いしいひさいちから学ぶ政治学(2)――官僚主義に対抗する政治家?

田村伊知朗

 
 

いしいひさいち『いしいひさいち選集』第13巻、双葉社、1986年、126頁。

 
  この漫画は、日本沈没という国難に際して、政治家が自分の選挙区のことしか考えていないこと揶揄している。政治家という官僚組織を統括する主体が、日本全体の利益ではなく、特殊的利益しか考えていない。
  官僚は部分的利益を指向する。しかし、官僚が視野狭窄であることは、必ずしも欠陥ではない。与えられた職務に忠実であればあるほど、そのような結果をもたらす。多くの一般的公務員、とりわけ係長、主任は、課長を社長と呼ぶ。自らの属する課の利益を追求する。あるいは課に属する国民生活に対する忠誠を遂行する。
  たとえば、ある課に属していれば、その利益を追求する。国家全体における当該省の在り方に関して、ほとんど関心がない。役人つまり公務員と話していると彼らの隠語として、社長という言葉が乱発される。公務員組織は、株式会社とは異なり、社長という役職をもっていない。にもかかわらず、この組織に属していない人間に対して、うちの社長という表現を用いる。
  この社長という隠語とその隠語が発される状況は、彼らにとって直属の上司が誰であるかを暗示している。彼らの責任主体は、所属する課あるいは課長である。省益ですらない。いわんや、国益の本質を考察する能力はない。
  官僚機構における国益という考えの欠如は、常識的には政治家によって補正される。政治家、本邦の組織形式を用いれば、大臣、副大臣、政務官等は、必ずしもその省庁の業務に関して精通していない。ほとんど素人同然である。全体的視野から、当該省庁の業務を概観することが求められている。
  しかし、政治家が個別的利益、つまり特定の業界利益、地域利益を追求すれば、国益という観点は看過される。政治家は、次の選挙における当選をつねに考えている。政治家は日本国家の普遍的利益ではなく、選挙区という特殊的利益を追求する。
  日本沈没という国難に際して、大臣を統括する総理大臣も特殊利益を追求すれば、日本は沈没する。この意味をいしいひさいちは、明確にした。この漫画の置かれている状況が、日本沈没という地殻変動であることは、示唆的である。経済的地平でもなければ、文化的地平でもない。まさに、日本列島が消滅する段階でも、政治家が特殊的利益しか考察していない。
  問題は、彼によって提起された地平の彼方にある。誰が国益を追求する。多くの官僚は省益すら追求しない。課の利益がその主要関心事である。誰が国益を普遍的地平で考察するのであろうか。哲人政治家が求められるが、哲人政治家はどこからリクルートされるのであろうか。古色蒼然たる哲学部の卒業生からであろうか。日本には、哲学部という学部はない。せいぜい、文学部哲学科がほそぼそとその命脈を保っているにすぎない。たとえ存在したとしても、彼らの多くは哲学史には精通していても、哲学者ではない。哲学は、官僚機構によって追求される課益、省益には対抗できないであろう。それを超えた地平が求められている。
  
  本稿は、すでに「田村伊知朗 政治学研究室」に掲載されている。In: http://izl.moe-nifty.com/tamura/2019/06/post-f50b7e.html [Datum: 15.06.2019]
 
  (たむらいちろう 近代思想史専攻)
 
(pubspace-6815,2019.07.04)