天才の分野としての童話

森 忠明

   
   名古屋にお招きいただきまして有難うございます。
   畏敬する新美南吉の出身地に近いこともあり、二十三歳で亡くなった有明昭一良という友人のことを長年書いてきた私なんですが、彼が死ぬ一年くらい前、この名古屋でピアノ弾きの仕事をしてまして、「名古屋はいいところだよー」と、しきりに立川へ電話をくれたんです。また、中学時代からの友人で、林正雄という、いつでも金を貸してくれる男が藤倉電線名古屋支社に十年ほど暮らしていました。そういう、私にとって最重要の人間が御当地に縁がありましたので本日はある感慨がございます。ゆうべ、しかたしん先生にごちそうになりながら、(おれも雲上人のしかたしんと酒が飲めるようになったんだなあ、二十年こつこつやってきたかいがあったわい)と、しみじみ思いました。なおかつ斯界で最もお心が広いと言われております浜たかや先生と一年半ぶりにおめもじできまして嬉しくております。
   
   昨年の講演者は日本で、一番売れている作家だったそうで、今年は一番売れない作家たる私という、この絶妙のバランスをとられた中部児童文学会の御見識に敬意を表する次第です。
   演題は最初『頭のいい人はなぜ童話が下手か』というのにしようとしたんですけど、企画部のうみのしほさんは第二案の『天才の分野としての童話』のほうが好きだったようで、うみのさんから送られてきたパンフレットを見ましたら、この”わが仏尊し”みたいなタイトルに決定してましたので、なるべくそれに沿った話をするつもりでありますが、きっと支離滅裂になるはずで、あらかじめ御寛恕願っておきます。
   まず簡単に私の来歴、自己紹介のようなことを述べておきましょうか。
   小学五、六年の時は『花をくわえてどこへゆく』(文研出版)に書いた通りの登校拒否をしてまして、中学へ進むには進んだんですが、不登校ボケのせいか学業は手につかず、ただ月刊の学校新聞には編集長として打ちこみました。高校の三年間も新聞作りに精をだし、赤点だらけで落第が確定してたんですけど、「文化活動で他の生徒にカツを入れた森の功績は大」という校長の一言で卒業させてもらいました。まあ、中学高校の六年間、学校の予算を使って文章勉強をさせてもらったようなもので、編集長特権により自作の詩や童話をどんどん載せて公器を私物化してたわけです。
   その頃、学研の『高三コース』文芸欄に詩を投稿しましたら、第一席が続きまして、選者の寺山修司から「あそびにきてください」という葉書をもらったんです。
   寺山修司は、才能のある者はほっといても伸びてゆくものであり、添削みたいなことよりも実戦トレーニングというか、「プロになった時の心がまえや作法」をこそ伝授しようとお考えになってましたね。将来インタヴューを受けた場合はこうしなさい、テレビ討論ではああしなさい、誰も読まないような原稿ほど手を抜くな、といった具合でした。私の出来の良い詩は『現代詩手帖』などに一宇一句直さずに載せてくれて、凡作はどこかへ隠しちゃって返してくれないんです。
   NHKの名物ディレクターだった武井照子先生にもずいぶんお世話になりましたが、武井先生も作品についてはあまり言わず、「先輩の出版記念会にディスコのあんちゃんみたいなナリで来た某のようになってはいけません」といったふうな礼儀を主に教えていただきました。ですから、私も、人の作品についてああだこうだ言うのは気乗りしませんが、私自身、大石真先生はじめ、多くの優れた編集者に善導され励まされてやってこれたんですから、後進に逆破門されるまでは精一杯の助力をする気ではいます。
   先に講演されたポプラ社の大熊さんも礼儀正しく優秀な編集者で、私も尊敬しているわけだけど、「三万しか・・」売れない、とか、「五万しか・・」とかおっしゃっていられたので愕然としました。(大熊悟氏から「初版が捌けるためには三万五万の固定読者が必要ということを言いたかったのだ」と弁明あり)ぼくなんか三千も売れないですよ。「森さんのは一番売れません。でも。一番好きです」なんて言ってくださる編集者が三、四人いるからやってられるわけで、三千部だって私にしちゃ売れすぎなんであって、本当の読者が五十人もいたら万万歳といったようなものですよ、文学は。
   千人中、九百九十九人が買いそうな話を書けば、作者も出版社ももうかるでしょうが、作者当人にどうしても必要な文学かどうかとなると問題で、多くの子どもが喜べばいいってもんでもなくなる。
   私は自分が責任のとれる言語、日本語ですが、まあそれもおぼつかないけれど、他国語よりはましだからそれでもって、責任をとれそうなグラウンド、私の場合は立川という生まれ育った町と、一等興味がある自分と自分の子ども時代のことを我流でこしらえてきたことでもわかるでしょうが、とにかく、まず自分に必要な物語であることは確かで、となると、どうしたって千分の一くらいの読者にしか用はないだろう。文学ってのはそういう希少なつながりを信じてやるもんでしょ。「虚事に生きる」わけです。
   書き手も出版社も実益ばかりを基準にしているようでは人間の一代を支配するような名作とは縁がないだろうし、文化をうんぬんする資格もあやしい。
   最近の子どもは本を読まんとお嘆きの教師や親御さんがいますが、そもそも子どもは本など読まなくてもいいのであり、私も中学までは一冊も読んでなくて、ひたすら外で遊び呆けてました。十二歳までに遊び尽くした充足感と、その時空が現在の創作の源になっているんですから、「本を読め」と一度も言わず遊び尽くさせてくれた両親には万謝してます。他人の物語などに全く関心を持たずに成長してゆくことが真の子どもの条件なんです。私はただただ自分の美意識を満足させるためにだけ書いていて、それがそこそこの商品価値を持つらしいので出版してもらっているにすぎず、売れない読まれないからといってどうともない。
   自分が本当に書きたいものを自分以外の何ものもあてこまず、書きたいように書き上げた結果、「こんなの児童文学じゃない」と言われたら「あら、そう」と笑っていればいいので、最初から商業ベースを意識したり賞ねらいというのはプロみたいだけど、邪道みたいですね。
   出版社も商売なので売れなきゃ困るだろうし、『セーラームーン』でもうけた分で売れない本を出すことも出来るんですからベストセラーさまさまなんだけれど、金もうけだけしたければもっと割のいい商売は他にいくらもあるでしょう。石川淳が「出版社などは泣かせるためにある」と書いてますが、名作一つ出してつぶれた出版社も日本文化のためになり、名は残るわけで、文化のためには泣いてほしい。
   
   名は残る、といえば、童謡詩人の小林純一先生の御蔵書だった『校定・新美南吉全集』(大日本図書)を清水たみ子先生の仲介で譲っていただき、全十二巻を読み終えたところなんですが、南吉は十五、六歳で物の核心というか文学の魔のようなものに触れていて、センスの鮮度が時代よりも相当先走ってる天才だということがわかりました。
   長崎源之助さんは「南吉は天才ではないから好き」とか書かれてましたけど、どう見ても南吉は天才です。私流に天才作家の規定をしますと”存在する読者ではなく存在すべき・・・読者を相手にする者”ですから、生前に売れたり御殿がたったりするはずがない。新美南吉にしろ宮沢賢治にしろ、天才というのは命あるうちの名誉や公認を得ることが本質的に不可能な宿因を持っているんだと思う。
   おととしでしたか、岩手県の小学校長が、その人は詩人でもあるんですが、「森忠明の作品には毒や虚無があるから生徒に読ませないことにしているんだ」とおっしゃいました。なるほど、教育者としては一流の判断かもしれないが詩人としては四、五流でしょうね。私の毒なんて岩手の大天才賢治の毒とくらべたら無いも同然くらいの消毒文学ですよ。消毒してれば売れるでしょうが、それはもう文学じゃないでしょう。
   むかし、三十二歳の寺山修司は十九歳の私にこう言いました。
   「庶民というのは一日に二、三回はオマンコだのオサネだのとしゃべってるものなのに、清岡卓行なんて決してそういうこと書かないから信用できないね」
   この言葉の影響は大きい。私が今、子ども向けだからといって差別用語や毒を回避できないのは、その言葉のせいだし、弾圧や禁忌のシステムの先回りして自己規制したりせずに、絶対必要な表現ならば書くだけは書かないと、独創なんて夢のまた夢でしょう。稲垣足穂も「独創的な作品は何より先に編集者から突き返されねばならない」と記しています。
   きょうお集りの中には、賞など取って流行作家になりたいと念じている人も、単に道楽のレベルでもいいとお考えの人もあるでしょうが、現世での承認とお金が欲しい人に対する指南と、天才芸術路線というか後世での知己を望む人への指導法は全然ちがいますから二部に分けてお話したいようなものです。
   ある時、宮本武蔵の前に突然若侍がやってきて、「明日仇討ちをするのだけれど、必ず勝てる方法を教えてください」と懇願する。
   「そんな強敵に勝てるわけがない、出直せ」などと武蔵は言わない。即物的具体的に勝つ方法を考え抜いてやる。精神論をぶったりしない。せんえつながら私もそうしたいと思うんです。
   
   まず、昼間おつとめしている男のかたは会社をやめてヒモになっていただきたい。女のかたは金持ちの男に養ってもらい、四六時中寝ても覚めても作品のことだけを考えられるようにしてください。
   「詩は常に超一級品でなくてはならない」と伊東静雄がのたまっておりますが、童話もそうなんであって、他のジャンルみたいに、二級品でも許されるという世界じゃない。どうしてかという理屈はいっぱい用意できるんですが、今は省略して、とにかく超一級品たる童話をものするには”本当の余裕”が必要です。食わしてもらっててうしろめたいなんて少しでも感じたら駄目でして、優雅な人非人に徹しないと、美しい一篇の、この世への置きみやげは実現しません。こう言うとなんだか必死こかないといけないみたいですけど、”必死こく童話作家”というのはおかしい。他の作家と張り合うなんてのも堕落で、ひたすら自分の創作のことだけを思いつづける。ことし、私はNHKの児童劇団用の台本に七か月間かかりきり、他のことは一切やりませんでした。ギャラの安いことなどゴタゴタ言わない。税務署に申告の時、奥さんに「(稼ぎは)これだけ?」なんて言われても平然としていられるようでないとね。歌人の土屋文明は不動産とか頼れるものを持ってる人間を創作に向かない者としている。銀行に自由になる金がうなってる人や二足のわらじをはいてる人や幸せな人の作物なんてタカが知れていて、どこか甘く、素人くさいんじゃないだろうか。
   質より量、名よりも実のかたがたに忠告しておきたいことがありまして、それは”下手なものを残すと七代以上タタル”ということです。ウハウハ売れまくった御当人は大喜びのうちに死ぬんでしょうからめでたいにはちがいないが、その子孫は「あんたの御先祖、流行ったらしいけど低級だなあ」とかくさされて代々迷惑する破目になるんであって、それでもいいやというんならそれでもいいけれど。
   アマチュア、セミプロのかたがたには、だれがどこぞの編集者と結婚したとか、全く文学と関係ないことばかりにくわしい人が多いようですね。業界の内情なんて何も知る必要はないんであって、本当に書きたいものが完成の域に達していると判断したら好きな出版社に持ちこめばいい。断られてもしつこく持ちこむ。要は目ききの編集者と出会い、育ててもらえばいいのであり、社交で顔を売ったりしなくてもいい。世話になった人には葉書一枚に真心こめて礼意を書けばいいのであり、飲ませたりつけ届けなんかすることはない。
   師について勉強する場合は、その師に身も心もささげ尽くさなければ何にもならないんで、私は男だから惚れこんだ先生に身はささげられなかったけれど、寺山修司、谷川俊太郎、大石真、三木卓、諸先生の著作がボロボロになるまで読みこんだり、抱いて寝たりはしていますよ。フランス文学者の出口裕弘氏が「溺愛者たれ!溺れた者のみが真の論理を得る」と書いていますが、とにかく、これぞと見込んだ師には反問せず、最低二十年はつきまとわないと、その心技体を継承し新展開することはできないと思う。二十年、師と文学に溺れたけど「こりゃ駄目だ」と悟ったら河岸を変えてやり直せばいいんです。死ぬまで修業、終点無し。九十九年無駄歩きでも、あとの一年で無駄が無駄ではなくなって、願いが叶うこともあるんだから。
   一、二冊本が出たり、賞に当たったりすると師のチェックを受けなくなるもんですが、師が生きてる限りチェックしてもらうのが芸の道だし、師は弟子に恥をかかせたくない一心で、どんなに多忙でもみてくれるでしょう。
   
   あと、この業界には本当に文学がわかっている評論家なんて一人か二人しかいないので、その二人以外にケチをつけられても気にしたり一喜一憂しないでください。南吉の小説について非学究的なやり方で滅茶苦茶なことばかり書いている紅野敏郎さんなんかをみれば文芸評論家のたよりなさがわかります。あてにならない批評家たちの文章やファッションぽい、ライン生産している作家のものを読んだってしょうがないんであって、たとえば円地文子や岡本かの子、林芙美子などの作品を含味し、還元し、超絶すべきで、彼女たちが血と肉と魂のすべてをそそいで得た文学に深く食い込んで学びとらなくちゃ、浅く思って浅くでただけのものしか書けないですよ。彼女たちの、とんでもないうまさ凄さに打たれつつ深く思い、そしてそれらを昇華しきって浅くでられた時、真の童話が成るんだろうと思う。その過程は必然的に前衛の相を帯びてくるんで、文学的実験、遊戯、冒険といったことをしなくちゃ児童文学を選んだ意味がありません。私もその手のエクササイズをいささか試みてきたつもりですが、幼友だちの一人なんか毒舌でして、「森は日本一セコイ作家だよ。ろくな取材もしないし、ありふれた同じようなネタで何冊も本にしちゃうんだから変な神さまみたいなもんだな」とか、よく言ってます。
   私が神さまかどうかわからないけれど、文学をやるには、どうしても神力のようなもの、亡霊たちのみちびきとしか考えられないものが入り用ですね。「いい大学でました、国語も得意です、古今東西の名著を読破研究しました」それで出来るようなものじゃなくて。
   私の場合、いわゆるリアリズムに徹しようとすればするほど、目に見えない、いろんな魂の協力を得ていることを感じます。たとえば、亡友有明と歩いた立川の路地には私だけの”神話”ができていて、ただの路地じゃない。死期の近い祖母が買物かごさげてヨロヨロ歩いていた道もただの道じゃない。そういった私の愛する者たちが、どう書けばよいのか教えてくれるんですが、ロラン・バルトも書いているように「人は常に愛する者について語りそこなう」わけで、もうこれで書き切れたということにはならない。次の必要に迫られる。迫られもしないのに作ったおはなしがいくら売れてもむなしいですね、私は。
   賢治も南吉も、死ぬまでに多くの愛する者との別れや喪失があり、それらを形而上学的に、あるいは耽美主義的に、読者が子どもだからこそ、きちんと表現して、ほとんど成功している点を、これからも学びとりたいと思っています。
   
   最後に――この童話の世界に入ってよかったなと思うことは、オーディエンスの素晴らしさですね。評論家や書き手よりも読み手が立派なジャンルなんです。特に読書会などのお母さんかたは、たいへん豊かな読みをしてくださるし、一度認めた作者をどこまでも支持してくださる。こういう熱心な、教養あふれる読者層を持つ世界はめずらしい。
   ただ、子どもに”良書”を読ませたいと願っているお母さんや教育者に言いたいのですが、文学を読むということは、”恐るべき真理”などに子どもが目覚めちゃうことも含んでいて、もしかすれば”良書”のせいで母殺しや教育制度の全否定に及ぶかもしれないということまで見込んでいてほしいと思います。
   
   多々駄弁を弄してきました。私の愚かさを確認するためにもいい機会となりました。慚愧の念にさいなまれつつ、いつかこのマイナスのカードを一挙に傑作というプラスに転じて、本日の恥かきをチャラにする所存です。
   貧乏ですが客ぶとんの一組くらいはありますので、ぜひ立川へお遊びにいらしてください。
   御清聴ありがとうございました。
 
(もりただあき)
 
初出:『中部児童文学』73号・一九九四年十二月・中部児童文学会
 
(pubspace-x7134,2019.09.26)