憲法読解余話・第24回参議院選挙に「現実と憲法の齟齬」を思う

西兼司

 
6月22日からいよいよ参議院通常選挙が始まっている。7月10日の投票・開票日まで連日「公職選挙法」による候補者間の争いが、主権者の眼前で、投票券の争奪戦として繰り広げられるわけだ。今回の選挙は、例によって良く解らない「政権争奪戦ではない」闘いとして、「経済政策を争点」にし、「憲法改正発議権の確立を焦点」に組織されるのだと伝えられている。憲法を自分なりに正しく読もうと考える人間にとっては、興味を惹かれる争い事ではある。
 
折しも、23日(日本時間24日)、イギリスにおける「EU(欧州連合)」離脱の可否を問う国民投票は、「イギリスの欧州連合離脱」を民意として明らかにした。これが欧州連合全体の解体や不安定なNATO(北大西洋条約機構)の大幅な縮小に道を開くのかなどは、一年程度の推移を見なければ判然としないだろうが、主権国家と国際組織の安易な融合による「国民の疎外」状況への大きな疑問符を付けたものであることは間違いない。貧富の格差の「巨大な拡大」など、「現代帝国主義」が齎している「主権者(もしくは多数者)国民」の「ローカルな生活」に対する、「超帝国主義」を媒介とした手の届かない「グローバルエリートの雲上人支配」への嫌悪・反発が、国民投票だからこそ顕現したのであろう。
 
こうした不透明な状況でも、参議院選挙の勝敗予想は政党別になされ、その是非については疑いが顕在化しないまま、「憲法改正勢力の伸長」が焦点なのだという。(1)、「政治活動の自由」、(2)、「政党結社の自由」、(3)、「全体の奉仕者・立法職公務員の自由」が区別されないまま、(4)、「議院内閣制」が、(5)、「政党内閣制」として既成事実化している「法秩序体系」への疑問は社会的には提出されていない。しかし、全体の奉仕者国会議員の選挙が、「政党別選挙の勝敗」として描き出されることを日本国憲法は想定しているのだろうか。
 
如何に憲法が読まれないままに、違憲選挙が強行されようとしているのか、三点、憲法読解の余話として指摘しておきたい。
 
≪18歳未成年者投票権≫
 
今回の選挙の最大の目玉は、「日本国憲法の改正手続に関する法律」が成立し、それに伴って改正された「公職選挙法」に基づく初めての国政選挙である、ということである。今まで、満年齢20歳以上の成人が有していた選挙権を18歳以上ということに改め、従って、18歳、19歳の子供たちが選挙権を行使する主体として認められたことである。
 
しかし、これはおかしい。憲法第15条は、第3項で、「公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する」と規定している。これを民法は、「(成年)第4条  年齢二十歳をもって、成年とする」とし、「(未成年者の法律行為)第5条  未成年者が法律行為をするには、その法定代理人の同意を得なければならない。ただし、単に権利を得、又は義務を免れる法律行為については、この限りでない」としている。民法第5条の「未成年者の法律行為」に「選挙における投票行動」が入るかどうかは議論の余地があるにしても、20歳をもって成年とすることに疑問の余地はない。
 
憲法・民法と公職選挙法は明らかに齟齬がある。憲法は「成年者による普通選挙」権を語り、民法は「20歳をもって成年とする」としているのに、公職選挙法は、「第9条  日本国民で年齢満18年以上の者は、衆議院議員及び参議院議員の選挙権を有する」としてしまったのだ。「成年者」という制限を飛び越して「18歳以上の国会議員選挙」権を与えたのである。
 
民法を改正して成年者を18歳からにしておけば、形式的には憲法との齟齬は生じなかったであろう。しかし、民法で、当該部分の改正はなされていない。「18歳選挙権」は、立派な「違憲立法」である。
 
で、このことは社会的に問題にはされていない。選挙を争っている「公務員候補者」も、選挙を飯の種にしているマスコミも問題にはしていない。高校生に「主権者教育」だとか、「選挙教育」だとか、「政治教育」がなされているそうだが、「違憲選挙」の疑いについても是非、しっかりとした教育をしてもらいたいものだ。こんな状況で、「護憲」とか、「改憲」という話は、しても恣意性が強くなりすぎる懸念は拭えないのである。
 
≪被選挙権(公務員資格)制限の合理性≫
 
逆に、予ねて疑問に思ってきたことだが、主権者が国民としてはっきりしており、選挙が「全体の奉仕者・公務員」の中の「国権の最高機関・国会の議員(立法職公務員)」の「選定作業」であるならば、なぜ、公務員資格が主権者資格よりも狭く限定されなければならないのか。憲法には、公務員になる資格条件などは一切書かれていないが、「仕え奉る者」が主人でないことは、日本語として憲法的に明白である。「仕え奉られる者」が、主人としての国民であることは疑問の余地がない。
 
誰が主人として奉られるかは、使用人にとっての大事であって、これの制限が決まり事として明確化されることは歴史上度々あった。この点で、日本国憲法が大きな欠陥を抱いており、それが大きな問題を産み続ける根源である話は、本筋の「憲法読解」でやるとして、反対に使用人が誰であらねば為らないかについての制限は、本来面倒なものであろうか。
 
選挙を巡っては、この点の制限が、「選挙権者は18歳以上」と立法されたのであるが、「被選挙権者の年齢資格」は変わらなかった。公職選挙法は「(被選挙権)第10条  日本国民は、左の各号の区分に従い、それぞれ当該議員又は長の被選挙権を有する。
一  衆議院議員については年齢満25年以上の者
二  参議院議員については年齢満30年以上の者
三  都道府県の議会の議員についてはその選挙権を有する者で年齢満25年以上のもの
四  都道府県知事については年齢満30年以上の者
五  市町村の議会の議員についてはその選挙権を有する者で年齢満25年以上のもの
六  市町村長については年齢満25年以上の者」と定めるのである。
 
私は、この第10条の「年齢資格」以上に、「国民権利」がおかしいと思うのだ。年齢資格はおそらく時世の流れとともに改訂されるのだろうが、「仕え奉る者」になるのに、それが国民の権利とされていることに違和感を覚えるのだ。職業選択の自由はあるべきだと思うから、主権者が公務員になる道はあるべきだとは思う。
 
しかし、公務員資格が、「日本国民」であることはどのような理由で大切なことなのだろうか。主人が気に入ったものだけが使用人として採用されるというのは原則だ。だから、「選挙」も、「一般職公務員には試験」というのも了解できる。しかし、「使用人は主人の一員でなければならない」ということは、著しく合理性に欠ける。使用人をクビにすることが難しくなるとか、主権者と公務員のけじめが甘くなるとか、欠陥ばかりが考えられるだけで利点は想像できない。
 
仕え奉る者たる公務員には「憲法尊重擁護義務」(第99条)があるが、主権者であることが憲法前文で宣言されている国民には、当然のこととして憲法尊重擁護義務などというものはない。それどころか、「憲法改正権」(第96条)を持っていることが書き込まれているのであって、間違ったものであれば是正する権原が国民の権限として確認されているのである。「憲法尊重擁護義務がある者・公務員」と「憲法改正権限がある者・主権者」とが、ぴったりと重なってしまったら必要な時に「憲法改正作業」が進められないのではないか。
 
逆に、日常的に憲法的法治体制が機能しているとすれば、「公務員は国権という主権を運用している主体」だから、外国人や無国籍者にそれを握られては困る、ということだろうか。私はこの懸念は非常によく理解できるつもりだが、それは実は、「国民主権」が法治システムとして確立されていないからではないのか。そして、それは実は「日本国憲法」そのものが相当いい加減に作られたための欠陥のせいではないのか。
 
私は折に触れて言っているが、憲法には「国民主権」を積極的に語っている条文はない。それらしきことを語っている文も前文と第1条にしかない。前文第1文は、「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」であるし、第1条は、公務員天皇の地位を語って「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と云っているだけである。あとは各条文を読み込みながら国民主権を発見していくより他はない書き方である。GHQ草案の前文冒頭が、「We, the Japanese People」と集合名詞を使っているとしても、それが個別の権利権限とは違うとしても、憲法が「国権」を描いていく上で、「抽象的概念」としても「国民主権」は語られていないと謂わざるを得ない。単なる「観念」=「ただの言葉」を超えた成熟をしえていないのである。
 
端的には、「主権者国民」と云う章がないということだが、それは逆に、「公務員」を規定できないことに繋がり、法治体制の問題としては「公務員基本法」なり「公務員通則法」が存在していないということに繋がっている。「国家公務員法」なり「地方公務員法」は、憲法第五章の「内閣」と第八章の「地方自治」を国権機関として担っている一般職公務員の「職員について適用すべき各般の根本基準(職員の福祉及び利益を保護するための適切な措置を含む。)を確立し、職員がその職務の遂行に当り、最大の能率を発揮し得るように、民主的な方法で、選択され、且つ、指導さるべきことを定め、以て国民に対し、公務の民主的且つ能率的な運営を保障することを目的」(国家公務員法第1条)にしているものにすぎない。内容は人事機関を中心とした「任用、人事評価、給与、勤務時間その他の勤務条件」(地方公務員法第1条)などの規定であって、如何に組織の外部からの干渉を排除して公務員の業務の基盤たる身分の安定を確保するかというものである。主権者国民と国会議員などの干渉を排除するものであって、干渉者なき「一般職行政公務員身分自立法」として「公務員独裁」権力の基盤になっているだけなのである。
 
問題は「主権者国民」と云う章が起せていないことで、主権者が「公務員の統制システム」を作れないことを前提に、法治システムが隠然として「官僚独裁体制」として作られていることである。「国民が主権者」で「公務員が仕え奉る者」である「法治体制」が、「日本国憲法」下で現在に至るまで作られてはいないことが「憲法発布70年」の現実ではないのか。「主権者国民」による「普遍的な公務員統制体制」が作られれば、「仕え奉る者」が「日本国民」である必要はないはずだ。世界には人材が多くいる、というのは広く流通している信頼してよい言説だ。
 
使用人になることが国民の権利などという愚かしい規定、倒錯は畢竟「公務員が権力」者であるという「現実の法治主義」にダマクラカサレテイルのである。公職選挙法も変えた方が良いことは確かであるが、これも戦後70年以上、憲法が十分に読まれていない証であろう。
 
≪「選挙権不平等」への根本的対応≫
 
問題は当然、それだけではない。国政選挙のたびに問題にされることだが、「主権的権利」の代表的権利、「選挙権」のうちの「投票権の不平等」を避けるわけにはいかない。「主権」がどの様なものであって、従って、「主権者」とは個別に分割できる概念なのかどうかについて議論の余地は色々あるにしても、「主権者の一員同士の投票券」についての不平等が許されるという積極的な立論はあるまい。
 
もちろん、ごまかす方法はいくつも工夫できる。小理屈は可能だ。現在国会や裁判所が現実に対応している方法は、「選挙制度」と「選挙区割り」だ。国会はこの二つを組み合わせるが、主として、裁判所は「選挙区割り」の結果の「投票権の不平等」を問題にしている。そして、これまた主として裁判所は「投票権の二倍以上の格差」を専ら「違憲」ないしは「違憲状態」と判断してきた。この判決の連鎖に依拠して、国会も専ら「選挙区割りの変更」を「投票権の二倍以内の格差」に収めるように法律の改正を繰り返してきた。
 
しかし、この方法は根本において誤っている。主権者国民の主権的権利の中心が、なぜ、「公務員の選定」=「選挙」に当たって、公務員たちに手によって「二倍以内の格差」に丸め込まれなければならないのか。「選挙権の平等」=「投票権の格差なし」は「全国一区大選挙区制」さえ導入すれば実現できるのである。70年前の「選挙管理」の困難と現在の「選挙管理」の困難は全く違う。参議院に導入されている「ボタン投票」も、恐らくはコンピューター技術に依拠しているのだろうと思うが、選挙人名簿登録者総数1億400万人の管理も工夫さえあれば、全国単位ですることが極端に難しいわけではなかろう。
 
そして、この全国一区大選挙区制が昭和55年まで「参議院全国区制度」として存在していたことは、年寄りは皆知っていることである。過去ですら可能であったのだ。「小選挙区制」の対極にある制度として採用すれば、「投票権の不平等」は解消するのだ。それだけではない。選挙区割りがなくなれば、「投票券」さえ持っていれば、全国どこの投票所での投票も可能となるであろう。参議院全国区が定数50名で、約50万票で当選していたことを考えると、衆議院などは定数500名(現実は475名)で、約5万票で代議士は当選するようになるのだ。政党があってもよいが、政党によらず、様々な人脈集団が「仕え奉る者」を推薦できるであろう。公職選挙法の意義のよくわからない選挙運動の制約も大幅に緩められることが必然なのだ。500名が本当にバラバラの主張をもって多様な存在として存在し、議会で「全体の奉仕者」として「立法」と「国政調査」に励むなら「内閣」や「司法」の上に「国会」は立てるであろう。自由選挙が実現してこそ、「主権者による公務員の選定作業」になるのである。そのようにして投票権の不平等が、根本的に克服されれば「衆議院」と「参議院」の二院の違いも改めて検討が可能となるのだ。
 
憲法における国権の設計としては、両院協議会が想定されていても、「法律」、「予算」、「条約」、「内閣総理大臣の指名」において衆議院の参議院に対する優越は明らかである。そして、衆議院は内閣不信任において、内閣に対抗措置としての解散権があると読めるような書き方になっているのだ。「国権の最高機関」として明記され乍ら、内閣の上位機関だと言い切れない弱さを衆議院は抱え込んでいるのである。
 
実際、「国権の最高機関」というには「内閣」と比べて弱すぎるのが「国会」である。内閣統制下の国家公務員だけで、約60万人だが、警察官・消防・教育など実質的に地方公務員270万人の過半数は内閣の統制下に置かれ、残り半数も法定受託事務として内閣の下請けを押し付けられてそれに相当の人数を割いていることは事実である。これに対して、国会職員はわずか衆議院1734名・参議院不明・国立国会図書館888名程度に過ぎない。推定で4000名といったところであろうか。形式的には(60万人と比べて)150分の1、実質的には、500分の1以下であろう。4000名で、衆議院475名、参議院242名を支えているのは、200万人程度の行政職職員に内閣閣僚19名が支えられているのと比べて、仕事の内容が違うとはいえ、「分立されてる権力機関」としては徹底的に軽視されていることがわかるであろう。
 
出発点における主権者の選定権の行使たる「選挙投票券」の不平等は、こうしたことを一切検討に入らせない「立ち入り禁止の扉」のようなものである。速やかに、全国一区大選挙区制を実施し、主権者が直接選挙するから国権機関の中で「国会が国権の最高機関」なのだということを確立すべきであろう。
 
≪終わりに≫
 
何を言っても無駄なことはわかっているのである。しかし、子供たちが子供のまま選挙に動員されておだてられているのを見るのは、やはり忍びない。おだてて利用するつもりがある人間が現実には跋扈していて、しかし、それほどの悪人ではない人間もそのことに気付いていないとしたら、EUの分解開始から始まる次の世界戦争に向けた時代の中で「戦後日本」は滅びるよりほかはないであろう。
 
安倍首相が戦争を望んでいるだとか、共産党が売国勢力だとか、下らないことにエネルギーを使うよりは、まじめに避けられる可能性が少ない世界戦争に対してどうすればいいのか、議論すべきなのだ。取捨選択を考えるべきだが、それはどのような社会体制として現在提供されているはずなのか、それを確認して議論を始めなければならない。特に若い人は、これから自分が生きていく時代のことなのだ。憲法を読むということは、与えられている社会の形を自分で考えてみるということである。
 
そんなつもりで憲法が語っている日本社会が、どんな欠陥を持ちながらもどんな形になっているはずなのか、しかし、現実には憲法からいかに離れた社会が形成されているのか、それを自分はどう考えるのか、考えてほしい。現実も、憲法も理想であるはずはなくて、しかし、理想を自分で作ろうとしなければ現実とも対決していけるはずはないのだ。

以上

 
(にしけんじ)
 
(pubspace-x3390,2016.07.04)