若生のり子展作品「Overcome Chaos」について

(混沌から人類再生への希望)

かしまかずお

  目に見えるモノが全てでないことは、分かっている。と、人は恐らく思っている。
例えば、重い質量の星の近くでは光は直進できず、屈折進行するように宇宙空間は歪んでいるのは見えない。だが、若生のり子作品「Overcome Chaos」は、目に見えない重力場※1における時空の歪みという一般相対性理論による時空を、絵画表現により可視化し、現代に生きる人間の希望を描き出そうとする。
鑑賞者は、地球が乗った巨大なトランポリンが重力※2で沈み、周囲の時空を歪めている状態(引き延ばしたナイロン生地の上にガラス玉を落として出来る形状)を想像してみると良い。若生はユークリッド幾何学(デカルト座標上)の平面図形でなく、リーマン幾何学(重力場の影響を受ける宇宙空間の複雑な歪み方をした図形を扱う。)を踏まえ、絵画空間を創出しているのである。
若生の作品に、ムンクの叫びのようなモチーフを感じたとしたら、誤解である。また、「世界を蓋う情報の多重Net(網)によって人間が支配抑圧され変形した現代世界を表現している。」と観るのは誤謬だ。作家は、私たちが生きる四次元時空は「最初から」歪んでいることを知って、それを描き出しているのだ。
今回3点の作品は、いずれも大作(194㎝×260.3㎝2点・194㎝×360.9㎝1点)である。
プルシャンブルーを基調色にして、画面全体に広がる複雑に歪み絡んだウエーブの粗密の形態を描いてリーマン空間を創出しながら、随所でライトブルーとの色彩反転を行って、異常に歪曲され或いは断裂が入った、大きな変成の楕円形を創出する。更にこの変成楕円形の領域に、黄色で3つの歪(いびつ)な円形やリングを描く。注意深く観ればその楕円領域は、輪郭線のない人間の貌(かお)の形状の強いデフォルマシオンであり、黄色の矮(わい)性(せい)の円形やリングは、異形に曲がったり真逆の方向に大きくスライドされ引き裂かれているものまで多様だが、それら黄色の形象は、いずれも両眼と口のシンボル化だということが理解できるだろう。
表層に至るまで幾度も油絵の具を重ねる画面には強度を感じる。そして、画面の四隅の動きのあるウエーブの粗密の形状は、全て異なった相貌を見せ、更にウエーブの運動は、支持体を超えて外部空間に拡張する志向をイメージさせる。それが作家の意図であり、若生は画面を制御するのである。
描かれた異空間が「実は真実の空間である」とする、この作家の狙いは挑戦的である。
作品の主題は、混沌に打ち勝つ(勝利)ことだ。若生は現代社会をリーマン空間に置きかえて、人間のまともな生き方を阻害する不正や虚偽、差別等多様な事象をはじめ、人間の尊厳を侵害する戦争やテロ等の暴力等により歪められる人間存在のカオス(混沌)を描き出していると思われる。カオスの中の人間は、両眼や口も歪み貌全体が異常に歪んだ存在である。作家は、人間を抑圧する諸悪が合成された現代社会を、歪むリーマン空間とみなして描き出した。また、AI等技術革新の一方、人間の未来が見えない現代に生きる人間の現状も、恐らく想起しているだろう。新たな秩序はカオスから生まれる。その意味で、若生の画面における歪んだ両眼や口の形象が、黄色で彩色されているのは希望の象徴であろう。
一方、作家の主題との関係において、目・口の形象の異常な断裂を観れば、人間の被抑圧の程度が恢復不能な位の段階にあって、作家はこの状況をOvercomeできるものとして描いたのか少々疑問を抱いた。
人間の未来への希望、変革のパトスをより感じられる画面とするために、楕円領域と記号化した目・口の形状の描き方について、若生のり子の今後の作品に期待しつつ、その成果を俟ちたい。
2019年4月8日

美術評論家(元新宿文化センター館長)

(若生のり子展「Overcome Chaos」は、2019年4月8日~13日、東京・銀座3丁目、コバヤシ画廊で開催されました。――編集部)

(注)

※1 一般相対性理論によれば、重力場(万有引力の及ぶ空間又はそのような空間の状態)の存在は時空の構造を変化させ、四次元時空はリーマン空間と呼ばれる、曲った空間になる《ブリタニカ国際大百科事典》。
※2 自然界には四つの力(重力・電磁気力・弱い力・強い力)が存在する。なかでも重力は、「物体があると時間や空間が変化し、その時間や空間が物体の運動に与える影響のこと」で、自然界の基本法則の要である。現在、この四つの力を一つの公式に統一する大統一理論の発見が大きな課題とされている。《大栗博司著「重力とは何か(幻冬舎新書)」他類書》

(かしまかずお)

(pubspace-x6655,2019.06.08)