演劇時評(4)――「かつて女神だった私へ」芸術集団れんこんきすた

ハンダラ

 
 今年に入って既に百数十の舞台を拝見したが、今作がベストである。観た者は、観劇前と後で、自分の心と魂が変わっていることに気付かされよう。絶対お勧めの舞台である。
 “クマリ”を辞書で引いてみるとネパール盆地のネワール人(ヒンドゥーを国教とするネパールで仏教を信仰する人々、ヒンドゥーの影響を受けカースト制がある)に信仰される生き神だという。ドゥルガー女神の処女相として13世紀(一説には11世紀)以降信仰され、18世紀以降に隆盛を迎えた。クマリの資格を持つのは仏教徒カーストのサキャ族に属す初潮前の少女。クマリとされる少女は多くの集落に存在するが、カトマンズのクマリはクマリの館に住み、特に有名だという。
 恥ずかしながら、自分はクマリという存在を今作で初めて知った。チベット、ネパールそしてブータンは憧れの地域・国であるが、遠い夢であるうちは、詳しく調べてもみなかったわけだ。今回、「芸術集団れんこんきすた」が挑むのは、この遠い夢の地域。思えば雲南省に住む少数民族地域などには最近まで桃源郷のような場所が存在していた。自分の知り合いのカメラマンで女性初の太陽賞を受賞した写真家が、雲南省が大好きでよく入っていたので自分は知ったのだが。尤も近頃では随分「開発」が進んでしまったようである。ブータンにしても車が増えている。
 ところで、ドゥルガー女神とはどんな神なのだろう。やはりヒンドゥー教の神・パールバティーと同一視され、パールバティー同様シヴァ神の妃である。同一視されるのは、同一神の異名だからという解釈が当然成り立つが、ドゥルガーの名以外にいくつもの呼称を持つ強大な神であり、慈母であると同時に凶暴な側面を持ち、近寄りがたい存在とされるが、ヒンドゥー教の美しく位高き女神である。
 クマリになる少女に施される化粧に、額の中ほどに引かれる線や目に似せた化粧があるが、これはドゥルガー女神の第三の目を表すのであろう。無論、第三の目は超人的な知・能力を象徴する。然しながらドゥルガー女神の第三の目は見開かれていて、クマリのそれは、唯の太い線であったり、虹彩までしか描かれない所が異なる。それは、未だ完全には覚醒していない神を表しているのかも知れないが、少なくとも人智を超えた高いポテンシャルを象徴していることもまた確かであろう。その証拠と言っては何だが、クマリとネパール政府調査官との問答が描かれる第二場でのクマリの発言の鋭さと深い知恵には神聖とは何か? 他人の為に生きるとは如何なることか? 尊いとはどのようなことかが逐一示されて、研究者であろう政府調査官の論理を実に軽い薄っぺらい理屈に見せてしまうのも事実である。
 ところで、第一場の始まり方も異様な緊張感を伴うものであり、観客の意表を衝く。クマリの座る椅子とその背後に立つ女の前には深い闇が横たわり、闇の奥にはクマリの為に捧げられた山羊や水牛の首・百八つが彼女らを見つめており、その顔は恨みに今にも吠えだしそうなのだが、クマリは彼らの目を覘き込み、彼らの恨みに対峙しなければならない。何故なら彼らは総て彼女の就任の為に殺されたのだから。いきなり何の咎もなく生命を断ち切られた彼らの恨みや流された血が恐ろしければ恐ろしいほど、クマリに選ばれた幼い彼女は、真っ向から見て、心に刻まなければならない。それが出来た時、彼女の目に映った者は、闇に浮かぶ人々の顔であった。因みに彼女がクマリに就任したのは僅か3歳。その年でこのように苛酷な精神的体験を経た少女がクマリになったのだ。
 人を救うとは、奇跡を起こすことではない。仮にそんなことができたとして、それは疑いをしか持たぬ現代人の覚醒の便とはならないと彼女は断言する。クマリの力は、クマリを頼って相談にくる人々自身の中に眠る可能性をめざめさせること。世界は強く尊いものから成り立っており、ヒトもまたそのようなもので形作られているが故に尊いこと、そのことを相談に来た各々に気付かせること、それがクマリの役割の一つである。更に相談に来た人々の心の奥底に眠る可能性を目覚めさせること。これこそが、クマリの力である。人々の願いが自らの幸せを願うのみならず、それが他者の幸いに繋がり、ひいては世の幸いをも導く時、その願いは叶う。この力を行使する為に、クマリは様々な制限を受け、試練を課される。尊いとは何か、それが何故美しいのかを、これほど雄弁に訴えてくる作品は稀有である。
 因みに今作にはネパールに纏わる多くの小道具が用いられている。クマリの座す椅子の下には正三角形(今回は会場スペースの関係から正三角形に近い二等辺三角形)の台が置かれているが、三角形は平面分割の最小単位の一つ。無論、円の中心と正三角形の中心をピッタリ重ねてその各々の頂点が円周にぴったり重なるのも正三角形だけである。つまり、この正三角形は、女神・ドゥルガーの完全性、その処女相を表すクマリの完璧を象徴していると解釈することができるのだ。椅子の背凭れの各々の頂点から45°方向に据えられたランタンもネパールからの直輸入品。床の下手・上手に置かれた物も同様である。その他天井から吊り下げられ床まで届く幅1mほどとその半分ほどの布が空間を上手く制御している。またこの三角形はネパール国旗とも関係がある、更に流れてくる音楽は総てネパール現地のものであり、出演女優の肌の色合いも化粧で調整している等々、様々な点で現地の雰囲気を醸し出す工夫が凝らされている。何より、クマリが、クマリになる儀式の最後に、俗世への思いを断ち切る為に願い・歌うことが許された現地語での歌唱も、難しい現地語を良く暗唱し、且つ歌唱したと褒めねばなるまい。無論、完璧な現地語発音ではなかろうが、雰囲気のよく出た良い歌唱であったことも事実である。
 興味深いのは、1990年代に王政が制限されて憲法が作成・施行されていたこと。(つまり、此処に描かれたクマリが就任した時点は、既に人民主権を認めた憲法施行後である。だが王が完全に退くのは、約20年後の2008年5月28日。この間、紆余曲折があり、簡単に政治情勢が変わった訳でないばかりか、国王を支援するアメリカの後ろ盾もあって、国王勢力VS民主化勢力・毛沢東主義者らの争闘は、内戦となって増々混迷を深め、争いは国を疲弊させた。主人公がクマリであったのは、2008年を含む9年間だということが作中の科白から特定できる。戦争で犠牲になるのは、とどのつまり民である。そのシンドイ時代をこのクマリはクマリとして生きて来た訳だ) 2008年に共和制になって以降、共和国政府は、カトマンズのクマリが3歳の頃からクマリハウスに住まわされ殆ど監禁同様の生活を「強いられている」との指摘に対し、人権侵害の疑いがあるとの立場から調査官を派遣、現クマリとの対話をさせる場面が出てくるのであるが、クマリの受け答えが実に的確で哲学的に深いことに驚かされる。それもそうだろう。クマリとして選ばれて連れて来られた3歳の時に生と死、人々の幸と不幸、自分がクマリとして選ばれたが為に殺された108の生き物たちの恨みつらみを引き受け、泣くことも笑うことも禁じられ、両親に会うのは1年に一度、クマリとしての彼女が祝福を与える形でのみ、而も大地に直接触れることは不浄とされるが故に、泥んこになって遊びまわることなどもってのほか、更に一挙手一投足が厳重に管理される。振り返ったりするのも禁じられているのは、それらの所作が、人々に何等かの不吉なお告げ、と取られかねないからである。このような状況に相対してきた凄まじい生に、感受性の鋭い、極めて聡明な幼い身体の総てを賭けて対峙してきたのである。結果、彼女は悟るのである。奇跡など必要ないと。人は、奇跡が起これば何か仕掛けがあると総てを疑う。旧約聖書の時代のように人々が奇跡を信じるなどという心的風景・羅漢のような心眼は、今では疑いの精神によって滅んでしまった。そして人々の魂はがらんどうである。彼女は、だから、人々の魂の奥底に溜まったヘドロのような堆積の中へ降りてゆき、そこに未だ本人も気付かぬまま眠っている可能性を引き出すのである。それがクマリにできることであり、すべき本当の勤めなのである。これが分かっているから、彼女は重い頚城に耐え、而も人々を救うべく、ガンジガラメの中で生きて来たのだ。この犠牲が尊くないなどと誰に言えよう? 
 一方、これほど厳しい禁忌の下に置かれているクマリは、カトマンズのクマリだけであり、他の地域のクマリは、同一地方に複数居ることもあれば、両親と暮らしたり、学校に行ったり、地面に足をつけたり、好きな物を食べたりすることができるという。調査官のこの指摘に対してのカトマンズのクマリの答えは「自分に対する制約は、この地の民が、神聖を尊ぶ故だ」と答え「自分に課せられた制約は、その為の手段に過ぎない」とも応じた後、「時、所に応じ、其処に生きる民に合わせてクマリは自由に変わる。そうでなければ、務めを果たすことはできない」と応じるのである。
 もう一つ、クマリにとって大切なことがある。それは、彼女の傍に付き添っているハズの者から彼女が見え、声を掛けられて聞こえることである。無論、その場に居ても常人には、クマリに寄り添い、彼女の力の源泉となっている者の存在は認識されない。常人には感知されない「存在」と交感するクマリのその不可思議な能力が失われるのは、血を流した時である。通常それは初潮を迎える時と重なるが、今作では、椅子の棘がクマリの指に刺さり血が流れたことであった。
 さて、序破急も残す所、急のみとなった。第三部である。12歳で指から血を流し、クマリを退いたグリシュマ・サキャ(この物語の主人公の俗名)は、潔斎を済ませ、実家に戻った。第三部は、それから数年後を描く。グリシュマが実家に戻ってから間もなく、父・母はクマリだった者に与えられる僅かな金子のことで喧嘩が絶えなくなり、父は家を出て行った。その後、母の稼ぎでは食うこともできずに母子は街に出た。グリシュマの与えられる僅かな金子について、何とか相談しようとクマリや高僧が街に出てくる祭りに出掛けた母は、雑踏の押し合いに巻き込まれ頭を強く打って以来、亡くなるまでの数年体の自由が利かぬまま息を引き取った。身よりを失くしたグリシュマは、パタンの街に流れ着く。そこで古釘を拾い布で拭いて僅かに糊口を凌ごうとする彼女の出会った老女は、いきなり「布施を寄こせ」と命じた。聞けば、かつてのこの地のクマリであったという。グリシュマ同様、乞食同然の身と成り果ててはいたが、老女は、今でもクマリだと言い張り、グリシュマと討論をすることになる。この討論の過程でグリシュマは、思い出す。かつて自らが諭した言の葉の意味する所を、そしてそれを忘れていたことを。今、自らが何をすべきかに気付いたグリシュマは、独り街を出てゆく。一人の人として、かつて女神であった一人の人としてしっかり大地を踏みしめながら。その背後に、老女の呟き「ああ、あああ、見える、見える! これは・・・何て尊い・・・、美しい!」(幕)
 
 附則:今作の上記のような解釈に異論が出ることは、当然のこと乍ら承知している。そして、その異論の代表的なものが、クマリ及びその制度が、為政者の大衆支配の為に使われたシステムだ、という意見だろう。無論、王権神授説に近いようなクマリの権力サイドからの利用はあったであろうし、日本の近代化の中で天皇制が果たした役割と比較しても興味深い問題はあろう。為政者の狡猾は古今東西を通して共通している。然しながら、今作を上記のように解したのには、無論、訳がある。それは、クマリの発言としては、彼女の対峠しているのが一貫して”民”だという点である。つまり王も権力者も関係がないという点である。この点についても反論はあるであろうが、今の所権力者にも寿命は、変えられないし、1日が24時間しかないのも同様である。而も如何なる権力であっても、その権力及び権力機構が、理に適ったものでなければ長続きしない。このような普遍的なことをクマリは伝えているのであり、担ってきた。その美しい物語の本質を伝えたかったのである。
 注記:この評に用いられている文章の中に、作家の書いた科白と極めて似た表現が何か所か出てくる。完全に同一ではない所もあるが、作家の表現が適確である為、他の表現に変えたくないと筆者が信じた部分に関しては、作家の書いた科白に最小限の変更を加えて書かせて頂いていることを、読者にはご承知おき頂きたい。因みに最後の老婆の呟きは、完全に引用である。その他はどこが、どのように異なるか、興味のある方は、シナリオが販売されているので、編集部を通じて「芸術集団れんこんきすた」にお問い合わせ頂ければ幸いである。
 
芸術集団れんこんきすたvol.26「かつて女神だった私へ」
脚本・演出:奥村 千里
出演:クマリ役 小松崎 めぐみ

前クマリ 中川 朝子  
調査官
老女 以上三役

スタッフ
舞台監督:高橋 京子(箱馬研究所)
照明:平井 奈菜子(株式会社ラセンス)
音響:ナガセナイフ(音ノ屋)
当日制作:木村 美佐
Web:TAKENORI
フライヤーデザイン・印刷:朝霞ルイ(幻想芸術集団Les Miroirs)
映像・スチール撮影:ARAKI
協力:四葉三拍子/幻想芸術集団Les Miroirs
取材・宣伝協力:シダット(矢口渡)/ロサニ(池上)/ハヌマン(池上)/ネパーリキッチン(東矢口)/ヒマラヤ(池上)
企画・制作:芸術集団れんこんきすた
 
劇場:両国 スタジオ アプローズ
日程:2017年7月27日(木)~30日(日)
 
(ハンダラ[ペンネーム])
 
(筆者の要請により、一部訂正致しました[2017/08/15/11:15]。訂正内容は、以下の通りです。
「そこで彼女の出会った老女は、かつてのこの地のクマリであった。」

「そこで古釘を拾い布で拭いて僅かに糊口を凌ごうとする彼女の出会った老女は、いきなり「布施を寄こせ」と命じた。聞けば、かつてのこの地のクマリであったという。」
――編集部)

(pubspace-4302,2017.08.15)