田村伊知朗
はじめに
ザクセン・アンハルト州の一都市であるハレ市は、ドイツ民主共和国(以下、東独と略)のハレ県の県都であった。東独時代に、ハレ市に隣接してハレ新市が建設された。この都市は、近隣の化学工場労働者の居住空間として建設された。東西ドイツ統一後、ハレ市とハレ新市を結合する路面電車が、新たに建設された。本稿の目的は、ハレ新市における路面電車路線網の延伸過程を分析することによって、地域内の公共的人員交通における路面電車の本質的位置づけを解明することにある。それは、都市内における公共交通と個人交通の差異と連関という交通政策の根幹と関連している。
1.東独におけるハレ新市の建設
旧ドイツ第三帝国の東部地域はソ連邦軍によって占領された。この地域は、1949年に東独として独立国家を形成した。社会主義がドイツにおいて現実化した。この国家の課題は、社会主義の理念に対応した生産力の拡大であった。
東独は1950年代、ハレ市近郊のロイナ(Leuna)、シュコパオ・ブナ(Schkopau・Buna)における化学工業工場を再稼働させようとしていた。ロイナとブナは、ハレ市から直線距離でそれぞれ20km、12kmの南方に位置している。この二つの化学工業企業は、戦前からドイツそして欧州において著名であった。第二次世界大戦中も稼働していた工場群が、社会主義政権における重化学工業の一翼を担うことになった。社会主義は、資本主義に対抗して新規に建設されるのではない。前者は、後者から移行することによって樹立される。資本主義の成果は社会主義形成の前提になる。
しかし、第二次世界大戦中から稼働していた巨大工場群は、かなりの環境汚染を前提にしていた。ハレ市近郊の工場地帯における汚染濃度は、東西ドイツの統一直前の1980年代ですらかなり深刻であった。大気汚染の程度は、機械による精密な測定を待つまでもなく、嗅覚、視覚等の人間の原初的能力によっても認識されていた。長距離電車がハレ市近郊の工場地帯周辺の駅に近づくだけで、乗客は大気汚染を顕著に認識できた。大気中における二酸化硫黄の濃度は、ハレ市近郊の工場地帯において東独末期ですら年間平均300 μg/m³であった。この濃度は、西独の工業地帯の4-5倍を意味していた。1 東独政府の環境に対する配慮は、統一直前でも乏しかった。いわんや、半世紀前のことである。化学労働者のための居住空間が、この巨大工場群の近郊ではなく、かなり離れた地域に建設されねばならなかった。
さらに、この二つの巨大工場群で労働する労働者の数も膨大になった。ハレ市は中世以来の伝統を持っていた。その中心街に位置するハレ大学において学んだ研究者は、近代に限定しても数えきれないほど多い。この都市は、文化的都市としてドイツ精神史にその名前を刻んでいた。その中心街は、中世以来の建築様式を保持していた。中世以来の伝統的建造物を破壊して、近代的な高層住宅を建設することはできなかった。社会主義を建設する目的は、人類の遺産をより高次の段階において継承することにあった。
また、戦前からの住宅の更新が進まなかった。その理由として、東独の社会主義的家賃政策が関連していた。「東独における多くの都市と同様にハレ市においても、居住可能な旧住宅施設が社会主義的な低家賃政策によって悪化していた」。2 低家賃政策によって、家屋の所有者は旧住宅を更新する意欲を喪失していた。もちろん、ドイツ社会主義統一党(以下、SEDと略)の主導によって、旧市街において新規参入者のために住居を形成することも実施された。しかし、その数は十分ではなかった。
1964年に新たな人工都市が、ハレ市西部の広大な土地において建設され始めた。この土地は、住宅地227haを含む総計792 haに渡っていた。3 地質学的根拠および水質的条件からこの地域が選択された。ハレ市周辺はザール川の沿岸に位置している。湿地帯が多く、排水等の観点から住宅地には適さない地域が拡がっている。現在でも、このような湿地帯は都市内の森林として活用されている。
当時の計画によれば、この都市において22,000個の新規住宅が建設されるはずであった。1981年には93,000人以上の住民が居住していた。4 この住宅地は、大規模かつ高層住宅団地として建設された。この都市はハレ新市と命名された。それは、伝統的都市から区別された独立の行政区分である。「新」という意義は、資本主義とは異なる社会主義的都市という性格づけにあった。新都市という空間において、平等主義的な居住空間が建設された。労働者階級に属する労働者とその家族が、この社会主義的新都市において人間的再生産を営む。「新都市は、欧州のブルジョワ的都市に対する反対プログラムである」。5 新都市は、私的所有から自由な労働者階級のための空間としてSEDによって建設された。化学工場地帯の再生と共に、そこで労働する化学労働者とその家族の居住地の建設は、社会主義建設のための試金石であった。
ハレ新市は、労働現場から分離された消費都市として人為的に形成された。「化学労働者都市において、その居住者に精神的かつ文化的教養、有意義に用いられる自由時間のための時間と余暇を提供するための生活条件を、我々、SEDは形成しようとする」。6 この新都市において、化学労働者が労働時間ではなく、純粋な自由時間を過ごす。ハレ新市において、人間の居住に必要な消費財の供給場所、学校、幼稚園等も同時に建設された。労働者とその家族構成員は、その人間的再生産が可能になった。
注
1 Vgl. Hrsg. v. Institut für Umweltschutz: Umweltbericht der DDR: Information zur Analyse der Umweltbedingungen in der DDR und zu weiteren Maßnahmen. Berlin 1990, S. 20.
2 B. L. Schmidt: 100 Jahre elektrisch durch Halle. Halle 1991, S. 158.
3 Vgl. Herausgegeben anlässlich der X. Arbeiterfestspiele von der Ortsleitung der SED und Parteileitung der Großbaustelle Halle-Neustadt: Halle-Neustadt. Jahrgang 1968. Vom Werden unserer Stadt. Halle-Neustadt 1968, S. 9.
4 Vgl. Halle-Neustadt: Wikipedia. http://de.wikipedia.org/wiki/Halle-Neustadt. [Datum: 04.04.2014]
5 W. Priggge: Schrumpfungsfade. In: Hrsg. v. Ph. Oswalt: Schrumpfende Städte. Bd. 1. Ostfildern-Ruit 2004, S. 44.
6 Herausgegeben anläßlich der X. Arbeiterfestspiele von der Ortsleitung der SED und Parteileitung der Großbaustelle Halle-Neustadt: Halle-Neustadt, a. a. O., S. 6.
2.1970年代中葉までのハレ新市における地域内の公共的人員交通
ハレ新市が社会主義的都市、つまり人為的に建設された都市であるかぎり、交通機関による他の都市との結合が問題になる。他の都市と関係することによって、人間的再生産を目的する都市は存立可能である。「ハレ新市にとって重要なことは、ブナとロイナの化学コンビナートへの地域を超えた交通――これはほとんど通勤である――およびハレ市への交通である」。1 ハレ新市と他の都市との交通が、新都市建設の重要な課題になった。
まず、ハレ新市とロイナ、ブナの労働現場との交通について述べてみよう。ハレ新市は、ブナから、直線距離で10km、道路距離で15 km離れている。また、ロイナから、直線距離で18,5 km、道路距離で30 km離れている。1964年に建設され始めた当初、労働現場からハレ新市への交通は、主としてハレ市を経由していた。ハレ市からロイナ、ブナそしてメルゼブルクまで路面電車の軌道が敷設されていた。路面電車が都市間交通として戦前に敷設され、戦後も営業運転していた。1960年代初頭にこの路線は、ハレ市から工業地帯への通勤としても利用されていた。「ハレ市とメルゼブルク市間の路面電車は、ロイナ工場とブナ工場への通勤という意義のため、1960年代に完全に複線化された。路面電車の専用軌道も建設された」。2 この路線が、ハレ新市の住民にも転用されていた。もちろん、路面電車もこの通勤に対して寄与した。しかし、この路面電車を使用すると、往復3時間程度かかっていた。直通する都市鉄道の建設によって、ハレ新市からロイナ、ブナへの通勤時間が大幅に解消されるはずである。
ハレ新市からブナへと直通する都市鉄道が、1967年に初めて運行された。東独崩壊直前では、都市鉄道によってロイナ、ブナからハレ新市までそれぞれ、31分、12分で結合されていた。3 ロイナ、ブナは労働現場としての役割しか果たさず、その周辺は労働者にとってほとんど無用な地域であった。SEDの交通政策によれば、ハレ新市に居住する労働者にとって、ハレ新市と労働現場を結合する都市鉄道の建設で十分であった。4
しかし、ハレ新市とハレ市との結合が問題になる。ハレ新市が人為的に設計されているかぎり、労働現場だけではなく、伝統的都市との結合を必要とする。社会主義的計画経済によって提供されない物品、サービス、景観、空間が、伝統的都市において存在する。日常的な消費活動、社会活動であれば、ハレ新市内で完結可能である。医療を例にとれば、診療所等は人為的に設置された。しかし、高度な手術は、大学病院等の専門的機関を必要としている。また、小中学校はハレ新市において建設されたが、大学を設置することは、初めから想定されていない。
ハレ新市はハレ市と、直線距離で4,3 km、道路距離で5,8 km離れている。この二つの都市は、都市鉄道でも結ばれている。ハレ新市は、鉄道によってハレ中央駅を媒介にして、東独、そしてドイツ全土と結ばれている。問題は都市鉄道以外の両都市の結節である。ハレ市旧市街地からハレ新市を結ぶ道路は、すでに長距離道路(ルート80)として建設されていた。
また、その中間地点であるレンバーン(Rennbahn)までには道路と並行して、すでに路面電車の軌道がハレ市中心街から敷設されていた。それは東独政府によってではなく、すでに戦前から敷設されていた。ハレ市中心街からレンバーンを経てハレ新市北方のハイデまで、路面電車が運行されていた。1960年代にハレ新市が建設された際、路面電車の延長ではなく、その撤去が議論された。「道路領域にある二車線の路面電車は、この路線(ルート80)の道路交通を阻害している」。5 1970年代初頭まで、自動車の運行が道路における一元的交通として認識されていた。道路における渋滞なき自動車による走行が、交通政策における最優先課題であった。ハレ新市周辺の交通政策の最重要課題は、ハレ市そして労働現場を結合する道路の建設であった。ハレ新市とハレ市を結節し、ハレ新市の市内交通を保障する地域内の公共的人員交通は、バスだけであった。しかも、このバス路線もハレ新市内で完結していた。バスは、ハレ新市の鉄道駅から放射状に運行されていた。6 ハレ新市住民がハレ市中心街に行くためには、直通バスではなく、バス間での乗り換えを要した。
このような地域内の公共的人員交通に関する見解は、ハレ新市だけに当てはまったわけではない。東独の多くの都市も、同様な思想によって支配されていた。たとえば、フランクフルト・アム・オーデル市(東独当時はフランクフルト県の県都、現在ではブランデンブルク州の一都市)においても事情は変わらなかった。この都市は、ポーランド国境地帯に位置しており、東欧との交通の要衝であった。街の発展が、社会主義政権において展望されていた。この状況において、都市内交通の在り方が議論されていた。この問題に対して、SED指導部は1970年代初頭に、路面電車の撤去を考えていた。交通大臣がフランクフルト市に対して以下の書簡を送付した。「(フランクフルト市の)路面電車網12,2 kmは、成長している都市の交通潮流にもはや対応しない。・・・バスはより早く、一般的に設定可能であり、多くの人を運送する」。7 地域内の公共的人員交通としてバスだけが一元的に設定されようとしていた。
しかし、戦前から存在した路面電車の軌道それ自体が、ハレ市において撤去されることはなかった。さらに、レンバーンからハレ新市に向かう幹線道路には、幅15m の中央分離帯が設定されていた。「マギストラーレ方向通行車線には、幅15mの中央分離帯が1960年代の道路建設時に同時に設定されていた。その当時、中央分離帯における自由空間は、すでに路面電車のための横断回廊として設定されていた」。8 事実上この回廊は路面電車建設のための空間として機能した。しかし、この記述はドイツ統一以後に執筆されたものである。1960年代には、この事情は別のことを意味していた。
1960年代には、少なくともSED首脳部は、この幹線道路において路面電車を延伸することを想定していなかった。「ハレ新市内部の運行は、バス交通だけが可能である。バス交通は、実践的に建設概念および道路概念によってすでに先行設定されている」。9 それは、1970年代初頭にほぼ現実化されていた。ハレ新市からハレ市への平日の通勤者約20.000人のうちの85%は、バスを利用していた。10 このような地域内の公共的人員交通におけるバスへの過剰な重点化は、東独指導部つまりSED指導部の見解に基づいていた。
このような政党内の指導的見解に対して、ハレ市の交通計画担当者は公式的には従わざるをえなかった。「明白には述べられていないが、秘密に通じた交通計画者には、マギストラーレの15mの中央分離帯が将来の路面電車のために設定されていることは自明であった」。11 自治体の交通計画担当者にとって、このような事実は自明であった。しかし、SED指導部における支配的な見解に対して異議申し立てをすることは、事実上不可能であった。社会主義体制下における決定は、次のようになっていた。「国民経済的な計画先行、中央国家機関の決定、地方自治体とSEDの二重構造ゆえに、地域交通企業の裁量余地は、西独に比べて東独において各段に制限されていた」。12 ここで国民経済的な計画立案者、中央国家機関、SEDは実体的に同一であった。政党として中央、地方を問わず、SEDの諸審級は統一されていた。したがって、決定権能が下位になればなるほど、SEDと現実的な政策決定者との対立が大きくなった。審級が上位になればなるほど、SEDの支配力は上昇した。社会主義体制における矛盾が露呈した。東独における官僚制が、通常の行政機構官僚制と政党官僚制に二分されていた。
注
1 Hrsg. v. Büro für Städtebau und Architektur des Rates des Bezirkes Halle: Halle-Neustadt. Plan und Bau der Chemiearbeiterstadt. Berlin 1972, S. 60.
2 S. Vockrodt: Die Überlandbahn um Merseburg. In: Straßenbahn-Magazin. Nahverkehr. Bd. 225. München 2008, S. 39.
3 Vgl. Hrsg. v. Ministerium für Verkehrswesen: Kursbuch der Deutschen Reichsbahn 1988/89, Berlin 1988, S. 189f.
4 Vgl. Hrsg. v. Büro für Städtebau und Architektur des Rates des Bezirkes Halle: Halle-Neustadt, a. a. O., S. 69.
5 Ebenda, S. 68.
6 Emch+Berger GmbH: Straßenbahn Halle-Neustadt bis Riebeckplatz/Hauptbahnhof. 1. Hauptabschnitt Neustadt. Erläuterungsbericht. 1997, S. 13. In: Stadtarchiv Halle.
7 R. R. Targiel u. A. Bodsch u. R. Schmidt: Festschrift 100 Jahre. Strom und Straßenbahn für Frankfurt. Frankfurt a. O. 1998, S. 91.
8 Emch+Berger GmbH: Straßenbahn Halle-Neustadt bis Riebeckplatz/Hauptbahnhof, a. a. O., S. 2.
9 Rat der Stadt Halle in Korporation mit dem Rat der Stadt Halle-Neustdt: Entwicklung eines optiomalen Nahverkehrssysteme für die Städte Halle und Halle-Neustadt, Teil 1, S. 1. In: Stadtarchiv Halle: Büro für Verkehrsplanung. A3. 11 Nr. 165 (1973).
10 Vgl. ebenda, S. 22.
11 Hrsg. v. Stadt Halle (Saale), Dezernat Planen und Umwelt: Verkehrsplanung in Halle und Ihre Umsetzung bis 2001. Halle 2002, S. 67.
12 B. Schmucki u. B. Ciesla: Stadttechnik und Nahrverkehrspolitik. Entscheidungen um die Straßenbahn in Berlin (West/Ost), Dresden und München. In: Hrsg. v. J. Bühr u. D. Petzina: Innovationsverhalten und Entscheidungsstruktur. Berlin 1996, S. 373.
(その二)に続く
注釈
本稿は、「後期近代の公共交通に関する政治思想的考察――ハレ新市における路面電車路線網の延伸過程を媒介にして」『北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)』(第66巻第1号、2015年、214-217頁)として既に公表されている。同時に、
『田村伊知朗政治学研究室』
http://izl.moe-nifty.com/tamura/2016/01/post-5db8.html
http://izl.moe-nifty.com/tamura/2016/01/post-8d5f.html
において掲載されている。
(たむらいちろう:近代思想史専攻)
(pubspace-x2867,2016.01.04)