病の精神哲学 1 ヘーゲルの構想力論 

高橋一行

  
 すでに前著『所有しないということ』の最終章において、私自身の精神哲学と自然哲学を書きたいと言い、それは「偶然の自然哲学」と「病の精神哲学」という題になるだろうということを示しておいた。いよいよそれに着手する。さしあたって、カント、ヘーゲルに即して、後者から書き進めるが、しかし好き勝手に、カントとヘーゲルを読み込むということになる。そういう作業を経て、私自身の考えを披歴して行きたいと思う。
  
 カントは、『人間学』の中で、夥しい数の、カント自身の言うところの「心の病」を列挙し、ひとつひとつ論じている(注1)。そしてそれらについて、「心の病は構想力の病である」(50節)と言った。カントにとって、そもそも心の病はどういう意味合いを持つのか、またなぜ彼は、『人間学』において、あれほどまでしつこく心の病を取り挙げるのかといった問題は、次号に書く。また、構想力はカントによって、良く知られることになった概念だが、カントの諸著作の中で、扱い方やその意味するところが異なっている。そのことについても、さらにその次の号で扱いたい。一方ヘーゲルもまた心の病に相当に拘っていたことは前著に書いたが、ここではそのことをまず復習し、また構想力についても、ヘーゲルはカントから影響を受けつつ、次第に独自の概念を打ち立てており、そのことを確認して、両者の関連を追ってみたい。
 前著の復習をしておく。論点はふたつある。
 まず『自然哲学』の最後の個所から論じる。動物は病気になり、やがて死ぬ。個体は有限で、死を迎え、そのことによって、類の中に入っていく。有限な個体は次々と死に、そのことによって類の無限性が現れる。しかし動物は死を自覚しない。人間だけが自覚する。そこが両者の違いである。そのために、動物のこの無限性は悪無限と言われ、人間のそれは真無限と言われる。しかし両者は接続している。動物は病気になるが、その病気には魂の病気もあり得る。まさしくその魂の病から、ヘーゲルは人間の魂に話を繋げる。
 もうひとつは、『精神哲学』の最初の魂のところで、そこでも魂は病気になることが強調される。病気が、精神が進展するために、必要な通過点なのである。つまり人は必然的に心の病に陥る。しかしそこから克服できる。そういう議論になっている。
 対立しているものが、対立を克服する運動を繰り返し行う。悪無限的に反復する。その運動の中で、対立が克服される。
 「私たちは、ここで、魂をその病気の状態において考察すべきだろう。なぜならば、魂はここで、自分が自分自身と分裂した状態において現れるからである」(402節補遺)。
 とりあえず、ここまで書いておく。そうすると、カントは心の病は構想力の問題だとしたが、ヘーゲルは心の病は、まだ動物から人間に生成して間もない、未熟な段階に生じるものであって、ここにおいては構想力の病として論じられてはいない。その構想力は、『精神哲学』のこのあとの箇所に、つまりそこからさらに高い段階で論じられる。もちろん精神の高い段階でも病気は起こるかもしれない。しかしヘーゲルはすでに精神の低い段階で病気を論じていて、もう構想力が問題になる段階だと、それを病気と結び付けて議論はしない。
 そのことを確認するために、『精神哲学』のその後の展開を見てみよう。ここでヘーゲル独自の構想力概念が確立されていると思う。
 まず、以下に目次を書いて置く。
  
『エンチュクロペディー』は次の3部門から成り立つ。
1 論理学
2 自然哲学
3 精神哲学
  
第3部門の精神哲学は次の3巻から成り立つ。
1 主観的精神
2 客観的精神(法哲学)
3 絶対的精神(芸術、宗教、哲学)
  
第1巻主観的精神は次の3編から成り立つ。
1 人間学 魂
2 精神現象学 意識
3 心理学 精神
  
第3編「心理学 精神」は次の3章から成り立つ。
1 理論的精神
2 実践的精神
3 自由な精神
  
第1章理論的精神は次のようになっている。
1 直観
2 表象
 2-1 想起
 2-2 構想力
 2-3 記憶
3 思考
 3-1 悟性
 3-2 判断
 3-3 理性(推理する悟性)
  
 目次は構想力の性質を雄弁に語る。
 『精神哲学』第1巻「主観的精神」の第1編「人間学 魂」のポイントは、病であった。その病が魂を次の段階へと導くのである。そしてその魂は、次に意識になり、さらに精神となる。構想力はそのようにして生成した精神という、発展段階の最終の編の中で扱われる。それはさらに、その最初の章の理論的精神の中で、直観と思惟の間に位置する表象の中にある。その表象は次の3段階から成り立つ。すなわち、想起、構想力、記憶である。つまり構想力は、直観と思考の間にあり、また想起と記憶を結ぶものとして位置付けられている。
 順に書いて行こう。
 すでに「人間学 魂」のところで、ヘーゲルは感情について扱っている。しかし「心理学 精神」ではその時と異なって、魂は、その後、自分の全体性の感情となり、自分を自我と捉え、意識に目覚めている。そして精神は、このような意識として、外的客観と関係する。精神はこの営みにおいて、「個別的な精神および共同主観的な精神として存在し、感じる精神として現れる」(446節)。
 さて精神は、感覚されたものをまずは「自己外に存在するものとして規定し、それを空間と時間へ投げ入れる。空間と時間は知性がその中で直観するものとして、存在している諸形式である。意識の方から見れば、素材は単に意識の対象に過ぎず、相対的他者であるが、素材は精神から見れば、自分自身の他者であるという理性的規定を獲得する」(448節)。
 ここで注意すべきは、ここから悟性、つまりこの表象を「類、種、法則、力等という、一般的なカテゴリーに加工する」(467節)能力に進む前に、構想力という概念が存在することである。
 知性は、先の自己外存在を自己内へ内化する(450節)。こうして内化された、すなわち想起された直観が表象である。表象は知性の財産であるとも言われる(451節)。こうして得られた感情の内容が心像であるが、これはまだ暫定的なものに過ぎない。この「知性において内化、すなわち想起されたものとしての心像は、もはや実在するものではなく、無意識的に保存されている」(453)。
 ここでヘーゲルは無意識の世界を考えているのだと思う。「自分が持っているもろもろの心像から成り立っている宝を隠ぺいしている真っ暗な闇を引き裂く」(455節補遺)とか、知性の一般的な堅穴(Schacht)」(455節)という言い方をし、その無意識の中にあったものを意識化するのが、まずは想起であり、次いで構想力なのである。そうしてそれが記号化されて、記憶となる(注2)。
 ヘーゲルの構想力は、無意識の領域に保存されているものを、想起して、意識化するという作業のことなのである。ここで私が「無意識的」と訳したのは、bewusstlosで、これは「没意識的」と訳すべきかもしれないが、しかし私は無意識と訳しても良いと思う。通常、無意識は、Unbewusstheitであり、意味は変わらないからである。
 さて、ヘーゲルはここで何を言いたいのだろう。知性とは、先に論じたように、無限に多くの心象や表象から成り立っている世界を意識の中に存在させないで、自分の中に、すなわち無意識界に、保存している「真っ暗な堅穴」(453節)であった。知性において、想起されたものとしての心象は、もはや実存するものではなく、無意識的に保存されている。
 構想力はさらに次の3つから成り立つ。
1 再生産的構想力
2 連想する構想力
3 象徴及び記号
 すなわち構想力は、まず心像を現存在に引き寄せ、つまり心像を再生産し、次いでそれらの諸心像を相互に関連させ、最後にそれを象徴化し、記号化する。この記号化が、構想力を次の段階、つまり記憶の段階へと推し進めるものである。直観から得られた諸心像が内面化されて表象となり、それはさらに記憶として保持されて、思考へと進むのである。
 そうすると、ヘーゲルの構想力論のポイントはふたつあることになる。ひとつはそれが無意識との関連で論じられるということと、最終的には記号化されるということだ。
 カントは構想力こそが妄想を引き起こし、心の病の原因だと考えた。それは構想力に相当に高い機能を与えていたということを意味する。構想力は悟性に近い機能を持つのだが、しかし悟性は妄想を引き起こさない。それができるのは構想力のみで、そのくらいすごいことができる構想力だからこそ、それがさらに『判断力批判』で、中心的な概念として使われるのである。そう言うことができる。しかしヘーゲルの構想力はそういう役割は与えられていない。
 ヘーゲルが心の病を論じるのは、まさにカントと同じく、「人間学」においてである。『精神哲学』の最初の魂の章にまさしく「人間学」という名称を与え、そこにおいて、病は最も重要な概念である。しかしそこに構想力は出て来ない。
 ここで構想力は、直観的悟性と言われている。このことはこのシリーズのこのあとの回で詳細に論じるが、ここではまさに構想力は、直観と悟性の間に位置しているということに注意すべきだ。それは直観と悟性の共通の根と捉えられているのではなく、直観と悟性を繋ぐものであり、かつ直観も表象も、それぞれ「悟性と精神によって浸透された直観作用」、「理性的表象作用」であって、「このような満足を与える真なるものは、直観作用、表象作用等々が孤立化されているのではなく、全体性の諸契機、すなわち認識作用そのものの諸契機として現存しているということの中に含まれている」(445節注)。以上がヘーゲルの構想力論である。
 次のことを指摘したい。「人間学 魂」において、感情の諸規定が病になり、そこから習慣に至る個所と、「心理学 精神」で、直観の諸規定の諸心像が無意識の中に仕舞われ、構想力を経て、記号化に至る個所と、議論が重なるということだ。
 例えば、「人間学 魂」の次の記述を見る。
 「各個人はもろもろの感覚規定、もろもろの表象、もろもろの知識、もろもろの思想等々から成っている無限の富である。しかし私はそれにもかかわらず、まったく単純な私である。言い換えれば、私は、これらすべてのものを実存させないで自分の中に保管している、規定を持たないひとつの堅穴である。私は私がある表象を想起するときにはじめて、その表象をその内面から引き出して、意識の前に実存させる。病気の場合は、大変長い間意識されずに、長い間忘れられていたと言われている表象や知識が再び出現するということが起こる」(403節注)。
 続いて「心理学 精神」を見る。
 「自我は今やもろもろの心像を支配する威力となっている。・・・心像はただ自分が保存されている主観の中にのみ、自分の内容の諸規定を結合する個体性を持っている。・・・再生産された内容は知性の自己同一的な統一に所属し、知性の一般的な堅穴の中から引き出されたものなので、諸心像や、他の諸状況から見て一層多くが抽象的であったり、一層多く具体的であったりする諸表象を連合する関係として、ひとつの一般的表象を持っている」(455節)。
 そしてこの節の補遺では、さらに、その心像を堅穴の暗闇から引き出す。つまり想起するということが言われ、この想起こそが次いで構想力となるのである。
 この二か所の論述は、言葉から見ても、「もろもろの諸規定」が「堅穴」に「保管」されているという具合に同じ言葉が使われ、それが前者では、それが病になったのちに、習慣によって克服され、後者では、それが構想力になって、そこから記号化によって、次の段階に高められるとされている。議論の仕方は完全に重なっている。
 池松辰男が良くこのあたりの議論を整理している(池松2013)。
 人間学で病を扱い、心理学で構想力を扱い、ヘーゲルにおいてはカントと異なって、両者は分離しているように見える。しかし池松は次の理由で、両者は関連していると結論付ける。すなわち、まずこの人間学と心理学の論点は重なっている。実際、論点はいくつも重なっている。それはなぜかと言えば、『エンチュクロペディー』以前に、そもそもヘーゲルの理論において、人間学の観点はなく、これらの議論はすべて心理学の中で扱われていたのである。それらの論点の一部が、のちに人間学の中で論じられるようになったという、成立史的な経緯がある(注3)。
 実際、ニュルンベルク期(1808-1816)の「哲学の中級クラスの講義要項」(1811/12, 1813/14, 及び1815/16)に次のような記述がある。
 まず「心理学」の中に、「即自かつ対自的に存在する精神」という章があり、その中は1817年に書かれた『精神哲学』とよく似ていて、すなわち1.感情、2.表象、3.思考という構成になっている。そしてその表象の中は、1.想起、2.構想力、3.記憶となっている。その構想力の中の一節である。
 「直観から像が区別されることについては、すでに記述して来た。通常の意識は、直接的に、覚醒し、及び健常な状態で、像に関わる。しかし眠っているとき、異常な状態のとき、病気のときは、意識に対するこの区別は取り払われて、構想力が直観に対して、またより高次な精神の力に対して、意識を支配する」(150節)。つまりこの時期のヘーゲルは、構想力と心の病を関連させて考察しているのである(注4)。それではなぜ、体系完成期に、このふたつを分断したのか(注5)。
 さてここからは私の推理である。
 まず、この構想力を巡る論述に際して、ヘーゲルがまったく病に言及しないのは、単純な話で、それはもう、魂の章で、嫌になるくらい、何度も扱って来たものだから、もうここで出す必要はないと考えているのだろうと思う。しかし、ヘーゲルの病の定義は、低い段階に留まって、それを高次の段階だと言い張ること、ないしは、自己と対象との分裂の状態だから、病はいつでも起こり得る。むしろ、ここ構想力の段階こそ、病は起き易いと言える。それはヘーゲルの論理に従って、そのように言うことができる。
 だからヘーゲルは、カントに倣って、「人間学 魂」の章で、病について言及するだけでなく、ここでも、カントに倣って、構想力の病に触れる必要があったのではないか。無意識の反乱としての病。つまり、堅穴奥深くにある無意識が溢れ出したり、心像が連合する際に、大きくぶれたり、また象徴化、記号化に失敗することがあるだろう。それこそが心の病に他ならない(注6)。
 第二に、病、及び病の克服は、「論理学」(『大論理学』と『小論理学』の両方をこのように表記する)の悪無限に対応するのではないか。「論理学」で、無限概念は、第1部の存在論で扱われており、それと同じく、病の説明は、『精神哲学』第1巻主観的精神の第1編「人間学 魂」でなされるのである。
 この無限は存在論の中で扱われているために、そこからしばしばヘーゲルにとって、無限はそれほど重要な概念ではないのではないかという疑問が投げ付けられる。ヘーゲルの叙述では、いつでも、順番の点であとの方に出て来る概念が重要なものだとされるからで、存在論は、「論理学」の最初の部であるからだ。しかしそれに対して、次のように言うことができる。無限の概念は、「論理学」を貫通する概念であり、その第1部の存在論で詳細に論じることにより、その後も繰り返し使われている。またはすべての論理の背後に常に控えている。そういう概念である。とりわけ、概念論の判断論から推理論に移行するあたりでも、その無限概念は使われている。
 それと同じことが、この病についても言える。それは『精神哲学』主観的精神の第1編「人間学 魂」で扱うことにより、そののちにもその論理を使い続けることができ、またすべての概念の背後に控えているもので、とりわけ「心理学 精神」の構想力のところでも、その概念は、明示されなくても使われているのである。
 要するに、『精神哲学』と「論理学」は、並行的に議論がされている。病は有限なもので、その病の克服はまさしく悪無限的な努力であるのだが、習慣において、それは真無限となって、病は克服されるのである。そしてこの無限概念が、実は、「論理学」の中で際立って重要な概念なのに、最初の方で扱われ、しかしそのことによって、そののちの記述の背後に控えて、「論理学」全体を支配しているのと同じく、『精神哲学』では病が全体を支配しているのである。言い換えれば、無限概念が「論理学」を牽引しているが、同じように、病の概念が『精神哲学』を駆動する。
 ここは強調されるべきである。さらに私は、前著において、悪無限はすでに真無限であると言った。悪無限は、有限な運動が無限に続くことであるが、しかしその有限な運動の中にこそ、すでに無限が胚胎している。その有限な運動こそが実は無限なのである。そのように書いた。
 そこから、ここではそれをもう一歩踏み込んで、病は習慣において、また記号化において、実は完全には治らず、せいぜい寛解に留まり、しかしそれを以って完治と言って良いということだ。寛解というのは、医学用語で、完全に治った訳ではなく、また再発する可能性もあるけれども、とりあえず直ったと見なして良いということである。精神の病においては、完治はあり得ないのだが、社会生活が営める程度には症状が穏やかになったということであれば、それを寛解と言い、ほぼ完治したと見なして良い(注7)。
 私はここで、寛解としての病の克服という観点を出して、それを以って本稿の結論とする。それは、「人間学 魂」では、習慣であったし、「心理学 精神」では、記号化であった。どちらもとりあえず、病を押さえ込んでいるだけの話で、根本的に治癒される訳ではないが、そのようにして、精神は高まって行くのである。
  
  
注1 カントの著書の正確な名称は、『実用的見地における人間学』である。この本については、次回に詳述する。
  
注2 栗原隆は、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルへと至る道筋に、夥しい数の、一群の思想家がいることを指摘し、彼らの思想がどのようにヘーゲルに影響を与えているか、詳細に調べている(栗原2014a)。ヘーゲルの使う「堅穴」も、ボネという人物からその着想を得たのではないかと示唆されている。記号を、堅穴深く眠る想念が記憶となって甦る際に役割を果たすものと捉えたのは、ボネを批判的に摂取したことによる。そのことによって、ヘーゲルは、「堅穴の比喩を強調」し、「意識下の混沌とした心像の世界と明澄な思弁とを往還する知性の、ダイナミックな構造に支えられていることを明らかにしようとした」(p.131)という結論を出している。
  
注3 栗原隆はさらに、カントとヘーゲルの構想力の比較も行っている(栗原2014b)。カントは構想力を高いものと見なしたが、ヘーゲルはそれを低いものとしている。まず、カントにおいて、「構想力は夢や空想、はたまた錯乱のようなものだけでなく、芸術作品を生み出す原動力になり得た」(p.61)ので、「感性と悟性とを媒介するという高次の役割を与えられた」(p.59)と言うのだが、私はそれは次のように訂正すべきだと思う。つまり、構想力には、夢、空想、錯乱引き起こす能力があるからこそ、まさしくそのために、芸術作品を産み出すことができるし、さらには、『判断力批判』の後半で、単に、感性と悟性とを媒介する能力以上の役割を与えられたのである。これがカントの構想力で、次回以降に詳細に検討する予定である。
 一方ヘーゲルは、いやヘーゲルこそが、構想力を、感性と悟性とを媒介する能力だと見なし、しかしヘーゲルにおいては、カテゴリーは順に発展するものだから、構想力は、悟性よりも低い段階に置かれたのである。しかしヘーゲルのイェーナ期、ニュルンベルク期において、構想力は、夢想、夢見、錯乱、病気と結び付けられ、また『精神哲学』においては、それは泉の比喩で捉えられている。すなわち、構想力は、「こんこんと水の湧き上がる泉のように、刺激をきっかけとしながらも、心の中で止めどもなく抑えようもないままに想念が沸き起こる様子」を表していて、それは「内発性を象徴している」(p.68)。つまりヘーゲルは、意識内在主義の体系を創ろうとし、能力が内発的に自己展開してゆくプロセスを叙述しようとした。そしてこのことを端的に示しているのが、「人間学 魂」と「心理学 精神」の二か所で使われる「堅穴」の比喩である。
 私はこの理解は極めて正しいと思う。ただ、カントの構想力は高い位置付けにあり、ヘーゲルにおいては、それは低いと結論付ける必要はない。構想力は、直観と悟性を取り結ぶ重要な役割を持っている。また、それと関連付けて考察されるべき病も、『精神哲学』の最初の方に出て来る、低次の概念であるように見えるが、ヘーゲルにおいて、すべてのカテゴリーは、繰り返し出て来る。反復しつつ、螺旋的に高次の段階へと進んで行く。低次とされるものも、高次と同じ論理構造を持っている。
  
注4 他にも、ヘーゲルの構想力が、病を引き起こすものという意味で使われている例を挙げることができる。
 『イェーナ体系構想』(1803 – 04)には次のような記述がある。
「空間と時間が意識の肯定的で普遍的なものであるが、同時に意識は空間と時間を形式的にそれぞれ自身の反対のものにする。つまり両者を特殊化する。・・・意識のこの形式が経験的構想力である」(p.31)。
「意識のこの形式的なあり方はどんな真実の実在性を持っていない。このあり方は主観的なものであって、外的に実在していない。それはただ無限性という抽象的で純粋な概念の形式としてのみ存在し、直接的には、この概念が意識として存在するように、時間及び空間として存在する。こうした経験的構想力としての意識は、空虚で真実を持たない、目覚めているときの夢想、あるいは睡眠中の夢見のようなものである。言い換えれば、意識が動物的な有機体に堕して、ただその概念としてしか存在していない時のような、持続的な錯乱、あるいは一時的な病気の状態のようなものである」(p.33f.)。
 これはのちの『精神哲学』の記述を思わせる。しかし『精神哲学』では、構想力はこの本の後半部に出て来る概念で、一方、心の病については、構想力が出て来るはるか前、動物からやっと人間の魂に移行したとき、つまりまだ動物性を残しているときの状態で扱われていて、確かにそこでは、ヘーゲルはさかんにこの状態を夢だとか、夢想だとか、錯乱という言葉で説明する。ただ、これが構想力とは結び付けられていない。
 また『差異論文』(1801)には、次のような表現がある。
「自我と非我、主観的なものと客観的なものという結合されるべきものが、絶対的に対立し合っているという性格が、両者を端的に単に観念的なものとしている。一方が登場すれば、他方は廃棄される。・・・従って、一方の概念とともに、他方の概念が同時に登場して来て、一方の概念を廃棄するから、この一方も存立し得ない。従って、両者ともに存在せず、・・・この両者について思惟することを可能にしたのは構想力による善意の欺きに他ならない」(p.58f.)。構想力はここでは、実在しないのに、勝手に主観がでっち上げるというくらいの意味で使われている。
  
注5 加藤尚武は、ヘーゲルには、病態発生論という発想があると言う(加藤2012)。様々な臓器は全体としてバランスを取っているが、それが壊れて、一部の臓器が異常に増殖するのが病気である。ヘーゲルの言葉で言えば、部分が、全体を詐称する、低次のものが、自らを高次の概念であると言い張るということである。これがヘーゲルの著作において、あらゆるところで使われる。
もうひとつ、面白い指摘は、精神は言葉の本来の意味で自然よりも有機的だと言うことである。このことを私はかつて、ヘーゲルにおいては、精神に至ってもなお有機的だという言い方をした。加藤はさらにそれを明確にし、精神は有機的であって、そのおかげで自然も有機的なのである。精神こそが有機的であって、自然は二次的に有機的であると言う。そしてそこに、私は、精神も自然も、そもそも病気なのであるということを付け加えたい。
 またフィーベークも良くヘーゲルの構想力論をまとめている(フィーベック2009)。それは自己規定の運動であり、自律であり、自己解放としての精神の自分自身を規定する運動であると高く評価しつつも、しかし最終的には、ヘーゲルの体系の中に位置付けられていて、それだけでは十分な概念として機能している訳ではないと結ばれている。
   
注6 山田忠彰は、「人間学 魂」の習慣概念に着目する(山田2009)。それは、「基礎的なデザイン的形象のあり様の論究を通して、人間の自己表現でもある、この世界のイデアリテートの機制を一種の機能的体制として具体化する」(p.77)ためである。
デリダもまた「心理学 精神」の記号の箇所に注目する(デリダ1972=2007)。しかしデリダの場合、彼自身の問題意識に従って、音声言語と書字言語の関係について、ヘーゲル批判を展開する。そのことによって、ヘーゲルの体系そのものをどう問い直すかということが試みられている。
この二箇所が、『精神哲学』の山場と言うべき個所である。そしてこの両者の前に、それぞれ病と構想力が出て来るのである。
  
注7 このことは、野尻英一氏との私的な会話から示唆を受けた。
  
  
参考文献
  
カントは次の号で整理する。
ヘーゲルは次の4冊を挙げる。原文はすべて決定版全集を使い、原文のページ数を先に書き、訳が出ているものは、そのあとに訳のページ数を書いた。
『フィヒテとシェリングの差異』戸田洋樹訳、公論社、1980、G..W..F..Hegel, Gesammelte Werke, Bd. 4, 1968
『イェーナ体系構想』加藤尚武監訳、法政大学出版局、1999、G..W..F..Hegel, Gesammelte Werke, Bd. 6, 1975
Gymnasialkurse und Gymnasialreden, Nürnberger Gymnasialkurse und Gymnasialreden (1808-1816), G..W..F..Hegel, Gesammelte Werke, Bd. 10-I, 2006
『精神哲学』船山信一訳、岩波書店、1965、G..W..F..Hegel, Gesammelte Werke, Bd. 20, 1992
  
その他
Derrida, J., Marges – de la philosophie, Les Éditions de Minuit, 1972 = 『哲学の余白』高橋允昭、藤本一勇訳、法政大学出版局、2007
池松辰男 2013「身体と言語 -『精神哲学』における二つの表現-」『ヘーゲル哲学研究』Vol.19, 2013
加藤尚武「ヘーゲル体系論の四つのモチーフ」『哲学原理の転換』所収
栗原隆2014a「心の深処と知性の竪抗」『思索』2014
——- 2014b「ファンタジーの射程とムネモシュネ―の深み」『シェリング年報』2014
高橋一行『所有しないということ』御茶の水書房2017
フィーベーク、K., 「像を支配する柔らかい力–構想力についてのヘーゲルの哲学的構想」赤石憲昭、野尻英一訳『理想』No.682、2009
山田忠彰『エスト-エティカ - <デザイン・ワールド>と<存在の美学> -』ナカニシヤ出版2009
  
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x4504,2017.11.15)