蔵田計成氏を偲ぶ

草丘望

 
  基督紀元2020年2月22日、蔵田計成氏が前年10月25日に「唾液腺がん」が発見されてから、「頚椎がん」、「腰椎がん」を併発し、「肝臓がん」による衰弱の結果、枯れるようにして死んだ。意味ある付き合いは生きているうちだけだとしていた故人は、生前云っていたように「形式に堕した死を廻る付き合い」を拒絶し、幾つかのやりかけの仕事と鮮明な記憶を残して幽明境を異にした。86歳であった。
 
  山口県由宇町(現在は岩国市に併合)で1934年に生まれた彼は戦艦陸奥轟沈を見、小学校で山肌を光らせたピカドンに遭遇している。柳井高校に進んだ時には通学途中の列車の中で一緒に通学していた隣席の親友を「窓から顔を出した瞬間、何とも云えない音とともにもう居なくなっていた」と電柱事故で亡くすという経験をしている。80歳を超えて、尚その音が耳から離れないという衝撃が、高校生活を「思い出を作れない」ものとし、「死に意味を見出さず、生の充実こそが大切だ」とする合理主義を育んだのであろうが、これは勿論、上京してからの一生懸命な「活動家生活」の基盤ともなったものである。
 
  高校を卒業してから地元で農村改善活動の一環として人形劇の劇団「赤い風船」を作り、巡回活動をし、「柳井タイムス」を発刊し、力道山以前の「プロレス興行」を打ち、力量のないまま地元の顔役への道を進むのに耐えられず、右派社会党議員受田新吉の秘書の身分を借りて上京し、中央区浜町の「中央タイムス」の記者となり57年早稲田大学の二部に入学した。58年新学期のクラス討論の過程でクラス委員となり、生活費の心配をする本人の背を押す形で友人たちの「生活費カンパ体制」が出来上がり、否応なく「活動家生活」が始まったのである。
 
  勤評闘争、警職法闘争を経て、早稲田の全学闘争委員会調査部長の時、11月早稲田祭前日に「無期停学処分」を食らい、58年12月「共産主義者同盟」結成に参加したのであった。59年7月都学連第11回大会で副委員長(その前に6月全学連第14回大会で唐牛委員長体制が確立していた)となって、そのまま全学連書記局員として安保闘争の専従に事実上なっていくのであるが、それは勿論共産同下部活動家、全学連役員としての「オルグ」、「デモ指揮」であって指導部として政治責任や思想的・理論的課題を背負ったものではなかった。
 
  それもしかし、60年4月の共産同第4回大会での指導部の闘争方針提案の放棄、7月の第5回大会での指導部そのものの崩壊、その後の「革通派」、「プロ通派」、「戦旗派」の三分解の中での清水丈夫(プロ通派)への自分自身(革通派)の暴力行使によって、「共存して理論、戦略、戦術を競い合う分派」から「その時に理解できなければ負けを認め、留保するのではなく暴力行使による分裂を狙う分派」に「党的体質を変えてしまった」ことに直面し、「安保闘争の敗北」ではなく、「共産同の解体」の総括を己の責任として背負うことになってしまったのである。共産主義=共同態主義を目指すということは、継承すべき先人をマルクスでも、レーニンでも措定していいだろうが、何よりも未来への試行錯誤の創造活動である以上、分派の共存を認める「共同戦線党」であるより他ないだろうという問題意識である。
 
  61年10月7日、第14回都学連大会招集(佐竹茂都学連委員長)を区切りとして学生運動から退き、ジャーナリスト・「週刊女性自身」の記者として薬害・サリドマイドに「資本による(疎外された人間活動たる)環境破壊問題」であるとして過激にかかわり、その後60年代中期、対米解放戦争中のベトナムへの密航を企て、香港・フィリピン経由で沖縄に送還され、帰国後、「マスコミ反戦連合」を結成し、69年10月には『安保全学連』を出している。60年安保後、今年で60年だが、総評東京地評との係わりについて欠けている弱点があるにせよ、『安保全学連』は闘争史の基礎として今日もその役割を失っていない。
 
  所謂第二次ブンドには関わっていないが、70年代前半、「情況」、「現代の眼」、「構造」、「流動」などによって新左翼の論陣が張られた時、主として「構造」に拠って「武装闘争、戦争論の必要性」を訴えた数人の論者のひとりであったことも忘れられない。千葉正健、さらぎ徳二など本質的には共同戦線党主義者の蜂起戦争派との関係が良かったのも、蜂起戦争派ではない山下誠を認めることが出来たのも、「党の中に派閥を認めることの大切さ」をそれらの人士が知っていたからであろう。
 
  ただ、一生懸命な、真面目な活動家はしばしば世間知らずで純朴すぎて利用される。赤軍派の坂東や田宮を援助した疑いを権力に持たれたのも無防備な個性のためであろうし、「連合赤軍裁判闘争」に熱心にかかわったのも反権力意識からであろう。さらぎの破防法裁判情状証人、千葉の鋲打ち銃による警官拳銃奪取闘争情状証人としてそちらを支持していたことなどは知られていないのだから、損な選択を敢えてしたのである。第四インターや日向派などの「反内ゲバ主義者」に利用されて「反内ゲバ運動」から批判されたのも、「人民内部の暴力的衝突と党内部の暴力による対立」を区別して説明することができず、共同戦線党論の大切さをうまく言葉にすることができなかったからであろう。
 
  東海村JCOでの臨界事故に対してもある意味でそれを事前に予見していた。90年代、一人、人形峠に行きウラン残渣が大量に放棄され、放置されていることに驚き怒り、文章を書き、糾弾し、啓もうに取り組んでいた。そうした中で99年JCO臨界事故が起きたのである。これは2011年の「3.11東日本大震災」時に生じた福島原発事故による大量の放射性物質拡散に対する日本政府・日本社会の「アンダーコントロール」論に抗する「放射能被曝閾値論批判」という形で、死の直前まで粘り強く続けられている。結局、生涯、「資本による(疎外された人間活動たる)環境破壊問題」には厳しくとも、人に優しく、一生懸命で、勤勉な個性は変わっていないのである。
 
  さらぎ徳二著作集刊行委員会代表を務めた21世紀に入ってからは晩年と云ってよいのだと思うが、それでも「9条改憲阻止の会」結成に尽力し、独自に論文を書き、2008年には「アメリカ帝国主義論」第一稿(A4判、203ページ)を完成させている。その後も60年安保闘争の総括問題にこだわり自宅で毎月勉強会を組織していた。中央集権党ではなく、共同戦線党が必要だと云うのもその中での結論である。
 
  彼はし残した仕事があると云って死んだ。彼は「新左翼革命派活動家」である。生涯右派であることを拒絶した。しかし、90年代まで罵倒の限りを尽くしていた西部邁とも21世紀に入ってからは友情と敬意を回復して付き合うことができるようになっていた。「革命のためには保守するものを明確にすることが出来なければ変革できない」ことを了解したからである。一歩一歩ずつ着実に彼は前進していた。明確な課題は、世界革命の中心環としての「アメリカ帝国主義論」であり、日本新左翼革命の挫折態である「共産主義者同盟の総括」であり、日本新左翼論(創成期の頃のことは書いているが、全体論としても意味論としても未定稿)であった。
 
  唐突な死は無念ではあっただろうが、着実に新左翼革命派としての仕事はして、残すべきものは残した。少し残念なのは、「死を悼む人がいる」ことに最後まで知らないふりをしたことである。悼む行為を通じて「志の継承」も「歴史の蓄積」も「否定と肯定としての革命」も出来るのだということに、冷たかったことである。理由は了解できるのだが、義侠の人の最後にそれを批判して、私の無念の追悼としたい。

辞了

 
(くさおかのぞむ)
 
(著者名を間違って掲載してしまいました。著者は草丘望氏です。お詫びして訂正いたします――編集部)
 
(pubspace-x7760,2020.04.21)