高橋一行
リベラリズムが世界中で嫌われているように思う(注1)。アメリカと日本の現状を見て行く。
最も分かりやすい話はトランプ大統領の出現である。このことを扱った本はたくさんある。その中の最良のものをひとつ挙げる。ホックシールド『壁の向こうの住人たち』(布施由紀子訳、岩波書店2016=2018)である。
バークレーの研究者で、つまり普段はリベラル左派に囲まれている著者が、今、右派の心の中に何が生じているのか、それを探ろうとしてルイジアナに向かう。そこで最初に感じるのは、共感の壁と著者が言うものだ。それは異なる意見を持った人や異なる環境で育った人々に対する無関心ないしは敵意である(p.8f.)。さらに彼らと付き合って行くと、彼らがディープストーリーと呼ぶべきものを持っていることに気付く。それは言語を使ってはいるが、感情が語るストーリーである。それは次のようなものだ。あなたは山の上に続く長い列に辛抱強く並んでいる。その山頂の向こうにはアメリカンドリームがある。皆はそれを達成するために列に並んで待っているのである。しかしあなたは一生懸命働いて、長い間待っているのに、列はなかなか動かない。そうこうする内に割り込んでくる人がいる。あなたはルールを守っているのに、彼らは守っていない。割り込んで来るのは、黒人、女性、移民、難民である。一体なぜ混血のシングルマザーの子どもが、学費が高いことで有名なコロンビア大学に入学できたのか。そしてなぜ大統領になれたのか。おかしい。またなぜ女性が社会に進出して、出世するのか。なぜ移民や難民があなたの支払った税金で保護されるのか。あなたは何の恩恵も受けていないのに、なぜ彼らは恵まれているのか。誰かが手を貸しているに違いない(p.192ff.)。
オバマはしばしば理想を語ったが、しかし白人低所得者層はオバマに理想を見出せない。自分たちは生粋のアメリカ人で、アメリカを信じて耐えて来たのに、報われない。なぜあとから来た黒人や女性や移民が偉そうに権利を主張するのか。
そこにトランプが現れる。彼こそがあなたを救ってくれるだろう。そう彼らは考える。明らかにトランプ大統領が出現したのは、オバマが8年間大統領を務めた、その反動である。
著者は、右派の共通認識を拾い集める。曰く、政府は福祉にお金を使い過ぎている。福祉給付金の受給者は増え、彼らは決して働かない。貧しい人はみな給付金をもらっている。彼らは我々の税金に全面的に頼って生活している。また女性と社会的少数者が大半を占める公務員は給料をもらい過ぎている。さらに雇用の拡大にとって環境保護はマイナスだ。それに対して、政府が企業に助成するのは、雇用拡大に役立つ。そして共和党大統領政権下の方が経済は良好だ。
著者はもちろん、それらに対してひとつひとつをていねいに反論する。しかし私の見るところ、その反論はどこまで有効か。ないしはどこまで浸透するのか。一方著者たち左派もまた、ディープストーリーを持っているのではないか。アメリカは1%の富裕層によって支配されている。そのために福祉予算がどんどん削られて行く。
オバマは経済に強くないと言われていた。私は実際にそうだったとは思わないが、しかし自分が経済に強いとか、経済的な成果を収めたと宣伝することが少なかった。それが一番の問題である。得意の演説で、弁爽やかに理想を語る。それが嫌われたのではないか。つまり少数者の権利や表現の自由や平等や平和を語るリベラリズムが嫌われているのではないか。
日本でも事情は似ている。『現代思想』2018-2「特集 保守とリベラル - ねじれる対立軸- 」を読む。総じて保守化の中で何とかリベラリズムを称揚しようという姿勢があり、何とかその重要性を訴えたいという気概もある。基本的には私も同じ立場である。しかしいくつかの点が気になった。
まず保守とリベラルは出自がまったく異なり、対立する概念ではないことが確認される。そして保守主義がバークの時代から、フランス革命のような急激な改革には反対するが、しかし漸次改革を進めて行く立場であるのなら、それはリベラルのひとつ、ないしはリベラルと両立すべきものであること、実際日本でも、リベラルというのは、元々は自民党の中のひとつの立場であったはずで、そのことが忘れられているのではないかということだ(注2)。だから以下に述べるように、しばしば保守リベラルが唱えられているが、それは自然な話である。
問題はむしろなぜ左派とリベラルが同じものになってしまったのかということである。両者は全く異なるものであり、左派は日本ではマルクス主義がベースであって、自らがリベラルと見做されることを拒否して来た歴史があるし、リベラルは左派にはもともとリベラルな感覚がなかっただろうと言うべきなのである。しかし左派が影響力を失い、それで左派はリベラルになるか、またはリベラルが左派と呼ばれるようになる。
ここはこの特集号に収められた論稿のひとつ、明戸隆浩「現代日本における「リベラル」イメージの変容 - 「リベラル嫌い」に関する研究ノート- 」を使って詳細に見ておこう。日本リベラルの起源は1993年の細川内閣の成立にある。それは自民党よりは左で、社会党や共産党よりは右ということで、リベラルと言われる。そして96年に成立する民主党が明確にリベラルを名乗り出る。
さてリベラル嫌い=反左翼言説が出て来るのはここからである。決定的なのは民主党政権ができる2009年で、さらに実際にそれが盛んになるのは民主党政権が崩壊した2013年以降である。それは明戸の表現を使えば、「リベラルの台頭に危機意識を持った結果出て来たものではなく、むしろ「水に落ちた犬を打つ」的な形で現れた」のである(p.169f.)。
これは本当に私もそう思うのだが、民主党の経済政策の失敗が、もう二度と民主党に政権を任せられないという批判になり、それがリベラル=左派批判の根底にある。リベラル=左派に国家運営は任せられない、とりわけ経済政策はだめだということが、強くリベラル=左派批判を形作っている。安倍政権はうまくそこを突き、憲法改正のためには、まずは経済に強いというイメージを身に付け、リベラル=左派批判をし、自らの立場を強める。
さてこの現状分析はきわめて正確であると思う。リベラリズムの側で、自らが嫌われていることは自覚されている。しかしどうするのか。残念なことにその対策がないのである。リベラリズムは重要だが、その重要性を強く打ち出したところで、支持を得られるものでもない。
ひとつの解決策は保守リベラリズムの提唱である。この主張はいくつもあるのだが(注3)、ここでは、宮本太郎「「保守リベラル」は再生可能か カギは地域での課題解決にあり」(Journalism 2018.1)を見る。
宮本は、自らは保守リベラリズムの立場を標榜しないと言いつつ、しかしその考えの有効性を評価している。
保守は家父長的な家族制度に基づく共同体的秩序を維持したいと考え、一方でリベラルはそれを批判し、個人の自立を説く。そのままでは両者は対立し、相容れない。しかし今までも保守本流が、革新勢力が掲げて来た社会保障を保守主義体制の中に取り入れて来たという歴史がある。つまり保守本流の系譜は本来保守リベラルであった。
さて昨今、保守が諸外国を見ても、移民問題、民族問題のために復古主義に陥っている。ここで復古主義ではない、保守本来の性格、つまりその中にリベラルな特性を含み持たせられないかということが問われている。そのためには、まず保守が、社縁、地縁、家族縁という従来の共同体関係が弱まっているという事実を直視し、一方でリベラルも、個人の解放や自立ばかりを唱えるのではなく、保守主義とともに新しい縁創りに取り組むことが必要だと宮本は言う。介護や育児を中心に、新しい地域創りが可能なのではないか。そしてそれはすでに地域のレベルではなされつつあり、それを国政にも持ち込んで、長期的ヴィジョンを伴って議論されねばならないというのが宮本の結論である。
宮本は、立憲民主党の枝野幸男代表が自らを保守と位置付けつつ、リベラルな政策を模索していることを評価している。すると長く、保守vs. 革新という図式があり、その後には、保守vs. リベラルという対立軸があったのだが、今後は、復古主義vs. 保守リベラルという対立になるのか。
私はここで、ジジェク風に次のように言いたいのである。リベラルか保守か。またはリベラル保守か。いやそうではない。左派なのだ、と。以前書いたように、リベラルはリベラルだけでは成立しない。それは右派とくっ付くか、左派とくっ付くか、どちらかしかない。リベラル保守の再確認ということは、上述の様に極めて自然な流れである。それは私も認めたい。しかしリベラルとともにある左派は成立しないのか。
つまり今、上述の様に保守が復古化し、リベラルが保守と結び付いて、リベラル保守となると、復古主義vs. 保守リベラルという対立になり、保守リベラルが左派になってしまう。そういう時に、本来の意味での左派リベラルを唱えることがそもそも可能なのか。
リベラリズムは、抽象的な個人に基づき、つまり身体を持たない個人を前提にしている。しかし人は怨みや妬みや不安や怒りに満ち溢れた身体を持っている。
リベラリズムは、人権や個人の自由や平等や平和を求めるが、それは形式的かつ普遍的なもので、人々はまずは、様々な欲望があり、また自らのアイデンティティーが認められることをも欲しているし、他人に対する嫉妬や恨みや見栄がある。そういったものがまずは満たされようとされるべきであり、しかしそれらは決して満たされないかもしれないのだが、それらの欲求が主張され、満たされるべく政治が動き(注4)、なおそれらが満たされるだけでは満足できず、そこから普遍性が希求される。そういう順番なのではないか。つまり人権や個人の自由や平等や平和をア・プリオリに前提するのではなく、様々な感情を持った人々が集団を作り、その中でそれらをうまく調整するための方便としてリベラリズムが要請されるという、功利主義的なリベラリズムで良い。
ラカン=ジジェクの言葉を使えば、人権や平等、義務といった象徴界の領域と、個人や社会がそれぞれの享楽を組織化する幻想空間とは究極的に釣り合わない。権利や自由は、本来根源的に偶然的なものなのに、その偶然性を免れた統制的理念によって基礎付けようとする啓蒙主義的努力は必ずや挫折するということなのである。嫉妬や恨みや見栄に基づくナショナリズムやポピュリズムは病と言うべきものであるが、しかしその出現は必然的なものである。今、まさにそのことが世界的規模で展開されている(S. ジジェク『斜めから見る - 大衆文化を通してラカン理論へ- 』(鈴木晶訳、青土社1991=1995))。
低所得者が福祉重視の政策を好まず、富裕者に有利な経済浮揚策を支持するということはどの国でも確認されていることである。経済格差が大きくなり過ぎてしまうということが、資本主義の大きな問題なのだが、その是正に格差の底辺にいる人たちは向かわない。そこをどう考えるかということがポイントになる。彼らは嫉妬や恨みや見栄で動き、排他的になり、新自由主義+復古主義を支持するのである。
左派の原理は、資本主義に懐疑的で、その仕組みをラディカルに考察して、その暴走を抑えることを目標にするということである。それは私の考えにおいては、従来型の社会主義を目指すというものではないし、資本主義がすぐに打倒(止揚と言っても良い)できるとも思えず、私たちは資本主義社会の中でしか生きられないと思う。しかし次のことは言うべきだろう。それは現在の資本主義は情報化社会において展開され、そこにおいては、資本主義を超える概念がすでに胚胎している。具体的には、そこでは知的所有が所有の中で最も重要なものとなり、それは共有すべきものであるし、すでに多くが共有されている。とりあえず、その程度のことを言っておく(詳しくは拙著『知的所有論』(御茶の水書房2013))。そしてこのように資本主義批判をする限りで、その立場は左派と呼んで良い。
とすれば、左派は経済にこだわる。と言うより、資本主義を疑うのが左派なのだから、それはそもそも経済的な問題なのである。そこで人々と経済の関係が問われる。
憲法改正といった安倍政権の復古主義的な部分が評価されているとは思えないが、しかし経済政策は評価されていて、野党が自らの経済政策を出さ(せ)ず、ひたすら安倍政権批判に終始していることがまた一層とリベラル嫌いを助長しているのではないか。そういう時にリベラリズムをさらに先鋭化させるという戦略は如何なものかと私は思う。かつての様にリベラルな感覚を持たない左派に戻るべきであるとは思わないが、まずは左派の原理を確立して、リベラルと手を組むことができないか。そうすることで、リベラルと左派と両方が復活する。
日本とアメリカでは違いもある。マルクス主義が影響を持たなかったアメリカでは、リベラリズムが明確に左派になる。アメリカでliberalはleftを意味する。そこははっきりしている。一方でそこが嫌われて、議論をしない、敵と味方を分断して、徹底して味方をするトランプ大統領が出て来たのだけれども、しかし他方でリベラルはそれなりに評価されて、先の中間選挙では、かなり左と言うべき下院議員が多数当選している。その状況は日本とは異なる。
日本では左派はマルクス主義でそれが影響力を持たなくなって、左派と右派の中間にいたリベラルが左派と呼ばれるようになったと先に書いたが、さらに近年は保守が勢力を固めて、その対抗勢力がどれも皆リベラル=左派と呼ばれる。上述の枝野幸男のように、自らは保守だと言っているのに、世間では左派にされてしまう。
また、早くからリベラル=左派であったアメリカだけでなく、左派が経済政策を持っている欧州(私の知る限りの、英、独、仏)でも、左派は政権は取れないものの、それなりに評価されているのに対し、日本でまったく評価されていないので、そう思う次第である。
ここで、ブレイディみかこ・松尾匡・北田暁大『そろそろ左派は<経済>を語ろう - レフト3.0の政治経済学- 』(亜紀書房2018)を紹介しておく。この本では、次のようなことが主張されている。すなわち、左翼はマルクス主義を中心とし、それを批判する社会民主主義と併せての第一世代があり(レフト1.0)、現在のリベラルで多様な第二世代(レフト2.0)がある。第二世代は経済成長を問わない。その特徴は、1990年代に全盛で、多様で、個人主義的なものである。トップダウンを嫌い、豊かな時代において、その豊かさを批判する。しかしそれは問題ではないか。
今ここで、第三世代(レフト3.0)を立ち上げ、階級と経済の視点を取り戻し、国家による経済成長を目指す政策を重視する左翼になるべきで、具体的には財政出動を積極的に主張すべきだというのである。
この主張について、具体的な経済政策についてはいくつか疑問点があるが(注5)、概ね賛同したい。安倍政権が進めている財政出動型の経済政策(いわゆるアベノミクス)は、欧米では本来は左派が主張して来たもので、左派がやった方がもっとうまく行くはずだという主張にも同意する。
先に書いたように、左派の勢いがなくなり、リベラルが左派と呼ばれ、また左派がリベラルになる。その両方が同時に進んだのだと思う。前者については、本稿で書いた通り。後者については、左派はマルクス主義に依拠することを止めて、様々な市民運動を展開し、そこで差別や支配の構造を明るみに出し、抑圧された人権について指摘し、平和や平等を説いて来たのである。そして経済成長よりも清貧思想を説いて来たのである。
今、次のように主張すべきではないか。つまり経済成長を止めて、環境を保護しようというのではなく、環境保護をすることで経済を活性化させようという方向に持って行く。福祉が理念的に重要だと言うのではなく、政府が積極的に福祉の分野に税金を投入し、それによって雇用を創出し、景気浮揚をする。そういう主張である。
前述の明戸は、この経済重視の左派という主張について、経済という一点を重視することによって、リベラルを再起動させる試みであると評価している。つまり、リベラル=左派だと考えて、そこに経済政策を入れて、それを回復させようとするものだと考えている。私はそれに対して、リベラルと左派を分けて、経済重視の左派を復活させ、それとリベラルが組めば良いと考えている。さらに元々の左派、つまり彼らの言い方によれば、レフト1.0を復活させたいという考えもあり得るだろう。私は先にも書いたように、左派にリベラルな感覚が必要だと思うので、レフト1.0に戻すことには賛成しないが、その辺り、論者によって少しずつニュアンスは異なっても、その目指すところで重なることがあれば、連携は可能だろう。
注
1
1月1日から、数回の予定で「身体を巡る省察」の連載を始めており、本稿は当初、「身体の政治学」というテーマで、この連載の後半部に入れる予定であったが、必ずしも身体論としてうまく展開できなくなったということと、現在、「公共空間X」の同人間で経済政策の議論をしており、その議論の前提となると思われるので、ここに独立の論稿として投稿する次第である。
2
ここでは保守主義について詳述はしない。例えば、宇野重規『保守主義とは何か – 反フランス革命から現代日本まで- 』(中公新書2016)。
3
例えば、中島岳志『「リベラル保守」宣言』(新潮社2016) を挙げる。
4
古くは、A. O. ハーシュマンの『情念の政治経済学』(佐々木毅他訳、法政大学出版局1977=1985)があり、続いてM. ウォルツァー『政治と情念 - より平等なリベラリズムへ- 』(斎藤純一他訳、風行社2004=2006)、それにM. ヌスバウム『感情と法 - 現代アメリカ社会の政治的リベラリズム- 』(河野哲也監訳、慶応義塾大学出版会2004=2010)を加え、また、D. モイジ『「感情」の地政学 - 恐怖・屈辱・希望はいかにして世界を創り変えるか- 』(櫻井祐子訳、早川書房2008=2010)という本もある。吉田徹の『感情の政治学』(講談社2014)も出ている。これらはどれも政治の世界での情念の重要性を指摘し、その上でリベラリズムをベースにしたリベラルデモクラシーを説く。これらの主張は極めて当然のことを言っていると思われる。
そもそもホッブズの契約論の前提は、情念に強く支配されている個人であって、ホッブズは妬みや奢りや恐怖という夥しい数の情念を挙げ、とりわけ死の恐怖から契約に至る道筋を示している(『リヴァイアサン』他)。私はこの社会契約論に国民主権とリベラリズムの萌芽を見る。私の言いたいのは、ここにヒュームやカントやヘーゲルを加えて、政治思想史においては、常に情念の重要性は指摘されていたということである。
5
注1で述べたが、具体的な経済政策の提言を今後の課題としたい。
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x6115,2019.01.25)