「原爆の図」に寄せて―丸木美術館50年目の年に

小沢 節子

 
 丸木位里(1901〜1995)・丸木俊(1912〜2000)夫妻の「原爆の図」シリーズを常設展示する原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市)は、2017年に開館50年を迎えた。それに先立つ被爆/戦後70年目の2015年から翌年にかけては、アメリカとドイツの美術館での「原爆の図」展示もおこなわれ、次の半世紀に向けての「原爆の図」保存基金の募集もはじまった。詳しくは丸木美術館のサイトや同美術館の岡村幸宣学芸員のブログを参照されたいが、私もまた、この節目の年にあたって、個人的な経験を通してではあるが、絵画作品としての「原爆の図」についてふり返ってみたい。
 
1990年代の出会い
 「原爆の図」を初めて見たのは、1995年の夏から秋にかけてのことだった。熱海の池田20世紀美術館で、そして丸木美術館で対面した屏風仕立ての連作は、様々な先入観をくつがえす不思議な存在感を放っていたが、それを解読する言葉は私の中にも、私の周りにもなかった。原爆の悲劇を伝え平和と反戦を訴える絵であるという解説は溢れていたが、一枚一枚の絵の中に何が描かれているのかさえ、語られてはいないように思われた。
 私を「原爆の図」に引き合わせてくれたのは、松本竣介や瀧口修造研究の先達であった美術評論家の故ヨシダ・ヨシエさんだった。十代の終りに丸木夫妻と出会い、1950年代初めの「原爆の図」全国巡回展の担い手のひとりでもあったヨシダさんは、冷戦の終結に伴う「政治」からの解放感のなかで、自らの戦後半世紀を振り返りながら「原爆の図」を核の時代の普遍的な絵画として再評価しようとしていた。それはまた、『丸木位里・俊の時空 絵画としての『原爆の図』』(青木書店、1996年)という著作にみるように、丸木位里と赤松俊子(丸木俊)を「原爆の図の画家」である前に一人ひとりの画家として美術史の中に位置づける試みでもあった。
 私が書いた同書の評をヨシダさんは喜んでくれたが、「原爆の図」の研究をしたいと語ると「あなたが世間からレッテルを貼られてしまう」と反対された。学芸員の友人には「「原爆の図」にはあまりにも美術以外の言説がまとわりついている」と危惧された。だが、友人は「原爆の図」を見たことはなかった。今では信じられないかも知れないが、当時、私と同世代の美術関係者で「原爆の図」を実見したことのある人は決して多くはなかった。にもかかわらず(それ故にか)、「原爆の図」は、美術館、美術史、美術ジャーナリズムといった世界では、論じるに値しない時代遅れのリアリズム絵画、あるいは取扱注意のプロパガンダ芸術とみなされていたのだった。
 皆の忠告に耳を傾けなかったわけではないが、そもそも他人からどう思われようとあまり気にしない性質(たち)だったこともあり、戦後美術史からはじき出された「原爆の図」と作者たちに改めて興味を覚えた。とりわけ、初期作品の墨の闇の中をのぞき込むたびに、生と死のはざまに宙づりにされた人びとの、いわば「剥き出しの生」la nuda vitaの姿が《幽霊》と名づけられていることに強くひきつけられた。幽霊とは原爆や戦争といったカタストロフィのなかで無名の存在に陥れられ、忘れられていった者たちとその記憶でもあり、不意打ちのように現在に再帰する。とはいえ、丸木夫妻の足跡をたどり、核の表象や戦後の左翼運動を学びながら絵を読み解いていくことは、スリリングで知的な経験でもあった。
 
「原爆の図」第1部《幽霊》(1950年、紙本墨画、原爆の図丸木美術館蔵)

 
 
記憶の考察
 1990年代のアカデミズムの世界では、戦争や原爆の歴史がいかに戦後半世紀のあいだに国民的な記憶として叙述されてきたかが議論となっていた。集団的な記憶の編成に対抗しつつ、ときにはその一部を形成し、ときにはそこからこぼれ落ちる個別的・私的な記憶もまた焦点化された。「原爆の図」との出会いから数年後に形となった拙著『「原爆の図」 描かれた<記憶>、語られた<絵画>』(岩波書店、2002年)も、サブタイトルが示すように、そうした同時代の空気を共有していた。
 
 「原爆の図」は作者の体験を再現した絵画ではない(丸木夫妻は1945年8月6日の直接体験者ではなく、遅れて広島に入った)。様々な他者の記憶を取り込み、織り上げられたテクスト(織物)であり、その生成と連作化の過程は戦後日本における原爆の物語、すなわち原爆被害をめぐる言説の構築と変容を映し出す。原爆を描くにあたって夫妻は耳を澄まし、目を開きつづけて、他者の記録/記憶を受け止めた。自らを空の器のようにして他者の記憶を受け入れる姿は、芸術家としての容量の大きさを示す。とともに、そうした「身の置き所」は、体験を持たないものが戦争や原爆をいかに表現しうるかという当事者性の問題がますます切実なものとなる現在においても、考察に値する。
 二人のそれぞれの画業の検証、「原爆の図」の生成過程、全国巡回展にはじまる作品の社会化という拙著の論点も、その後20年近くの間に深められてきた。丸木美術館のみならず、外部の美術館でも、前衛的な日本画をテーマに、あるいは「南洋群島」と美術や、女性画家の活躍に焦点を当てた展覧会が企画され、夫妻の個々の作品がとりあげられた。「原爆の図」以外の夫妻の画業への着目は、「原爆の図」の再考にもつながった。たとえば、第14部《からす》(1972)に登場するチマ・チョゴリ≒朝鮮人女性の表象は、俊が戦前に滞在した「南洋群島」パラオでのデッサンにまでさかのぼり、さらに1949年の広島の労働争議を描いた作品にも登場することが分かった。
 
「原爆の図」第14部《からす》(1972年、紙本墨画、原爆の図丸木美術館蔵)

 
 「日本人の加害責任/植民地責任を描いて被爆ナショナリズムを脱した」とされるはるか以前から、俊は大日本帝国の版図のなかを移動するマイノリティへの眼差しをもち、戦後は政治的な屈折を経ながらも、それをジェンダーの問題と結びつけていったのである。また、丸木美術館の岡村幸宣学芸員は『《原爆の図》全国巡回 占領下、100万人が見た!』(新宿書房、2015年)ほかの実証的な調査をつづけ、「原爆の図」の社会的な受容と役割を浮かび上がらせた。
 
いくつもの「原爆の図」と共同制作
 こうして「原爆の図」を歴史的な文脈に位置づける研究は大きく前進した。その上で、「原爆の図」の存在をさらなる未来につなげていくためには、次のような三つの課題があると私は考えている。
 第一に、15部に限定されることのない「原爆の図」の全容が明らかにされてほしい。1980年代に作者によって連作とされた15作品を仮に「原爆の図」正伝とすれば、50年の絵本『ピカドン』(ポツダム書店)と未完の《夜》はもちろん、初期三部作の再制作版、《ひろしまの図》(1972・広島市現代美術館所蔵)、俊一人の手になる色彩豊かな「原爆の図」から依頼に応えて描かれた各地に残る作品まで、数多くの「原爆の図」外伝が存在する。しかも、再制作版による巡回展や各画集への収録作品にみるように、両者は互換性をもっていた。こうした「原爆の図」の複性(複性ではない)はオリジナリティというモダニズムの神話を揺さぶるとともに、「原爆の図」から南京やアウシュヴィッツ、水俣を経て沖縄戦へという40年に及ぶ夫妻の共同制作が、単純な一筋の流れではないことも示す。たとえば葛飾・勝養寺の《幽霊》、《火》、《水》、《夜》(1982・丸木美術館寄託)や大阪人権博物館の《高張提灯》(1986)には、同時期の沖縄戦シリーズとの技法や構想の共通性がみられる。原爆という主題が、新たな主題にともなう新たな表現をくみ込んで持続していた証左といえよう。
 第二に、丸木夫妻の共同制作についてもより深い議論が必要だろう。お互いの画業を通して出会い、半世紀を超える年月を添い遂げた二人だが、反権力的なアナキズムとでもいうべき生き方を生涯希求した位里に対し、人間本来の善性や平等を信じた俊は、強い正義感とより良い社会への情熱に根ざした運動家・アジテーターとしての才能を発揮した。それぞれのセクシュアリティにおいても、位里は自由な性愛を追い求め、俊は愛し合う一組の男女の永続的な結びつきという性規範に深くとらわれていた。俊は叙情的なタッチで社会的なテーマを描くこともあったが、牛や牡丹や深山幽谷を描くことを好んだ位里はそうした作品を全く残していない。俊は共同制作の「喜びに没頭した」と綴り、位里は「共同制作をつづけてきたから離婚せずにすんだ」と語ったが、相異なる資質をもった二人の全身全霊を傾けた芸術的な交歓が恒常的につづくはずはなく、とりわけ位里は他者を表象することの暴力性の認識を吐露し、安定し閉ざされた関係に満足することもなかった。
 位里が再び積極的に共同制作にかかわった80年代の沖縄戦シリーズでは、二人は非当事者としての受動性の自覚を強めつつ、人びととの協働作業を通してトラウマ的記憶の表現に挑んだ。当時の夫妻は俊の戦中の南洋絵本にみられる「戦争協力」について問われていたが、明確な言葉で答えることはなかった。沖縄戦を学び描くことは、画家としての彼らの答え方だったのかもしれない。俊もまた、松谷みよ子や石牟礼道子との交流を通して独自の表現を深め、絵本『ひろしまのピカ』(小峰書店、1980年)で暴力と殺戮を生き抜く女性像を描き残した。共同制作=主体の共同性の成立という希有な瞬間を積み重ね、自分たちが見ることも想像することもかなわなかった原爆投下直後の世界を絵画という形で現出させた夫妻は、その後も様々な表現を試みながら、生者と死者を媒介するかのように描きつづけたのである。
 
「原爆の図」の「政治性」とは
 第三に、丸木夫妻の政治的立場の変遷と「原爆の図」の政治性をめぐっても、客観的な検証の時期を迎えたと思う。戦後いちはやく日本共産党に入党した夫妻のもとには、組織的・人的な支援を得て当時としては驚くべき量と質の原爆に関する情報が集まってきた。そのことが「原爆の図」の制作を可能にするとともに、逆コースの時代に冷戦の一方の側に立ちアメリカを告発するという役割を担わせた。そもそも大画面の構成と写実的な群像表現という絵画の作り方において「原爆の図」は戦中からひきつづく「戦争画」であり、東アジアでの熱戦とさらなる破滅的な出来事を予感/実感しながら描かれたのである。そこに政治的なメッセージが仮託されることは自然な成り行きだった。共産党が非合法化されるなかでの朝鮮戦争下の全国巡回展から、50年代半ばの被爆ナショナリズムを主題にした中期「原爆の図」と世界巡回展まで、夫妻は党の方針に従って行動した。ハンガリー動乱や中ソ対立、原水禁運動の分裂に際しては沈黙を守ったが、64年に部分的核実験停止条約の締結をめぐる指導部の姿勢を批判して他の文化人たちとともに除名された。
 その後の二人のもとには、ベ平連に代表される市民運動や、68年の学生反乱に発する新左翼運動をはじめ、多種多様な活動にかかわる人びとが集合離散した。三里塚闘争や水俣病、部落差別から在日・在韓被爆者問題、日本各地の反原発運動等々ー老年期を迎えた夫妻は来るものは拒まずという態度で受け入れつつ、同時代の社会問題への関心や歴史認識を深め、後期「原爆の図」につづく新たな主題を作品化していった。運動の側からは、丸木夫妻と「原爆の図」の存在は反戦平和や反権力のシンボルだったかもしれないが、それぞれの運動の推移や衰退、作者たちの狭義の政治的立場や党派性を超えて、「原爆の図」は絵画として生き残った。
 絵画としての「原爆の図」は平和運動や市民運動の道具ではないし、被爆体験の継承の装置でもない。だが、世界に遍在する暴力の前での小さく弱く傷つきやすい人間のありようという「生政治」の次元から、見る者に20世紀という時代の深みに降りて行くことを、そして生と死をめぐる思索を促す。言い換えれば、そうした「原爆の図」の絵画としての政治性が、それぞれの時代の現実政治を引き寄せてきたのである。私にとっても、顔料(絵具)や支持体(カンバスや紙)といった物質と人間の手わざ(技法)との葛藤のなかから新しい世界の像(イメージ)がたちあがり、視覚し触知しうる現実存在と化す絵画という経験は、常に新鮮であり飽くことはない。丸木夫妻が「原爆の図」に込めた核の時代の終焉という願いは、新しい世紀になっても実現することなく、私たちの未来を脅かす雲が晴れることもないかのようだ。だが、「原爆の図」は絵画であることによって、これからも生きつづけ、新たな意味が汲み出されていくにちがいない。
 
 
*この文章は岡村幸宣・浜地稔・西岡健太・関町卓朗編集『原爆の図丸木美術館開館50周年記念誌』(原爆の図丸木美術館発行、2017年)所収の拙稿「世紀を超えてー「原爆の図」をめぐる私的な回想と今、考えること」に、加筆修正したものです。掲載図版は丸木美術館より提供いただきました。また、引用中、インターネット上で画像や情報が見られる場合はリンクを張りました。
 
(こざわ せつこ)
 
(pubspace-x4575,2017.12.04)