Paul Valéryとの出会い一Catherine Pozzi研究一

永倉千夏子

 
 1987年に日記、ついで1988年に評伝と詩作品集、自伝的小話Agnes (新版)が刊行された(1)のをきっかけに、一時期Paul Valéryの愛人であったCatherine Pozziなる女性のことが新たに世に知られるようになった。それまで彼女のことはValéryのCahiersおよび若干の「文学的ゴシップ」からその存在を指摘されていたにとどまる。しかしこの資料からValéryとの具体的な影響関係が新たに浮かび上がると共に、これまで幾多の選集に取り上げられその詩情の魅力を指摘されつつ研究材料を欠いてきた彼女自身の作品の背景も明らかになったのである。現在、研究者の問ではおよそ次のような推測がなされている。すなわち、現在のCahiersでは「誰の手によるものか不明」とされている書き込みは彼女のものであり、彼女はValéryからCahiersの分類を委託され、彼と話し合いつつほとんど独力でその作業を行ったこと。EupalinosなどのValéryの対話篇がかなりの部分、彼女との実際の対話を下じきに書かれたらしいこと。1920年以降のCahiersにみられる彼の「形而上的」苦悩に彼女とのいきさつが大いに関係していること。彼女が単にValéryのBeatriceであったばかりでなく、独自の思想をもち「合理主義を越え」ようと科学と哲学の広範な勉強をしていたこと。彼に自分と同じ「体系」の構築を求めながら思想を盗まれることを恐れて自ら関係を断つ、激烈な愛と知牲の女性であったこと。書簡体に特異な才能をもち(彼との決別の引換えのように)結核の苦しみのさなかに聞こえてくる「他者の声」を書き留める詩人であったこと、等々。二人の関係の大要については、渋沢孝輔「原形と風景のあいだ」4~6(雑誌『花神』7,9,10号、花神社、1989-90)を参照されたい。重複する部分もあるが、今回は彼らの出会いとその前提について主にCatherine Pozziの側から整理してみたいと思う。
 
 [前提一愛と哲学の原形]
 Catherine Pozzi(本人の署名の一つにならい(2)以下CKと略)は、1882年7月13日、パリの大ブルジョワで外科医の父Samuelと、これもリヨンの大ブルジョワで何不自由なく育った母Thérèse (Loth- Cazalis)の間に長女として生まれた。父方は激烈なイタリア系プロテスタント。とりわけ祖父Benjaminは合理主義の波から伝統的教義を擁護しようと自由教会まで設立した熱血牧師である。父親は上院議員、バカロレア改革委員などもつとめる進歩的思想の持ち主であった反面、女子の教育には保守的で、当時の上流階級の風習のまま、彼女を学校へは入れなかった。家庭教師から英語、女中からドイツ語を学び、後には大学の先生までつけてもらうものの、CKは内心リセに通う弟が羨ましく、彼の作文の代作などして自尊心を満たしていたらしい。10代の日記には、外国語を話すと(しばしば男性の)異人格を皮膚の下に感ずるなどの興味深い記述が見られ、また、肉体的な欲望と精神との対立を扱った詩の習作もある。13才よりピアノを習う。先生はリストの弟子で特異な音楽哲学をもっていた女性Marie Jaëll。Jaëllは独特の運指訓練を通して生徒の肉体を魂との一致に導くという教授法を取っていた。CKの最初の論文はこのMarie Jaëllの音楽哲学の紹介であり(3)、後に彼女自身の哲学のよりどころとなるのも、Jaëllの「肉体と魂の一致」という思想である。CKの両親は彼女が生まれる前から不和だった。父母からそれぞれ別々には可愛がられたものの、彼女は冷たい家庭の孤独のはけ口を<人間の貧しい言葉より自分の考えていることをよく歌える>(Journal, 24 jan.1898)音楽と、そして自分自身を対話者とする日記に求めるようになった。<彼女は誰に打ち明けることができるの?...誰のそばで泣き、誰と微笑みを交わすの?ああ、誰もいはしない。だから私は書くの。この紙の上で私は考え、希望を持つの…….おお私のお友達、私のもの、私の大好きなもの!おお、私の魂を書き付けたこの紙の一枚一枚を私がどれだけ愛しているか!!!>(Journal, 24 oct.1896)
 恋を恋する夢見る乙女にありがちなことで、自己であったはずの対話者の場所はたやすく<夢の男>(Journal, 22 juin 1897)へと置き替えられる。しかし、彼女の現実の恋はもっと内気に、はにかみがちに展開する。「恋愛ごっこ」のお相手を除けば、彼女が最初に恋に近い感情を抱いたのは1903年夏、避暑先スイスのエンガディンで出会ったAudrey Deaconである。Audreyは10年前に父を母の愛人にピストルで殺されている。彼女もまた冷たい家庭に育った影のある美しい少女だった。エンガディンでは密かな恋心を打ち明けるに至らなかったが、バカンスの後もCKは彼女のことが忘れられず次のように書き送っている。く全く自分と同じ他の自己と一緒にいることができず、小さく縮こまった自己だけを相手にしていなければならないことほど、消耗することはありません。本当の愛情の何たるかをご存じですか。それは、他者と対しつつ、自分自身の全てを羽ばたかすことができることです……私達の愛情はこのようなものでなければならない、とは思いませんか>(Lettre à A. Deacon, 1er sept. 1913)。この真剣だがまだ漠然とした少女同士の恋は、翌春Audreyの持病である心臓病の悪化によって終わりを迎える。しかしAudreyの面影は呼べば答える死者のイマージュとして残り、CKは「現在と共存する過去」という図式を生涯信じ続けることになる。Audreyとの友情がもっぱら精神的なものであったのに対し、その友人だったGeorgie Raoul-Duvalとの関係は、より肉体的なものである。劇作家Willyの愛人でもあった両刀使いのGeorgieは、CKのうちに潜む情熱と才能に興味をもったらしい。CKの日記かちは、彼女が初めてGeorgieと肉体関係をもったことが伺われる。だがCKの両親が不品行な友人との交際を許さず、またGeorgieが知的には物足りなかったこともあって、その関係は長続きしなかった。とはいえ、CKは彼女の影響で両親からの独立を考え、やがて短期間ではあるが単独のイギリス留学を実現するのであるし、さらに重要なことには、これ以後、愛には知性と肉体の両面が欠けてはならないと確信するのである。
 さて、彼女の哲学に影響を与えたのは先のMarie Jaëllだけではない。すでに1897年から父の書庫でAckermanの詩やNietzsche、Taine、Renanの哲学を発見し<女の子たちの知らないこと>(Journal, 10 mai 1898)を学ぶ喜びを知り始めている。が、同時に<勉強している最中の性的情熱>(Journal, 12 mars 1901)ゆえの自己嫌悪にも陥っている。こうした悩みの導き手を務めていたのが父の友人Marcel SchwobでありAlbert Le Chatelierであった。彼らはまだ固まっていないCKの人格に眠る才能を見いだした。後者は「王子様さえ現れれば貴女の知性の蛹は脱皮する」と予言している。彼に勧められるままにCKはWilliam Jamesを学び、それを通して自分の知的な混乱を分析、「positivismeを越えること」と「物質と精神の区別を消去すること」を自分の課題と考えるようになる。一方彼女の科学への興味を呼び覚ましたのは、1907年1月Georgieのもとで知り会った物理学博士Arnaud de Gramont伯爵(1861-1923)である。彼は後の1913年、科学アカデミーの会員となるのだが、様々な分野の科学はもとよりオカルティズムにも通じており、彼女の言うことを女の子の戯言と思わず、プラトニスムやインド哲学の話をしてくれた。彼が当時の知識人の通例として物質至上主義に反感をもっていたことは確かである。
 1907年4月、彼女は向学心に燃えてオックスフォードに渡る。しかし女子は授業を聞くことはできても学位を取ることはできなかった。正規の生徒になれる約束を取りつけたところで7月に帰仏。母の泣き落としもあって学校へは戻らない。この時の挫折感からくる気の迷いと若干の母姓本能、そして取り返しのつかぬ自尊心から彼女は結婚することになる。Edouard Bourdetとは、1901年の夏にブルターニュの避暑で一緒になって以来、家族ぐるみの付き含いをしていた。1907年の冬にBourdet家の母Margueriteが亡くなり、6才年上のCKにEdouardが支えを求めたのである。年齢、知性、家柄など、あらゆる点で一枚上手の彼女を出し抜くために彼は一計を案じた。グルネル通り91番地に自分の部屋を借り、彼女を呼んだのである。CKは一晩考えた末、<愛人ではなく婚約者として>(Journal, 10 août 1921)訪れた。当時19才のEdouardが結婚まで考えていたはずもない。とはいえ成り行きとして彼は了承する。少なくとも彼はCKを愛していた。しかし、もともとCKに言いよっていたEdouardの兄Andréが弟に暴力を振るうなどの事件もあり、彼女は後悔し始める。<それは余りに高いものについてしまいました。やり直すことができるなら、きっと私は彼にこう言うでしょう。「出ていって。」――そして、リュクサンブールのそばにある最良の私を返して、と>(Lettre à Marie Jaëll, déc. 1908)。
 二人は1909年1月に結婚式を挙げ、カンヌに新婚旅行に行く。表面的には仲良くスポーツに興じていたが、夫婦というより仲間、子供の遊びのような関係にCKは幻滅を隠せなかったらしい。Edouardは劇作家としてのデビュー作Le Rubiconを書き始め、夫婦関係も止め、不機嫌になる。当時の生活を反映していると思われるLe Rubiconによれば、「彼女が自分の期待するように愛してくれないという理由で彼女を遠ざける」ところに彼なりの欲望の図式があったらしい。難しい夫婦である。CKはすでに妊娠している。<何という変わりようでしょう。今では一人の病気の女に過ぎず、進歩どころではありません。純粋な意識のエネルギーへと向かわず本能の方向に向かったのは間違いだったのでしょうか。今は答えを出しませんが—激しく後悔することがあります。無限のわがままな希望を犠牲にしてしまったことを>(Lettre à Marie Jaëll, vers mars 1909)。10月、長男Clavde誕生。翌1月、療養から帰ってくると夫はLe Rubiconの主演女優と深い仲になっている。CKはクロロフォルムを飲んで自殺を計るが、一命を取りとめる。夫のオペラ台本に手を貸そうとするが、夫としては自分の成功は自分のものにバーデン=バーデンでひどい風邪を引き、肋膜炎を併発。自分の母方の別荘ラ・グロレで秋冬中寝込む。結核の始まりである。まさにこの時、すなわち肉体的には話すことが困難になり、精神的には結婚に破れ夫の不在の下でなければ自分を見つけられないことを確信したこの時に、CKは少女時代から中断していた日記を再開するのである。再開された日記は次のように始まっている。<これは危険だ。危険だ。しかし役に立つ。さらには不可欠でも。そして喜びでもあるのだ。子供から少女、娘だった頃、私の最も美しい時間は、このような手帳の上に私の神々を呼び起こすことで過ぎて行かなかったか?結婚が追い払ってしまったあの懐しい神々よ、戻ってきておくれ。あなたがたは思い違いをした。私は一人。また前のように。あなた方が行ってしまったから!>(Journal, Mercredi 22 jan. 1913)
 健康が回復してくるにつれ、社会的な仕事への欲求が強まる。1913年秋、折よく求められたMarie Jaëllについての論文(前述)を執筆。新たな愛の対象を求め始めるが、精神的なものを伴わないアヴァンチュールには踏み切れない。このような孤独に苦しんでいた1913年12月、彼女は療養していたスイスで夫の友人André Fernetに出会う。CK31才、Fernet28才。彼は公の地位もある作家で、中肉中背、端正な面立ち。女性にもてないはずはない。ところが話してみると知的には極めて謹厳な考え方をし、CKの激烈な探求精神と意気投合する。<心の晴れ着を着た>(Journal, dimanche 21 déc. [1913]) 会話の弾むままに、彼女はつい尋ねてしまう。「恋人はいらっしゃるの?」――「おりますよ。でも、だからどうなさるんですか?」この掛け引きはお互い感情を見せぬままに終わる。しかし彼の帰って行くのを見るにつけ、彼女は<泣きたい思い>(同)にかられ、それを紛らわそうと勉強に専念する。しかし翌1914年7月13日、彼女が勉強のし過ぎで<燃え尽きる>(Journal, 21 juil. [1914])のを感じ、療養に出ようという日(彼女の誕生日でもあった)、Fernetがバラの花束をもって訪ねてくるのである。彼が帰るとすぐ、彼女は自分を理解してもらうため、意を決してMarie Jaëllについての論文を送る。<そして今や!貴方は私と同じ道を歩いている。そこでは私たちが先駆者なのだ。貴方こそ私が信頼しなければならない人。そして私が死んだら私に取って替わる人。おおAndré! 貴方に小さな光をあげる。私たちがそれを「真昼の光」にしなければならない!>(同)
 Fernetはすぐさま返事をよこし、彼女の求めていた知的協力を申し出る。ここにCKは幼い頃より夢見ていた人に巡りあったのである。が、二人の関係は奇妙なまでに肉体を離れたものであった。それは一つには、第一次大戦が勃発し彼が直ちに志願、従軍したためである。Fernetは早くに母を失い、高名な医者で政治的宗教的には保守派の父に厳しく育でられた。恐らくそのためであろう、彼の作品にはジャンセニスム的な罪の意識が色こく現れており、彼自身、<人生を行動と冒険にさらし、次いで心の平和をもたらし、一層確固とした精神にたち帰らせてくれるこの素晴らしい運命を拒んではいけない>(Lettre de Fernet, 24 juil. 1915)と、進んで危険に飛び込んで行くのである。もう一つには、同じくジャンセニスムとニーチェの影響からくる非人間的なものへの志向がある。このため彼は女性関係においても、愛人はいても人間的関係は求めない傾向にあった。しかし少なくともCKは彼に愛情を呼び覚ますのに成功した。軍の休暇でパリに戻り彼女に手厚いもてなしを受けた彼は、その後こう書き送っている。<僕は今、無限の優しさをもって貴女のそばにいます。一咋日、貴女はゆっくりと繰り返しましたね。前に僕が言ったあの言葉――友愛に満ちた心の変わらぬ忠誠、という言葉を。そして貴女は僕を、愛しい兄弟、とも呼んだのです。僕の心はそれで優しさにあふれました。誰も、今まで僕にそんなことを言った人はいなかった。その言葉の前に、一切は消えたのです。言ってください。僕たちについて、僕たちの未来について、貴女がどう考えているか。お互いへの思いを諦めねばならないなどということはあり得ません。率直に言ってください。僕たちの間に、僕たちの周りに、いかなる虚妄もあってはならないことはご存じのとおりです>(Lettre de Fernet, 10 déc 1914)。しかし彼は<貴女が僕以上に僕自身であること>(Lettre de Fernet, 8 août l915)を熱烈に宣言しつつ、CKが彼の「人間的なものの回避」を理解してくれる唯一の人物であるがゆえに、ただの愛人とならないよう肉体関係を拒むのである。これは肉体と魂の一致を信ずるCKとは相いれない考えであった。しかし彼女はけなげにも自分の生活を厳しくFernet流に変え、彼も彼女を励ます。<感覚についてのあの驚くべき論文から不純物を洗い流すようになさい。あれはそのうち一つの自由論にまでなるでしょう>(Lettre de Fernet, 7 fév. 1916)。言及されているのはDe Libertate (4)の初期構想である。しかしこの関係はここで無残に断たれてしまう。1916年5月、彼の連隊をパリに追おうとしたCKは夫の都合で出発を遅らせ、そのためFernetとすれ違いになってしまう。これで夫婦の関係は決定的に気まずくなった。すでに二人の関係を知っていた夫は寛大にも妻を元気付けようとしたが、彼女はFernetの身を案じて病床に伏せり、モルヒネの幻覚の中で彼の姿を見て死を予感。7月、父からの手紙で彼の戦死を知るのだった。Fernetとの関係がなかったら、あるいは続いていたら、Valéryとの出会いはいま少し違った様相を見せていたかもしれない。とはいえ彼女は、以後、自分にも周りの者にも彼流の謹厳な生活を強要する。少々遊び人なだけでまだ妻を愛していた夫は危険な軍務に身を投じ彼女に気にいられようと試みたりもするが、結局、一緒に住んでみると二人の生活は噛み合わないのだった。彼女は平和裡に夫と距離を置き、一人で「魂âme」について思索。FlaubertのSalammbôに出てくるZaïmphにヒントを得て「魂の皮」なるものを考え始め、同時に作品にふさわしい文体も模索する。バカロレア受験のため母のいるモンペリエで勉強していたが、夏1918年6月14日、父が気のふれた昔の患者にピストルで殺される。同年11月には母方の祖母Félicité Loth-Cazalisも亡くなるなど不幸が続く。父が自分の「相補」であり裏返しであったことに気付き、彼の科学と哲学への志向を自分の遺産と認めるが、精神的にまいってしまう。このような時期に支えとなったのが、パリで出会った女性作家でサロンの女主人Bulteau夫人と、モンペリエ大学の法学教授Gaston Morinである。Morinの旧作に手を入れて本にするなどの仕事を手伝っているうち、Morinの方では彼女との結婚を考える。しかし内心CKは彼のことを凡庸な男と思っていたらしい。彼の生活をFernet流に変えようとして失敗する。彼女は経済学や社会に興味がなく、彼もCKの研究には関心がない。彼女はバカロレア一次試験に合格し、健康も気力も回復するにつれて人に保護してもらう必要もなくなってくる。そうしたわけで1920年5月30日、CKはパリに戻り、CallotやVionnetなどのオートクチュールのドレスに身をつつんでさっそうと猛烈な社交を展開するのである。
 
 [出会い一私は複数であり得るか]
 パリに着くと、ホテルの電話は親友やら忘れかけていた友人やらの様々なお誘いで鳴りっぱなしである。しかし彼女の興味を引くような人物はいない。インテリとされている人々の喋る<可もなく不可もない>(Journal, 17 juin 1920)言葉にうんざりして、彼女は田舎に勉強しに戻ろうとする。<というわけで私は出発する。パリは高すぎる。(...)パリは車で一杯だ(...)男たちは愛に走る。私の幾何学は?私の化学は?/だが、まだClermont-Tonnerre、Brimont、それにPaul Valéryが今晩、夕食にくることになっている。二人が彼を連れてくるのだ>(同)。
 ところで、出会いの前、彼女はValéryについて何を知っていたのだろう。何か予期するところでもあったのだろうか。日記によれば彼女は、Morinを通してValéryの兄、モンペリエ大学文学部長のJules Valéryを知っていた。そしてく彼のことは彼の兄から聞いて知っていた>(Journal, 28 juin 1920)という。しかし、こうした素っ気なさはどうやら一種のカモフラージュであったらしい。何故なら、早くも彼との関係が錯綜し始める同年11月、彼女は次のように回想するからである。<貴方の思考に出会ったのが正確にはいつだったか、思い出せない。1年前。たぶん12月。だが思い出すのは霊感と恐怖。私は本を閉じた(5)。何も言わなかった。二度と読めなかった。(…)Magister[Duchesne]に読んでもらおうかとも思ったが(…)断固として沈黙を守った。自分の根本をいかなる非難からも守ろうとするかのように…(…)/私はわが分身を見いだした。ただし一度しかありえない一致として。そして同時に、自分は人間的で、それとは離れた別の存在であることも知っていたのだ。分裂した私。偶然さえ許せば絶対的な自己になることもできた。だが貴方の名と貴方の生活を見た。そしてNONと言った。/また別のとき、貴方の画筆をもってきてくれた人があった。(…)値を付けることもできず、近寄ることもできない、ほとんど世界の外にあるダイヤモンド。あれはダイヤモンドだったのか?太陽の中の雲だったのか?/私はもう貴方のことを考えることができなかった>(Journal, 3 nov. 1920)。
 こうしたわけで彼女は、自分より美人だが「サッフォーの徒」で、詩人だが科学にはうといRenée de Brimont男爵夫人とValéryとの会食の間中、自分を印象づけかつ彼の知性のほどを試す機会を伺っていたのである。<10日前だ。/私は7時40分に降りていった。(...)C(lermont)-T(onnerre)公爵夫人は来られないということだった。(...)/Renéeはいつになく着こなしが悪かった。変てこな金の帽子を被っていたが、それでもきれいだった。私はVionnetのギリシア風のドレスを着ていた。黒のチュニックに何十万フランもする真珠。/食事が4分の3ほど進むまで、PVは本当に彼女にしか話をしなかった。私は彼の幾何学的な冷たさと、信じられないような無関心に気付いた。私は知っていた。他ならぬ私こそ生命の言葉を語るのだと。そして、おおPV、貴方だけがそれを感じ取ってくれるのだ。貴方はBrimontの方に身体を傾ける。彼女は男爵夫人だ。全く。だとするとスノッブなのか?(…)私が貴族階級でないというのか?私には待つことができる。おおPV、私には永遠がある。/(…)/私は寛大なる三人目の会食者でいることにうんざりして喋り始める。何でもよい。私は自分の人生を生きている。PVはそこにいる。私がその場に存在しさえすればよい。遅かれ早かれ彼は私に気付くだろう。彼は私に気付いた。デザートの頃>(Journal, 28 juin 1920)。CKは彼に科学の試験を用意していた。あらかじめ著作で彼の考えを調べ、それを披露した後で自分の反論をちらつかせるのである。Valéryはこれに食いついた。彼女の予想を越えるすばやさで。<話題を科学にしてHoussayの本(6)について話す。それからValéry的な考え方について。これについては私の目は鋭い。精神世界におけるCarnotの熱力学の第二法則の可逆性についての考えだ。それからEinsteinについて話し合う。私は空間の第四次元である時間についての自分の考えを話す。彼は答える。驚くほど早く巧みに、黄金の糸を掴む見事な腕前で。こんなのは絶対見たことがない。一度も。本当に。彼は言う。静的応力の中でも時間は空間であろうか。反論としては極めて面白い。私はこう答える。その時は、目には見えないとしても位置の移動が起きるだろう、と>(同)。科学ばかりでなく詩においても彼はCKを驚かす。当時彼は、長年の沈黙を破る«La Jeune Parque» (1917)に続いてNRFに«Le Cimetière marin»を掲載したところだった。<だしぬけに彼は、はにかんだような風で言った。「NRFに載った私の最新作はお読みいただけましたか。」「いいえ。定期購読していますが届くのはいつも遅いのです。」「貴女のご意見をうかがえたらと思いまして。いくつか新しい試みをしたので、心配なのです…」ゆっくりと、少しばかり魅力的な声で彼は朗読してくれる。注意深くそれを聞いているうちに、一瞬、私は自分がどういう顔をしているか、恐くなった。そして誰かに見られていなかったか、振り返った…>(同)。そして彼は、もはや対話ではなく、自分で自分に話すように喋り続ける。<立ったまま、貴方は私を門のところに15分も引き止めて自分のことを話していました。貴方が貴方について話していたのです。それまでとは違う顔付きで。/でも、貴方の顔を私がどうできたというのでしょう。/私はあんな顔を見たことがない。/二度と見ることもないでしょう。/私はあの顔をまともに見ることができなかった>(同)。
 彼女とValéryとの出会いが両者に及ぼした影響を考える時、二人の当事者それぞれにとっての温度差、ないしは二人の研究者にとっての温度差を考慮に入れぬわけにはいかない。CKとの経緯を踏まえて書かれた初めてのValéryの伝記Paul Valéry, une vie d’écrivain? (7)によれば、彼にはもともとMadame de R…なる女性への愛と結び付いた「肉体の苦悩」があり、それに代表される「不条理の力」への一種の防衛機構として1892年のいわゆる「ジェノアの夜」があった(同書p.37)という。さしずめCKの出現は彼にとって、見ることを止めていた過去との相対であり、一つの問題の想考中止の上に築き上げてきた一切の見直しを迫られることともなったのだろう(これまでのValéry像からはほとんど考えられない苦しみの末、彼は何も変えないことに固執するのだが)。彼は後に次のように回想する。<自分を歴史的に振り返って見るならば、私の私的生活には二つの恐ろしい事件があった。92年のクーデターと、そして1920年の何か広大無辺で通約不能なものだ。/私は92年のときの自分に28年目にして電撃を投げかけた。それは私の上に落ちた――君の唇から>(Cahiers II , p.460)。彼にとってこの出会いは、少なくともいっとき、きわめて大きな意味をもつ—ものの一つ—であった。だが彼はその後それを語り続けるわけではない。この出会いが自身を変えたと認めることを、彼は回避し続けるだろう。Valéry研究者にとっても、この出会いは知られていないわけではない—が、一通り紹介されたなら、それに言及せずともValéry研究は進められるのである。一方、彼女にとって、彼との出会いは、ある意味で「全て」であった。だが彼女は、この出会いによって自身が変わったわけではなく、自分が以前から夢想していたものと出会っただけだということに固執する。彼の中に自らの「分身」を見つけたと信じつつ、彼との対話の中に自らの言葉が「奪われていく」焦燥にかられる。そして別れの後は、自分が夢想していたものは何だったのかを詳述することに残りの人生を賭けるだろう。それゆえPozzi研究は、二人の出会いの前と後とに本質的連続性を認めた上で、夢想に過ぎなかったものがいかなる言語で書き留められていくことになるかに注意を払わねばならない—この過程なしではその全体をとらえることはできないものとなるのである。
 さて、パリでの出会いの後すぐラ・ブルブールに行っていたCKを追ってValéryの手紙がやって来る。その手紙自体は残っていないものの、彼女の日記の引用によれば、彼が初めての出会いですでに彼女の中に信じられないほど自分と同質なものを認めて戸惑っていることが分かる。<貴方になんと答えることができるか、私にはよく分かっています。(...)夕方着いた貴方の手紙はそこにあります(...)それが私に問いかけています。(...)「私は複数であり得るか?私は唯一者なのか?私は数と両立し得るか?」と>(Journal, 5 juil. 1920)。しかし、Valéryが疑うときにCKはそれを確信している(これが後の二人の関係の錯綜の一因ともなるのだが)。しかも彼女にとってValéryは単なる分身ではなく、自分がなりたいと熱望しつつなれずにいた理想の自分なのである。<もぐらより盲目なのですね、アポロン?私は、少なくとも私は、光を疑ったことはありません。(...)私はいつも知っていました。生きている私は私の外にあると。しかしそれはこの空間においてか?この時間、この同じ神の下でか?あり得ることでした。でも結局は、なり損ないの可能性だったわけです(と思っていました)。(…)こんな確信は抱いたことがありません。高揚すると同時にうちひしがれた、こんな苦しみに満ちた平安は>(同)。彼女はこの理想の自分に無条件降伏をする。そして絶対的信頼の証として、また自分が彼と同質のものであることをさらに証明するために、自由論De Libertateの断章を送るのである。<今や私は貴方の虜。何故なら貴方は私のDe Libertateの二ページを手中にしているから。私は自分の運命を賭けてしまったのです。(…)私は、差しのべたこの手を貴方に取ってもらわねばなりません。私は貴方に、狂気を誘うこの対話に入ってもらわねばなりません。自分とは違うくせにそっくりな精神の中に自分の顔――自分と同じ顔を見るというこの戯れに、貴方にも入ってもらわねばならないのです>(Journal, 12 juil. 1920)。これは彼女にとって一つの賭けであった。もし自分の書いたものを彼が退けたなら、それはく彼が私ではない>(同)か、それとも自分が彼に値しないかのどちらかである。そして彼女は、断じて後者を認めないほど自分の知性に誇りをもっていた。そればかりではない。彼女は、「私には貴方を理解するという他の女にない特性がある。それゆえ当然貴方は私を愛するべきである」と言わんばかりである。<私のように、こんなにも明晰で貴方の本質を見通した眼差しで、こんなにも優しく友愛の情に満ちて貴方を愛することは不可能なのですよ。いつか貴方がその優しさに気付いてくれることなしには>(Journal, 21 juil. 1920)。そして彼女は、彼から良い返事がきたならすぐにも<悪行を犯し>彼に<自分の栄光を捧げ>(Journal, 12 juil. 1920)ようと、つまりは彼のものになろうと、その返事を今か今かと待つのである。しかし返事は来ない。また付言するならばそれはこの時に限らない。この後二人はカイエや日記の交換を通し、あるいは直接の対話によって、科学や文学や哲学の様々な問題について、またお互いについて、意見を戦わせていったはずなのだが、不思議なことにValéryはCKの作品については一切の批評を避けるのである。これをしもBlanchotがValéryの作品全般に指摘する<自分が選ぶことを拒否したものに引きずられる傾向>( “Faust et Valéry”, La part du feu , Gallimard, 1949, p.270)と見るべきか。彼女の熱に浮かされたような文体を彼が批評に値する客観性なしと考えたのか。それとも、批評することで自ら思考の交わりの痕跡を残すことを回避したのだろうか。ともあれCKはこの傾向に傷つけられ続けるのである。
 さて、音沙汰がないのに業を煮やし、7月22日、彼女はパリに発ち、8月2日まで滞在する。同日の日記によれば、彼女が愛と知性、肉体と魂の一致という持論にのっとって彼に十日二晩身も心も捧げ切ったらしく、その結果としての妊娠も覚悟していたらしいことが推測される。<愛しい人。してみると、貴方の手から王者にふさわしい贈り物があったのでしょうか。いや、あるでしょう。十日。そして二晩。貴方はほとんど優しかったと言っていいほどでした。そして確かに、貴方はさようならと言ったのです。/夜は終わった。夜は去ったのだ。この身体、この神経が存在し始めて以来知っている果てしない苦しみの全てが、波立ち、騒ぎ出す。しかし一種の平安な重々しさをもって。また、貝殻の中で静かにぼうっと聞こえる、広大な海の音のように>(Journal, 2 août 1920)。この後、彼女は彼のもとを離れ、母方の別荘ラ・グロレに向かう。女性には珍しい潔さからだったのか、すでに出産には耐えられないと医師に宣告されていた身体を守るためだったのか。いずれにしても、実験室で化学の勉強を再開するこの時期の彼女には、思いを遂げたという一種の落ち着きないしは落ち着こうとする努力が見られる。他方Valéryはといえば、かき乱され捕らえられたのはむしろ彼の方だ。<私は、自分の宇宙が宇宙だと信じていた。しかしそれを越える何物かを見た。そしてそれが一つの濫となった>(Cahiers II, p.424)。カイエには、この時期から愛についての逡巡が頻出する。またGideとの書簡にも、彼がかなり消耗しているらしいことが伺える。Valéryとて、極めて初期に愛の問題を置き忘れてきたとはいえ、もともと友情も含めて自分と対等な他者を求めていたことは確かなのだ。<孤独一それは長きにわたる、また深きにわたる友人の欠如に他ならないのだが(...)、それは高いものについた。反論なくして生きること、あの生きた抵抗、虜、別の人格、敵、世界のわずかな残りである個人、立ちはだかる障害にして自己の影である一要するにもう一つの自己なくして生きることは、生きることではない>(Cahiers I,p.52)。1900年にJeannie(8)と婚約したときも彼は例によって自分の最大の関心事を故意に言い落とし、彼女がManetに縁のある娘であることやMallarméやDegasに勧められたことから結婚するような素振りをしている(Correspondance Paul Valéry – Gustave Fourment, pp. 155- 156)が、実際は彼女をこの貴重なる他者に引き入れる試みをしているのである。結婚後、彼は数ページのカイエを妻に口述した。そしてそれきり諦めた。彼女はTeste氏が習慣と不在の生活をおくるための妻Emilie夫人となった。これ以後Valéryは自分の日常生活と知的生活との乖離を意識的に強めてきたのである。だから恐らく、彼としてはCKを通して「わが分身」というイマージュに飛びついたつもりだったのだろう。しかし彼女が要求したのは、<愛と混ぜ合わされた知性または知らぬ間に愛に置き替えられている知性>という彼にとっては<見も知らぬ混乱>(Cahiers, VII, p.627)だったのだ。
 Valéryの消耗を見かねてCKは別荘に彼を呼び、知的な会話をするためではなく、もっぱら神経を休めるために静かな生活を提供する。二週間は和やかに過ぎた。CKは気持ち良く目覚め、<一対の結合が地上の全ての力を凌駕する>ことを信じ、<太陽の一筋の波の中に二人で閉じこもる>(Journal,28 sept.1920)幸せに浸っていようとする。しかし同じ時、Valéryは様々なる心尽くしにも関わらずはかどらぬAdonis論を抱えて往生しているのである。9月末、「バラ園の夜」という初めての展開点が訪れた。Valéryとしては、仕事もあり家族もいるパリに戻らねばならなかった。CKにしてみれば、彼が自分にふさわしくない妻のもとに帰るというのは信じがたい辛い事実であった。それに同意することは、<二ヶ月に一度だしぬけに現れる手紙>(Journal, sept. 1920)で満足するということを意味する。CKは怒りを彼にぶつけ損なったまま、何も要求せずValéryをパリに送り出す。しかし、出発前のラ・グロレのバラ園での話し合いはCKのValéry観を変えていた。彼女は批評的精神でお互いを分析し始める。彼の目には自分が「女の子」でしかないこと、彼の愛撫が動物への愛撫と根本的に同じであること、うわべはどうあれ、腹の中では彼女自身の哲学には無関心であること。そして彼の知性と日常生活との乖離を疑い始める。他方自分については、彼への「媚」を苦々しく思い出すのである。
 出会いからわずか三ヶ月少々で、後の七年半にわたる確執の根はほとんど形成されているようだ。CKは10月初めにパリに行き、彼の人格への疑いを確かめるべくさらに彼の日常生活にまで入り込もうとした。しかしそこで見いだされたのは、文壇政治と社交のため足しげくサロンに通い下層プチブルの家庭を守ろうとする彼の姿だった。彼女は知性の面では彼にカイエの分類を託され、肉体的にも彼の愛人の座をほしいままにした。しかし彼女は、日常と乖離した彼の世界に組み込まれ《方程式の項、可能なnの一つのように扱われる>(Lettre à Valéry, 12 oct. 1920)ことにあくまで抗議し続けるのである。<私はイマージュではありません。アルバムの一枚でも、風の中の布切れでもありません>(Lettre à Valéry, 14 oct. 1920)と。それでもなお彼女がValéryを離れようとしなかったのは何故だったのか。肉体は、彼女の哲学の中では欠くべからざるものだったが、すでに結核の衰弱の始まっていたCKにとっては彼をつなぎ止めるために支払わねばならぬ代償のようなものとなっていた。<彼と五時間を過ごした。彼は賢いKarinと優しいKarinに再び会った。(...)私の中の誰かは嘘をつき、誰かは真実を語っていた。私は死ぬこともできないほど疲れている。しかし貴方がまだ私に要求することがあるなら、何でもそれをするだろう。(...)私は貴方の中に自己を放棄したのだから。愛しい人、私をあんなにも狂ったように無様に愛した貴方の中に。私が貴方に求めたのは熱でも狂気でもなかったのに>(Journal, 9 oct.1920)。しかしValéryは彼に欠けていたこの愛の狂気を求め、後に彼女が健康の悪化から肉体関係を拒むと自分の全人格を否定されたようなショックを受けるほどそれにのめり込んでいく。そして、自分が理性を求めるところに錯乱を求められたCKは<言葉の君主であるかぎりにおいて愛したのに>(Journal, 8 mars 1922)との後悔にさいなまれつつ、<内面においては虚妄にすぎないこの男>(同)につき従って行く。<自分の作品を作るより美しく>かつ<人類の未来の富のためには必要な>(Lettre à Valéry, 13 oct. 1920)彼のカイエの仕事を続けながら。だが、その過程でどうやらCKはValéryをmaîtreとしつつ自分の言葉を磨き、彼への批判と反発をこやしに自分の哲学を固め、独自の作風を確立していくのである。彼女自身は、死の直前に<未だ作られていないドレスの魅惑>(Journal, 25 oct. 1934)に支配された自分の人生を振り返り、「魂の皮」である自らの哲学、自らの作品を遂に完成させることはできなかったと回想するのだが。
 今回の論文では、Paul ValéryとCatherine Pozziとの出会いの前提と、出会いの当初からこの「分身」同士の間に潜んでいた魅惑と食い違いの関係をまとめた。次の論考では、この後の二人の確執を辿りつつ、その過程で生み出されていった彼女の詩の言葉と思想について考えてみたい。
 
[注]
(1) Journal 1913 – 1934, Ramsay, 1987. ; Lawrence JOSEPH, Catherine Pozzi, une robe couleur du temps, Edition de la Différence, 1988. ; Œuvre poétique, Editions de la Différénce, 1988. ; Agnès, nouvelle, Editions de la Différence, 1988.ただし彼女には今Journalに収録された以外にも少女時代の日記が残っている。書簡はかなりの部分が彼女の遺言により死後焼却されたものの、他は息子であるClaude Bourdet氏の所蔵になっている。1913年より前の日記、および残存する書簡については、評伝Catherine Pozziから引用した。
(2)彼女は科学や文芸の紹介論文でも詩でもAgnèsでも、発表に際して本名を出さずC.K. やKarin Pozziなどの変名を使っていた。その間の事情は様々であろう。例えば紹介論文について言えば、彼女はこれを自分の「本当の仕事」とは考えていなかった。また詩においては、プロの詩人ではなかった。Agnèsについては、当時のValéryとの微妙な関係、また「世間の人はこれを詩だとしか考えてくれないだろう」という、自分の文体への自負と不安のないまぜになった感情がはたらいていたらしい。ちなみにKarinはギリシア語で喜びを表すとして彼女が早くから日記中で使った名前。ValéryはCahiersで彼女をC.K.、Karin、Béatriceなどと呼んでいる。
(3) «Le problème de la beauté musicale et la science du mouvent intelligent. L’œuvre de Marie Jaëll.», Les Cahiers Alsaciens, N° 14, mars 1914.
(4)1915年にFernetに最:初の草稿を見せたDe Libertateの試みは、しばらく中断された後1929年、Valéryとの決別直後からLe Corps de l’Ameという題名で、再開される。さらに1931年2月にはPerraultの童話Peau d’Aneの連想からPeau d’Ameとなる。彼女は1915年の=時点ではまだ分からなかった「物質と精神をつなぐ鍵」を「エネルギー」という概念に見いだし、これを書き進めつつ詩作品の構想をも得ていたらしい。彼女はこれを1931年12月にはとりあえず完成させていたが、生前は発表せず、死後の刊行を息子に委ねていた。
(5)日記の編者Paulhanは、問題の作品は1919年にGallimardから出たIntroduction à la Méthode de Léonard de Vinciの新版ではないかと推測している。
(6)Frédéric HOUSSAY (1860- 1920), Force et Cause, Flammarion, 1920. 彼女は4月にこの本を読んだ。
(7)Benoît PEETERS, Paul Valéry, une vie d’écrivain? , Les impressions nouvelles, 1989.
(8)Jeanne Gobillard (1877-1970)。画家の弟Eugène Manet (1833-1892) と結婚したBerthe Morisot (1841-1895) の姪。姉のPaule Gobillard (1867-1946)は叔母のMorisotから絵の手ほどきを受け、画家となっている。1893年に両親が亡くなってからは、姉妹とも、Morisot宅に暮らす。1900年のValéryとJeannieの結婚式は、Morisotの娘Julie Manet (1878-1966) と画家のErnest Rouard (1874-1942) との二組の合同結婚式であった。結婚後、ValéryとJeannieそしてJeannieの姉Pauleが暮らしたのは、ヴィルジュスト街のMorisot宅。1895年にMorisotが亡くなった時、一人娘のJulieが相続していたものである。つまり、Valéryが娶ったJeannieはJulie、Pauleの3人の中では最も地味であるが、経済的にも、縁故関係を利用するためにも、収入の少ない彼にとってはある意味で最も都合が良かったことになる。
 
【参考文献】
– Catherine Pozzi –
«Le Problème de la beauté musicale et la science du mouvement intelligent. L’œuvre de Marie Jaëll.», Les Cahiers Alsaciens, N 0 14, mars 1914, pp.96 – 114.
«Agnès», Nouvelle Revue Française, 1 er février 1927, pp.155 – 179.
Journal 1913 – 1934, préface de Lawrence JOSEPH, édition établie et annotée par Claire PAULHAN, Ramsay, 1987.
Œuvres poétiques, textes recueillis, établis et présentés par Lawrence JOSEPH, Editions de la Différence, 1988.
Agnès, nouvelle, préface de Lawrence JOSEPH, Editions de la Différence, 1988.
Peau d’Ame, préface et notes de Lawrence JOSEPH, Editions de la Différence, 1990.
Journal de jeunesse 1893-1906, édition établie et annotée par Claire Paulhan avec la collaboration d’Inès Lacroix-Pozzi, Verdier, 1995.
Lawrence JOSEPH, Catherine Pozzi, une robe couleur du temps, Editions de la Différence, 1988.
渋沢孝輔「原形と風景のあいだ」4-6、『花神』7,9,10号、花神社、1989-90。
 
– Paul Valéry –
Œuvres, Gallimard, Bibliothèque de la Pléiade.
Cahiers, Gallimard, Bibliothèque de la Pléiade.
Lettres à quelques-uns, Gallimard, 1952.
Correspondance Paul Valéry – Gustave Fourment, Gallimard, 1957.
Benoît PEETERS, Paul Valéry, une vie d’écrivain? , Les impressions nouvelles, 1989.
 
(本稿は『L’ARCHE』(1991年7月10日発行)の21~35頁に掲載されたものである。この度の「公共空間X」への転載にあたっては、同誌のご了解を頂いた。初出から転載まで25年の間をおいており、その間に、初出時にはまとまった形では見ることのできなかった二人の出会い以前1893年から1906年にかけてのPozzi日記も公刊されている。本来であれば、それも視野に入れた新たな稿を起こすべきであるが、今回はその前提として、旧稿を最小限の加筆訂正とともに再掲させていただく。)
 
(2016.10.25 著者の要請により、上記記載中の「1900年にJeannieと婚約したときも彼は例によって自分の最大の関心事を故意に言い落とし、彼女がManetの娘であること・・・」を「1900年にJeannieと結婚したときも彼は例によって自分の最大の関心事を故意に言い落とし、彼女がManetに縁のある娘であること・・・」と訂正し、Jeannieについて、[註]欄に(8)を付しました。[編集担当者])
 
(ながくらちかこ 仏文学者)
 
(pubspace-x3547,2016.09.08)