「身体の使用」アガンベンを読む(5) -『他者の所有』補遺(5)-

高橋一行

(4)より続く
 
 アガンベン『身体の使用 -脱構成的可能態の理論のために-』を読む。原文は2014年に出て、邦訳が、2016年に入ってから出ている(正直に言えば、翻訳が出て、読んでみたら、私の問題意識に直結するものだったので、大急ぎで、以下、論じたいと思ったのである)。
この本を以って、『ホモ・サケル』4部作は完成する。本人の弁では、終結ではなく、これ以上の探求が放棄されるに過ぎないのだそうであるが、いずれにせよ、これでシリーズは終わる(従って、私の「アガンベン論」シリーズも、これで終える)。この最後の本は題名の通り、身体の所有を論じ、そこから彼の積極的な主張である「生の形式」を論じたもので、アガンベンの言いたいことは、身体は、「所有しないで使用する」ものだということである。
 すでに、前作の『いと高き貧しさ -修道院規則と生の形式-』(2011=2014)で主張されていたのは、修道院という例外状態では、修行者は、一切のものを所有しないで、しかし、生きて行くために必要な衣食などは、「所有しないで使用する」ことができるというものであった。拙論「アガンベン論」(1)で論じたことである。『ホモ・サケル』シリーズ最終作は、その戦略をさらに徹底している。
 そして、その際に私もまた、ヘーゲルの『法哲学』を引用しつつ、「所有しないで使用する」ということが可能ではないかと示唆しておいた。その観点で、再度アガンベンを読んで行きたいと思う。
  
 以下、『身体の使用』の第一部「身体の使用」から引用をして行く。
 身体の使用が論じられるのだが、アガンベンは、そこで、奴隷の身体を論じている。つまりそれは奴隷の問題なのである。奴隷とは、人間でありながら、他人に属する者という定義が与えられている。
ヘーゲルも『法哲学』で、奴隷について言及している。そこで論じられているのは、奴隷の主人が、奴隷を売買することは、事実としてなされているが、しかし、奴隷の身体は、奴隷本人が持っているものだから、つまりそれは本人の「絶対的な権利」であって、従って、奴隷の売買は無効なのである(66節補遺)。
 アガンベンは、ここで、まったく正反対の方向で論を進めている。そもそも誰も自分の身体は所有できない。アガンベンが言いたいのは、そういうことだ。誰もが、自分の身体は、「所有しないで使用」している。奴隷の場合は、その身体が、他人によって、「所有しないで使用」されるだけの話で、その点では同じだ。そういう風に話を持って行く。
 その前提として、魂が身体を支配するという考えが検討される。しかし魂は、自分の身体を所有しないで使用しているとアガンベンは考える。そして、奴隷の場合は、その身体は、他人に使用されるのだが、そこでも同じく所有はされていない。だから、主人の身体であれ、奴隷の身体であれ、どちらも所有されることなく、使用されるのだ。
 アガンベンは、そこで、プラトンやアリストテレスを縦横に引用しつつ、まずは、使用することなく、所有しているという状態と、それらを使用する状態とを区別した。そして、そこから、使用することは所有することよりも好ましいという結論を得る。
 さらに戦略的な記述が続く。アガンベンは、何かを生産するための使用する道具と、そういう生産活動を行わず、ただ単に使用するだけの道具とを分ける。後者は、例えば衣服の使用などであり、奴隷の身体の使用も、こちらの範疇に入る。この区分けは、身体と奴隷の使用を、生産の領域から脱却させるためのものである。つまり、「所有しないで使用する」ということは、生産活動を行わないものなのである。
 すると、「身体の使用」については、以下のようにまとめることが可能である。
1. 先に述べたように、それは非生産的な活動である。
2. 自分の身体を使うことと、奴隷という他者の身体を使うこととは、同じことである。
3. 人工的に作った物としての道具と生ける身体は同じものである。
4. 身体の使用は、近代人の労働と同じものではない。それは生産活動を行わない。
5. 奴隷は身体の使用を通じて定義され、それは人間的なものの中で排除されてしまう生き物である。
 結論は次のようになる。使用と所有を分け、世界を決して所有の対象とせず、使用の対象だけにすること。
 
 使用するということは、活動であり、それは、可能態や習慣ではなく、現実態と同じものである。ここで、習慣の概念を検討しなければならない。習慣は所有と同じ概念であるとアガンベンは考えている。それは可能態であって、存在の様式のひとつである。この所有と習慣の概念が所有と存在を結び付ける。所有=習慣は、そこにおいて、主体が存在の主人になろうとする点である。そして、所有はそもそも存在から派生したものでありながら、存在を自分のものにする場である。所有とは、存在を自分のものにすることに他ならない。しかしそこで、使用は、所有と存在の曖昧な関係を破砕する。ピアニストは、ピアノを習慣的に使用するが、それはピアノの使用の所有者として自己を構成している。使用はここでは、生の形式である。主体の能力ではない。
 
 前著『いと高き貧しさ』について、アガンベンは次のように言う。そこでは、フランシスコ修道院たちは、法律的な論戦ばかりして、使用の定義を、法権利を否定するようなものではないものとして提供できなかった。ここでは、主体が所有権を放棄する可能性を、そして、この放棄から出発して開かれる次元を示唆する。
 つまり、使用は所有権を放棄した時に開かれる次元として出現する。使用は、自分のものにすることができないものへの関係として提示されている。ここで結論が得られる。使用は所有できないものへの関係である。
所有することのできないものだけが、共同のものだ。その分有は、愛である。つまり、愛される者の使用を問うべきだ。アガンベンの主張として、ここまでを論じて置こう。
 
 以下、ロックの所有論とアガンベンのそれとを比較したい。
 『統治二論』の「後編」で、ロックは次のように言う。Man has a Property in his own Person (27節)。これをどう解釈するか。
 人間がまず身体personを所有する。つまり、personが、人間のpropertyである。さらに、その所有された身体を使用して、労働し、そうして得られた労働生産物は、これもまた自分のものだとして、それを所有する。そういう仕組みになっている。人間が支配権の主体であり、所有権の主体である。このことが身体の所有を通じて、正当化される。
 すべての人間はhis own personに所有権を持っている。ここで、personは身体であり、しかし同時にそれは個人personである。このpersonの二義性が曲者である。ロックは、はっきりと、誰もが自己のpersonをpropertyにすると言っている。それがロック所有論の前提であり、またそこに彼の理論全体が、根拠を置いている。
 ふたつの極端な考え方ができる。ひとつは、personは人格だから、結局、人は人格を所有し、さらには、獲得した財産も人格となる。ここには、propertyの二義性も問題となる。つまり、それは、財産と固有性という意味である。財産所有権が、拡大された人格の一部ということになる。つまり、人格、身体、財産という順に、人格が広がって行くことになる。私は物を所有するが、その物は、私自身となり、つまり、私が私を所有するのである。
 もうひとつは、逆に、身体は本来所有できないのではないだろうかということである。それはpersonと言われ、つまり人格そのものだからだ。人格は物体ではなく、それは所有できない。しかしそれでは、どうやって、労働生産物の所有権を正当化するのか。それは、法の問題になる。つまり、身体をここで出して来て、それを使っての所有の正当化はできない。つまり、身体は、personであるという、ロックの前提からは、所有の正当化はできない。
 私は前者が、ロックの議論であると考えている。そこからさらに、知識もまた所有であると考えることができる。知識も人間の思考という労働の生産物であり、それは、人格の一部となり、人は人格をこのようにして、拡大して行くのである。ヘーゲルもまた、基本的には、このように考えている。それが私のヘーゲル理解である(注1)。
 それに対して、後者は、アガンベンの解釈ではないか。
 『身体の使用』は、読解が難しいのだが、そこでは、ロックと正反対のことを言っているのだと考えると、良く分かるのではないか。以下、そのように、展開してみる。つまり、ロックの前提から考えると、人格としてのpersonが身体としてのpersonを所有するのだが、身体としてのpersonは人格としてのpersonなのだから、そもそも所有できない筈である。とすると、ロックの所有の正当化の議論は、ロックの前提からは成り立たなくなる。ロックの論には、このような問題が内在している。だから、アガンベンは、ロックと正反対のことを言っているのだが、これはしかし、ロックの理論の持つ矛盾である。ロックの前提から、まったく反対方向のふたつの道が出て来るのである。
 ロックは身体を所有し、その身体を使って生産したものは所有できると、所有の正当化を図った。アガンベンは、身体は所有しないで使用するものであり、それは生産せず、非生産的な活動をするだけだとし、とことん所有を拒否する。逆向きというのは、そういうことだ。
 そうすると、ロックは所有を正当化し、アガンベンは、所有を拒否するのだが、しかしそのアガンベンの論理はすでに、ロックの中に胚胎していたのではないかということが私のここで言いたいことである。
 
 同じことは、アガンベンとヘーゲルの関係においても言うことができる。
 ヘーゲルは、占有取得し、使用し、交換・譲渡・売買するという、3段階の総体を所有という言葉で表した。それは、肯定判断、否定判断、無限判断という、論理学の概念に対応する。そして前章までで私が論じたのは、肯定し、その上で否定するのではなく、否定が先にあり、そこから肯定が要請される。そのようにヘーゲル論理学を読むことが可能である。とすると、所有し、使用するという普通に考えられる順番ではなく、所有しないで、まずは使用するという段階があり、そこから所有があとから要請される。そう考えると、「所有しないで使用する」ということも、論理的には可能である。
 ヘーゲルは、さらに、所有は、使用し、そこから、交換・譲渡・売買にまで進むと言っている。これは、否定を徹底することであり、そのことによって、所有を肯定することになる。この否定の徹底としての、交換・譲渡・売買という観点が重要である。
 しかし、アガンベンは、「所有しないで使用する」ということに終始し、所有物を放棄する、つまり、交換・譲渡・売買するということまでは論じていない。これも所有しないで可能なのではないか。そこまで議論しなければならないのではないか。交換・譲渡・売買は、所有の否定の徹底であり、使用するという所有の否定行為をさらに徹底するものだ。
 
 実際、アガンベンの提出している論点としては、「否定」しかない。そしてそれに対しては、ヘーゲルを批判する人(ここではアガンベン)が、ヘーゲルに対置して提出している論点こそが、実はヘーゲルのものだという、ジジェクがしばしば使う文言をそのまま使いたい。
 本稿「アガンベン論」の前回までに、私は、アガンベンの「生の形式」は、まだ不十分で、ジジェクの言うところの「死の形式」にまで進まねばならないと書いた。それは要するに、否定の契機がまだ十分に深められていないということで、修道院という例外状態は、今や、普通の事態であり、私たちは皆そういう状態におり、そこでもっと、この否定の論理は徹底されねばならない。つまり、そこからどのようにして、無限判断論に繋げられるか。そこでは、主体化の論理が必要なのではないか。
 アガンベンの否定は肯定でもある。彼は、繰り返し、所有の否定性について、言及する。それに対して、私は、無限判断性こそ、所有論においては重要なのではないだろうかと思っている。所有していて、かつ所有していないという状態である。否定が徹底されて、肯定となる事態である。それは放棄であり、交換・譲渡・売買の論理である。
 「所有しないで使用する」ということから、交換・譲渡・売買することこそ、所有なのだという論理にまで持って行かねばならない。そこで、人は主体化する。この、所有の放棄を通じての主体化の論理が問われねばならない。
アガンベン論(4)で鬱を論じた。これは主体化論(主体化の失敗についての論)でもある。しかしまだ不十分である。ジジェクとラカンを援用しつつ、次に進みたい。
 

1 ここで、一ノ瀬正樹を参照した。彼は、前者の立場に立って、ロックを解釈しており、それは私の読解と同じである。そして、『統治二論』の所有論と、『人間知性論』の知識論が、同じ構造を持っていること、つまり、モノの所有と知識の獲得とが同じものであること、そして、どちらも人格を形成しているものであることも論じている。その点の理解も私と同じで、しかも、これはヘーゲルが持っている観点でもある。
 
参考文献
アガンベン, G., 『いと高き貧しさ -修道院規則と生の形式-』上村忠男他訳、みすず書房2011=2014
——     『身体の使用 -脱構成的可能態の理論のために-』上村忠男訳、みすず書房2014=2016
Hegel, G.W.F. Grundlinien der Philosophie des Rechts, Werke in zwanzig Baenden, Suhrkanp Verlag, 1970
Locke,J., Two Treatices of Government, Cambridge University Press, 1960
—— An Essay Concerning Human Understanding, Proetheus Books, 1995
一ノ瀬正樹 『人格知識論の生成 -ジョン・ロックの瞬間-』東京大学出版会、1997

(6)へ続く
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x3219,2016.05.25)