に、遺伝子理論ないしはそれを言い換えたゲノム理論が、すでにこのように発展している。そこではすでに、個々の遺伝子の変異が重要なのではなく、その使い方が重要であるという考えが出て来ている。つまり遺伝子発現ネットワークとそれと強調する分子ネットワークが働いていることが明らかになっている。
   つまりマラブーがエピジェネティクス理論に乗っかって、遺伝子万能論を批判するが、その遺伝子万能論は、自ら修正して、ゲノム論に至り、エピジェネティクス理論が言っているのと同じことを主張している。
   以上を次のように言い換えることもできる。つまり、前成説も後成説も進化論ではない。それは進化を論じるものではなく、個体の生成を論じるものだ。つまりすべて完成されたプログラムが個人の中に内包されているのか、生成して行くのかという問題だ。それはまさしくマラブーが論じている問題だ。しかしゲノム理論もエピジェネティクス理論も進化の問題なのである。つまり個体が生成するという前提で、どう進化を論じるかという問題が、ゲノム理論vs.エピジェネティクスであり、これは両者とも後成説なのである。つまり後成説の中から、ゲノム理論vs.エピジェネティクス理論が出て来たのである。
   マラブーが個人の生成だけを問題にし、進化を論じるつもりがないのなら、前成説vs.後成説だけですべて説明すれば良い。ゲノム理論vs.エピジェネティクスなど出す必要はない。
   以上を指摘する。だからカント理論は後成説的であると言えば良い。それだけだ。あるいは、ヘーゲル読解から着想を得て、『わたしたちの脳をどうするか』(以下、『脳論』)で活用された言葉を使えば、カント理論は可塑的だということになる。可塑性とは、次のような意味で使われる。すなわち、脳は可塑的であるとされる。可塑性とは、『脳論』において、「硬直性を直接に否定するもの」と言われている。一般には、可塑性とは、形を受け取り、形を与える能力を指すが、その形を消滅させることをマラブーは重視する。それは爆発するのである(p.10f.)。『脳論』の結論部では、爆発することを受け入れよと言い、生きるということは、変化の差異を尊重しながら、その差異を変えることができるということなのだとも言う。その差異とは、切断、葛藤、ジレンマを通して形を作り出して行く変化との間の差異である。それは自らを自分に結び付けると同時に、自らのアイデンティティを空にし、硬直したどんな決定をも放棄することを自らに可能にする(同 p.135ff.)。
   つまりカント理論も脳も、また恐らくヘーゲル理論も、後成説的で、可塑的である。ヘーゲルについて、マラブーはあれだけ分厚い本を書いておきながら、この『明日』では一言も出て来ないが、脳の方は、ちょくちょくと言及される。脳については、このあとまた触れることになる。
 
   先に書いたように、個体発生から見れば、遺伝子理論は前成説的だとして、それはマラブーが批判して来たものである。しかしこの遺伝子理論をネオ・ダーウィニズムの中に位置付けると、今度は、これは後成説的かもしれないのだが、それは超越論を消し去ってしまうものだとして批判される。同じ理論が、ふたつの正反対の理由で、マラブーによって批判される。
   マラブーは徹底して、進化論の問題は拒否したい。『明日の』の最終章で、近年はエピジェネティクスの見方を取り入れた進化論もあると、これはほんの一言だが触れている。さすがに進化論がいつまでもネオ・ダーウィニズムの水準で止まっている訳ではないことに気付いてはいる。しかしそこでも、やはり、適応、進化、遺伝という概念は、超越論的な構造という観念とは相容れないとしている(p.329f.)。
   つまりエピジェネティクス理論は進化発生学であり、本来進化を説明する学問領域なのだが、マラブーによれば、それが進化論に取り入れられてしまうと、その有効性を失うようなのである。
   だからカント理論はエピジェネティクスと言った時、そのカント理解は正しいが、エピジェネティクス理論の理解は不十分だということになる。しかしカント理解が正しいのなら、それで問題はなく、エピジェネティクス理解という些細なところが不十分だからと言って、目くじら立てるほどのことはあるまいという批判が当然出て来るだろう。それに対して、このエピジェネティクス理解の不十分さは、マラブーの主張の本質的なところに起因すると答えたいのである。
 
   マラブー読解を続ける。
   進化論ではなく、個体の生成の問題に限定されたエピジェネティクス理論とカント理論が繋がるとしよう。マラブーはここで、先の『純理』から今度は、『判断力』の読解に進む。ここで生が論じられる。「カントは超越論的なものを生の事実性にさらす」とマラブーは言う(p.297)。『純理』27節と、『判断力』81節はともに、偶然発生と前成説を批判し、後成説を擁護するという点で変わりがないように見える。しかし前者が扱う自然法則は機械的秩序であり、後者においては目的論的原理が問われている。機械論のもとで、偶然性は排除されている。しかし目的論のもとでは偶然的秩序が決定的に重要である。
   生物は私たちがいなくても、自己組織化して生きている。相関化を脱している(『明日』p.312)。ここに事実として超越論的な形成力が存在することになる。それが必然性と偶然性というカテゴリーを変容させる。マラブーは言う。「生が思考に突きつける問いとは、超越論的偶然性として規定された必然性の問いである」(p.316)。生物は多様であり、超越論的な自然概念には多数の変容がある。機械論的な決定論的必然性は、ここで生物の多様性という偶然的秩序の統一性へと変容する。超越論は後成的に変容する。
   第一批判において、「後成的作用はカテゴリーの産物そして対象との一致/調和の産物」を指しており、第三批判においては、「目的論的判断とともに突如現れるカテゴリーの変容」を指す(同 p.320)。つまり自然法則そのものが可変的だとマラブーは言う。さらには、「諸法則そのものが偶然的で可変的である」(同 p.269f.)とある。これを可能にするのが生である。カントは『純理』ではデカルト的、ニュートン的機械論の発想で考えて来たが、『判断力』において、生の持つ偶然性と多様性に直面して、『純理』の思考方法を超えることを模索していたとするのが、以前からの私のカント論の骨子なので(注5)、言葉遣いは異なるが、マラブーの目指すところと変わらないと思う。
   しかしこれは進化論が示す偶然性と多様性ではないのか。生物の世界は偶然性が支配し、多様性で満ち溢れている。最適者のみが生きているのではなく、適応に少々不利なものも存在している。むしろ適応したものは、環境の劇的変化という偶然性によって容易に絶滅する。私の描く進化論とマラブーの描く、進化論を拒否した生物の姿と異なるところがない。
   デカルトが機械論的な後成説を唱え、しかしそれでは生物をうまく説明できず、前成説が再び勢力を持ち、長い時間が経って、生物を説明できる後成説になったという歴史をもう一度振り返ったら良い。カント及びカント解釈の歴史において、カント自身が明確に後成説を唱えていたのに、それに抗って、カントは超越論を扱う以上、それは前成説的だという解釈は当然出て来る。それをマラブーは批判し、生物の多様性に着目して、なお後成説を唱えるカントを強調している。
   ところが、生物の多様性は進化の賜物なのである。もちろんカントの時代に進化論がある訳ではないから、カント解釈に進化論を出して来る必要はない。進化論の観点を意識的に排除すると、それはカント解釈において問題は生じないが、しかしエピジェネティクス理論解釈において致命的な問題となる。
   マラブーはエピジェネティクスという進化を説明する学問分野の概念から、進化論発想を徹底的に排除して、その理論を個体の変容を説明するためだけに限定して使い、それで「理性の進化的視点」(同 p.320)を説明しようとしている。これが私のマラブー批判である。
   S. ジジェクは進化論について、次のように語っている。これはフロイトのトラウマやラカンの現実界を論じたあとの記述である。「ダーウィンの読解とデリダ的脱構築との間には、明白な並行関係がある。ダーウィニズムとは一種の「脱構築」の実践であり、・・・「適応」という厳密なダーウィン的概念は、そもそも有機体は直線的な「適応」などしないということを、目的論的な意味での「適応」など厳密には存在しないということを主張していないだろうか。・・・ダーウィニズムが提示していたのは、偶発的で無意味な遺伝子上の変化が生存に役立つものとして遡及的に利用されるという、デリダの差延やフロイトの事後性の一例とも言えるものなのだ」(ジジェク p.238f.)。私の言い方では、この進化論の分野ほど、偶然性に満ち溢れ、可塑性が見られる分野はないのである。マラブーが批判する相手こそ、マラブーの主張する論点の諸特徴を最も良く持ち合わせている。このジジェクの進化論への言及は、ここで直接的には触れられてはいないが、マラブーが批判されていると考えた方が良い。
   以下、少々補足をする。フロイトは、無意識の事後性、つまり幼時の体験の意味がそのときは抑圧され、それが大人になって遅れて意識されるという概念を導入している。つまり意味は常に遅れて発生する。これは出典を特に挙げる必要はないだろう。フロイトの全著作がそれを示している。またデリダが言うのは、世界には差異しか存在せず、その差異を解消して同一性を求めると、その同一性は常に先送りにされる。自己は自己同一性を持とうにも、常にそこには自己との隔たりがある。このことは『声と現象』の第7章や、『法の力』の第一部で展開されている。
   ジジェクはこれをマラブー批判として書いていないが、しかしマラブーが『新たなる傷つきし者』でフロイト批判を展開し、自説の脳論に繋げていることや、マラブーがデリダの弟子で、その偶然の強調はデリダに学んでいることを考えると、まるでマラブーを意識しているかのようだ。このこともまた別の機会に詳述する。
 
   人間を生み出すために自然が存在すると考えるのが目的論で、そういう考えを採用する必要はまったくないが、しかし人間は現に存在しており、その出現の必然性を事後的に追うことはできる。それが事後的な目的論で、偶然を前提に、そこから遡及的に考えれば、様々な自己組織性の論理を見出すことができる。私は進化論をそのように考えている。
   進化論は、精神を持った人間の出現までを扱うもので、精神の構造が問われる以上、超越論的なものが要求される。それがどう生成して来たのかということが問われる。超越論的なものは、偶然を前提にして、しかし必然的に超越論化する。あるいは超越論的なものは必然的に出現する。それはそれ自身、進化する。そういうマラブーの結論は、進化論が問うものである。ジジェクは、またそれは私の意見でもあるが、事後的な目的論という観点がなければ問えないということを指摘している。
 
   最後に3点挙げる。
   第一に、本書の隠れた主題は脳論である。マラブーは、「理性の後成的発生というカント的意味と、脳の発生・発達をめぐる現代的研究のあいだにどういった関係を打ち立てることができるのか」と問う(『明日』 p.328)。そしてそれに対する答えとして、「脳は・・・後成的な冒険に向けて開かれたものである」と言う(同 p.331)。脳はまたエピジェネティクス的なのである。
   しかし私の考えでは、その脳も進化の産物なのである。ただそのように言うと、それは精神性を自然に還元してしまう議論であるかのように思われるかもしれない。脳の持つ過剰さ、環境への不適合性、無駄と重複などが適応概念の中に消滅させられてしまうということになると思われてしまう。しかしそうではなく、そこに見られる爆発と消滅、飛躍と断絶を説明する進化論こそが必要である。
   第二に、本書の目指すもうひとつの論点は、Q.メイヤスーのカント批判を再批判することである。マラブーのメイヤスー批判のポイントは、ラディカルな偶然性が、メイヤスーにあっては徹底されていないというところにある(同 第12章)。この点について、しかし私は、ジジェクのメイヤスー批判と比較して(注6)、別の機会に述べたい。
   第三に、可塑性は、ヘーゲルの否定性のことではないかと私は考えている。これもそのことを展開するには、新たな論文が要るだろう。しかしすでにジジェクがその否定性をさらに、世界の闇だとか、無以下の無だと展開して来たことは書いている(注7)。
   これらの課題を残して、本稿をひとまず閉じることにする。
 

1 カントの訳者は「形成本能」とし、ピント-コレイアの訳者は「形成推進力」と訳しているが、私はこれらの訳を採らない。
 
2 後述する戸田山和久にも、分子遺伝学と進化の総合説が合体して、あたかも発生の前成説が復活したかのように思われるという説明がある(戸田山 p.235f.)。
 
3 拙稿を見よ。以下、すべて「公共空間X」にある。「進化をシステム論から考える(4)中立説について」(2015/09/10)、「進化をシステム論から考える(5)中立説とその後」(2015/09/12)、「進化をシステム論から考える(6)中立説をどう考えるか」(2015/09/13)、「進化をシステム論から考える(7)ゲノムから進化発生生物学へ」(2015/09/24)。
 
4 木村のここで挙げた本は、1980年代に出版されたが、Natureに発表された遺伝子の「分子進化の中立説」は1968年である。
 
5 拙稿を見よ。「病の精神哲学2 カントの「心の病」論」(2017/12/13)、「病の精神哲学3 カントの構想力論」(2018/01/01)。
 
6 拙稿を見よ。「病の精神哲学5 人間が生まれる前に自然は存在したのか」(2018/03/10)。
 
7 拙稿を見よ。「ジジェクのヘーゲル理解は本物か(1) 闇と鬱」(2020/03/07)。
 
参考文献
キャリー, N.,『エピジェネティクス革命 - 世代を超える遺伝子の記憶 – 』中山潤一訳、丸善出版2015
デリダ, J., 『声と現象 – フッサール現象学における記号の問題への序論 -』高橋允昭訳、理想社、1970
—–   『法の力』堅他研一訳、法政大学出版、1999
カント, I., 『カント全集4 純粋理性批判上』有福孝岳訳、岩波書店、2001
—–    『判断力批判下』篠田英雄訳、岩波書店、1964
—–    『プロレゴメナ』篠田英雄訳、岩波書店、1977
木村資生『分子進化の中立説』、紀伊国屋書店、1986
木村資生『生物進化を考える』岩波書店、1988
マラブー,C., 『ヘーゲルの未来』西山雄二訳、未来社、2005
—–    『わたしたちの脳をどうするか』桑田光平訳、春秋社、2005
—–    『新たなる傷つきし者 – 現代の心的外傷を考える -』平野徹訳、河出書房新社、2016
—–    『明日の前に - 後成説と合理性 -』平野徹訳、人文書院、2018
宮田隆『分子から見た生物進化 - DNAが明かす生物の歴史-』講談社、2014
メイヤスー, Q., 『有限性の後で - 偶然性の必然性についての試論 -』千葉雅也他訳、人文書院、2016
中村桂子『自己創出する生命 - 普遍と個の物語 -』筑摩書房、2006
仲野徹『エピジェネティクス - 新しい生命像を描く -』岩波書店、2014
ピント-コレイア『イヴの卵 - 卵子と精子と前成説 -』佐藤恵子訳、白揚社、2003
斎藤成也『自然淘汰から中立進化論へ - 進化学のパラダイム転換 -』NTT出版、2009
佐々木裕之『エピジェネティクス入門 - 三毛猫の模様はどう決まるか -』岩波書店、2005
竹田青嗣『完全読解 カント『純粋理性批判』』講談社、2010
戸田山和久「<エボデボ革命>はどの程度革命的なのか」『現代思想』Vol.37-5, 2009
ジジェク, S., 『全体主義 - 観念の(誤)使用について -』中山徹他訳、2002
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-X7864,2020.06.25)