移動の時代2  - マルチチュード論 –

高橋一行

 
   前章で、東浩紀が観光客の哲学を、カントとヘーゲルを読解し、アーレントなど現代思想を取り挙げることで正当化して来たことを見た。その上で、今度は東は、A. ネグリとM. ハート(以下、ネグリたちと言う)のマルチチュード論に言及する。
   このマルチチュードについて、ここでも東はまずは正確な理解をしていると思う。その批判も妥当である。さらにそこから観光客を哲学的に正当化しようとするが、それも評価すべきだろう。では何が問題なのか。先の結論で、二層構造という概念で、カント以降の思想をまとめているが、その理解が根本的に問題を含んでいる。そのことをここでは論じたい。
   ネグリたちの言うところのマルチチュードに修正を施せば、それは観光客を指すものとなる。東はそう考える。ネグリたちはグローバル化が新しい政治秩序を作ることに着目する。通常グローバリゼーションは経済活動としてしか捉えられていないが、それに対してネグリたちは、国家と企業と市民が作り上げる、国民国家と同じような政治秩序を帝国と言い、世界は国民国家の体制から帝国の体制へと移行して行くと考えた。東はそこのところで、これを移行とせずに、先の二層構造論に引き付けてネグリたちの帝国論を考えるから、国民国家と帝国の共存という風に理解している。そして国民国家は人間を扱い、帝国は動物を扱うと、先の理解をこのネグリたちの帝国論に重ね合わせるのである。
   まずこの点が批判されねばならない。国民国家の体制と帝国の体制は、移行するものであると同時に共存するものである。東はこのように理解しないで、ネグリたちの理論を、先にも書いたように、現代思想の哲学者たちの頭の中にだけあって、現実の世界を説明するにははなはだ不十分な二層構造にしてしまう。つまり一方で、ナショナリズムの層においては、そこでは人間が人間として生き、政治の論理と理性的な思考が貫徹しており、他方グローバリズムの世界では、人間は動物として生き、経済がすべてであり、欲望と無意識が支配していて、そのふたつの層は独立していると考え、マルチチュード論においても、前者が国民国家の体制であり、後者が帝国の体制であると、二元論で考えて行く。ここか批判されるべきところである。そしてこの批判は本稿において、このあとも繰り返される。
   しかもネグリ理論では、帝国は経済活動の場としてだけ捉えられているのではなく、社会的、政治的な権力とも考えられているのに、東風に理解すると、その意義が見えなくなってしまう。
   しかし以下は、東批判はそこまでにして、ネグリ批判に重点を移して行く。さてマルチチュードとは、この帝国の秩序への抵抗運動を指す言葉である(ネグリ&ハート)。要は反体制運動や市民運動のことだと考えて良い。イメージとしては国境を超えたネットワーク上のゲリラ的な連帯である。このように東はマルチチュードについてまとめ、そしてこれを、二層構造を横断する運動であって、政治と経済を分断しない運動だと捉えている。
   そのような理解の上で、東はネグリたちを批判する。そこには戦略論が欠けていると東は考える。ネグリたちは、マルチチュードが集まり、声を上げ、デモをすれば、あとはネットワークの力によって自然に何とかなると考えている。そのようにネグリたちを批判する。それはほとんど信仰告白のようなものであるとまで言う。
   この批判はある程度妥当である。私もそう思うし、以下に書くように、大澤真幸もジジェクも同様のことを言っている。つまり多くの人たちがそう感じている。
   もう少し具体的に書くと、ネグリたちは、最終章で結論として次の三つのグローバルな権利を獲得することを目標にすると言っている。第一に、移民の法的承認と移動の完全な自由の付与。つまりグローバルな市民権を与えて、国籍から解放すること。第二に、あらゆる者にベーシック・インカムを補償すること。第三に、教育や情報への自由なアクセスと統御の権利を持つこと、これは新しい生産手段の再領有の権利ということができる。以上のように言う。
   これに対して大澤真幸は、「もっとも過ぎて唖然としないか」と言う。「つまり、大部な考察の行き着く先が、結局これらの権利への要求であるとするならば、これらはあまりにも普通、あまりにも凡庸でないだろうか」と言い、さらにこれらを実際に獲得すべく、行動をしようとすると、ナショナリズムという大きな困難に出会うだろうと言う(大澤19f.)。大澤は、ここからナショナリズム論の考察を始めるのである。
   ジジェクもまた、これらの結論は、「形式的な空虚さと不可能なラディカル化の間で動揺している」と言い、とりわけグローバルな権利については、移民に対するポピュリストの反抗に出会う、つまり暴力的な抵抗に出会うだろうと書く(ジジェク2003 p.96f.)。ジジェクの反応がこれだけならば、これは誰にでも思い付く程度のことに過ぎないが、ジジェクはここからさらに本格的なネグリ批判を始める。これは以下に書く。ここではこのように誰もがたちまちのうちに、ネグリ批判ができるだろうということを確認し、その限りで東の反応もそのひとつとしてあり得ると考えられる。
   ただ問題は、東によって、このネグリの欠点が、まさに否定神学に依拠しているからだとされると、以下に述べるジジェクとネグリの差異がなくなってしまう。だからただ単に、ネグリには戦略がなく、予定調和的に共産主義社会に到達できるという信念がそこには描かれているとだけ言えば良い話なのである。
   ジジェクは次のようにネグリを批判する。マルチチュードというのは、究極の資本主義体制の幻想である。つまりネグリの理論では、すでにグローバル資本主義体制が即自的な共産主義なのである。さらには金融資本も、物質的な労働から切り離されているからという理由で、未来の萌芽であるとして称賛される。あたかもすべてがすでに、このポストモダン資本主義体制の中に存在しているかのような言い方をネグリたちはしている(ジジェク2010a インタールード2)。
   実は先の東のまとめでは、マルチチュードとは、帝国に抵抗する運動体という意味で捉えられていたが、ネグリたちはもっと肯定的に考えていて、つまりマルチチュードとは、労働する主体の能動的な潜在能力を指す。そして帝国とは、これを抑圧する主権的権力なのである。さらにこの帝国はマルチチュードを支配しているのであるが、実はマルチチュードの構成的な力が生み出したものであると考えられている。つまり主体はマルチチュードの方にあると考えられている。それは資本主義の進展とともに、先に述べた権利を獲得するに至るのである。
   ネグリたちはあまりにマルクス主義的であって、つまりマルクス主義の根底にある歴史の進歩という図式を取り入れている。資本主義がその内に自らを超える契機を持っていて、コモン(ネグリたちのキーワードで、資本主義の私的所有、社会主義の国有に対して、現代は知的所有に典型的に見られるように、共有財産が問題となる)を絶え間なく生産している。すでに新しい社会が到来しているのだから、あとはまだ残っている古い形式から解放されればそれで良いのである。そういう理論であると、ジジェクは批判する(同)。
   ここでジジェクは、資本主義が絶え間なく自己変革をし、生産力を上げているのは、「自らを衰弱させる固有の矛盾から逃れるための必死の飛翔」であると考え、しかもこの矛盾こそが実は資本主義を成立させているものであって、もしこの矛盾を取り除いたら、資本主義を発展させる推進力が失われる(同p.479f.)と考えている。要はジジェクの考える資本主義は、破滅に向かって突き進む列車であり、私たちがすべきは、この運動を中断させることだという認識がある。そこがネグリたちの楽観と根本的に異なる(ジジェク2010b)。
   私の考えでは、マルチチュードとは、情報化社会における私たちのことであり、そこではすでに人々が生きて行くのに必要な物質的生産がなされ、また知的財産はコモンとなっている。一見すると、それは共産主義に大分近付いているかのような幻想を私たちに与える。しかし実際には格差は非常に大きく、これもあとで述べるように、情報化社会において、格差の拡大は必然的であって、コモンは偏っている。この状況は、工業化社会で私的所有が搾取されている状態よりもなおひどいものだ。さらに私たちは分断されてもいて、それは本稿第3章で述べるように、移民やスラムの住人に典型的に現れている。高度に発達した資本主義社会に共産主義の萌芽があるとネグリたちは言うけれども、そこに理想の兆候が見られるというよりも、むしろそれは崩壊に向かっていることの証なのではないのか。このように、ジジェクに依拠しつつ、ネグリ批判を試みたい。
   さて先に述べたように、ネグリはその結論に「完全に自由な移民」を挙げる。東はそれを具体的でないと批判する。私もその批判に同意する。しかしそうであるならば、具体的な移民政策を論じるべきだろう。どうして東はそういう方向に話を持って行かないのか。
   まず移民を「完全に自由」にすべきだということは、これも前述したように、国境をなくせということで、それはたちまち保守主義の側から批判される。近年のポピュリズムの大きなうねりにあっては、むしろ逆に国境に壁を作ることが叫ばれているのであり、移民排斥の運動は今後ますます高まりこそすれ、容易に移民との共存が理解されるようになるとは思えない。ましてや「完全に自由な移民」など、理念として掲げることすら滑稽ではないか。これも何度でも書くが、こういう理念を掲げることの非現実さが批判されねばならない。現実がまったく逆の方向を向いており、日本やアメリカなど多くの国で、移民を認めないと言う主張が政権の側から公言されているときに、そういう観念的な理想主義は、保守主義者とそれを支える多くの人たちとの対話を不可能にするからである。そして今、その移民を攻撃する人の中には、しばしば底辺層と言われる人たちが多く含まれている。彼らに対して、本当はあなたたちの敵は移民ではなく、別のところにいるのではないかと言わねばならないのである。
   ここでネグリたちが国家の役割を過小評価していることが批判されなくてはならない。今の段階で、まずは移民対策は国家によってなされているし、そこに対して私たちは、移民問題に対処する対案を出さねばならないのではないか。しかしネグリたちはそのように考えていない。またそのネグリたちのマルチチュード論を、具体的でないと言う東にしても、同じ批判が成り立つと思う。
   同時にここで、保守主義が国家の役割を過重に評価していることも併せて批判されるべきである。私はまさにこういうときに、カントとヘーゲルが参考になると思う。共に国家の役割をある程度重視し、同時にそれを超え行く視点を示唆しているからである。そのことについては後述する。
   東は繰り返し、ナショナリストになるか、マルチチュードという信仰に夢を託すか、どちらかしかないと言い、第三の選択肢として観光客を語る。そしてこれはマルチチュード論そのものよりは、大分進展した理論だと思うし、かつ観光客の理論そのものは批判されるべきものではないと思うのだが、東理論においては、なぜ二層構造という二者択一しかないのかということが最も批判されるべきものなのである。繰り返し書くが、そんな対立は現代の思想家の頭の中にしかないのではないか。そのふたつは対立せず、段階的に出て来て、かつ現在は共存しており、一方でその両方を巧みに生き抜く人たちがいて、片やその両者から追い出され、はみ出た人たちが大勢いるのである。そこに関心を向けるべきである。
 
   続いてネットワーク理論に移る。東はこの理論こそが観光客を説明するかもしれないという期待を抱いているし、ネグリたちも、またそれを批判するジジェクも皆、ネットワーク理論は好きだ。私も以前は、理系の研究者と共同で、様々なシミュレーションをしたりしていた。結論を先に言えば、まさしくこれは情報化社会を説明する理論なのである。そして、この理論はそのままでは、脱中心的な資本主義の理論そのものであると思う。しかし上述のように、ネグリたちがすでにそこにもう共産主義が宿っているという幻想を抱いたように、それは資本主義が自らの力で自らの欠点を露呈させる論理でもある。
   具体的に東は次の3つのモデルを上げる。すなわち「大きなクラスター係数」、「小さな平均距離」、「スケールフリー」である。まず言っておけば、ここでも東のまとめは、つまりまとめ自体は適切である。
   最初のものは、AがBとCのふたりと友だちで、BとCも互いに友人であると、この三人がクラスターを作っていると言う。私たちの社会は、家族や地域や職場や趣味の集まりなど、様々な三角形が幾重にも重なって存在している。それをクラスター係数が大きいと言うのである。
   二番目のものは以下のような理論である。例えば、私にはアメリカ政治を研究する友人がいて、彼にはアメリカの政治家の知り合いがいて、その政治家はトランプ大統領と友だちであるとすれば、私とトランプは距離3で繋がっていることになる。また私の知り合いは皆、トランプと距離4で繋がっていることになる。世界の70億人の人たちは、そのようにして皆、距離6以内で繋がっていると言われている。そういう理論がまずあり、それを上の「大きなクラスター係数」理論と接続させるモデルを考える。それは私たちの社会が、閉鎖的なものだけから成り立っているのではなく、偶然の出会いに開かれていることを示すもので、仲間内の閉じ籠もった関係と開放的な人間関係のふたつから成り立っていることを示すのである。
   第三のものについて、私は良く以下のような話をする。ある地域に新しい空港を作ると、その空港は別の地方との便を持つことはなく、必ず羽田や伊丹と繋がろうとするだろう。すると、日本で空港の数が増えて、便をたくさん持つ空港とそうでない空港と格差ができる。ここでx軸に飛行機の便の数、y軸に空港の数を書き表すと、圧倒的多数の空港は便の数が少なく、ごく一部の空港だけが便をたくさん持つというグラフが描ける。これをべき法則と言う。規模の大きな地震は頻度が少なく、規模の小さな地震は頻度が高いというような例を出しても良い。収入の分布を考えると、数十年前、日本の大半が中流だと言われていた時代なら、皆が平均値あたりに集中する正規分布が得られるが、格差が今後さらに拡大すれば、圧倒的多数が、ごくわずかな収入しかなく、ごく一部が莫大な収入を得ているという図が描ける。これは情報化社会の格差の必然性を現していると私は考えている。
   この格差はマルクスが言うように、搾取から生まれるものではなく、情報化社会においては、情報が集まる人と集まらない人の格差は必然的であるということから生まれる。情報の多くはコモンなのに、つまり誰もがアクセスできる場合が多いのに、それでも偏りが大きいと言うことができる。
   そしてこのことを先のネグリ理論との関係で言えば、コモンの偏りは私的所有の搾取よりもたちが悪いのである。格差は搾取理論で考えられるよりもはるかに大きく、さらにそのことが私たちを分断するからである。
   さらにこの格差の必然性について言えば、今私たちは、統計についての認識の見直しを迫られている。私たちは今まで、統計と言えば、平均を出し、標準偏差を求めて来た。それが最もきれいにグラフに表せるのは正規分布の場合だ。そしてそこからはみ出るものが少数者として排除される。その機構を批判して来たのである。しかし正規分布は特殊な条件がそろわないと成立しない。自然や社会の現象の多くは、べき法則によって示され、べき法則では平均や標準偏差を出すことが無意味となる。
   例えばある中学校のある教室で数学の試験をやり、その結果が正規分布を描いたとしたら、それは学力と教育環境の似通った生徒たちが集まっていたからそうなっただけの話だし、あるいは教師が極めて優しい試験問題と極めて難しい問題とを並べて差が付かないように配慮したかのどちらかであって、例えばセンター試験の数学を日本のすべての高校3年生に解かせたら、圧倒的多数の高校生は零点に近いところに集中し、しかしごくわずかな生徒は満点を取るだろう。つまり結果はべき法則を示すはずだ。多くの高校生にとってセンター試験の問題は難し過ぎ、しかし一部の生徒には易し過ぎるはずだ。国立大学の二次試験を解かせたら、結果はもっと悲惨である。
   すでに書いたように、今までは正規分布から逸脱する少数者が異常とされて差別されるということが指摘されて来たが、べき法則が成り立つ現在においては、例えば貧困者は、移民やスラム難民も含めて、圧倒的多数者なのである。それは平均値からはみ出た存在ではない。私たちはもはや正規分布が成り立たない社会にいる(注1)。
   このふたつを私は情報化時代の人間関係の狭さと広がり、情報化時代の格差の必然性を表すものだと思う。だから当然情報化時代の産物である観光客を記述するのにも使えるモデルである。ただここでも私が言いたいのは、それは観光客に限らないということだ。それはネグリたちのネットワーク論を基礎付けるものでもあり、かつそれを批判する際に活用できるものでもある。
   これらのネットワークモデルの他に、実は様々な複雑系のモデルが提示され、それらを使ったシミュレーションがなされている。私が以前書いたように(注2)、研究室の巨大なコンピューターを駆使せずとも、パソコン一台あれば、どんどんシミュレーションを考えて行くことができるからで、これらの数学モデルは今や、社会の劇的な変化を記述するだろう。それはまた、解放のイメージを描かせてくれると私は考えている。つまり社会の支配と差別の構造を示すだけでなく、そこからどう脱却するかということを考える際のヒントを与えてくれると私は考えている。数学が発展して、ようやくこの段階に至ったのである。
   ここでこれらのモデルに共通していることは、ひとつは自己組織性の原理を持つということと、もうひとつ、より根本として、それらは偶然性に基くということが挙げられる。前者は、世界には様々な偶然があり、そのごく一部をうまく組織化して秩序化することができるということで、しかし根本はそれは偶然性に依拠していて、また必然化されたように見えるものも、事後的にそうだと考えられるということである。つまり秩序形成がなされたのちに、そこに必然化への道筋が確認できるということであり、ある状態が未来に向けてどのように変化して行くかを予測するものではない。これが後者の原理だ。それは確率的にしかできず、つまり全体として一定の法則はあるが、個々の運動はまったく以って偶然だと言うしかないのである。
   この自己組織性の論理と偶然性の論理は強調しておく。一部の人に情報が集まるのは、ネットワークの持つ組織力のせいである。しかし現実に誰に情報が集中するかは偶然である。
 
   最後に家族論について考察する。
   観光客がよりどころとすべき新しいアイデンティティは何か。それが家族であると東は言う。個人から出発すると、グローバルな経済に行き着き、集団から出発すると国家に行き着いてしまうから、そのどちらでもない家族をよりどころにすると東は言う。私にはこれがまったく分からない。先刻から何度も書いているが、二層構造で現在の世界を説明することの欠点が集約的に出ていると思う。どうして人は経済か国家か、どちらかを選択しなければならないのか。
   家族を重視すること自体は良いだろうと思う。何も保守主義の政治家が言うように、家族を重視することが日本の伝統だとか、福祉政策が不十分だから、それを麗しき家族愛で補おうという意味で受け取ったりはしない。
   東はこの家族について、柄谷行人の仕事と突き合せて論じる。東は次のように柄谷を読み解く。柄谷はまず、ネーション、資本、国家という3つの社会構成体を考える。それぞれの交換様式は、贈与、商品交換、収奪と再分配である(柄谷2010 序説)。このネーションを東は家族と読み替える。ネーションがなぜ家族なのかと言えば、それは贈与の交換様式を持ち、しかし商品交換の経済と国家によって解体されたものだからである。ここでのちに詳述するが、ヘーゲルの、家族、市民社会、国家という三段階を思い起こしてほしい。もちろん東も柄谷も、この三つが段階を追うものとは考えていない。共存する三つの社会構成体である。しかしこのヘーゲルの三段階を出して来れば、柄谷、東、ヘーゲル三者の言っていることはきれいに対応する。
   柄谷はさらに4番目の社会構成体として、アソシエーションを挙げる。そこでは贈与が高次元で回復されるとされている。東はそこで、このアソシエーションを、ネグリたちの言うマルチチュードに相当するものと見て、家族が新しいマルチチュードを支えると読み込んで行く。それは資本と国家によって解体された共同体を想像的に回復するものだからである。
   私はそれは悪くない主張だと思う。少なくとも、柄谷の良く分からない図式よりは、数段分かりやすくなっていると思う。そして東は、家族の特性をまとめ、結論として、私たちに、象徴的、文化的な親となって、偶然の子を産めと呼び掛ける。これが本書の最後のまとめだ。
   しかしやはり私はこの論理を批判したいと思う。つまり家族、市民社会=資本、国家という三つのカテゴリーがあり、その最初の家族の理念を回復するものとして、アソシエーション=マルチチュード=グローバリズムのネットワークを考えているということに対してである。
   批判のひとつは、家族の理念が、経済と国家の論理と全く関わらないものであるかのように考えられていることに対してである。ヘーゲルにおいては、家族、市民社会、国家、ないしはさらにグローバルなものは、段階を追うものであり、密接に関係する。しかし東と柄谷は、あくまでも家族=ネーションは、経済と国家によって解体され、マルチチュード=アソシエーションで回復すると考えられる。しかし私はそのようには考えない。
   東はE. トッドが家族形態を重視することを取り挙げ、それによって持論を補おうとする。確かにトッドは、家族形態が、各国の社会構造を決定していると考えている。しかしトッドが、移民の受け入れをするのは国家であり、受け入れる各国の家族形態が異なるとまったく対応が異なること、さらには入って来る各国の移民の家族形態もまた異なるので、さらにそれに合わせて対応しなければならないという時(トッド 第3章)、重要なのは、国民性と家族観の関係なのである。つまり国家と家族の関係が問われている。
   移民は国家が管理すべきであり、家族観が国民によって異なるということをトッドが重視するのは、それは移民政策が国によって異なって来るということを言うためのものだ。フランス、イギリス、ドイツと3カ国の国民の家族観の違いを挙げ、さらにそれらの国に入って来る様々な家族観を持つ様々な国出身の人々のことを考えれば、それぞれ移民対策は異なったものが求められる。だから私は移民を考えるためにこそ、この家族に着目するということを主張したいし、それは国家との関係において考察すべきものなのである。
   さらにここでトッドを出した序に、さらに彼を参照して、東と柄谷の批判を展開したい。トッドは、イスラム諸国において、女性の識字率が上がり、またそれに呼応して出生率が下がり、確実に近代化が進展していると言っている(トッド&クルバージュ)。
   具体的には、どの国においても、その識字率が50%になること、とりわけ女性の識字率が変化することが大きな要因になり、その社会に変化が起きるとされる。そのことと関連するのは出生率の低下であり、これが二番目の社会の変化の要因となる。女性の家庭内での心的あり様が大きく変わるのである。このふたつがイスラム世界にも見られ、伝統的信仰の大規模な動揺を経験していると言う。
   トッドはヘーゲル主義者ではないが、「地球全体を覆う識字率の前進が、人間精神の抗いがたい上昇運動の経験的にして、ヘーゲル的なヴィジョンを示してくれる」と言う(同 p.28)。
   ここでも家族がポイントである。テロと難民、移民の元凶がイスラムにあると欧米諸国が考えている内に、そのイスラム諸国の現状はどんどん変化している。そういうことを見ないとならないとトッドは言う。
   近代国家や資本主義は現代思想が論じるような仕方ではなく、ヘーゲルの論理で動いているように見える。そしてそのことが東や柄谷に対する第二の批判となる。つまり家族の構造や家族関係の変化が、国家の成熟を決めているということである。家族と市民社会と国家を切り離し、国家は政治的な議論によってのみ成熟するものだという訳ではない。家族が発達し、そこから人々は市民社会に入り、そこで国家を成熟させるのである。
   つまりヘーゲルの論理において、家族、市民社会、国家と段階的に進むとされる、その論理の重要性をまずは指摘したい。そして前章でも論じたが、その上でさらに次のように私は言いたいのである。つまりまず、家族、市民社会、国家は段階的に進展するが、しかし家族や市民社会の論理は国家の中で完全に吸収されるものではなく、つまり三者は共存し、言い換えれば、家族と市民社会の論理はいつまでも現実的に残るし、多くの人はそこにアイデンティティを求めるのである。そういう風にヘーゲルを読む。さらには、むしろ積極的、かつ戦略的に「低い」とされる段階に留まる場合も多いということを主張したい。
   このことは国家とそれを超えるグローバルな段階についても言え、ここではむしろ、能力の高い者ほど、国家の中で評価され、そこに安住してしまうということもあると言っておこう。
   ここで先の国民国家と帝国の体制が、推移であると同時に共存するものであるということを思い出してほしい。東は決してそういう理解をせず、つまり物事を一元論的に段階を追って推移するとは考えない。ヘーゲルにおいては、家族、市民社会、国家もまた段階的に移行し、同時にその三段階は現実に共存しており、しかも人は多くの場合、意識的かつ無意識的に、先に進まずに、自分が今いる段階に固執するのである。
   だからあえて家族の段階に留まって、その段階の理念の重要性を主張するのは、ヘーゲルに従って考えても、十分評価されるべき考え方である。
   またその際に、家族とともに考えるべきは市民社会の論理で、その中でヘーゲルの記述から拾い出すと、具体的には教養と享楽というカテゴリーが重要だと思う。私が観光客の哲学を書くなら、そこに依拠する。
   まずヘーゲルは市民社会論の中で教養を重視する。教養とは解放であるとヘーゲルは書く。それはより高い解放のための労働である。この労働と陶冶によっておのれを高め、特殊な段階にあって普遍に達し、自由な主体になり得るものである(187節注)。一方、享楽は「特殊性が発達するにつれて、文化によって得られるもの」という短い定義が与えられ、それ以上言及されることがないが、私は教養とセットに考えれば良いと思う。市民社会は、この教養と労働によって進展するのだけれども、その負の面として、享楽と貧困があり、貧困については、ヘーゲルはずいぶんとページを割いて、それは大きな問題として扱われるのだが、ここで私は戦略的に享楽という、ほとんど序のように言及された概念に着目し、市民社会に留まるひとつの契機として考えたい。つまりそれを負の側面とは考えず、教養の積極的な面に対する消極的な面と考え、その重要性を指摘したい。
   具体的に言えば、家族的な関係でもなく、仕事(経済)の付き合いでもなく、国家の中に位置付けられるものでもなく、それは生活世界の論理と言っても良く、また思想だとか、趣味の集まりと言うべきものである。経済活動の始まる以前の家族の中に存在するのではなく、経済活動をしつつ、その中で教養としてさらなる経済活動に資するものもあり、また必ずしもすぐには役立たないものもあり、さらには明らかに役立たないけれども、人間の活動の幅を示すものもある。教養と享楽を対にするだけでなく、それらを両極において、その幅を考えたい。
   例えば私はワインを好むという思想、または趣味を持った人たちと付き合いがあり、彼らとワイナリー巡りを国内外でしている。それは観光のひとつのあり方としてあり得るだろうと思う。それは家族的な関係とは少々異なるのである。それはまた、経済や国家の論理で動くものでもない。そういう思想、または趣味の集まりこそが、観光客の哲学が依拠すべきものだと私は考える。
 
   まとめをして行く。柄谷は、ネグリたちについて、帝国のもとで、国民国家が消滅し、マルチチュードが対抗するという見通しについて、それでは結局国家が止揚されるどころか、強化されるのではないかという批判をしている。それはマルクスが簡単に国家が死滅するだろうと考えたために、却って国家主義的な独裁体制が生まれたことと同じ論理であると言う(柄谷2006 第IV部)。
   私はこの批判は妥当であり、安易に国家が死滅するという楽天に加えて、先にジジェクのネグリ批判にあった、すでに高度に発達した資本主義下で共産主義が胚胎しているという楽観と併せて、ネグリたちは批判されるべきであると考える。
   しかしそののちに、柄谷はカントを参照しつつ、もう一度、ネグリたちの唱えるネットワーク的な組織では、それは国家によって妨害されると述べた上で、「各国が軍事的主権を徐々に国際連合に譲渡しするよう働き掛け、それによって国際連合を強化・再編成」した上で、「各国が主権を放棄することによって形成される世界共和国」(同p.222ff.)を夢見ている。私はその非現実性を批判したいと思う。東が観光客の哲学を構想するのは、このネグリたちの楽観とともに、柄谷の非現実性を批判して、そこに偶然的な運動の重要性を指摘したかったからで、その限りで、東の主張に私は同意する。
   さらにネグリたちは家族を批判する。それは「コモンの腐敗した形態の制度化」だと言う。「家族という腐敗した制度、例えば性と生殖に関する権利、セクシュアリティ、親族構造、性別役割分業、家父長的権威・・・」(ネグリ2009=2012p.267)と言う。それは古典的左翼の常套とも言うべき論法だ。そしてこれを読むと、私はネグリよりも東に賛成する。
   つまりここで私はむしろ東を批判するより、ネグリたちや柄谷を批判したいと思う。東の言う、観光客の哲学それ自体には賛同する。ただ、その観光客に加えて、移民など、様々な移動の時代について、述べて行きたいと私は思う。これが次章の課題である。
 

1 数理モデルを参照する際に東が参照している参考文献は適切である。私はさらにもう一冊、高安秀樹を挙げておく。ここにはとりわけべき法則について詳しい説明がなされている。
2 拙稿「進化をシステム論から考える」(http://www.pubspace-x.net/)を見よ。
 
引用は、外国のものは、すべて翻訳のページ数のみを表記したが、訳文は原文を参照しつつ、多少変えてある。
 
参考文献
アーレント,H., 『人間の条件』清水速雄訳、筑摩書房1994
東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』ゲンロン2017
ヘーゲル, G.W.F., 『自然哲学(上)(下)』加藤尚武訳、岩波書店、1998,1999
——  『精神哲学(上)(下)』船山信一訳、岩波書店1965
——  「法の哲学」『ヘーゲル 世界の名著44』藤野渉他訳、中央公論社1978
カント, I.,「法論」『人倫の形而上学』楢井正義他訳、『カント全集11』岩波書店2002
—— 『判断力批判(上)(下)』篠田英雄訳、岩波書店1964
—— 『永遠平和のために』宇都宮芳明訳、岩波書店1985
柄谷行人『世界共和国へ -資本ネーション国家を超えて-』岩波書店2006
——  『世界史の構造』岩波書店2010
ネグリ,A.,& ハート,M., 『帝国 グローバル化の秩序とマルチチュードの可能性-』水嶋一憲他訳、以文社2003
大澤真幸『ナショナリズムの由来』講談社2007
高安秀樹『経済物理学の発見』光文社2004
トッド,E., 『問題は英国ではない -EUなのだ 21世紀の新・国家論-』堀茂樹訳、文芸春秋2016
トッド, E., & クルバージュ, Y., 『文明の接近 -「イスラームvs西洋」の虚構-』
ジジェク,S., 「『帝国』は二十一世紀の『共産党宣言』か?」石岡良治訳『現代思想』2003年2月号
——    『パララックス・ヴュー』山本耕一訳、作品社2010a
——    『ポストモダンの共産主義 -はじめは悲劇として、二度めは笑劇として-』栗原百代訳、筑摩書房2010b
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x6650,2019.06.03)