二つの最高裁判決を読んで、家族を考える(下)

西兼司

 
(上)より続く
 
(三)、「夫婦同姓制度合憲」判決の問題点
 
 もう一つの「夫婦同姓制度合憲」判決は、民法第750条の合憲性を憲法第13条、第14条第1項、第24条第1項及び第2項において争ったのであるが、きれいにすべて合憲とされ全面却下された。ただし、こちらのほうは、最高裁判事全員の意見ではなく、判決理由そのものに反対の判事(山浦善樹)がいるなど多数派による判決であり、かつ、補足意見(寺田逸郎)、意見(櫻井龍子、岡部喜代子、鬼丸かおる、木内道祥)がかなりの分量(判決文の三分の二)付くなど検討課題が歴然とした判決である。
 
 なお、法務省も最高裁も「同姓、別姓」という言葉は使っておらず、「同氏、別氏」という言葉を使用している。私もどちらかというと用語としては「姓」という問題であるというよりは「氏」問題であると思うので、以下、「氏」を使っていく。
 
 判決理由の論旨は以下のとおりである。まず、「民法750条が憲法第13条に違反する旨をいう部分について」として(1)、「氏名は,社会的にみれば,個人を他人から識別し特定する機能を有するものであるが,同時に,その個人からみれば,人が個人として尊重される基礎であり,その個人の人格の象徴であって,人格権の一内容を構成するものというべきである」。(2)、「しかし,氏は,婚姻及び家族に関する法制度の一部として法律がその具体的な内容を規律しているものであるから,氏に関する上記人格権の内容も,憲法上一義的に捉えられるべきものではなく,憲法の趣旨を踏まえつつ定められる法制度をまって初めて具体的に捉えられるものである。したがって,具体的な法制度を離れて,氏が変更されること自体を捉えて直ちに人格権を侵害し,違憲であるか否かを論ずることは相当ではない」。(3)、「しかし,氏は,婚姻及び家族に関する法制度の一部として法律がその具体的な内容を規律しているものであるから,氏に関する上記人格権の内容も,憲法上
一義的に捉えられるべきものではなく,憲法の趣旨を踏まえつつ定められる法制度をまって初めて具体的に捉えられるものである。したがって,具体的な法制度を離れて,氏が変更されること自体を捉えて直ちに人格権を侵害し,違憲であるか否かを論ずることは相当ではない」。(4)、「本件で問題となっているのは,婚姻という身分関係の変動を自らの意思で選択することに伴って夫婦の一方が氏を改めるという場面であって,自らの意思に
関わりなく氏を改めることが強制されるというものではない。・・・上記のように,氏に,名とは切り離された存在として社会の構成要素である家族の呼称としての意義があることからすれば,氏が,親子関係など一定の身分関係を反映し,婚姻を含めた身分関係の変動に伴って改められることがあり得ることは,その性質上予定されているといえる」。(5)、「以上のような現行の法制度の下における氏の性質等に鑑みると,婚姻の際に「氏の変更を強制されない自由」が憲法上の権利として保障される人格権の一内容であるとはいえない。本件規定は,憲法13条に違反するものではない」。これが検討のすべてであり、結論である。
 
 そのうえで、(6)、「もっとも,上記のように,氏が,名とあいまって,個人を他人から識別し特定する機能を有するほか,人が個人として尊重される基礎であり,その個人の人格を一体として示すものでもあることから,氏を改める者にとって,そのことによりいわゆるアイデンティティの喪失感を抱いたり,従前の氏を使用する中で形成されてきた他人から識別し特定される機能が阻害される不利益や,個人の信用,評価,名誉感情等にも影響が及ぶという不利益が生じたりすることがあることは否定できず,特に,近年,晩婚化が進み,婚姻前の氏を使用する中で社会的な地位や業績が築かれる期間が長くなっていることから,婚姻に伴い氏を改めることにより不利益を被る者が増加してきていることは容易にうかがえるところである。これらの婚姻前に築いた個人の信用,評価,名誉感情等を婚姻後も維持する利益等は,憲法上の権利として保障される人格権の一内容であるとまではいえないものの,後記のとおり,氏を含めた婚姻及び家族に関する法制度の在り方を検討するに当たって考慮すべき人格的利益であるとはいえるのであり,憲法24条の認める立法裁量の範囲を超えるものであるか否かの検討に当たって考慮すべき事項であると考えられる」、という意見を付け加えてはいる。
 
 憲法第14条の第1項に違反するのかどうかについては、(7)、「そこで検討すると,本件規定は,夫婦が夫又は妻の氏を称するものとしており,夫婦がいずれの氏を称するかを夫婦となろうとする者の間の協議に委ねているのであって,その文言上性別に基づく法的な差別的取扱いを定めているわけではなく,本件規定の定める夫婦同氏制それ自体に男女間の形式的な不平等が存在するわけではない。我が国において,夫婦となろうとする者の間の個々の協議の結果として夫の氏を選択する夫婦が圧倒的多数を占めることが認められるとしても,それが,本件規定の在り方自体から生じた結果であるということはできない。したがって,本件規定は,憲法14条1項に違反するものではない」というのが検討のすべてであり、結論である。
 
 この検討の結論にも、「もっとも」という補足がついており、(8)、「もっとも,氏の選択に関し,これまでは夫の氏を選択する夫婦が圧倒的多数を占めている状況にあることに鑑みると,この現状が,夫婦となろうとする者双方の真に自由な選択の結果によるものかについて留意が求められるところであり,仮に,社会に存する差別的な意識や慣習による影響があるのであれば,その影響を排除して夫婦間に実質的な平等が保たれるように図ることは,憲法14条1項の趣旨に沿うものであるといえる。そして,この点は,氏を含めた婚姻及び家族に関する法制度の在り方を検討するに当たって考慮すべき事項の一つというべきであり,後記の憲法24条の認める立法裁量の範囲を超えるものであるか否かの検討に当たっても留意すべきものと考えられる」と、「尤もらしく」話はまとめられている。
 
 第三の憲法第24条に違反するかどうかについては、(9)、「憲法24条は,1項において「婚姻は,両性の合意のみに基いて成立し,夫婦が同等の権利を有することを基本として,相互の協力により,維持されなければならない。」と規定しているところ,これは,婚姻をするかどうか,いつ誰と婚姻をするかについては,当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨を明らかにしたものと解される。本件規定(民法750条)は,婚姻の効力の一つとして夫婦が夫又は妻の氏を称することを定めたものであり,婚姻をすることについての直接の制約を定めたものではない。仮に,婚姻及び家族に関する法制度の内容に意に沿わないところがあることを理由として婚姻をしないことを選択した者がいるとしても,これをもって,直ちに上記法制度を定めた法律が婚姻をすることについて憲法24条1項の趣旨に沿わない制約を課したものと評価することはできない」。(10)、「憲法24条は,2項において「配偶者の選択,財産権,相続,住居の選定,離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては,法律は,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して,制定されなければならない。」と規定している。婚姻及び家族に関する事項は,関連する法制度においてその具体的内容が定められていくものであることから,当該法制度の制度設計が重要な意味を持つものであるところ,憲法24条2項は,具体的な制度の構築を第一次的には国会の合理的な立法裁量に委ねるとともに,その立法に当たっては,同条1項も前提としつつ,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚すべきであるとする要請,指針を示すことによって,その裁量の限界を画したものといえる」。(11)、「他方で,婚姻及び家族に関する事項は,国の伝統や国民感情を含めた社会状況における種々の要因を踏まえつつ,それぞれの時代における夫婦や親子関係についての全体の規律を見据えた総合的な判断によって定められるべきものである。特に,憲法上直接保障された権利とまではいえない人格的利益や実質的平等は,その内容として多様なものが考えられ,それらの実現の在り方は,その時々における社会的条件,国民生活の状況,家族の在り方等との関係において決められるべきものである」。(12)、「そうすると,憲法上の権利として保障される人格権を不当に侵害して憲法13条に違反する立法措置や不合理な差別を定めて憲法14条1項に違反する立法措置を講じてはならないことは当然であるとはいえ,憲法24条の要請,指針に応えて具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定が上記・・・国会の多方面にわたる検討と判断に委ねられているものであることからすれば,婚姻及び家族に関する法制度を定めた法律の規定が憲法13条,14条1項に違反しない場合に,更に憲法24条にも適合するものとして是認されるか否かは,当該法制度の趣旨や同制度を採用することにより生ずる影響につき検討し,当該規定が個人の尊厳と両性の本質的平等の要請に照らして合理性を欠き,国会の立法裁量の範囲を超えるものとみざるを得ないような場合に当たるか否かという観点から判断すべきものとするのが相当である」。(13)、「氏は,家族の呼称としての意義があるところ,現行の民法の下においても,家族は社会の自然かつ基礎的な集団単位と捉えられ,その呼称を一つに定めることには合理性が認められる」。(14)、「そして,夫婦が同一の氏を称することは,上記の家族という一つの集団を構成する一員であることを,対外的に公示し,識別する機能を有している。特に,婚姻の重要な効果として夫婦間の子が夫婦の共同親権に服する嫡出子となるということがあるところ,嫡出子であることを示すために子が両親双方と同氏である仕組みを確保することにも一定の意義があると考えられる。また,家族を構成する個人が,同一の氏を称することにより家族という一つの集団を構成する一員であることを実感することに意義を見いだす考え方も理解できるところである。さらに,夫婦同氏制の下においては,子の立場として,いずれの親とも等しく氏を同じくすることによる利益を享受しやすいといえる」。(15)、「これに対して,夫婦同氏制の下においては,婚姻に伴い,夫婦となろうとする者の一方は必ず氏を改めることになるところ,婚姻によって氏を改める者にとって,そのことによりいわゆるアイデンティティの喪失感を抱いたり,婚姻前の氏を使用する中で形成してきた個人の社会的な信用,評価,名誉感情等を維持することが困難になったりするなどの不利益を受ける場合があることは否定できない。そして,氏の選択に関し,夫の氏を選択する夫婦が圧倒的多数を占めている現状からすれば,妻となる女性が上記の不利益を受ける場合が多い状況が生じているものと推認できる。さらには,夫婦となろうとする者のいずれかがこれらの不利益を受けることを避けるために,あえて婚姻をしないという選択をする者が存在することもうかがわれる。しかし,夫婦同氏制は,婚姻前の氏を通称として使用することまで許さないというものではなく,近時,婚姻前の氏を通称として使用することが社会的に広まっているところ,上記の不利益は,このような氏の通称使用が広まることにより一定程度は緩和され得るものである」。(16)、「以上の点を総合的に考慮すると,本件規定の採用した夫婦同氏制が,夫婦が別の氏を称することを認めないものであるとしても,上記のような状況の下で直ちに個人の尊厳と両性の本質的平等の要請に照らして合理性を欠く制度であるとは認めることはできない。したがって,本件規定は,憲法24条に違反するものではない。」という結論が導かれるのである。
 
 しかしこうして、結論的には民法750条の規定があらゆる意味で合憲だ、と結論したうえで、(17)、「(例えば,夫婦別氏を希望する者にこれを可能とするいわゆる選択的夫婦別氏制)を採る余地がある点についての指摘をする部分があるところ,上記の判断は,そのような制度に合理性がないと断ずるものではない」と意味不明の保留をするのである。
 
 この判決が全体として、演繹(推論)と帰納(仮説)の方法を使って、錯綜した議論を組み立て、全体として歴史の経過や文化の多様性を排除した極めてイデオロギッシュな主張をしていることは明らかであろう。そのことによって、「夫婦同氏」の擁護をしながら、「夫婦別氏」家族の各種法制度上の不利益を合理性のないものとして退ける論ともなっているのである。「夫婦別氏」を積極的に退ける論とはなっていないのだ。要するに、憲法はあるのだけれども、実際には法律で形を作らなければならないから「夫婦同氏」制が作ってあるだけで、同氏制の意味があることは確かだけれども、「夫婦別氏」が否定されなければならない理由は憲法上はないよ、と読み取られても仕方がない判決である。
 
 結論的な論旨はそうならざるを得ないが、途中の文脈で「現状保守願望」が見え見えということで、歴史的な意義がなにか積極的に読み取れるというようなものではない。
 
 他方、各裁判官の意見はそれなりに面白い。
 
 まず、寺田逸郎は、補足意見として(1)、「本件で上告人らが主張するのは,氏を同じくする夫婦に加えて氏を異にする夫婦を法律上の存在として認めないのは不合理であるということであり,いわば法律関係のメニューに望ましい選択肢が用意されていないことの不当性を指摘し,現行制度の不備を強調するものであるが,このような主張について憲法適合性審査の中で裁判所が積極的な評価を与えることには,本質的な難しさがある」と語り、(2)、「およそ人同士がどうつながりを持って暮らし,生きていくかは,その人たちが自由に決められて然るべき事柄である」、(3)「法律上の仕組みとしての婚姻家族も・・・規格化された形で作られていて,個々の当事者の多様な意思に沿って変容させることに対しては抑制的である」、「男女間に認められる制度としての婚姻を特徴づけるのは,嫡出子の仕組み(772条以下)をおいてほかになく,この仕組みが婚姻制度の効力として有する意味は大きい」、(4)、「このように作り上げられている夫婦の氏の仕組みを社会の多数が受け入れるときに,その原則としての位置付けの合理性を疑う余地がそれほどあるとは思えない」、(5)、「人々が求めるつながりが多様化するにつれて規格化された仕組みを窮屈に受け止める傾向が出てくることはみやすいところであり,そのような傾向を考慮し意向に沿った選択肢を設けることが合理的であるとする意見・反対意見の立場は,その限りでは理解できなくはない」、(6)、「もちろん,現行法の定める嫡出子の仕組みとの結び付きが婚姻制度の在り方として必然的なものとまではいえないことは上記のとおりであり,嫡出子の仕組みと切り離された新たな制度を構想することも考えられるのであるが,このようなことまで考慮に入れた上での判断となると,司法の場における審査の限界をはるかに超える。加えて,氏の合理的な在り方については,その基盤が上記のとおり民法に置かれるとしても,多数意見に示された本質的な性格を踏まえつつ,その社会生活上の意義を勘案して広く検討を行っていくことで相当性を増していくこととなろうが,そのような方向での検討は,同法の枠を超えた社会生活に係る諸事情の見方を問う政策的な性格を強めたものとならざるを得ないであろう」、(7)、「以上のような多岐にわたる条件の下での総合的な検討を念頭に置くとなると,諸条件につきよほど客観的に明らかといえる状況にある場合にはともかく,そうはいえない状況下においては,選択肢が設けられていないことの不合理を裁判の枠内で見いだすことは困難であり,むしろ,これを国民的議論,すなわち民主主義的なプロセスに委ねることによって合理的な仕組みの在り方を幅広く検討して決めるようにすることこそ,事の性格にふさわしい解決であるように思える」というものである。「裁判所での判断には荷が重い」と言っているわけである。
 
 岡部喜代子の意見は以下の通りである。「私は,本件上告を棄却すべきであるとする多数意見の結論には賛成するが,本件規定が憲法に違反するものではないとする説示には同調することができないので,その点に関して意見を述べることとしたい。」と前置きして、(1)、「本件規定は,夫婦が家から独立し各自が独立した法主体として協議してどちらの氏を称するかを決定するという形式的平等を規定した点に意義があり,昭和22年に制定された当時としては合理性のある規定であった。したがって,本件規定は,制定当時においては憲法24条に適合するものであったといえる」、(2)、「ところが,本件規定の制定後に長期間が経過し,近年女性の社会進出は著しく進んでいる。婚姻前に稼働する女性が増加したばかりではなく,婚姻後に稼働する女性も増加した。その職業も夫の助けを行う家内的な仕事にとどまらず,個人,会社,機関その他との間で独立した法主体として契約等をして稼働する,あるいは事業主体として経済活動を行うなど,社会と広く接触する活動に携わる機会も増加してきた」、(3)、「そうすると,婚姻前の氏から婚姻後の氏に変更することによって,当該個人が同一人であるという個人の識別,特定に困難を引き起こす事態が生じてきたのである。そのために婚姻後も婚姻前の氏によって社会的経済的な場面における生活を継続したいという欲求が高まってきたことは公知の事実である」、(4)、「このような同一性識別のための婚姻前の氏使用は,女性の社会進出の推進,仕事と家庭の両立策などによって婚姻前から継続する社会生活を送る女性が増加するとともにその合理性と必要性が増しているといえる」、(5)、「我が国が昭和60年に批准した「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」に基づき設置された女子差別撤廃委員会からも,平成15年以降,繰り返し,我が国の民法に夫婦の氏の選択に関する差別的な法規定が含まれていることについて懸念が表明され,その廃止が要請されているところである」、(6)、「次に,氏は名との複合によって個人識別の記号とされているのであるが,単なる記号にとどまるものではない。氏は身分関係の変動によって変動することから身分関係に内在する血縁ないし家族,民族,出身地等当該個人の背景や属性等を含むものであり,氏を変更した一方はいわゆるアイデンティティを失ったような喪失感を持つに至ることもあり得るといえる。そして,現実に96%を超える夫婦が夫の氏を称する婚姻をしているところからすると,近時大きなものとなってきた上記の個人識別機能に対する支障,自己喪失感などの負担は,ほぼ妻について生じているといえる」、(7)、「その点の配慮をしないまま夫婦同氏に例外を設けないことは,多くの場合妻となった者のみが個人の尊厳の基礎である個人識別機能を損ねられ,また,自己喪失感といった負担を負うこととなり,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚した制度とはいえない」、(8)、「そして,氏を改めることにより生ずる上記のような個人識別機能への支障,自己喪失感などの負担が大きくなってきているため,現在では,夫婦となろうとする者のいずれかがこれらの不利益を受けることを避けるためにあえて法律上の婚姻をしないという選択をする者を生んでいる」、(9)、「婚姻は,戸籍法の定めるところにより,これを届け出ることによってその効力を生ずるとされ(民法739条1項),夫婦が称する氏は婚姻届の必要的記載事項である(戸籍法74条1号)。したがって,現時点においては,夫婦が称する氏を選択しなければならないことは,婚姻成立に不合理な要件を課したものとして婚姻の自由を制約するものである」、(10)、「多数意見は,氏が家族という社会の自然かつ基礎的な集団単位の呼称であることにその合理性の根拠を求め,氏が家族を構成する一員であることを公示し識別する機能,またそれを実感することの意義等を強調する。私もそのこと自体に異を唱えるわけではない。しかし,それは全く例外を許さないことの根拠になるものではない。離婚や再婚の増加,非婚化,晩婚化,高齢化などにより家族形態も多様化している現在において,氏が果たす家族の呼称という意義や機能をそれほどまでに重視することはできない。世の中の家族は多数意見の指摘するような夫婦とその間の嫡出子のみを構成員としている場合ばかりではない」、(11)、「そのような(嫡出子)家族以外の形態の家族の出現を法が否定しているわけではない」、(12)、「また,多数意見は,氏を改めることによって生ずる上記の不利益は婚姻前の氏の通称使用が広まることによって一定程度は緩和され得るとする。しかし,通称は便宜的なもので,使用の許否,許される範囲等が定まっているわけではなく,現在のところ公的な文書には使用できない場合があるという欠陥がある上,通称名と戸籍名との同一性という新たな問題を惹起することになる。そもそも通称使用は婚姻によって変動した氏では当該個人の同一性の識別に支障があることを示す証左なのである」、(13)、「既に婚姻をためらう事態が生じている現在において,上記の不利益が一定程度緩和されているからといって夫婦が別の氏を称することを全く認めないことに合理性が認められるものではない」、(14)、「本件規定は,少なくとも現時点においては憲法24条に違反するものである」、(15)、「婚姻及び家族に関する事項については,その具体的な制度の構築が第一次的には国会の合理的な立法裁量に委ねられる事柄であることに照らせば,本件規定について違憲の問題が生ずるとの司法判断がされてこなかった状況の下において,本件規定が憲法24条に違反することが明白であるということは困難である」、(16)、「以上によれば,本件規定は憲法24条に違反するものとなっているものの,これを国家賠償法1条1項の適用の観点からみた場合には,憲法上保障され又は保護されている権利利益を合理的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反することが明白であるにもかかわらず国会が正当な理由なく長期にわたって改廃等の立法措置を怠っていたと評価することはできない。したがって,本件立法不作為は,国家賠償法1条1項の適用上違法の評価を受けるものではなく,本件上告を棄却すべきであると考えるものである」というものである。
 
 「憲法違反」の説示をしながら、「同氏制」か、「別氏制」かは「国会の合理的な立法裁量」に委ねられるのだから、「違憲」という司法判断が出ていない以上、「憲法24条に違反する」とはいえないというのだ。真に不思議な論理日和見主義が使われている、と謂ってよいだろう。「裁判官櫻井龍子,同鬼丸かおるは,裁判官岡部喜代子の意見に同調する。」と書かれている。
 
 木内道祥の意見は、「氏名権の人格権的把握,実質的男女平等,婚姻の自由など,家族に関する憲法的課題が夫婦の氏に関してどのように存在するのかという課題を上告人らが提起している。これらはいずれも重要なものであるが,民法750条の憲法適合性という点からは,婚姻における夫婦同氏制は憲法24条にいう個人の尊厳と両性の本質的平等に違反すると解される。私が多数意見と意見を異にするのはこの点であり,以下,これについて述べる」、(1)、「本件規定は,婚姻の際に,例外なく,夫婦の片方が従来の氏を維持し,片方が従来の氏を改めるとするものであり,これは,憲法24条1項にいう婚姻における夫婦の権利の平等を害するものである」。(2)、「問題は,夫婦同氏制度による制約が憲法24条2項の許容する裁量を超えるか否かである」。(3)、「婚姻適齢は,男18歳,女16歳であるが,未成年者であっても婚姻によって成人とみなされることにみられるように,大多数の婚姻の当事者は,既に,従来の社会生活を踏まえた社会的な存在,すなわち,社会に何者かであると認知・認識された存在となっている。そのような二人が婚姻という結び付きを選択するに際し,その氏を使用し続けることができないことは,その者の社会生活にとって,極めて大きな制約となる」。(4)、「人の存在が社会的に認識される場合,職業ないし所属とその者の氏,あるいは,居住地とその者の氏の二つの要素で他と区別されるのが通例である。・・・人にとって,その存在の社会的な認識は守られるべき重要な利益であり,それが失われることは,重大な利益侵害である。同氏制度により氏を改めざるを得ない当事者は,このような利益侵害を被ることとなる」。(5)、「ここで重要なのは,問題となる合理性とは,夫婦が同氏であることの合理性ではなく,夫婦同氏に例外を許さないことの合理性であり,立法裁量の合理性という場合,単に,夫婦同氏となることに合理性があるということだけでは足りず,夫婦同氏に例外を許さないことに合理性があるといえなければならないことである」。(6)、「民法が採用している身分関係の変動に伴って氏が変わるという原則は,それ自体が不合理とはいえないが,この原則は憲法が定めるものではなく,それを婚姻の場合についても維持すること自体が無前提に守られるべき利益とはいえない」。(7)、「身分関係の変動に伴って氏が変わるという原則が,民法上,一貫しているかといえば,そうではない。離婚の際の氏の続称(婚氏続称)は昭和51年改正,養子離縁の際の氏の続称は昭和62年改正により設けられたものであるが,離婚・離縁という身分関係の変動があっても,その選択により,従来の氏を引き続き使用することが認められている」。(8)、「昭和22年改正前の民法は,氏は「家」への出入りに連動するものであり,「家」への出入りに様々な法律効果が結び付いていたが,同年改正により「家」は廃止され,改正後の現行民法は,相続についても親権についても,氏に法律効果を与えていない」。(9)、「現行民法が氏に法律効果を与えているのは,僅かに祭祀に関する権利の承継との関係にとどまる」。(10)、「多数意見は,個人が同一の氏を称することにより家族という一つの集団を構成する一員であることを実感する意義をもって合理性の一つの根拠とするが,この点について,私は,異なる意見を持つ。家族の中での一員であることの実感,夫婦親子であることの実感は,同氏であることによって生まれているのだろうか,実感のために同氏が必要だろうかと改めて考える必要がある。少なくとも,同氏でないと夫婦親子であることの実感が生まれないとはいえない」。(11)、「先に,人の社会的認識における呼称は,通例,職業ないし所属と氏,あるいは,居住地と氏としてなされることを述べたが,夫婦親子の間の個別認識は,氏よりも名によってなされる。通常,夫婦親子の間で相手を氏で呼ぶことはない。それは,夫婦親子が同氏だからではなく,ファーストネームで呼ぶのが夫婦親子の関係であるからであり,別氏夫婦が生まれても同様と思われる」。(12)、「対外的な公示・識別とは,二人が同氏であることにより夫婦であることを社会的に示すこと,夫婦間に未成熟子が生まれた場合,夫婦と未成熟子が同氏であることにより,夫婦親子であることを社会的に示すことである。このような同氏の機能は存在するし,それは不合理というべきものではない。しかし,同氏であることは夫婦の証明にはならないし親子の証明にもならない。夫婦であること,親子であることを示すといっても,第三者がそうではないか,そうかもしれないと受け止める程度にすぎない」。(13)、「夫婦同氏の持つ利益がこのようなものにとどまり,他方,同氏でない婚姻をした夫婦は破綻しやすくなる,あるいは,夫婦間の子の生育がうまくいかなくなるという根拠はないのであるから,夫婦同氏の効用という点からは,同氏に例外を許さないことに合理性があるということはできない」。(14)、「婚姻及びそれに伴う氏は,法律によって制度化される以上,当然,立法府に裁量権があるが,この裁量権の範囲は,合理性を持った制度が複数あるときにいずれを選択するかというものである。夫婦同氏に例外を設ける制度には,様々なものがあり得る(平成8年の要綱では一つの提案となったが,その前には複数の案が存在した。)。例外をどのようなものにするかは立法府の裁量の範囲である」。(15)、「夫婦同氏に例外を許さない点を改めないで,結婚に際して氏を変えざるを得ないことによって重大な不利益を受けることを緩和する選択肢として,多数意見は通称を挙げる。しかし,法制化されない通称は,通称を許容するか否かが相手方の判断によるしかなく,氏を改めた者にとって,いちいち相手方の対応を確認する必要があり,個人の呼称の制度として大きな欠陥がある。他方,通称を法制化するとすれば,全く新たな性格の氏を誕生させることとなる。その当否は別として,法制化がなされないまま夫婦同氏の合理性の根拠となし得ないことは当然である。したがって,国会の立法裁量権を考慮しても,夫婦同氏制度は,例外を許さないことに合理性があるとはいえず,裁量の範囲を超えるものである」。(16)、「多数意見は,夫婦同氏により嫡出子であることが示されること,両親と等しく氏を同じくすることが子の利益であるとする。これは,夫婦とその間の未成熟子を想定してのものである。夫婦とその間の未成熟子を社会の基本的な単位として考えること自体は間違ってはいないが,夫婦にも別れがあり,離婚した父母が婚氏続称を選択しなければ氏を異にすることになる。夫婦同氏によって育成に当たる父母が同氏であることが保障されるのは,初婚が維持されている夫婦間の子だけである。子の利益の観点からいうのであれば,夫婦が同氏であることが未成熟子の育成にとってどの程度の支えとなるかを考えるべきである」。(17)、「未成熟子の生育は,社会の持続の観点から重要なものであり,第一義的に父母の権限であるとともに責務であるが,その責務を担うのは夫婦であることもあれば,離婚した父母であることもあり,事実婚ないし未婚の父母であることもある。現に夫婦でない父母であっても,未成熟子の生育は十全に行われる必要があり,他方,夫婦であっても,夫婦間に紛争が生じ,未成熟子の生育に支障が生じることもある」。(18)、「未成熟子に対する養育の責任と義務という点において,夫婦であるか否か,同氏であるか否かは関わりがないのであり,実質的に子の育成を十全に行うための仕組みを整えることが必要とされているのが今の時代であって,夫婦が同氏であることが未成熟子の育成にとって支えとなるものではない」。(19)、「本件規定は憲法24条に違反するものであるが,国家賠償法1条1項の違法性については,憲法上保障され又は保護されている権利利益を合理的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反することが明白であるにもかかわらず国会が正当な理由なく長期にわたって改廃等の立法措置を怠っていたと評価することはできず,違法性があるということはできない。」と主張している。
 
 私は、(11)で述べられている「ファーストネームで呼ぶ」話は、親でもないのに妻を名前で呼ぶことには抵抗感が大きく、我が娘のがそう呼ばれることを想像しても違和感があり、「代名詞」や「主語なし日本語」はそのためにあるのだろうと思うが、論としては基本的に違和感はない。国会の立法不作為には、木内が考えているのとは違った理由で、賠償請求はできないと思う。
 
 唯一、判決(主文)に反対している山浦善樹の反対意見は、以下の通りである。
 
 (1)、「私は,多数意見と異なり,本件規定は憲法24条に違反し,本件規定を改廃する立法措置をとらなかった立法不作為は国家賠償法1条1項の適用上違法の評価を受けるべきものであるから,原判決を破棄して損害額の算定のため本件を差し戻すのが相当と考える。」としたうえで、(2)、「1 本件規定の憲法24条適合性  本件規定の憲法24条適合性については,本件規定が同条に違反するものであるとする岡部裁判官の意見に同調する」。(3)、「岡部裁判官の意見にもあるように,戦後,女性の社会進出は顕著となり婚姻前に稼働する女性が増加したばかりではなく,婚姻後に稼働する女性も増加した。晩婚化も進み,氏を改めることにより生ずる,婚姻前の氏を使用する中で形成されてきた他人から識別し特定される機能が阻害される不利益や,個人の信用,評価,名誉感情等にも影響が及ぶといった不利益は,極めて大きなものとなってきた」、(4)、「このことは,平成6年に法制審議会民法部会身分法小委員会の審議に基づくものとして法務省民事局参事官室により公表された「婚姻制度等に関する民法改正要綱試案」においても,・・・記載がされていたのであり,前記の我が国における社会構造の変化により大きなものとなった不利益は,我が国政府内においても認識されていたのである」、(5)、「その結果,上記の「婚姻制度等に関する民法改正要綱試案」及びこれを更に検討した上で平成8年に法制審議会が法務大臣に答申した「民法の一部を改正する法律案要綱」においては,いわゆる選択的夫婦別氏制という本件規定の改正案が示された」、(6)、「上記改正案は,本件規定が違憲であることを前提としたものではない。しかし,上記のとおり,本件規定が主として女性に不利益・不都合をもたらしていることの指摘の他,「我が国において,近時ますます個人の尊厳に対する自覚が高まりをみせている状況を考慮すれば,個人の氏に対する人格的利益を法制度上保護すべき時期が到来しているといって差し支えなかろう。」,「夫婦が別氏を称することが,夫婦・親子関係の本質なり理念に反するものではないことは,既に世界の多くの国において夫婦別氏制が実現していることの一事をとっても明らかである。」との説
明が付されており,その背景には,婚姻の際に夫婦の一方が氏を改めることになる本件規定には人格的利益や夫婦間の実質的な平等の点において問題があることが明確に意識されていたことがあるといえるのである」、(7)、「なお,上記改正案自体は最終的に国会に提出されるには至らなかったものの,その後,同様の民法改正案が国会に累次にわたって提出されてきており,また,国会においても,選択的夫婦別氏制の採用についての質疑が繰り返されてきたものである。そして,上記の社会構造の変化は,平成8年以降,更に進んだとみられるにもかかわらず,現在においても,本件規定の改廃の措置はとられていない」、(8)、「前提とする婚姻及び家族に関する法制度が異なるものではあるが,世界の多くの
国において,夫婦同氏の他に夫婦別氏が認められている。かつて我が国と同様に夫婦同氏制を採っていたとされるドイツ,タイ,スイス等の多くの国々でも近時別氏制を導入しており,現時点において,例外を許さない夫婦同氏制を採っているのは,我が国以外にほとんど見当たらない」、(9)、「我が国が昭和60年に批准した「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」に基づき設置された女子差別撤廃委員会からは,平成15年以降,繰り返し,我が国の民法に夫婦の氏の選択に関する差別的な法規定が含まれていることについて懸念が表明され,その廃止が要請されるにまで至っている」、(10)、「以上を総合すれば,少なくとも,法制審議会が法務大臣に「民法の一部を改正する法律案要綱」を答申した平成8年以降相当期間を経過した時点においては,本件規定が憲法の規定に違反することが国会にとっても明白になっていたといえる。また,平成8年には既に改正案が示されていたにもかかわらず,現在に至るまで,選択的夫婦別氏制等を採用するなどの改廃の措置はとられていない」、(11)、「したがって,本件立法不作為は,現時点においては,憲法上保障され又は保護されている権利利益を合理的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反することが明白であるにもかかわらず国会が正当な理由なく長期にわたって改廃等の立法措置を怠っていたものとして,国家賠償法1条1項の適用上違法の評価を受けるものである。そして,本件立法不作為については,過失の存在も否定することはできない。このような本件立法不作為の結果,上告人らは,精神的苦痛を被ったものというべきであるから,本件においては,上記の違法な本件立法不作為を理由とする国家賠償請求を認容すべきであると考える」と非常にすっきりとした論理構成である。
 
 私は、(一)で述べたように憲法第81条の規定は、「不作為に対する憲法判断」ができるように書かれているとは読めないと思っているので、国家賠償請求を認容すべきであるとは考えないが、その点以外の理由は了解できる。
 
 多数意見による屈折に屈折を重ねた論理は、最高裁判決といえばそれらしくはあるが評価できるものではない。それに付随する寺田逸郎の補足意見は「司法府の限界」を語っているのであり、愚痴には違いないがまっとうな意見である。岡部喜代子の意見(同調する櫻井龍子、鬼丸かおるも含めて)は上告棄却だが、違憲であるという私と同じ意見でありながら「憲法の規定に違反することが明白であるにもかかわらず国会が正当な理由なく長期にわたって改廃等の立法措置を怠っていたと評価することはできない」という国会擁護の観点から結論を導いており、恐らくは「国会」を見る目の甘さ(それは国権を深く考えていない、と想像されるが)に露呈されている「国民主権」感覚の欠如を窺わせている。木内道祥の意見は述べられている限りで賛成である。山浦善樹の反対意見も内容は共感する。ただし、憲法の読み方、「憲法第81条」理解についてだけ、留保する。
 
(四)、「家族」とは何だろうか
 
 二つの判決文は昔と比べるとたいへん読みやすい。また、社会情勢の推移に対してもそれなりに配慮していて、読んでいて不愉快なイデオロギー臭はしない。基本的には、どの意見も国会が解決すべきことだという点ははっきりさせていて、逃げている印象はない。
 
 ただ、判決理由は、「再婚期間制限」合憲判決は、憲法第14条と第24条2項が検討されただけで、当然それは上告人が論点整理の段階でそれしか出さなかったからなのだろうが、第13条が問われていなかったことで、理由の落ち着きの悪さを感じざるを得なかった。第13条が俎上に載せられていれば、男性(父性)と女性の関係に限定した日数計算の話に限定せずに「家族」とは何か、という話に発展させることが可能なのではなかったのか、と思うからだ。
 
 実際、第13条も俎上に上がった「夫婦同姓」合憲判決では、意見はばらけた。「家族」とは何か、ということが最高裁判事なりに検討されていた。そして、この二つの判決は、一つは「国会」での「民法(家族法)改正」に、国会が主導権を握ってつなげていってほしいのだが、実際は「法務省」による小手先改正に為ってしまうのだろうとは思っている。もう一つは、国会で議員立法としても進めてもらいたいから望むのだが、「家族」とはどのようなものであるのか、研究を進めていってもらいたい。
 
 判決の中でも指摘されている通り、日本における法律的「家族」は日本的伝統を体現したものでも、世界的普遍性を持ったものでもない。「女性のみ6か月間再婚禁止」も、「夫婦同姓制度」も「民法」(明治31年法律第9号・1898年施行)下で採用された制度に過ぎない。明治政府の一貫した信じるイデオロギーによって作られたものでもない。法務省によれば(http://www.moj.go.jp/MINJI/minji36-02.html)、明治3年9月太政官布告によって「平民に氏の使用が許される」、明治8年2月13日太政官布告「氏の使用が義務化される。※ 兵籍取調べの必要上,軍から要求されたものといわれる」、明治9年3月17日太政官指令「妻の氏は「所生ノ氏」(=実家の氏)を用いることとされる(夫婦別氏制)。
 ※ 明治政府は,妻の氏に関して,実家の氏を名乗らせることとし,「夫婦別氏」を国民すべてに適用することとした。なお,上記指令にもかかわらず,妻が夫の氏を称することが慣習化していったといわれる」と説明されている。
 
 多言は要しないはずだが、これは平民、被支配階級=下層階級のことである。武家、公家はまた別の事情があった。大変大きなバラつきがあった、ということを前提にして謂えば父方(氏)、母方(姓)を持ち続ける伝統は残っていたということであろう。「家紋」、「女紋」の二つが必ずあるという家は今でもかなりあるだろう。復姓制度はどのように継承されたか、その形式のばらつきも含めて、当たり前のこととして存在したのだ。そうした階級よりも下の階級でも「苗字」と「屋号」の復姓制度は継承されているはずだ。
 
 復姓制度はもちろん父方、母方形式だけではない。「源」(姓)と「徳川」(氏)という「姓氏」複合もある。社会上層に上れば、その地位の承認を受けるために「本貫苗」とは別に普通に「冊封姓」を、より大きな権力から頂戴するものだ。これは世界共通だ、とまではいわないが東アジアでは普遍的なことである。
 
 親の「姓氏」の形式がどうであっても、天皇や庶民のように姓がなくても、「家族」は成立する。それは、「生殖」のために、人間の子供は未成熟で生まれてきて、手間がかかるからだ。15年程度、大人の庇護がなければ自立して生きていけないのが人間の子供だ。子供を育てる過程で形成される感情が「愛情」だ。それが一人だけでなく、二人、三人になってくると大人のほうが「愛情中毒」になって、幸せに死んでいけることになる。
 
 そんな条件下で、家族は本当は「父親が誰か」、「父性の承認の規律」などは求めていない。財産法が整備され、相続が社会的主題となって初めて、そんなつまらないことが「大人が考えること」になるのだ。養子と実子の差が人々を呪縛するようになって初めて問題となるのだ。家族は本質的には「法律」には馴染まない筈だが、それがそうなっていないのが現状である。さらに、類人猿の形態や行動様式、文化類型研究や、共同体の「生業形式」による文化類型やその複合、絶滅を伴う継承の研究や、それらを総括するものとしての「宗教思想」の研究などを積み重ねながら、「家族」を考え続けていくよりほかはないのであろうか。
 
 いずれにせよ、そうしたことがまともに国権の場で検討でき、かつ、「法律」の文化的限界性を明確に議論できる場は、「国権の最高機関(立法権とその限界を常に点検し続ける国政調査権を持つ)国会」以外にあるはずがないのだ。現在の憲法体制の欠陥を改めるためにも、現在の憲法の特徴、「国民主権」とその国民主権機能機関「国会」の充実を願いたい。1億2000万主権者の直接的負託を受けて、「議員」、「職員」5000人程度で、「内閣」以下の行政公務員64万人、「司 法」裁判官3700余人、職員22000人、「地方自治」体(地方)公務員276万9千人を充分国民のためにこき使えるのか疑問はあるにせよ、国会でこそ法案を出し合い、審議して、のちに改正されるにせよ正統性のある憲法に適合した法律制度を作ってもらいたい。

以上

 
(にしけんじ)
 
(pubspace-x2848,2015.12.27)