森忠明『ともきたる 空谷跫音録』(翰林書房)を読む

高橋一行

                                
                     
 私は書評を書こう思ったのである。しかしまもなく、それは不可能だということが判明する。森忠明は書いている。酒鬼薔薇聖斗こと少年Aと、私、森忠明の違いは、「作品」を受容してくれる教師や「愛あるライセンス」を贈与してくれる大人と出会えたか、出会えなかったかだろうと。森は、中学2年の時には、国語や英語の教師に、その詩才を認められ、そこで彼自身が使う表現を用いれば、「ポエティック・ライセンス」を与えられたのである。その幸運を、森は仔細に描く。少年Aに残念ながら、そういう幸運はなかった。彼は親に愛されず、教師に嫌われた。「彼の非運というか、師運の無さ、業に打たれきったような存在に、心底同情するほかない」と森は書く。
 私も、少年が関わる犯罪や事件が起きると、なぜこの少年は私ではないのか。なぜ私は人を殺さず、あるいは自殺もせず、今日まで生き延びているのか。それに対して、なぜこの少年は罪を犯してしまったのか。私とこの少年とどこが異なるのかと問う。これは必ずと言って良いくらいだ。私は、私自身の不幸な少年時代を思い出さずにはいられない。とりわけ、小学5年生から、中学2年生までは、長い長い反抗期で、私も親に愛されず、教師に嫌われた。あまっさえ、極貧家庭に育ち、身体も小さく、級友からは苛められた。しかし少年Aとも違って、私の場合、いくつか僥倖が作用して、その暗闇から脱することができた。それはまったく偶然だったと思う。そして私もまた森と同じく、少年Aに対しては、「心底同情するほかない」と思う。
 翻って、森は私から見ても恵まれていたと思う。小学生の頃の不登校に対しては、母方の親戚が理解を示してくれる。高校に行っても詩を褒めてくれる教師はいる。そして間もなく、寺山修司にその才能を見出される。10代後半から20代に掛けての、森の活躍ぶりは、私には羨ましいと思えるものだ。
 私はこの森忠明のエッセイ集『ともきたる 空谷跫音録』の書評を書こうとしている。まずは多少の解説をしなければならない。この本は、「公共空間X」に掲載されたふたつの作品を含み、全部で37篇の文章を集めたものである。
 このふたつの作品の内のひとつは、サイトでは、「空谷跫音録(ともきたる)第一回 元少年A・著『絶歌』――<一字の師>の感想」となっているものである。本では、「ともきたる 空谷跫音録」が書名になり、「元少年A・著『絶歌』――<一字の師>の感想」が章題になっている。
 これは、森が、関東医療少年院で、少年Aを含む重大事犯少年たちに、命の大切さを教える授業を担当し、少年Aの書いた小説の指導をした顛末を書いたものだ。
 それから10数年が経って、少年Aが、『絶歌』を世に問うたとき、加害者への配慮がないとか、再犯の恐れはないのかという世間の騒ぎからは距離を置いて、森は、この小説が文学的に稚拙であり、なぜ、「文学的指導者たる私の検閲を受けなかった」のかと、少年を詰問している。また、本を出した出版社に対しては、なぜ指導もせずに、世に出したのかと、森は、「我が弟子に大いなる恥を書かせたことを怒っている」。
 私が森忠明の文章に触れたのは、これが最初であり、そしてそれは十分刺激的だった。森忠明という名前を記憶に留めるのに十分なほどの迫力があった。間もなくもうひとつの文章がサイトに載り(これについては、後述する)、今回、本の出版に至っている。そして、この本には、このほかにも、少年Aを巡るものがいくつかある。
 なぜ森は、少年Aにそこまで拘るのか。先のエッセイの結びにおいて、森は書く。「彼は幼少時代にロール・モデルたる卓越した人物、一生もののヒイキ役者に、一人として出会えなかった存在だ。この世は気の毒の容れもの、とはいえ気の毒でならぬ。・・・不純にして未練たっぷりの、私の姿でもある」。
 森は少年Aに自分を重ね、そして私もまた、同じことをしている。どうしたって、私も自分の少年時代を思い出してしまう。
 私は、中学2年の終わりに、借金に追われる父親とともに、家族総出で夜逃げをし、誰も知り合いのいない土地にやって来た。これは私には幸いだった。それまでの、世を拗ねた、ひねくれ者の苛められっ子の辛さは骨身にしみている。新しく人生をやり直すには持って来いのチャンスだった。私は優等生を演じ、間もなく元の秀才に戻り、やがて、数学の世界に魅せられ、文学に耽溺した。生活保護と奨学金という行政にも助けられた。
 10代の後半は幸せだった。誰からも認められなかったが、自分を恃むことができたからである。そして20歳を過ぎて、結局、数学者にもなれず、まともな小説を一篇も書けなかったけれども、それ以降は、人との出会いがあり、誰かしらに助けられて、今まで生きて来られた。それはそれで幸せだ。
 森忠明を読むというのは、こういう余計なことを思い出してしまうということを意味する。ここで私は、なぜ自分は森忠明ではなかったのかと問うている。
 しかし、森を羨むべきではない。読者として、森の、十分選び抜かれた適切な言葉使いや自己韜晦の文体を愉しめば良いだけだ。すでに10代の頃、師匠の寺山修司から割り当てられたテーマで戯曲を書き、その分量を縮めよと言う師に対して、一晩、一睡もしないで考え抜き、翌日、一字一句削らずに再提出したという伝説も披露されている。これは寺山との関係を示すエピソードとして描かれているが、しかし、文章を書く人間として、拘りは徹底している。作品に向かう森の頑固さを、私たち読者は、十分感じ取ることができる。
 その後の貧乏生活や、奥さんとの出会いの初々しさや、地元立川への思い入れや、幼馴染との交流など、必ずしも屈折や晦渋が勝たず、森の人柄が良く出ているように思う。優しくて、思い込んだら突っ走って、周りから愛される人なのだ。
 そう、再び私は、森と張り合っている。30歳になるまでの貧乏ならば、私は森に負けない。妻との出会いも、人に話したくて、うずうずしている。20歳からの10年間は、これ以上ないというくらいの貧乏暮らしで、3人の子どもを育て、私は文学と物理学の勉強に没頭していた。それは自慢話と受け取ってもらって構わないし、私は自らを振り返って、常にそこに回帰して行く。というのも、先に書いたように、15歳までの私に、良い思い出は少ないからである。蝉取りや鮒釣りなど、人に関わらないものしかない。幼少時から、10数回も転居をしているので、私には故郷がないし、今でも付き合っている幼馴染はひとりもいない。これもまた、いささか捻じ曲がった自慢話か。森が少年Aを引き合いに出して、自らの幼少時代を語っているが、私は森に誘発されて、自らの過去を思い出す。
 
 「公共空間X」に載ったもうひとつのものは、「下男のためのパヴァーヌ――松谷みよ子回想」である。ここでは松谷を女王に、自らを下男に仕立て上げて、しかし松谷を通じて、見事に童話に対する森の思いをまとめている。
 そもそも森はなぜ、童話作家になろうとしたのか。それは童話が一番難しいからだと言う。文学様式の中で一番難しい。ベッドシーンを書かないで、どこまで勝負できるのか。寺山修司の言葉を借りれば、「おまんこのことを書かないで」(この表現は、本書で何度か使われる)、また、森の表現では、「飛車角落ち以上」のハンディを持って、それでどこまでやって行かれるのか。生きている内は成功しない。そのくらいの覚悟をしていると言う。
 しかし松谷は、天性の持ち味で、母性を前面に出しつつ、童話を書く。その怖さに森は敬服している。一方松谷は、森を、「やんちゃ坊主」、「ついている男」と呼んだのだそうだ。 それは、この本を読み上げた私が、森に対して抱く感想でもある。森も十分自覚して、この松谷の自分に対する評を、本書の最後に置いたのである。
 もうひとつの本業、詩作に関しては、かつて10代の終わりに、寺山夫人九條今日子に、「詩をどんどん書きなさい。私が売り込んであげるから」と言われ、しかし結局、「もっとうまくなると信じて、五十過ぎまで詩作を続けてきた。全然うまくならない。諦めて去年の二月、借金して上梓したのが『森忠明ハイティーン詩集』である」と書く。
 「あとがき」に次のように記している。「(本書を)長年私を「やんちゃ坊主」と呼ばれた松谷みよこ先生と、「駄々っ子」と呼ばれた九條今日子先生の<二人の亡母>に捧げたい」。
 同時に次のことも書いている。「虚空に浮かぶ星々と、その無涯を想うたび、かすかな嘔気におそわれる。何のことはない、我が文業とは、「吐き気どめ」の一種、かりそめの療法にすぎなかったようである」。
 私は多分、自分の人生を振り返って、妻に感謝するしかないと思う。それから20歳を過ぎてからの多くの人との出会いをうれしく思う。そして同時に私もまた、様々な思いに囚われて、それはやるせなさと無力感と焦燥感でもあり、しかし微かな満足と誇りもあり、それはメランコリーと呼ぶしかないもので、私が今、哲学の論文をせっせと書いているのは、鬱にならないようにするためである。
 結局、他者を論じて自分を語る。ヘーゲルやラカンを論じて、自らの苦悩と、しかし微かな希望とを語ることができればそれで良いと思い、私は日々哲学の営みをしている。今回も、いつもの仕事の延長上にある。森忠明には感謝とお詫びを申し上げねばならない。(2016.8.18)
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x3533,2016.08.22)